春先。
凍てついた空気が溶け始めてアードウィックの港にも人の動きは見え始めた。
通りを歩く男たちの懐も少し温かみが戻ってくる。
でも、ジャンヌはそこに行かない。いや、行けなかった。
「つぅ……っ」
息を詰めてまだ氷点下の川の水面にしゃがみこむ。
生理現象の一端をしに川に来たのではない。女として来るものの汚れを流しに来たのだ。
最低でも一日一回は、こうしないと臭いも何もがこびり付く。
だが、冷えればさらに痛みは強くなる。
川の流れに歪む自分の顔を見ながらジャンヌは、自分が女であるということを強く感じた。
◇◇◇
ダークグレイッシュの通りは、少し賑やかになっていた。
女の格好も春の陽気を感じさせるように薄着になる。
その中にジャンヌの姿が見えないことに気づき、棗は小屋に向かった。
扉をノックすると、小さな声で返事があった。
きぃと蝶番を軋ませて扉を開けるとロウソクのみのあかりの中で藁編みにくるまって背中を扉に向けて横になっているジャンヌの姿があった。
また冷たい小屋の空気の中に鉄の臭いが混ざっている。
心臓がどくんと大きく脈打った。
「どうしたと!? まさか怪我でもしたんか!?」
棗は、その臭いには敏感だ。
かつての生活で嫌というほど嗅いだ臭いは、棗には怪我と死を連想させる。
ジャンヌの傍に跪き顔を覗くとジャンヌは棗を一瞥してから首を横に振った。
怪我をしている訳ではないということなのだろう。
では、この臭いは一体どころかしてるのか。
「また来るようになったんです……」
「来る? 何がね」
「その……月のものです……」
恥ずかしそうにジャンヌは、藁の中で呟いた。
月のもの。それを胸の内で繰り返した棗は、あ、と音になったかどうかも怪しい呟きを零した。
軍にいた頃、異性の仲間なら言われたことがある。
女から外傷もないのに血の臭いがしたら、黙って察しろ。皆まで言わせるな。それは、女にとっての恥だ、と。
「すまん、言わせた……」
みなまで言わせてしまったと棗は、謝罪した。
ジャンヌは、ただ静かに首を横に振るだけだった。
「ばってん、今までどうしよったと? 臭いしとらんかったばい」
あと一月もすればジャンヌと知り合って一年になる。その間に彼女の体からこれほどまでにその臭いがしたことはなかった。
「止まってたんです。一昨年の冬くらいから、ずっと。でもまた来るようになって……」
一昨年と言えば、まだ棗はジャンヌと出会っていない。
出会ったのは、それから数ヶ月後くらいだ。
月のものが止まるということは、妊娠という可能性があるが、十月十日で産まれてくるという新しい命の 気配はジャンヌにはなかった。
その代わりにジャンヌは、胸こそあれど痩せていた。胸があるせいで余計に骨の影の方が目立っていた。
だが今は、体全体に棗からするとまだ薄いが出会った頃よりはずっと肉が着いている。筋肉と脂肪が増えたということだ。つまりは、栄養が体に回ったということ。そうすると今度は新しい命を育むだけの力があると体が判断して女としての機能を再開させる。
確実にジャンヌは、生きている正しい体の形に戻っていたのだ。
それを良かったの一言で表していいのか棗には分からない。
なにせ横になっているジャンヌの顔は、青白くなっている。
血が足りていないのが一目で分かった。
「起き上がれるか?」
「…………起き上がりたくはありません。見えてしまうからもしれませんから」
棗の問いに少し考えたジャンヌは、静かに答えた。
何が見えてしまうのかというのは、聞かなくてもわかる。
血は穢れというのは、どこの国でも同じらしいと棗は思った。
血が出ている女を選ぶ男はいない。血は、感染症の元にもなることがあるからだ。
棗は、平気でそれに触れてきた。ただその度に仲間から迂闊に触るなと叱られていたのを思い出す。ただあれは、お前が病気になるからと言うよりも素手で触ったら手から菌が移って傷がより悪化するというのを気にしていたからのように思う。
「じゃ、起き上がらんでいいから、こっち向いてくれんか? 食べさせるけん」
棗が言えば藁の中でジャンヌは、身じろぎして体ごと棗を振り返った。
小鍋から皿にスープを移し、スプーンで掬って口元に持っていくとジャンヌは小さく唇を開けた。
その隙間にスプーンを差し込んでスープを食べさせる。二口ほど食べたら、今度はパンを二つに割って半分は翌日分に回せるように残して、もう半分を手でちぎって口に持っていく。
そうやってスープとパンを満遍なく食べさせていたとき、ジャンヌの顔が苦悶に歪んだ。
藁の中が動く。
「くっぅ……」
小さく漏れ出す声に痛むのだと察した棗は、どうするべきかと悩んでジャンヌの傍に寄り後ろ側の藁の中に手を入れて裂けたシーツの上から腰にあてがった。
