◆
二月の夜気が首筋を撫でる。午前一時を回った住宅街の裏路地は街灯もまばらでアスファルトに落ちる珍の影だけがやけに濃い。ジャージの上下に草臥れたスニーカーという出で立ちは深夜のコンビニ帰りの冴えない中年男そのものである。左手にはストロング系の缶チューハイが二本入ったビニール袋がぶら下がり、右手はポケットに突っ込んだまま、猫背の背中を丸めて歩いていた。
四十五歳。百七十二センチ、七十八キロ。一見すると腹の出た小太りの親父にしか見えない体躯だが、ジャージの下に隠された筋肉は鉄を鍛えた鍛冶師の腕のそれである。常陸新流──江戸期に常陸国の山中で編まれたとされる古武術の、おそらく最後の正統継承者。かつては陸上自衛隊特殊作戦群に在籍し、退官後は裏社会へ。そして掃除屋として名を馳せ──いまはただ近所のコンビニで酒を買って帰るだけの夜を過ごしている。
あるいは過ごすはずだった。
「おい、おっさん」
声は背後から飛んできた。若い。硬い。虚勢で膨らませた声だと、珍は振り向かずに判った。缶チューハイの袋がかすかに揺れる。足音は一つではない。三つ、四つ──五つ。扇状に広がりながら近づいてくる気配が珍の項を撫でた。
「聞こえてんだろ。止まれよ」
珍は立ち止まった。ゆっくりと振り返る。
五人の少年がそこにいた。全員が十代の後半から二十歳前後。揃いの黒いMA-1ジャケットに膝の破れたジーンズ。先頭に立つ男だけが頭一つ抜けて大きかった。百八十センチは優に超える長身に肩幅は珍の一・五倍はある。短く刈り上げた金髪の下の眼が街灯の薄い光を弾いて獣のように光っている。
鰐淵 凱。県立鳳翔高校の三年──いや、留年しているから正確にはもう四年目になる──でこの辺り一帯の不良を束ねる番長格だった。喧嘩の戦績は自称百二十戦無敗。腕っぷしだけで五人の子分を従え、気に入らない人間の顔面を陥没させることに一片の躊躇も持たない、純粋な暴力の申し子である。
その凱の右の拳にはもう既にメリケンサックが嵌まっていた。
「財布出せよ。つーかそれも寄越せ、酒」
凱の声は低く、どこか楽しそうですらあった。こういう冴えない中年を狩るのが凱にとっての娯楽であり日常だった。抵抗する奴は殴る。泣いて許しを乞う奴はもっと殴る。それが鰐淵 凱という人間の、この世界における存在証明である。
珍はビニール袋をゆっくりと地面に置いた。缶が硬い音を立てる。
「あのさぁ」
珍が口を開いた。声は穏やかでどこか間の抜けた響きがある。近所の野良猫に話しかけるような口調だった。
「俺ね、こう見えてホモなんだわ」
五人の空気が一瞬だけ凍った。
「……は?」
凱の眉間に深い皺が刻まれる。子分たちが顔を見合わせ、何人かが引き攣った笑いを漏らした。おかしな親父に絡んでしまったという軽い後悔と、それを上回る侮蔑が彼らの表情に浮かんでいる。
「キメェこと言ってんじゃねえよ。いいから金出せって」
「いやいや、聞いてよ」
珍は困ったように頭を掻いた。薄くなりかけた頭頂部をごしごしと。その仕草には一片の緊張感もない。
「お兄ちゃんたちさぁ、すっごいタイプなの。特にそこの金髪の子。いやー、たまんねえな。ガタイよくてイキってる若い男ってさ、犯し甲斐があるんだよねぇ」
珍の右目がすっと細くなった。唇の端が吊り上がり、舌が一瞬だけ下唇を舐める。その変化は街灯の薄明かりの下では誰にも見えなかったが声の質だけが確かに変わった。飄々とした中年男の声の底に鉄錆びた何かが混じる。
「ぶっ殺すぞクソジジイ!!」
凱が吠えた。右のメリケンサックを振りかぶり、珍の顔面目がけて踏み込む。県内の不良たちを震え上がらせてきた、鰐淵 凱の必殺の右ストレート。体重を乗せた拳が空気を裂いて唸りを上げた。
当たらない。
珍の頭があった場所をメリケンサックが通過した。風圧だけが頬を掠める。珍は半歩だけ横に動いていた。たったの半歩。しかしその半歩が凱の拳を完全に殺している。常陸新流の体捌き──浮船。重心を浮かせず足裏を地面から離さず、水面を滑るように移動する歩法。凱の眼には珍が動いたようにすら見えなかった。
「え──」
凱の口から間抜けな声が漏れる。空振りの右腕が伸びきっている。それが致命的な隙だということを凱は知らない。格闘技の教科書を読んだことがないのだから当然である。
珍の右手が動いた。
