アードウィックに本格的な春が訪れた。
花は芽吹き咲き、花屋には色とりどりの花が並ぶ季節になった。
花が咲いたアードウィックでは、毎年、花祭りが開かれる。
花に感謝な心の内に秘めた思いを託して渡す祭りは、誰の心も浮き足立たせる。
ひねくれた男たちでも通っている女や妻に花を贈るほど、この祭りは気持ちを豊かに表現していた。
もちろんその祭りには、影で支える者たちもいる。
祭りの運営をする市庁舎の各部署から集められた臨時の花まつりの臨時委員会、臨時委員会から出しものの依頼をされた商会、商店、ギルド、さらにそこから派生した下請けなどで祭りは作り上げられる。
そして棗もその枠組みの中に取り組まれていた。
「三日後は花祭りやけん、来れんかもしれん」
ジャンヌ一人の一食分の食事と雑談の時間を銀貨一枚で買った棗は、おもむろにそう言った。
「春の一番のお祭りですもんね。お付き合いも大事ですよ」
ジャンヌは、それを残念がるでもなくむしろ祭りを楽しんで来てくださいと言うような口ぶりだ。
花祭りの日は、特別なお酒が振る舞われる。花を漬け込んだお酒だ。
桜、牡丹、藤、パンジー、菫、スイカズラ、沈丁花、木蓮、カーネーション。見るもよし、飲むよし。ホワイトリカーに漬け込まれた酒が露店でも酒場でも振る舞われる。
それを求めてわざわざ遠くからアードウィックに来る旅行者もいるほどなのだ。
「違う違う。俺も運営側っちゃ。下請けの下請け……いや、あれは警備局直下か? まぁ何んせよ、何でも屋として呼ばれとるんよ」
「お仕事なんですか?」
棗の言葉にジャンヌは、小首を傾げた。
「ほら、去年初めて会った時のこと覚えとるやろ。俺が酔っ払いに肩貸して走っとったら、お前が駆け出してきてぶつかって……上着貸したあの夜のこと」
「はい。とてもびっくりしたので覚えてます」
棗にとっても、ジャンヌにとっても、あれは忘れられない邂逅だ。
棗には磁気のような白い肌とビスクドールのような顔立ちを焼き付け、ジャンヌには驚き脅えて震えていた自分にただ何も見返りも求めずに上着を貸してくれたと人がいたということを印象づけた夜だった。
「あれ、仕事中やったとよ。泥酔した連中を家か詰所に運びよった。言うたら、人の運送屋たい」
「人の運送……」
小さく笑った棗の言葉尻をジャンヌは小さく呟いた。
「それに昼は昼で、旅行者の道案内に迷子の子ども。走り回っとったけん、今年も昼も夜も来る間がなかと思う」
棗は、去年の春祭りを思い出す。昼間は花の香りをゆっくりと楽しむ間もなく道を尋ねてくる者に地図を見せながら説明する。その傍らで親とはぐれて泣きながら歩いている子どもに声をかけて宥めて運営本部のテントに預けて親を探して歩き回った。
夜は夜で道端で寝ている酔っ払いたちに声をかけ回り肩を貸して運び歩く。下宿に帰った頃には日付を跨いでいた。
おそらく、今年もそうだろう。去年と変わらず夜だけで三ポンド。北西から西南西を一人で任されている。
「大変なお仕事ですね……」
「まぁ大変っちゃ大変ばってん、頼りにされるんは悪か気はせん」
ジャンヌの言葉に棗は、どこか誇らしげに答えた。
人のために働くのは好きだ。感謝されるからではない。人の中で生きていると感じることができるからだ。
「でも、ちょうど良かったかもしれません。私も花祭りの夜はお客さんが増えると思うで……」
祭りの日は、誰もが浮かれている。祭りの陽気な気分に酔い、酒に酔い。財布の紐が少し緩む。
それでも去年は、稼ぎが微々たるものだった。
でも今年からはまたそれから少しは増えるような気がしていた。
骨の影の方が目立っていた去年の体より今年は少し厚みが増えた。
柔らかい体は好まれる。
それは、月のものが終わったあたりから実感していたことだ。
「お互い頑張ろうな。でも、無理はすんなよ」
「はい。棗もご無理なさらないでくださいね」
三日後のお互いが無事に一日を終えられるよう言葉を掛け合う。
約束ではないけれど、思いやる気持ちは一緒なのだと感じることができるものだった。
◇◇◇
花祭りの夜は、花を胸に飾った者、飾ってこそいないが手にしている者、花を持たない者様々な男たちがいた。
中には常連であろう客から花を貰う女もいた。
アードウィックに来てからジャンヌにとって祭りは、縁遠いものになった。
来たばかりの頃は、洗濯や内職で服の修繕を頼まれることもあったが、でもそれでも一日の生活費にまるまる消えてしまうだけの金額しか貰えなかった。持っていたもので売れるものを売って繋ぎ止めていた。それすらもなくなるといよいよと家賃の滞納が続いて当時住んでいた共同下宿からも追い出された。
祭りに出向いてその空気を楽しむ余裕などなかった。
今もそうだ。祭りの声を遠くに聞きながら昼間はトーライトの通りに立ち、夜はダークグレイッシュの通りに立つ。