腰より腹の方に手をました方がいいのだろうが、おそらく今のジャンヌはそれを嫌がるだろうと思い腰にした。
「今、何日目ばい?」
月のものは七日から十日続くと聞いたことがあった。
日が浅ければ浅いほど痛みは強いのだとも。
「二日目、です……」
「じゃあ、今が一番辛かときやね」
浅い呼吸の合間で呟かれた日数に棗は、薄いシーツだったもの越しに腰を摩った。
しばらくそうしているとジャンヌの体から力が抜けていき、詰めていた呼吸が落ち着きはじめた。
「もう、大丈夫です」
「ん」
短く呟かれた言葉に棗は手をのけて藁のむしろを被せ直した。
「吐き気とかはないか? たまに吐くやつもおるって聞いたことがある」
「そこまではないです。……お詳しいですね」
「昔の知り合いが、動けばするが痛い痛い呻くタイプでな。いろいろと教わったばい」
ジャンヌの言葉に棗は、眉を下げて小さく笑い肩をすくめた。
「痛みも吐き気もないなら食べれるか? 流れる分食べんと貧血なる」
「はい……」
スプーンを持つ棗にジャンヌは、口を開ける。
その日の夕食は、静かでゆっくりとした時間だった。
◇◇◇
二日目をすぎたからと言って、月のものの流れが落ち着くわけではない。
横になっていても流れは止まらないし、少し水を汲んでこようと思い動けば重たくどろりとした塊がぼとりと落ちる瞬間もある。
約一年ぶりに機能を再開したせいか痛みも重い。
ただ下腹部が痛むだけならまだいいが、頭痛まで起きておまけに血も足りていない。
土の上に点々とまだら模様を落としながら川まで歩くのも恥ずかしくてたまらない。
でもどうしようもない。止まって欲しいと思えっても止まるものでもないのが女の月のもの。生理循環の一つなのだという証明でもある。
そして、もう一つ苦痛だったのが腹の緩みだ。
何が作用しているのか分からないが、月のもの痛みはそのまま腹痛として下してしまうこともあった。
それを漏らしていないだけいいのだが、着るものを汚さぬようにと裸で過ごしているものだから、隠すものもなく小屋と川の往復を昼間からするのは耐え難い。
早く終わってほしいと、月のものの痛みかそれとも腹の緩みか分からないものを抱えながらジャンヌは、川に腰をつけた。
そんなジャンヌの許に棗は、大きめの紙袋二つ分もの端布やはぎれを持ってやってきた。
痛みがだいぶ引いたが流れは止まっていない五日目の夜のことだ。
ジャンヌは、見られないために相変わず藁編みと裂けたシーツに中にくるまっていた。
棗は持ってきた紙袋をを開け、中からいくつもの端切れを取り出してそっと置いた。
薄い綿布、麻、絹――どれも生地屋の余りものだ。
「これ、当てて使うとよか。痛み止めのチンキもある」
ジャンヌは戸惑いながら目の前に置かれた布を見た。
「……もったいないです」
その声は、掠れてこそいなかったが躊躇いを滲ませていた。
トーライトの長屋では布は貴重だ。汚すためではなく、少しでも肌を隠すために使うものだ。その布を、血で汚すことへの恐怖が沁みついているのだ。
棗は少し黙って、それからゆっくりと答えた。
「汚すもんやなか。使うための布やけん」
静かな言葉が、薄暗い小屋に落ちた。
ジャンヌの睫毛が、かすかに震える。
藁布団の中で、手が伸びて布を一枚取るとそれを中へと引き込んだ。
しばらくの沈黙のあと、藁布団の下で布の擦れる音が微かに響く。
迷いながら慎重に恐る恐るそれでも確か、“使う”という動作。
そのわずかな音のあとで、藁布団が小さく沈んだ。
ジャンヌが、ようやく息を吐いたのだ。
その息は震えていたが、どこか安堵の色を含んでいた。
「今日も俺が食べさせるのでええか?」
棗は、一つ確認してからいつ持ってくる布包みを開けた。
パンと干し肉とスープの入った小鍋。干したリンゴのチップス。
「大家さんが月のものときは、豆類がいいってスープ作ってくれた」
「それは、食べないといけませんね。お願いします」
棗の言葉にジャンヌはどこか微苦笑した。そして棗が皿にスープを移し、スプーンをでそれを掬うと口を開けた。
「うまか?」
「はい、とても」
「ならよか。干し肉も食え、血になる」
「はい」
小さく裂かれたものを棗の手から口で受け取る。
食べてるうちにも内側から熱く鉄の匂いが染み出ていたが、棗は何も言わない。
その優しさと献身さになぜだか涙が出そうになった。
けれど泣かない。泣くよりも食べることに集中して、涙を引っ込める。
食べ終われば、少しの雑談をして棗は帰っていく。
ジャンヌは、棗が置いていった二つの紙袋と棚に増えた鎮痛チンキを眺めた。
女であることを恥じなくてもいいと彼は言葉にせずとも残してくれる。
それを心の底からありがたく思いながら、ろうそくの火を落として眠った。