ポケットから抜かれた掌が凱の伸びきった右腕の肘関節を下から掬い上げるように叩く。
ぱきん、と乾いた音。
肘が本来曲がらない方向へ三センチだけ撓む。
常陸新流、仰月。
関節を破壊するのではなく靭帯だけを正確に損傷させる技。殺さず、しかし二度と同じ力で腕を振れなくする掃除屋の業だ。
「ぎっ──あ゙あ゙ぁぁッ!!」
凱が叫んだ。右腕を抱えて膝をつく。メリケンサックが路面に転がり、金属の悲鳴を上げながら闇に呑まれていった。
「凱さん!!」
子分が動く。四人が同時に珍に殺到した。ナイフ、鉄パイプ、素手が二人。四方向からの同時攻撃。常識的にはそれで片がつく。
だが、珍は笑っていた。
◆
最初に崩れたのはナイフの少年だった。珍の左手が蛇のように伸びて手首を掴み、内側に極めながら体を引き寄せ、鳩尾に掌底を突き入れる。横隔膜が痙攣し、声も出せず少年は落ちた。一秒。
鉄パイプが上段から唸る。珍は半身で躱しながらパイプの内側に入り込み、少年の顎を手刀で打った。脳幹が揺れる。瞳孔が散大し、パイプを握ったまま仰向けに倒れた。二秒。
残る二人の腰はもう引けていた。仲間が三秒で二人沈んだ光景を目の当たりにして、本能が正しく恐怖を告げている。だが凱の前で無様を晒す恐怖が辛うじて足を止めていた。
その忠誠は一秒しか保たない。
珍は二人の間に割り込み、軽く飛び上がって左右の肘を同時に振った。常陸新流、双蛇。側頭部を打たれた二人がそれぞれ左右に吹き飛ぶ。壁にぶつかり、ずるずると崩れた。意識はない。
路地に珍と、蹲る凱だけが残された。四人の子分は全員が地面に転がっている。遠くで野良猫の鳴き声。住宅街の静寂が急速に戻ってくる。珍はビニール袋を拾い上げた。缶チューハイを取り出し、プルタブを開けて一口含み、旨そうに喉を鳴らしている。
「いやー、いいね。お兄ちゃん」
珍は缶を片手に凱の前にしゃがみ込んだ。凱は右肘を押さえたまま恐怖と怒りの混じった眼で珍を睨んでいる。脂汗が顔面を光らせ、噛みしめた歯の間から荒い息が漏れていた。
「なん……なんなんだよテメェ……」
「だから言ったじゃん。ホモだって」
珍は缶チューハイをもう一口飲み、にっこりと笑った。目だけが笑っていない。右目が糸のように細くなって、瞳の奥に蝋燭の炎のような光が灯っていた。
「テメェ……舐めんなよ……オレは鰐淵 凱だぞ……この辺じゃ知らねぇ奴はいねぇんだよ……」
「知らないよそんなの。で、お兄ちゃん」
珍の右手が凱の顎を掴んだ。ジャージの中年男とは思えない握力が顎骨を軋ませる。凱が振り払おうと左腕を振り上げたが珍の左手がその手首を取って外側に捻った。肩関節に激痛。凱の抵抗が凍りつく。
「お兄ちゃんさぁ、けっこう可愛い顔してんのね」
珍は凱の耳元に唇を寄せた。アルコールの匂いが鼻腔を刺す。
「イキった若いのをさぁ、メチャクチャに犯すのが大好きなんだよねぇ」
凱の背筋に冬の夜気とは無関係の悪寒が走った。
◆
珍のマンションは路地から歩いて五分の場所にあった。築三十年の古い三階建て。外壁の塗装が剥がれ、階段の手すりに錆が浮いている。その二階の角部屋。凱は右肘の激痛と左肩を極められたまま引きずられるようにして連行された。逃げようとするたび関節を極められ、痛みで膝が折れる。気力は残っていても身体が言うことを聞かない。
玄関の鍵が開く。珍は凱を室内に押し込んで後ろ手にドアを閉めた。鍵を回す金属音が耳に冷たく響く。
部屋は意外なほど整っていた。六畳一間のワンルームに小さなキッチンとユニットバス。だが壁際に並ぶ道具だけが異質だった。砂袋、木人、巻藁。道場のような設備が生活空間を侵食している。その中央に敷かれた万年床だけがここが人の暮らす場所であることを辛うじて主張していた。
珍は凱を部屋の中央に放った。凱は右肘を庇いながら尻餅をつく。見上げた視線の先で珍がジャージの上着を脱いでいた。
凱の目が大きく見開かれる。
ジャージの下から現れた上半身は想像していたものとまるで違った。腹は出ていない。服の上からそう見えたのは厚く発達した腹筋と広背筋が作る錯覚だった。首から肩にかけての僧帽筋が岩のように盛り上がり、前腕に血管が浮き出ている。四十五歳の体ではない。戦うためだけに研がれた異形の肉体がそこにあった。
そしてその体の随所に走る古傷。右の鎖骨を横切る刃物傷。左の脇腹に残る銃創。背中にまで刻まれた、無数の暴力の履歴。この男がどういう人生を歩んできたかを傷痕が雄弁に物語っている。
