春のことだった。
花祭りの日は、誰もが花開くほどの温かさと陽の光に喜び浮かれる。
冬のアードウィックは、寒さも厳しく港も凍る。それから開放されたことと春は出会いと別れ、そして秘めた思いも感謝も花に託して伝えるのには最適な程な心を明るくしてくれる季節だった。
そんな花の日にも酒は、振る舞われる。
耐え忍んだ冬から開放された喜びのまま酒を飲みかわして酔いつぶれて道端に転がる。
春とはいえ、夜になると冷える。それにアードウィックは、西になるほど治安が悪くなる。酷いところでは二週に一回は、阿片に溺れた者が狂った末に橋から身を投げただとか、身元の分からない餓死者や病死、果てには明らかなる殺害の痕跡などとにかくメイル川の川原や水面には死が落ちている。夜は女も犬も西には行くなだとか豊穣の川は死体を栄養にしてるだとか人を殺すなら西でやれ。夕暮れの赤が隠してくれるだとかとにかく西には不吉の意味がこの町ではついて回った。
そんな西側の通りをオイルランプの明かりと等間隔に並ぶガス灯の明かりを頼りに酔っぱらいを担いで歩いていた。
ある家の前で立ち止まりドアノッカー叩く。すると家の中から明かりが溢れて出てきた。扉を開けたのは女性だった。ノックをしたのは顔を知った男あることを確認すると用心していた顔から少し気が抜ける。
「
どこかおかしそうに笑ったのは、この家の奥さんだ。
「運送は運送でも人の運送ですたい」
棗は、乾いた笑み浮かべた。
「こちら、お宅の旦那さん。酔いつぶれとっけん連れて来たとよ」
棗は肩を貸していた半分意識のない男を女性に見せると女性は、またこの人はとでも言いたげに眉を顰めて、とりあえずあそこのソファーに寝かせといてくれとリビングスペースにあるソファーを指さした。
ソファーに肩を貸していた男を寝かせるとこれで仕事この仕事は終わっと言わんばかりに息を吐いた。そして長居する必要もないので、ではこれでと去ろうとする棗に奥さんは手間賃として銀貨一枚差し出した。
「
「いやいや。うちの豚みたいな男を運んでくれたんだ。それを考えたらこれは安いくらいのもんだ。気持ちとして受け取っておくれ」
金銭を断る棗の手に奥さんは銀貨を握らせる。
掌の中の硬い金属を握って棗は、じゃあ気持ちだけとそれを受け取りズボンのポケットに入れた。そして軽く帽子のつばを摘み上げて今度こそ家を後にする。
棗はこの日、祭りの主催した市の下請けの下請けとして、通りで見かけた酔っぱらいを家あるいは市庁舎にある警備局まで送り届ける人運びの仕事を何でも屋として請け負っていた。
東西南北の各住居区域であるウォーク、ステップ、レーンの名前と住所が言える者は家に、言えないものは警備局にという具合で運んでいた。
日雇いで三ポンド。ずいぶんと高値で雇ってくれたと思えば、北西から南南西の夜はなるだけ近づきたくない場所を一人で割り振られていた。
やってくれたなと思ったが雇われた以上やらないという選択肢はなかったのでそのまま請け負ったが、今夜は夜通しの肉体労働かもしれないと重みが消えた肩を回した。
北から南へ緩やかに下っていると店の軒先で寝ている男を見つけた。
擦り切れとあて布で繕われたぼろの服に靴のつま先が開いたボロ靴の男だ。浮浪者なのかそれとも屋根のある家の人間か分からないが、とりあえず肩を揺さぶった。
「おい、おい、あんた。こんなところで寝てると風邪どころじゃすまんぞ」
声をかけると男が目を薄く開けて瞬き。そして大欠伸をした。
「家の場所言えるか? 言えるなら送ってくばい」
棗が言うと男は、酒に酔い寝ぼけた目をしながら大声でトーライトの長屋と答えてまた意識を失った。
「トーライトの長屋……?」
今夜一番、聞きたくなかったレーンの下層の通りの名に警備局に連れてくかと思ったが、彼らでも長屋と聞けば怖気付くので深々とため息を吐いて男に肩をかした。
