棗は、生活に困らないを規準に物を揃える。
洗濯は週に一回なのでシャツと靴下は十日分、ズボンは予備含めて七本、ベストは二着。下着は故郷と軍役時代から変わらず褌を十枚。靴は仕事用の出かけるようで二足そんな具合にだ。だからジャケットは一着しか持っていない。
その一着を、見ず知らずの少女なのか女性なのか分からない年齢の女に貸した。貸した理由はただ、裸で震えていて寒そうだったから。たったそれだけの理由だ。
貸した後で返してもらう算段をつけていなかったことに気づくが、顔も初めて見る人間に貸したのだ。
それは、ほぼくれたやったと同義になる。
それに絶対返してもらわないほど大事にしていたわけでもない。
ただ、春の夜風に吹かれるのにはややシャツとベストだけでは少し心もとないからジャケットを返してもらうかと新しく買おうかと考えていた。
返してもらうのは難しいだろう。どこの誰ともしれない相手だ。
ただ、もし探すとしたらそれは彼女の特徴にある。白磁のような透明感のある白い肌と精巧なビスクドールを思わせる顔立ち。あんな白と顔立ちの持ち主は、そういないだろう。いたとしても、貴族あるいは高級娼館の娼婦と考えて、そんな人間がトーライトの長屋群にいるはずがない。しかも裸でと首を振る。
トーライトの長屋で夜に見かけたからと言ってまたあそこに行けば会えるかと言えば分からない。なにせ情報が少ない。
棗は、本業の大工の仕事の帰り道、西の方を振り向く。
アードウィックは、北南に緩やかに下り、東から西へは勾配が続く地形になっている。坂の向こうに赤い夕日が沈んでいく。西の方は夜の気配が濃い。
夜のことは夜に聞いた方が早い。
棗は早めに風呂に入ろうと心のなかでひっそりと決めて緩やかな坂を昇った。
仕事着から少し洒落た服に風呂上がりに着替えた棗は、レヴェリー・ラインにある行きつけの店に向かった。
「人形みたいな顔立ちで白い肌の女ぁ?」
カウンターで酒を飲みながら女将に尋ねると彼女は、訝しげな顔をした。
唐突に肌が白くて顔が人形みたいな女を知らないかと話を振ったのが悪かったと言うのは分かるが、そんな男の欲望をかき乱すような女が本当にいるのかと思っているのかと言いたげな顔をされて、棗は肩を落としかけた。
「棗あんた、夢でも見たんじゃないかい?」
「夢を見るにはトーライトの長屋は、物騒すぎるたい」
確かにそんな女を見たと言ったら夢だろ言われても不思議ではない。特にこの通りで見たのなら、それはきっと本当に酒と音楽と女の色香に当てられた幻想だろうが、女を見たのは爪に火を灯すほど貧しく暗いトーライトだ。
幻想や夢にするなら
女将と話しているとなんの話しをしているのかと女給たちが集まってきた。
棗が人探してる、白磁みたいに白い肌にビスクドールみたいな顔の女をという話は、女将の口からまた別の女給へさらに客へと広がっていく。まるで水面に落とした水滴の波紋のように。
「トーライトでしょ? 少なくともここらへんで商売してる子ではないんじゃない。そもそも裸ってあたり、着るものにも困るくらいの路上娼婦とか……レヴェリーじゃまずいないよ」
話を聞いた賢い女給の一人が謎解きでもするように言葉にした。
レヴェリー・ラインは、酒場や娼館が混在する労働者たちの歓楽街だ。無法地帯のように見えてきちんと秩序がある。
まず、女は通りでるときは服を着ること。靴を履くこと。交渉は必ず店を通して個人で行わいこと。そして、けして外で痴態を見せないこと。
これらは、女給娼婦で構成された酒場でも守られている娼館の決まりだ。だからまず、女が裸であった時点からレヴェリー・ラインの娼婦ではないことがわかる。