「さて」
珍はジーンズのベルトを外しながら凱を見下ろした。コンビニで缶チューハイを選ぶときと同じ穏やかな声。
「脱げよ、お兄ちゃん」
「ふざけんな……ッ!!」
凱は左手で床を打ち、立ち上がろうとした。残った左腕で殴りかかる。だが拳は空を切り、次の瞬間には凱の顔面がフローリングに叩きつけられていた。珍の足が背中を踏みつけ、左腕を後ろに極めている。頬が冷たい床に押し潰された。
「暴れんなって。また骨が増えるぞ」
苛立ちの欠片もない声。凱の腰に手がかかり、ジーンズのボタンが外された。
「やめ……やめろッ! 殺すぞテメェッ!!」
「まだ元気だねぇ。好きだよ、そういうの」
珍は凱のジーンズを膝まで引きずり下ろした。黒地に赤のラインが入ったボクサーブリーフも無造作に剥ぎ取られる。十九歳の白い尻が蛍光灯の無慈悲な光に晒された。二月の冷気が剥き出しの肌を刺し、凱の全身が屈辱と寒さと恐怖で震え上がっている。
珍は足で背中を踏んだまま、その臀部を眺めた。脂肪の薄い引き締まった尻。街の喧嘩で走り回って鍛えた大腿筋がその下に続いている。右目を細め、舌がゆっくりと下唇を舐めた。
「いいケツしてんなぁ、お兄ちゃん」
珍の親指が尻の割れ目に沿って降りていく。薄い産毛の上を硬い指先がなぞる。凱は身を捩って逃れようとしたが足の重みに封じられている。
「やめろッ! そこ触ん……触んじゃねえッ!!」
声が裏返った。不良のリーダーとして百二十戦を戦った男の声ではない。恐怖に駆られた少年の悲鳴だった。
珍の親指が肛門に触れた。凱の体が跳ねる。乾いた皮膚の上に硬く分厚い指の腹が押し当てられている。珍はそのまま円を描くように肛門の周囲を撫で回した。凱の括約筋が反射的に収縮し、必死に異物の侵入を拒んでいる。
「力入れても無駄だよ。ここの筋肉は鍛えらんないからね」
珍は左手で凱の腰を固定したまま、右手を一度離した。口に含んだ唾液を指に絡ませ、再び肛門に当てる。今度は親指ではなく人差し指。唾で濡れた指先が肛門の縁をなぞり、少しずつ圧を加えていく。
「ッ……やめ、やめろって……!」
凱が歯を食いしばった。両の拳が固く握られ、爪が掌に食い込んでいる。屈辱に顔が歪んでいるが損傷した右肘の痛みと左肩の関節技の記憶が抵抗という選択肢を体が拒んでいた。
珍の指が入った。
括約筋の抵抗を無視して、第一関節までが直腸に沈む。凱の喉から声にならない呻きが漏れた。内臓を異物が押し広げている感覚。痛みと違和感が脊髄を駆け上がり、凱の視界が一瞬だけ白く飛んだ。
珍は指を止めない。第二関節まで沈めながら、腸壁をなぞるように指先を動かす。凱の直腸は乾いていたが唾液がわずかな潤滑を与え、粘膜の上を指が滑る。ずぷ、と湿った音が静かな部屋に響いた。
「あ゙……ッ、く……ぅッ……!」
凱が唇を噛んだ。声を出すまいとしている。声を出したら何かが終わる。そういう直感が凱を支配していた。頬がフローリングに押しつけられたまま、目尻から涙が滲んでいる。痛みの涙なのか、屈辱の涙なのか、凱自身にも判らない。
窓の外で救急車のサイレンが遠く鳴った。誰かが助けを呼んでいる。だがそれは凱のために鳴っているのではない。
「お、ここかな」
珍の指がある一点を押した。
凱の体がびくん、と大きく跳ねた。
前立腺だった。直腸の前壁、恥骨の裏側に位置する小さな器官。珍の指がその膨らみを正確に捉え、腹側に向かって圧迫している。凱は自分の体に前立腺という器官があることすら知らなかった。それが何をする臓器なのかもそれを刺激されるとどうなるのかも。
「なッ……な、に……ッ!?」
凱の眼が見開かれた。痛くない。痛くないのに体が動く。腰の奥から什器の棚を揺する地震の初期微動のような震えが立ち上がり、下腹部を圧迫し、性器の根元に向かって収束していく。
「やめ……なんだこれ……やめろッ……!」
「気持ちいいだろ。男には前立腺ってのがあるんだよ。お兄ちゃん知らなかったの?」
珍はにやにやしながら指を前後に動かした。くちゅ、くちゅ、と腸内の粘膜が指を咥え込む音が響く。凱の性器が本人の意思に反して充血を始めていた。フローリングに押しつけられた下腹部の下で裏切者のように硬くなっていくそれを凱は信じられない思いで感じている。
「嘘……だろ……何で……」
