伯爵邸から馬車で街道を走ること一刻ほど。旅人や行商人、町人たちが多く行き交う賑わいの繁華街がある。
クローディアは馬車を降りると、長いスカートの裾を軽く捌いて石畳の上をコツコツと歩き出した。
「おはようございます奥様、本日はどちらへ?」
「ご機嫌よう奥様! 焼きたてのパンはいかがです、今年のコットンベリーをジャムに仕上げたところなんですよ」
「おはよう。まぁ、コットンベリーのジャム? いいわね、大好物よ! 後で婦人会に配達してちょうだい、皆でいただくわ」
次々と声を掛けてくる町人たちに溌剌と応えて、クローディアは微笑んだ。
クローディアは足繁く街へ通って、町人たちからも親愛を向けられている。長らく宮仕えで王の側近として働いていた領主当人には畏れの勝る領民たちも、若く朗らかなクローディアには敬意とともに親しみを感じてくれたのだろう。
クローディアへの親しみは、そのまま夫であり領主であるランドリューにも向けられるはずで、それはクローディアにとっても望むところであった。気位の高いランドリューは進んで平民たちと交わろうとはしなかったし、それに理解を示すかさえ怪しいところではあったが。
「ご機嫌よう皆様」
街の中心地から少し外れたところにある古びた館。公民館として利用されるそこには、地域の有力な婦人たちが週に二度集まる日があった。
医者の妻や豪商の妻、教師に元宮廷侍女など、それなりの地位と発言力を持ったその女性たちは、日々街の活性化と良き発展について話し合いながらお茶を飲んだり刺繍をしたりして交流していた。
「まぁ奥方様、今日もいらしてくださったのですね! 嬉しいわ」
「奥方様にぜひご紹介したい方がいるんですのよ」
婦人会の代表者である医師夫人ベルゼー氏がお茶の支度の手を止めてクローディアに向き直った。
「まぁ、私に……?」
ベルゼー夫人の言葉に、クローディアは微笑みを絶やさないまま多少身構えた。婦人会ではチャリティという名目でたびたびバザーや炊き出しを行うのだが、伯爵夫人クローディアに求められている最も大きな役割はその肩書きによるお墨付きと、そして何より寄付金である。
わざわざ紹介したい人物というのも、露頭に迷った困窮者である可能性は高かった。
「えぇ、こちらに。とてもご立派なお方ですのよ、奥方様」
そう言ってベルゼー夫人はクローディアを奥の部屋へと誘った。
果たして。部屋の奥には最近設られたのだろう質素な祭壇があった。そしてその前で跪き祈る白装束の男。
「法師様! 伯爵夫人がお見えになりましてよ」
ベルゼー夫人が声を掛けると、跪いていた男がゆっくりと立ち上がってクローディアへと振り向いた。
「おぉ、あなた様が。聞きしに勝るお若くお美しい方だ」
男は、クローディアよりほんの幾つか歳上だろう。蜂蜜色の髪と瞳を持つ美青年だった。白い装束は、長い旅をしてきたのだろうか、色褪せて所々ほつれている。
「ベルゼー夫人、この方は……?」
「こちらはフィーリス教の伝道師でローリス様ですわ、奥方様。巡礼の旅の途中でこの街に」
フィーリス教。友愛を掲げる比較的新しい宗教だ。ここ何十年かで台頭し、巡礼や伝道を行いながら旅をする法師の姿は珍しくはなかった。
婦人会がローリス法師を公民館に住まわせるというのは、彼女たちの博愛と施しの精神からすれば不思議なことはない。と同時に、クローディアからフィーリス教の伝道の許可と寄進を得たいという考えであろうとも察せられた。
「初めまして、ローリス法師様。巡礼の旅、ご苦労様。どうぞ、ゆっくり逗留なさいますよう……」
クローディアは返答を吟味し、慎重に言葉を選びながらスカートをつまんで一礼した。
「しばらく、皆様のご厚意によりこちらにご厄介になります。どうぞ、なにかお悩みのことあれば、神の御元においでくださいませ、奥方様」