昼間の稼ぎは祭りで人が中央広場に集中しているからトーライトの通りは静かだったが、夜のダークグレイッシュは賑やかだ。
賑やかな分、缶の中にコインが落ちる音が何層にも重なる。
酒の臭いの中に花の甘い香りが混ざる。
祭りに参加できなくても祭りの気配は感じられる瞬間。
花を貰うことも飾ることもない。それがジャンヌにとって自分も花祭りの中にいると感じられる瞬間だった。
祭りの日の夜は、長かった。
時刻を告げる鐘の音は、八時にはその音を鳴らすのを止める。
だからその後の時間の感覚は、月の高さ広場の中央に立っている時計の針を目で確認して確かめるほかない。
祭りの陽気は深夜まで続き、客足がなかなか途切れなかった。
その間に何度、恥の一瞬を晒したか分からないがその瞬間含めて自分に価値が着いたのは、缶の中のコインの数が教えてくれていた。
時計の針は十二時間近になっている。
それに気づいたジャンヌは、慌てて帰路に着いた。
夜のトーライトの長屋群は、物騒だ。本物の犯罪が起こるときがある。
それに巻き込まれぬように駆け足で小屋に入る。
何事もなく帰宅できたことに心の底から安堵して、ろうそくに火を灯す。
今日の稼ぎを数えた。
「十二、十四、十六、十八、二十……」
そうやって数えているうちにを缶の中が空になった。四十九ペンス。十二ペンスで一シリング。なので四シリングと一ペニー。
いつもの稼ぎは、夜だけで二シリングいけばいい方だ。それを考えれば、今日の稼ぎはその三倍。去年は稼ぐことのできなかっただけの稼ぎが缶の中に集まっていた。
男たちが酔いに任せて自分を女として見た瞬間が多かったということだ。
それを喜ぶことはないが、稼ぎが増えれば生活が少しは楽になる。贅沢はできなくても、たった一日だけ一食だけでも紅茶を一杯つけても不安にならなくてすむというだけで心強い。
「明日が安息日でよかった……」
着るものが恥の体温によって一枚ダメになっていた。日曜日は洗濯日だ。洗濯は週に一回しかしている余裕がないので臭う服を放置しなくて済む事に胸を撫で下ろす。
それから月に一度、被る藁のむしろが直接肌に触れて刺激にならないように被る裂けたシーツを洗うことある。
明日は、天気がいいらしい。シーツだけは日の下に干して乾かそうと思いながら、数えたコインを片付けた。
「ふぁ……あ……」
あくびがこぼれた。もう寝ようと思ったとき、控えめにドアを叩く音がした。
その音にジャンヌは警戒して息を詰めた。
もう夜半を過ぎている。
こんな時間にドアのノックが聞こえるということは、滅多にいやほとんどない。
かつて、反射的に返事をしてしまい男が押し込んできたことがあった。
目当ては金目の物ではなく、ジャンヌ自身だった。その体験をして以降、真夜中のノックの音はジャンヌにとって恐怖の音になった。
息を殺しているとドアの向こうから声がした。
「まだ起きとるか? 俺や、棗」
「棗……?」
低い声で告げられた名前にジャンヌは目を瞬かせた。
着るものが汚れてしまった後だったので裸だったが、そろりとジャンヌは扉を開けた。
確かにそこには棗が佇んでいた。
「どうしたんですか? 今日は来れないって……」
三日前に確か棗は、仕事があって来れないかもしれないと言っていた。
肩には酔っぱらいの姿もない。仕事が終わったということなのだろうか。
「どうしても渡したいもんがあってな。仕事、ちょっと抜けてきた」
棗は、後ろ手に隠していた右手を出した。
その手には一輪のオレンジ色の花がある。
「これは……」
「今日は花祭りやけん、花ば持ってきた。一輪だけやけどな。オレンジの花の意味、知っとるか?」
棗の言葉にジャンヌは、瞬きをした後に首を横に振った。
「“生きる証”って意味や。これは俺からの気持ち……生きててくれて、ありがとな、ジャンヌ」
生きたことを褒められ感謝される。初めての経験だった。
「それは、棗がいてくれたからです。あなたがいてくれなかったら、私は去年のうちに死んでいたと思います」
出会った頃は、食べるものに困っていた。毎日の稼ぎも少なくて朝目覚めるだけで生き延びていた、生き延びてしまったと思う毎日だった。
それを生きているだけでいいにしてくれたのは、棗だった。
ジャンヌの言葉に棗は、小さく笑った。
「そうかもな……だから、ありがとうなんだ。一年、よう頑張ったな。ジャンヌ」
棗は、そっとジャンヌの頭を撫でた。
「じゃあ、戻るな。まだ仕事残っとるけん。明日……いや、今日の夜には来るけん。またな」
「はい、また夜に。お仕事頑張ってください」
ジャンヌは、微笑み小さな約束を交わした。
棗が去っていく背中を見送って静かに扉を閉める。
手には、花が一輪。生き抜いたことを祝福してれる花。
「明日からも頑張って生きなければなりませんね」
ジャンヌは微笑み匂いを嗅ぐようにそっと花に口付けた。
翌日。家主の留守の部屋の小屋の棚に瓶にいけられたオレンジ色の花が静かに色づいていた。……