「体は正直だねぇ」
珍は凱の背中から足を下ろした。力が抜けた凱は逃げるはずだった。逃げなければならなかった。だが膝に力が入らない。前立腺を刺激された衝撃で全身の筋肉が弛緩し、床の上で四つん這いになるのがやっとだった。
その姿勢が珍にとっては完璧な招待だった。
珍はジャージの下を脱いだ。トランクスの前面が大きく隆起し、そこから取り出されたものを凱は見た。振り返った視線の先に中年男の充血した性器がぶら下がっている。太い。凱自身のそれよりも明らかに太く、亀頭の色は暗い赤紫色で幹の部分に青黒い血管が何本も浮き出ていた。
「これ入れるからね、お兄ちゃんのケツに」
「む……無理だろ……そんなの……死ぬ……」
「死なないよ。人間の腸はけっこう丈夫にできてんの」
珍はキッチンの棚からベビーオイルの容器を取り出した。手慣れた動作で掌に垂らし、自分の性器に塗り広げる。光沢を帯びた性器がぬらぬらと蛍光灯の光を反射した。残りのオイルを指に取り、凱の肛門にたっぷりと塗り込んでいく。冷たい液体が尻の割れ目を伝い、太腿を流れ落ちた。
凱は逃げようとした。四つん這いのまま前に進もうとして、髪を掴まれた。金色の短髪を万力のような手が握り、頭を引き戻す。首が軋んだ。
「どこ行くの」
珍の声に初めてかすかな苛立ちが混じった。すぐに消えて、いつもの飄々とした声に戻る。
「ま、最初は痛いかもね。我慢しな」
亀頭が肛門に触れた。
凱の全身が硬直した。オイルで滑る先端が括約筋の入口に密着し、じわりと圧を加え始める。凱の肛門はきつく閉じていた。十九年間一度も開かれたことのない場所を珍の性器がこじ開けようとしている。
亀頭が押し広げる。
括約筋が細い悲鳴を上げるように伸びていく。
めりめり、と内側から押し裂かれるような感覚。
凱は声を上げた。もう我慢できなかった。
「いっ……痛ッ! 痛い痛い痛い無理ッ抜け……抜けッ!!」
珍は止まらなかった。腰を前に押し出し、亀頭が括約筋の輪を通過する瞬間を待っている。凱の肛門が限界まで押し広げられ、皮膚が白くなるほど引き伸ばされる。その向こう側にずぷ、と亀頭が嵌まり込んだ。
括約筋が亀頭の首を締めるように収縮した。凱の体がガクガクと震えている。口から涎が垂れ、涙と鼻水が顔面を汚していた。珍はそこで一度止まり、凱の腸が異物に慣れるのを待った。一分か二分か。時計の秒針だけが正確に時を刻んでいる。枕元のデジタル時計は午前一時四十七分を示していた。
「入ったね。じゃあ奥まで行くよ」
珍は腰を前に送った。凱の腸内を性器がゆっくりと進んでいく。オイルに濡れた幹の部分が括約筋を押し広げながら沈んでいき、腸壁が性器を包むように密着する。ずぶ、ずぶ、と粘膜が歪む音。凱は声も出なくなっていた。口だけが大きく開いて、喉の奥から掠れた空気が漏れている。
そして珍の恥骨が凱の尻に密着した。根元まで。腸の奥深くに中年男の性器が完全に埋没している。凱の腹の中が異物で満たされている圧迫感に意識が遠のきかけた。
「全部入った。いい子だね、お兄ちゃん」
珍は凱の尻を両手で掴み、ゆっくりと腰を引き始めた。
最初のストロークは遅かった。ぬぷ、と性器が半分ほど引き抜かれ、凱の腸内から抵抗のある摩擦を受けながら戻っていく。前立腺を通過するたびに凱の体が痙攣し、小さな嗚咽が漏れた。
二度目のストロークで珍は角度を変えた。腰を落とし、性器の先端が前立腺を直接抉るように突き上げる。
「びッ────!!」
凱が絶叫した。目が飛び出すほど見開かれ、背中が反り上がる。全身の筋肉が硬直し、手の指が痙攣して床を引っ掻いた。爪が白く剥がれるほどフローリングを掴んでいる。
快楽だった。痛みでも恐怖でもない。腰の奥から噴水のように噴き上がる圧倒的な快感が凱の思考を根こそぎにして吹き飛ばしかけている。
「や……なんで……っ、こんな……ッ」
おかしい。男のちんこをケツに突っ込まれて気持ちいいはずがない。凱の頭の中で壊れかけた理性がそう叫んでいる。だが体は正反対の反応を返していた。凱の性器はもう完全に勃起して腹に張りつき、先端から透明な液が糸を引いて床に垂れている。
「いい声出すじゃん」
珍のピストンが加速した。ぬぽぬぽ、と腸内の粘膜が性器を咥え込み吐き出す音が部屋を満たす。凱の尻が珍の腰に打ちつけられるたびに肉と肉がぶつかる湿った音が響いた。珍は凱の腰を浮かせるように腕で抱え込み、立てた膝の上に凱の下半身を載せている。その体勢が前立腺への角度を最適化し、一突きごとに凱の意識を刈り取っていく。