路上娼婦が立てるような通りは北西、北東、南東にはない。そこから細かく区分した通りにでもだ。町の東側はアンダーウェーブ・ラインのような特殊な環境と仕事が合わさっているから下着の露出が黙認されている所はあっても、そもそも娼婦が立っていいとされている通りがないのだ。西北西のホーリーグレイル・ラインは貴族や市民貴族、豪商のためのような通りだ。北北西のハイローズ・ラインはそもそも通りでお零れを狙うような輩がいない。むしろ狙っていては命が危なくなる。
そうなってくると方角としては、南西の方角になる。もっと的を絞れば西南西のアッシュ・ラインになる。あそこは、煙と灰の工場地帯で日雇い労働者と下層街にあたり生活と労働と性の混沌地帯である。
トーライトからも離れていないから個人で商売をしているならそのあたりが濃厚だろう。
「だいたい、いそうな場所わかったかい?」
考え込む棗に女将が話しかける。
「まぁあらかたな。けどまぁ、会えるなら昼間に会いたいか。相手してほしいわけやなかけん」
そう零して棗は、ウィスキーを飲んだ。
「
ケラケラ笑いながら話しかけてきたのは、顔なじみの初老の客だ。
それ、私たちにも棗にも失礼なんですけどと女給の一人がわざとらしく眉を釣り上げ頬を膨らまる。それを認めた男は、冗談だと笑った。
「なまっ白い肌に人形みたいな女なら、トーライトの通りで昼間見かけたって話があったぞ」
「それ、詳しく聞かせてくれ!」
一口酒を煽った男の口から出た言葉に棗は食いついた。
「血が通ってるのかと思うくらい白い肌に煤けた金髪。痩せてるが胸はあるらしい。口調が上品で元は育ちが良かったんじゃないかって、その女を買った知り合いが言ってたな。顔も綺麗なんだとよ。色っぽいってよりは家猫が迷って野良になった雰囲気らしいぜ」
「なんだいその絶妙にわかるようでわからない例えの例えは……」
男の話に女将は、眉をひそめた。
だが、棗には有益な情報だ。胸のことまでよく見ていないが肌の色などは棗が見た女とよく似ている。それに雰囲気だが、警戒心と怯えは強いが人に頼らないと生きていけないと言い換えれば何となく想像がつく。
あの夜見た女も警戒心と怯えを強く抱えていた。だが、どこか心もとないというのか吹けば消えそうなろうそくの火のような淡さがあった。
「女は、昼間にもいるんだな?」
棗が問うと顔なじみの男は、らしいぞと言った。
「そういや、こうも言ってたな。“食べ物を買ってください。それか私を買ってください”って変わった言い回しで声かけられたって。値段は確か……あー……そう、飯代だ。大体の、そうだ、三ペンス。俺らにとっちゃ、朝飯にも若干少ねぇ飯しか買えない値段を提示されたから買ったって話だ」
「三ペンス……」
初老の男は、思い出したらしいことを口にした。
棗は、その値段で買えるものを思い浮かべた。まずはマッチが一箱が買える。そして食事ならパン一個、季節によるがりんごなら二つか三つ、味の薄いスープが皿一杯。多いようで絶妙に足りない。そんな量なのは確かだった。
「ありがとう。これは謝礼だ」
棗はズボンのポケットに忍ばせていた手を出すと指で弾いて一枚の銀のコインを男に情報提供代として支払うと酒代を置いて店を後にした。
◇◇◇
棗は、男の話を頼りに翌日、早速トーライトに向かった。ちょうど、安息日を除いた現場が休みの日だったのだ。
男の話では、食べ物を買ってください。それか私を買ってくださいが彼女の声かけの言葉らしい。
ただ、くださいなのではなく、買ってくださいと明らかにその場かどこか近くに店がある言い方だ。棗は、アードウィックの地図を広げ、さらに各所を詳しくマッピングした地図を元に通りを歩いた。
トーライトは、北南に長いレーンで少し入り組んでいる。だが、要所要所に窯と大鍋を置き他にちょっとした雑貨が売るだけのの露店が点在していた。多分そこの近くにいるはずと踏んで通りや路地を進んでいると二つ露店を見送った三軒目の露店の近くの通りに女が静かに立っていた。
