ジャンヌと出会って一年。
棗は、あるのことに気づいていた。
ジャンヌの部屋にはものが少なすぎることにだ。
たらい、木皿と縁の欠けたコップ、スプーンとフォーク、石鹸、ろうそく、マッチ、何かが入った巾着。
そこに加わったのは、冬に棗が持っていった毛布と春先に月のものに使うための布切れと痛み止めのチンキだけ。
それ以外は、布団代わりしている藁編みと裂けたシーツ、肌を隠す為だけの穴とほつれの目立つチュニックとなにかだったと思われる膝が見えるほど裂けた紫の腰布、それから布をツギハギして作ったらしい姿勢ひとつで胸も尻も顕になるほど頼りない着衣らしきもの。そして冬の凍傷を防ぐために棗が渡した古靴くらいだ。
生きるに最低限、いや足りないくらいのものしかない。
ふと、毎日の稼ぎはどうしているのかと気になった。
一日二食分だけとは言え、食うにはなんとか困らない銀貨一枚を棗は渡している。それ以外は、ジャンヌが自信を資源として稼いでいる。
食事以外の消耗品と家賃でその分が稼ぎが無くなるとはいえ、一日分の稼ぎがまるまる減るということは少ないだろう。
酒も飲まないし、タバコも吸わない。阿片に手を出すなんてことはまずない。
ジャンヌの生活は慎ましすぎるほど慎ましいものものだ。
だから、余計に気になった。
余った金をどうやって保管しているのか。
だから、棗は尋ねることにした。
「稼ぎはどう保管しよっと?」
その日は、大工の仕事も副業も休みのなにもない平日だった。
道具の手入れだけして棗は、昼頃にジャンヌの自分の昼食代と午後の時間をまるまる銀貨二枚で買い取って、小屋に入った。
安く味気ない昼食を食べ終え、つかの間の沈黙の時間を共有した後の質問だった。
「保管ですか?」
棗の問いに間違いがないかを確認するようにジャンヌは呟いた。
「そう、保管たい。一日分の稼ぎばすぐに使ってしまう訳やなかろ? 家賃とか雑費引いても、なんぼか手元に残るやろ。それは、どうしとるかなと思うて」
棗がそう言えば、ジャンヌは棚から古びた巾着を取り出した。
まず中から出てきたのは、彫刻の施されたくすんではいるが銀のフレームの手鏡。その次に出てきたのは薔薇の彫り物がされた象牙の櫛だった。
「こんな高価なもん、どげんしたん?」
まさか巾着の中からそんな高価なものが出てくるとは思わず、棗は目を丸くした。
「昔の……貴族だった頃の持ち物です。身だしなみために必要なのでこれだけは手放せなくて……」
ジャンヌは、どこか寂しげに答えた。
そこでようやくジャンヌの言葉遣いや読み書きの知識、行動の端々に滲む上品さと知的さの理由を棗は、理解した。
ここにたどり着く前は、女性としての嗜みも振る舞い方もきちんと教わり、貴族の娘として恥ずかしくない教養を身につけていたのだろう。
安息日である日曜日は、露店が閉まるのでジャンヌは立つ場所をその日だけは変えている。
ジャンヌが風邪をひいた冬以降、棗はそれまで週に二回だった通いを日曜日含めて三日に増やした。
日曜日のジャンヌは、客が来ない間だけ道端で子どもに読み書きや計算を地面に書いて教えているのを最近になって棗は見かけるようになった。
読み書き計算もできる環境にいた彼女が何かしらの理由でここまで堕ちてきた。
それでもきっとこの鏡と櫛を持つ時は、貴族のように髪をすいて顔色を確認しているのだろう。
そう思うと切ないようなそれでも生きていることが嬉しいような複雑な感情が胸に宿った。
そして、巾着袋を逆さにするとコインが落ちてくる。
銀貨二枚枚と銅貨が十枚以上。花祭りに普段よりずっと稼いだと言っていたのでその分だろう。それらが今のジャンヌの全財産だった。
やはり余っていたと思いながらもその保管方法に棗は眉を寄せた。
巾着に入っているから開けるまで中身が分からないしろ、保管と言うにはあまりにも脆弱だ。簡単に持ち出せてしまう。