「あ゙ッ、あ゙あ゙ッ……ッ、やめ……もう、やめ……ッ!」
凱の声はもう懇願だった。番長の威厳も喧嘩百二十戦のプライドもどこかに消し飛んでいる。ただケツの穴を犯される快楽に抗えずに泣いている少年がそこにいた。唇を噛む癖が出ていたが噛む力すら残っていない。拳を握ろうとした手が痙攣して開いたままになっている。
珍はペースを落とさなかった。むしろ更に加速している。ずりゅずりゅ、と腸壁を抉る音が湿度を増し、オイルと腸液が混じった泡が凱の肛門の縁に白く溜まっていた。珍の呼吸も荒くなっているが声は変わらない。冷静な加虐者の声。
「イきそう? ケツだけでイけるんだよ、男って。知ってた?」
「知ら……ない……もう……わかんな……ッ」
壁掛け時計の秒針が一定のリズムを刻んでいる。規則正しい、日常の音。その音と珍のピストンの速度が同期していることに凱は気づかない。
珍が奥まで突き入れた状態で腰を回した。性器が腸内を掻き回すように旋回し、前立腺を四方から圧迫する。
凱の体が壊れた。
びくんっ、と全身が痙攣し、凱の性器から精液が噴き出した。誰にも触れられていない。ただケツの穴を犯されているだけで凱の体が勝手に射精している。白い液体がフローリングに飛び散り、一度、二度、三度と脈動するたびに新たな精液が噴出した。凱の目は完全に焦点を失い、口から涎が糸を引いて垂れている。喉の奥からひゅう、ひゅう、と笛のような呼吸音が漏れていた。
「お、イったね。ちんこ触ってないのにイくなんて、お兄ちゃんケツマンコの才能あるよ」
珍は凱が射精している最中も腰を止めなかった。射精の痙攣で収縮した腸壁が珍の性器を万力のように締めつけ、その摩擦が珍の快感を一気に押し上げる。
「俺もイくわ。中に出すからね」
「……ッ、ぁ……」
凱はもう何も言い返せなかった。白目を剥いて、意識が半分飛んでいる。
珍の体が強張った。性器が腸の奥で大きく脈打ち、最初の射精が凱の直腸を満たす。どくどく、と熱い液体が腸壁に叩きつけられ、凱の腹の中に広がっていく。その熱さに凱の体がびくん、と再び跳ねた。二射目、三射目と脈動が続き、溜め込まれた精液が凱の腸を膨らませていく。肛門の縁からオイルと精液が混じった白い泡が溢れ出し、凱の太腿を伝って床に垂れた。
珍は最後の一滴まで搾り出すように腰を押しつけ、長い吐息を漏らした。
「はぁ……いいケツだったわ、お兄ちゃん」
珍が性器を引き抜く。ずるり、と粘膜が名残惜しそうに纏わりつき、先端が肛門を通過した瞬間に凱の括約筋が弛緩した。開いたままになった肛門から、精液がとろりと流れ出す。凱は四つん這いから崩れ落ち、自分の精液の水溜まりの上に倒れ込んだ。全身が汗で光っている。失禁していた。温かい液体が太腿を伝い、フローリングを汚している。
珍は缶チューハイの残りを飲み干した。空き缶をキッチンのシンクに放り投げ、凱をぼんやりと見下ろしている。
「さてと。もう一回やるか」
「…………」
凱の目にかすかな光が戻った。恐怖が全身を覆い尽くしている。もう一回。もう一回この地獄を繰り返すというのか。凱の唇が震え、涙と涎で汚れた顔からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「いやだ……もう、いやだ……」
鰐淵 凱が初めて口にした敗北の言葉を、珍は満足そうに聞いていた。
◆
二回目は風呂場だった。
珍は凱を引きずるようにしてユニットバスに連れ込み、シャワーの温かい湯を頭から浴びせた。凱は立っていられず浴槽の縁に腰掛けている。右肘は紫色に腫れ上がり、全身が精液と汗と涙でぬるぬるに汚れていた。湯が体を流れ落ちるたび、白い精液が排水口に向かって渦を巻く。
珍は凱の体を丁寧に洗った。ボディソープを泡立て、背中を腕を胸を腹を。その手つきは不気味なほど優しかった。恋人を洗うような手つきで男の体を撫で回す中年男の姿はそれ自体がひとつの狂気である。
「綺麗にしとかないとね。汚いまんまだと俺も嫌だし」
凱は何も言わなかった。目が虚ろになりかけている。ついさっきまで自分の体に何が起きていたのか、まだ処理しきれていない。ケツの穴を犯されて射精した。男に犯されて気持ちよくなった。その事実が凱の自己認識を土台から揺さぶっている。