ローリスの柔和な笑みと、心に沁み込むような穏やかな声音に、クローディアはほんの少しばかりうっとりした心地になった。ベルゼー夫人も同じらしく、陶然としてローリスを見つめている。
(なんとも不思議な魅力の持ち主だわ、婦人会の皆様が快くこの部屋を貸した理由がわかるわね……)
若く美しい旅の青年法師などというものは、物語の中にしか居ないものだと思っていた、とクローディアはどこか感心したように思う。
「私のことは置いて、どうか悩める方々の良き導きを。法師様。ベルゼー夫人、そろそろ今度のチャリティバザーの催しについてお話ししましょう」
クローディアはそう言うと、夫人に向き直り促した。
ーー
日も暮れなずみ、婦人会も解散の頃合い。ローリス法師がクローディアを呼び止めた。
「奥方様、実は、内密にお耳に入れておきたいことが……」
その言葉に、クローディアは訝しみながらも無碍にもできず、祭壇のある奥の部屋へ再び入っていった。
「話、というのは……?」
「はい、……実は」
ローリスの話とはこうである。
この街に向かう途中、人通りの少なくあまり使われることのなかった旧街道を通ってきた法師は、ある夜の野営の際に身の毛もよだつような悍ましい獣の声を聞いたという。
ただのはぐれ狼などの類ではなく、地の底から響くようなその声は、おそらく魔獣のものだろう、と。
「魔獣……!? そ、そんなこと」
クローディアははっと息を飲み、黒い眼を見開いた。
「姿をこの目でしかと見た訳ではございません。このようなこと、ご婦人方に言えばいたずらに怯えさせるばかりと思い、今まで胸に秘めておりましたが。奥方様と御領主様には、是非ともお耳に入れておくべきと思いまして……」
それでベルゼー夫人に紹介を頼んだのだ、とローリスは続けた。
クローディアは彼のその言葉に、寄進目当てだろうと決めてかかった己の不見識を恥じる思いがした。
「そう、そうでしたの……。わかりました、旅の法師様の貴重なお話、必ず夫にも伝えますね」
「わざわざお呼び止めして申し訳ありません、馬車までお送りしましょう」
ローリス法師に見送られ、クローディアが屋敷に帰る頃には、すっかり日が暮れ切っていた。
ーー
クローディアの乗る馬車が屋敷に着くのとほぼ同時、朝から馬で遠駆けしていたランドリューとグイードが戻ってきた。
「おや、奥方、どちらかにお出掛けで?」
グイードが声を掛けながら馬車に近づいていく。その少し後からやってきたランドリューは、クローディアの目には微かに不機嫌そうにも見えた。
「遅かったのだな、クローディア。……手を」
言外に伯爵夫人ともあろう者がこんな時間まで何を、と責められているような気もして、クローディアは差し出されたランドリューの手を取るのを一瞬躊躇った。
「婦人会で……チャリティバザーのことを話し合っていたんです。それで少し白熱してしまって……あの、……ごめんなさい、貴方」
これまでは、歳の差もありクローディアはランドリューを尊敬してもいたが、しかし萎縮したりいたずらに怯えたりすることはなかった。
しかし、最近はランドリューの態度がよそよそしいことに加え昨夜叱責のような物言いをされたこともあり、クローディアはランドリューに対して強い遠慮を感じつつあった。
朗らかに微笑むクローディアの表情は、ランドリューに向かうと途端に曇るようになった。
「……クローディア、日が暮れると危ないから。次から……気をつけなさい」
「は、はい……」
ランドリューに手を取られ馬車を降りながら、クローディアの心は打ち沈んでいった。
二人のその様子を眺めて、グイードは両手を上げ天を見上げて大きく頭を振っていた。
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