ジャンヌの小屋の扉には鍵がついてない。昼間も夜も通りに立っているので小屋を留守にしている時間の方が長い。空き巣に入られたことも強盗に押し入られたこともないらしいが、代わりに一ペニーを投げつけられて寝込みに交渉とは言えない交渉をされたことがあるとは棗はジャンヌから聞いていた。
そんな犯罪が横行する中でのこの保管方法。身も危険だが貴金属の保管としても危ないにも程がある。
「箱とか持っとらんと?」
棗が訊けばジャンヌは、首を横に振った。
「箱なんてそんな高価なもの買えません。それに仮にあったとしても買いに行くだけの服も持っていません」
静かな小鳥のよう囀りの声だが、それゆえに彼女の生活は去年と変わらずギリギリなのだいうことが痛いほど伝わってくる。
それに物を買うより食べるのことの方が大事だろう。また痩せれば客足は遠のく。客を維持するためには痩せないことが必須条件だ。
だがそれでもと棗は考えて、ふとある事が頭に浮かんだ。
「……作れんことは、なかね」
「え……?」
小さく呟かれた言葉にジャンヌは、意味を取り損ねて瞬きした。
それに棗は、なんでもなかよと返すだけだった。
◇◇◇
棗は、縫い物以外の作る、直すということが得意だった。
その腕を買われて大工となったし、何でも屋として壁紙の張替えから家具の修理までこなしている。そして、頼まれれば木工で簡単なものも作る。
職場から木材の切れ端を貰ってきて、必要な金具類は工具箱に修繕用に残っていたものを使う。
木材の大きさはまちまちしているのでそれを切ったり、にかわで繋ぎ合わせたりして一枚の板にする。にかわが乾くと表面をヤスリで削る。ワニスを塗ってまた乾かし、またヤスリで少し削って艶を押えた古びたような質感に仕上げる。
それらをにかわを使って組み立て、金具をつけて油をさす。金具が不自然に金切り声のような音を立てたり、フックが留め具にしっかりとはまるかなどを確認すれば目的のものができ上がる。
「日曜日には間に合ったな」
完成したそれを見て棗は、満足気に呟いた。
安息日の前日の土曜日の夜。ジャンヌは変わらず夜はダークグレイッシュの通りに立つ。
安息日の前日は少しだけ稼ぎが良くなる。一週間分溜め込んだ欲を吐き出す男たちが増えるからだ。
それを体で受け止めて、日銭を稼ぐ。
一シリングを少し超えたあたりで棗がいつもように現れて銀貨を缶の中に落とした。
それは三日に一度と日曜日だけに訪れるもうこれ以上立っていなくていいという合図になっていた。
「今日は俺が作った魚と野菜のスープと果物の代わりに大家さんが作ってくれたりんごのパイたい」
棗は、まだ湯気のたつスープを皿に盛り付けるとジャンヌに渡した。
それを両手で受けとったジャンヌは、一口食べて顔を綻ばす。
段々とジャンヌの表情が柔らかくなっていくのに棗は気づいた。
自分が決まった日に現れたときに少し安心した顔、食事をするときの美味しいの代わりに緩む頬、雑談して面白い話があれば笑ったりすることも増えた。
一年前は、緊張と警戒で強ばっていた表情が多かった。笑みも薄く無気力に近い無表情。目にはいつもくらい影が落ちていた。
今は、目の光も穏やかで明るくなってきている。
きっとそれは、通りに立っているときも出ていることだろう。
暗い顔をした女より上辺だけでも笑顔の方の女を好む男は多い。
棗も暗い顔しているジャンヌより少しでも明るい表情をしている彼女の方が心が温まって好きだった。
「スープ美味しかったです。パイもも甘みがあって二切れ全部食べてしまいそうでした」
パンとりんごは一つ残して食べ終わるとジャンヌは、どこか満足そうに呟いた。
全部食べても良かったのに棗が言えば、そしたら明日の朝食べるものがパンしかなくなってしまいますとジャンヌは言った。
明日は、安息日。露店も閉まる。
スープが飲めない代わりに少しでも腹を満たすための食べ物は残しておかなければならない。
それもそうだなと頷いた棗は、空になった鍋を布で包む。