珍の手が凱の股間に伸びた。泡のついた掌が凱の性器を包み込み、ゆっくりと洗い始める。凱の体がびくりと震え、手が反射的に珍の腕を掴んだ。
「さわ……んな……」
「洗ってるだけだよ。汚えだろ、お前のちんこ、さっき盛大にイったんだから」
珍の手が凱の性器を優しくしごいた。親指が亀頭の裏側をなぞる。凱の喉からくぐもった声が漏れ、体がかすかに震えた。シャワーの湯気が狭い浴室を満たし、二人の肌に張りついている。鏡は曇って何も映さない。
「やめろ……って……」
声に力がなかった。怒りではなく彼がそう言わなければならないと思い込んでいる義務感だけがその言葉を口に出させている。珍にはそれが判った。十年以上この手の人間を壊してきた経験が獲物の心が折れかけている兆候を正確に嗅ぎ取る。
「お兄ちゃんさぁ、正直に言いなよ。さっき気持ちよかっただろ?」
「…………」
「黙ってんのは肯定と同じだぞ」
珍は凱の性器から手を離し、体を回して凱の背後に立った。浴槽の縁に座った凱の背中に密着する。裸の胸板が凱の背に押しつけられ、体温が直接伝わった。珍の性器が凱の腰に当たっている。また硬くなっていた。
「二回目は痛くないから。体が覚えてるからね」
珍の手が凱の太腿を広げた。浴槽の縁に座ったまま腰を持ち上げられ、背後から珍の性器が尻の割れ目に滑り込んでくる。ボディソープの泡が潤滑剤の代わりになって、亀頭が肛門に触れた瞬間の滑りは最初の時より遥かに滑らかだった。
「ッ……」
凱が息を呑んだ。肛門が反射的に収縮する。だがその収縮は一回目ほど強くない。一度こじ開けられた括約筋はもう以前の硬さを失っている。珍の亀頭がずぷ、と肛門を通過し、凱の腸内に再び沈んでいった。
痛みは確かに薄かった。
それが凱にとって最大の恐怖だった。痛ければ憎める。痛ければ抵抗できる。だが痛みが消えた場所にあるのはあの腰の奥から立ち上がる地震の初期微動だった。性器が前立腺を掠めるたびに下腹部に落雷のような衝撃が走り、凱の体が勝手に跳ねる。
「ん゙ッ……ぁ……ッ」
声が漏れた。凱は慌てて口を押さえようとしたが珍の腕が後ろから凱の両手首を掴んでいた。声を隠す術がない。
「隠すなよ。いい声なんだから」
珍はゆっくりとピストンを始めた。ぬぷ、ぬぷ、と湯とボディソープの泡がオイルの代わりに粘膜を滑らせ、性器が腸壁を押し広げながら前後する。浴室に響く水音と、凱の口から漏れる声だけが音を成していた。シャワーの湯はもう止まっている。水道の蛇口から一滴、また一滴と雫が落ちる。
「あ……ぁっ……やだ……また……っ」
凱の性器が硬くなっていた。腹の上で跳ねるように勃起し、先端から透明な先走りが糸を引いて浴槽の中に垂れている。凱自身の意思とは関係なく、体が再び快楽に傾いていく。
「やだ、って言いながらちんこビンビンじゃん。正直だねぇ、お兄ちゃんの体」
「違ッ……これは……っ」
「何が違うの。ケツでイきたいんだろ? いいよ、イかせてやるから」
珍のピストンが速度を上げた。ぬぽぬぽ、ずちゅずちゅ、と腸内から引き出される音が浴室の壁に反響し増幅される。凱の腰を掴む珍の手に力が込められ、凱の体を引き寄せては突き放す。前立腺を直撃するたびに凱の全身が痙攣し、もう声を押し殺すことすらできなくなっていた。
「あ゙ッ、あ゙ッ、あッ、そこ……そこはッ……!!」
凱が声を上げた。「そこ」と言った。やめろではなく、そこ、と。その一言が決壊の始まりだった。凱自身がそれに気づいているかどうか──気づいていない。快楽が認知を上書きしている。頭の中で繰り返される「おかしい」「こんなの嫌だ」という叫びが体から立ち上がる快楽の津波に呑まれて溺れていく。
「そこがいいの? ここ?」
珍が腰の角度を微調整した。性器の先端が前立腺の真上を擦るように動く。
「ひぎッ────!!!」
凱の体がのけぞった。浴槽の縁から滑り落ちそうになるのを珍が腕で支える。凱の性器がびくびくと痙攣し、再び射精が始まった。今度は精液の量が少ない。さっき出したばかりだから当然である。だが快感は一回目より遥かに激しかった。射精と同時に凱の口から壊れた笑い声のような悲鳴が漏れ、全身の筋肉がガクガクと痙攣している。
珍も間を置かず射精した。凱の腸に二度目の精液を流し込みながら、凱の耳元で囁く。