トーライト・レーン。町の西から南南西に長く続く共同下宿の通りだ。それだけ聞くと多くは日雇労働者、賃金の安い労働者や女工が暮らす場所を思い浮かべるが、そこに長屋と着くとまた変わる。
トーライトは川に家の背中を向けているか戸口を川に向けているかで印象ががらりと変わる。長屋の通りは、日雇いでもさらに賃金が安い労働者や低所得の内職、新聞を貸し出して日銭を稼ぐ少年、子どもたちからなるの物売り、異国からの流れ者、船娼婦、路上娼婦、はては元囚人などが暮らす場所。
基礎もないまま木造の小屋群が地面にそのまま建てられた戸口を川に向けた家々のことを指す。この町でメイル川に戸口を向けるの犯罪に巻き込まれても文句は言いませんと言っているようなもので犯罪温床地帯に軒を連ねていた。
舗装されてない土の地面を踏む棗は、腐った酒の臭いや何かが腐ったような臭いと排泄物の臭いが混ざった空気に鼻と肺がやられそうだと思った。
この長屋郡に番地は存在しない。住んでいる人間がここは自分の住居だと分かるものを軒先に置いてあるか飾ってあるかあるいは、ぼろ具合で自分の家がどれかを認識していればいいと聞いたことがあったのを棗は思い出す。
肩を貸したこの男のことはどうしようかと考えてとりあえず、共用の井戸があるはずなのでせめてそこに連れて行っておこうと思った。
トーライトとあるのにこの長屋郡は、ほぼ真っ暗闇だ。街灯と言えば脇道があるということを示すもの程度。それも感覚がかなり広い。一体どこに井戸があると思いながら歩いていと土を蹴るような足音らしきものが聞こえたような気がしたと思った瞬間、白い何かが脇から飛び出してきた。
「——っと」
「きゃっ!」
棗がよろけた声と小さな悲鳴と土に倒れる音が同時に闇に転んだ。
なんだと思ってオイルランプで照らした先には新聞紙の切れ端。そして液体が地面を伝う反射、白い人の脚、だった。
人形かと思うほどの白い脚に驚いてランプをさらに動かせば付け根、胴体、胸元に抱かれたブリキ缶、顔へと行き着く。尻もちをついた拍子か走っていたせいかボサボサになっているがゆるく癖かかった金髪に丸い青い瞳。
精巧なに作られた等身大のビスクドールかと思うほど、綺麗な顔立ちだった。
驚きと怯えが入り交じったような表情をしている彼女の肩が細く震えていることに気づく。白さと顔の印象に持ってかれていたが、ランプで照らした場所に布らしいものはなかった。春とはいえ夜は冷える。棗は肩を貸していた男をいったん座らせるとランプを置いてジャケットを脱いだ。
膝を着くとぬるく濡れた感触がある。
昨日からアードウィックは晴れでこんなに濡れるほどの水気は今歩いてきた道にもなった。では何かと考えた時に彼女の足元を照らした時に見えた反射を思い出す。そこはかとない温度をまだ土に残すそれは、人間もまた動物であるということの証であり、恥とする行為。
駆け出してきたのはそういうことだったのかと理解すると同時にぶつかった拍子に筋肉のが収縮してしまったがゆえの事故だと自分に言い聞かせる。
「寒かろ。これ、着とき」
棗が肩に上着をかけようとすると彼女は、肩をすくめた。見るからに警戒と怯えがつよい。
「大丈夫、なんもせん。これ貸すだけたい」
悪さはしないと言葉にしてジャケットを肩にかける。震えは止まっていなかったが、裸はよりはマシだろうと思う。その震えが寒さから来ているものなら。
「ここら辺は、犯罪多かけん、早よ家に帰った方がええ」
棗はそれだけ言うと手にはランプ、肩に男の腕を回して彼女の横を抜ける。
少し歩いてから井戸の場所を聞くんだったと思いついたが振り返ったところで彼女はいないだろう。
それにしても白い肌だったなという印象が強く残る。あんな白は初めて見たとそればかりが頭を巡る。
彼女は一体誰なのだろう。
そこに思考が到達する頃にようやく、井戸を見つけた。