「今日はな、渡したいものがある」
「渡したいもの?」
棗の言葉にジャンヌは、首を傾げた。
改まってなんだろうかと思っていると使い古された紙袋を差し出される。
それを受けとり、手を入れると固い感触が指に触れた。
取り出してみると、それは留具の付いた木箱だった。
「これは……」
「俺が作った。金庫、とまではいかんばってん、巾着袋にそのまま鏡も櫛も金も入れとるより、箱に入れとった方がよかやろ」
棗は、静かに口を開いた。
「見た目は少し古う見えるようにしとる。木の板繋ぎ合わせたもんやけん、価値があるようには見えんしな」
少し驚いたようすのジャンヌに棗は、淡々と箱の使い道と盗まらないための工夫を話した。
それを聞いたジャンヌは、木箱の蓋を開ける。まだ中身は何も入っていない。
そこに棚から取り出た巾着に入れている鏡と櫛、余ったスペースに蓄えている分と今日の稼ぎを入れて蓋を閉める。
フックを金具にはめ込むとかちりと硬い音が静かに鳴った。
古い木箱に見えるそれは、その瞬間から大事なものをしまっておける金庫の代わりになった。
「お代はどうすれば? こんな大事なものただお話する時間だけでは受け取れません」
ジャンヌは、真剣な眼差しで言った。
ジャンヌは、なにかと対価を気にする。それを棗は、悪いことだとは思わないし言わないが、棗が望むのはジャンヌが生き続けること。
でもそれではいつも通りだと言ってもっとほかにないのかと訊かれそうな気がして、棗は一つだけ答えを用意していた。
「じゃあ、一晩の宿として、ここで寝かせてくれんね。手は出さん。……一人寝が寂しか夜も、ある」
もちろんその答えは、ジャンヌがそれはとしぶれば冗談として扱い帰るつもりでいる軽口のようなものだった。
だが、ジャンヌは少し考えた後に口を開いた。
「分かりました。今夜一晩、寝る場所を共有しましょう」
棗の聞き違いでもなんでもなくジャンヌはそう言った。
◇◇◇
ろうそくの明かり一つの中で着ているものを脱ぐ。
ジャンヌは着るものが少ない。その少ないものを寝汗で汚さないためにいつも裸で寝ていた。
「じゃあ、俺も同じならんといかんね」
それを見た棗も服を脱ぐ。ジャンヌがシーツと藁編みの中で吹き込んでくるすきま風に裸で耐えているのに自分だけ服を着てぬくぬとするのは違うと思ったのだ。
シャツもズボンも靴下も下着も全部脱いで、ジャンヌの隣に潜込む。
棗が藁とシーツの間に体を滑り込ませたのを確認してからジャンヌは、ろうそくの火を消した。
向き合わない。背中向けてお互い横になる。
「寒くありませんか?」
ジャンヌの声が静かに暗闇に落ちた。
「それはお前の方やろ」
棗は自分の方に少し多く寄せられている藁編みをそっとジャンヌの方に寄せる。
背中越しに体温と落ち着いた鼓動が聞こえてくる。
外からは川の音と夜風の音がして、ときおり扉を膨らませるように音を立てた。
「木箱、あまんまり目立つところに置くなよ」
沈黙の中で棗は、呟いた。
「分かりました」
それにジャンヌは短く返事をする。
それからまた沈黙が降ってくる。
棗は動かない。本当に指一本、触れてこようとしない。
小屋に男を招くときは、いつだって交渉が交わった。でも、棗はそれを求め来たことはない。
きっとこの対価の支払い方も棗としては冗談のつもりだったのかもしれない。
それでも棗は、ジャンヌが引け目を感じないようにしてくれた。守るべき尊厳はいつだって守ってくれる。
それを考えると胸の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます」
ジャンヌは、小さく礼を言った。
「箱、か?」
棗は、まだ起きていた。
「それだけでは、ないです」
言葉は、ときに多くすればするほどチンケなものになる。だから、多くは言わない。
言わない代わりにジャンヌは少しだけ棗に背を寄せて目を閉じる。
夜は静かに更けていった。