「いい子だ。お兄ちゃん、サイコーだよ」
凱の意識が落ちた。浴室の湿った空気の中でぐったりと珍の腕の中に倒れ込む。珍は凱の体を抱えて浴槽の中に横たえ、ぬるめの湯を張り直した。凱の顔だけを水面から出して、汚れた体を湯で洗い流す。中年男の手が少年の髪を撫でている。恋人を介抱する手つきだった。
◆
凱が目を覚ましたのは明け方だった。
知らない天井が見えた。布団の中にいる。右肘に包帯が巻かれていて、痛みは鈍い疼きに変わっている。尻の奥に鈍い疼痛があった。腸の中がまだ熱い。精液が残っているのだと気づいたとき、凱は初めて声を上げて泣いた。
枕元にペットボトルの水と、コンビニのおにぎりが二つ置かれていた。付箋が貼ってある。
「朝飯。肘は一週間で治る。逃げてもいいけど、すぐ捕まえに行くからね」
凱は玄関に走った。鍵は開いていた。靴はなかった。裸足のまま階段を駆け下り、二月の早朝の外気が足の裏を刺す。
逃げた。
だが逃げ場所がなかった。
◆
一週間後、凱は珍のマンションの前に立っていた。
誰にも相談できなかった。警察に行くことも考えた。だがそれは親父狩りをしていた自分の犯罪を告白することを意味する。仲間にも言えない。男に犯されたなどと知れたら、番長としての地位は一瞬で崩壊する。凱を慕っている手下たちの信頼が瓦解し、今度は自分が狩られる立場になるのだ。
そして何よりも。
凱はこの一週間、あの夜の記憶を消すことができなかった。風呂に入るたびに体が疼く。尻の奥がじわりと熱くなり、あの前立腺を突き上げられたときの快感が脊髄を駆け上がってくる。自分の指で試そうとして、唇を噛んで手を引っ込めた。三度。いや四度。
珍は凱に連絡先を渡していなかった。逃げてもいいと言った。だがあの付箋の最後の一行が凱を縛っている。「また捕まえに行く」。その言葉を凱は恐怖と──もう一つの何かとして受け取っていた。もう一つの何かが何なのかを凱は認めることができない。
インターホンを押した。少しの間があって、ドアが開いた。ジャージ姿の珍が立っている。缶チューハイを片手に凱を見て少し驚いた顔をした。
「おや。来たの」
「…………」
「まあ上がんなよ。寒いだろ、裸足で」
凱は裸足だった。スニーカーはあの夜のまま珍の部屋に残されていたのだ。一週間もの間、凱は借り物のサンダルで過ごしていた。それすらも珍の支配の残滓だと気づいたのはドアの前に立った瞬間である。
部屋は一週間前と変わらない。砂袋と木人と巻藁と万年床。凱は玄関で自分の靴を見つけた。きちんと揃えて置いてある。
「靴、取りに来たの?」
「…………」
「ま、いいや。飯食ったか?」
珍はキッチンに立ち、冷蔵庫から卵と葱を取り出した。フライパンに油を引き、チャーハンを作り始める。中華鍋を振る手つきは古武術の構えと同じように無駄がなく、卵が香ばしく焦げる匂いが狭い部屋を満たしていった。
凱は入口に立ったまま動けなかった。逃げなければならない。ここにいてはならない。頭ではそう判っている。だが足が動かない。チャーハンの匂いが鼻腔を満たし、腹が鳴った。昨日から何も食べていなかった。
「ほら、座んなよ」
珍は万年床の横にチャーハンの皿を置いた。凱はのろのろと靴を脱ぎ、部屋に上がる。皿の前に正座した。珍が缶チューハイを開けて凱の前にも一本置く。
「お兄ちゃんまだ未成年だっけ。ま、今さらだよな」
凱はチャーハンを食べた。旨かった。涙が出るほど旨かった。一口食べるごとに涙がぼろぼろとこぼれ、皿の上に落ちた。なぜ泣いているのか自分でも判らない。
「泣くなよ。チャーハンが塩辛くなるだろ」
珍は凱の隣に座り、自分もチャーハンを食べている。穏やかな横顔。近所の親父が夕飯を食っているだけの顔。この男が一週間前に自分のケツの穴を犯し尽くしたのだという事実が凱の中で泡のように浮かび上がって、すぐに沈む。
食事が終わった。珍が皿を片付けに立ち、凱は万年床の上に一人残された。逃げるなら今だった。靴はある。鍵は開いている。一歩踏み出せば外に出られる。
凱は動かなかった。
珍がキッチンから戻ってきたとき、凱は万年床の上にうつ伏せになっていた。ジーンズは自分で脱いでいた。下着も。白い尻が蛍光灯の下に晒され、凱の顔は枕に埋もれている。首筋が赤い。
「…………」
珍は無言で凱を見下ろした。右目が細くなる。舌がゆっくりと下唇を舐めた。
「お兄ちゃんさぁ」
「うるせぇ……何も言うな……」
枕に埋もれた声が震えている。凱の拳が布団を握りしめていた。唇を噛んでいる。体中が恥辱で燃えている。だが腰の奥は既に疼いていた。あの快楽を体が覚えている。あの前立腺を突き上げられる衝撃を凱の体が渇望して震えている。
珍は何も言わずにジャージの下を脱いだ。ベビーオイルの容器を手に取り、凱の傍にしゃがみ込む。
三度目の行為に暴力はなかった。
珍はオイルを指に取り、凱の肛門をゆっくりとほぐした。指が一本入り、二本入り、三本に増えていく。凱の声は最初から甘かった。抵抗する気力がないのか、もう抵抗する必要を感じていないのか、その境界は凱自身にも判らなくなっている。
「んっ……ぁっ……」
「力抜いてていいよ。今日は優しくするから」
珍の性器が凱の肛門に沈んだ。一回目と二回目の暴力的な挿入ではない。ゆっくりと、凱の腸壁が自然に性器を咥え込むのを待ちながら、一センチずつ送り込んでいく。凱の体がわずかに震えたが悲鳴は上がらない。代わりに甘い吐息が枕の中に漏れた。
「あぁ……っ、入って……くる……」
「気持ちいい?」
「…………ッ」
凱は答えなかった。だがその沈黙が何よりも雄弁な肯定だった。珍はゆっくりとピストンを始める。優しい速度。前立腺を柔らかく撫でるような角度。凱の体が布団の上でゆっくりと揺れ、口から断続的にくぐもった声が漏れていく。
「ん゙ぅ……っ、はぁ……っ、あっ……そこ……」
「ここ?」
「……うん」
凱がうん、と言った。
珍の目に暗い悦びの光が灯る。指先の震えを押し殺すように凱の腰を掴み、そこだけを的確に突き続ける。凱の体が二度、三度と大きく痙攣し、腰が自分から珍の性器を呑み込むように後ろに押し出された。無意識の動作。凱の腰が珍の腰に激突するたびに肉がぶつかる湿った音が鳴り、凱の口から嬌声が漏れている。もう枕で隠そうともしていない。
「あ゙あ゙ッ♡ そこぉ♡♡ もっと……もっとぉ……♡♡」
凱の声が変わっていた。一週間前の凱はもういない。番長はいない。百二十戦無敗の不良のリーダーはいない。中年男のちんこでケツの穴を突かれて喘いでいるだけの少年がそこにいた。自分から尻を振って、もっとと懇願して、涎を垂らして笑っている。
壊れたのだ。
鰐淵 凱という人間を構成していた全てのもの──暴力への信仰、プライドの鎧、他者への威圧、男としての矜持──その全てがケツの穴から注ぎ込まれた快楽の洪水に押し流され粉砕された。残ったのは快楽だけを求める空っぽの器。珍がそこに自分の欲望を注ぎ込めば、器は何でも受け入れるだろう。
「イく……イっちゃう……♡♡ ケツでイぐぅッ♡♡♡」
凱が三度目の射精をした。布団の上に精液が飛び散る。もう量は少ない。だが全身の痙攣は過去二回を遥かに上回っていた。白目を剥き、口が大きく開いて舌が飛び出し、全身がガクガクと震えている。理性の残滓が一つ残らず吹き飛んでいく。
射精が終わっても珍は性器を抜かなかった。凱の体に密着したまま、布団の上に横たわる。汗まみれの二つの体が貼りつき、荒い呼吸が重なっている。凱は目が半開きになって、焦点の合わない瞳で天井を見つめていた。口元に涎と涙の跡。かすかに笑っている。
「おじさん……」
凱が初めて珍を呼んだ。テメェでもクソジジイでもない。おじさん。子供が近所の大人を呼ぶときの声。
「またしてくれる……?」
珍は凱の汗で濡れた金髪を撫でた。歪んだ愛情を含んだ仕草で額に唇を押しつける。
「いつでもしてやるよ。お兄ちゃん、あんたはもう俺のもんなんだから」
凱はこくりと頷いた。そして珍の腕の中で目を閉じる。子供が親に抱かれて眠るように安らかな寝顔だった。部屋の窓から二月の朝日が差し込んでいる。薄いカーテン越しの白い光が万年床の上に重なった二つの体を照らしていた。
マンションの駐車場で車のエンジンがかかる音がした。子供が学校に行く声が聞こえる。ゴミ収集車のメロディが通り過ぎていく。日常は何も変わらない。世界は回り続ける。この古い二階の角部屋で何が起きていようと、世界は一秒も止まることなく回り続けている。
珍は凱の寝顔を眺めながら、枕元の缶チューハイに手を伸ばした。もう空だった。舌打ちをして空き缶を傍に置き、凱の髪を撫で続ける。
鰐淵 凱は二度と、あの路地裏には戻らなかった。