煤けた緩いくせがかった金髪。襟ぐりが扇情的に開いた穴があきの色あせほつれたぼろのチュニック。元はなにかの布だったのか色あせて裂けた紫色を腰に巻いていた。膝は見えてあり、足先は裸足だった。そして肌が白磁のように白い。日の加減では消えてしまいそうだ。
裸ではないことに安堵しながら棗は近づいた。
人の気配に気づいたのか彼女は、顔を上げた。
「食べ物を買っていただけませか? それか三ペンスで私を買ってください」
小鳥の
口の端に笑顔を乗せている程度だが、それが妙に気になる。他者を警戒しながらもそこには誰かに施しなしで生きてはいけない生存の縁に立っている儚げな空気をまとっている。
「上着、貸した男やけど覚えてるか?」
棗が問いかけると女は、ぱちくりと瞬きひとつ頷いた。
「飯とコインならどっちが欲しい?」
また棗が尋ねると女は一瞬、息を飲み沈黙した。黙ったといか答えあぐねているようだった。
どっちも欲しいということなのだと理解した棗は、銅貨を三枚彼女の足元にある蓋の空いたブリキ缶に落とした。
「ありがとうございます。場所はどうなさいますか?」
言い慣れた言葉を言っているような口ぶりだった。
「できれば、あんたの家で。ついでに食べ物買ってやる。パンと苺とスープでええか?」
その言葉にぴくりと女の空気が張り詰める。どちらか一つで買われたはずが、どちらともで買われたのだ。何をされるのかと探っているような目をした。
棗は、その目にただ飯を買うだけと言って、パンとスープ、それから苺を小さな器で四粒買った。
露店商からそれらを受け取り、案内してくれと言えば、女はこちらですと硬い声音で呟いて歩き出した。
地面は石畳から土に変わり川の方に戸口を向けた家々が並ぶ通りに出る。
ある小屋の前で女が立ち止まる。窓はない。代わりに壁を隣の家と共有しない作りの小屋だった。中に入れば薄暗い。湿った古い木臭いがする。床には藁で編まれた敷物がある。ベッドなどはない。その上が彼女の座る場所で寝るところなのだろうと察した。
女が座ったので棗は、その向かいに座る。
「まぁまず、食え。話はそれから」
女の前に露店で買ったものを置く。女は、緊張した面持ちでパンを手に取った。一口サイズにちぎって口に運ぶ。やがてその手が早くなる。早くはなるが品のある食べ方だ。最後苺を二粒を一つ食べ終えるとパンの半分と残った苺を壁にそのまま作られた棚に置く。
「腹減っとたと?」
棗が尋ねる。
「……二日前に食べたきりでした」
女は、淡々とした声で質問に答えた。
毎日の食事にすらことかくほどなのかと棗が唖然としているとおもむろに女が立ち上がった。
どうしたのかと思って見あげると彼女はチュニックの裾に手をかけるとまくりあげるように脱ごうとした。
下着の白でなく肌の白さが棗の目に飛びこんでくる。
「なんばしよっと!?」
柔らかな丘の陰が見えた瞬間、棗は慌てて彼女の手を掴んだ。
「私をお求めなのでしょう?」
女は、不思議そうな顔をする。
「違う。ただ、上着を返しにもらいに来ただけや。あの金はただの時間代」
棗の言葉に女は、瞬きをして棗の顔をじっと見る。嘘がないかを確かめているような目だった。
やがて棗の目の色から嘘ではないと思ったのか裾を直すと壁と壁の間に吊るしたロープにかけて合った黒い上着を手にして棗に渡した。
受け取ったそれからは、ほのかに石鹸の匂いがした。
「洗ってくれたと?」
「お酒の匂いが濃かったので」
棗の問いに短くその理由を答えた。あの夜は何人もの酔っぱらいを担いでいたから臭いが移ったのだろう。部屋にその臭いが籠るのが嫌だったのかただの親切心か分からないが、清潔になったジャケットをシャツの上に羽織る。
用はこれだけ。長居すればきっと彼女はまた服を脱ごうとするだろうことを考えて、じゃあこれで小屋を出ようとしてあることを思い出す。
「名前、言ってなかったな。俺は、棗。
名前を知らないとまた会ったときの呼び名に困る。
「……ジャンヌです。ジャンヌ・イレーヌ・ドゥ・コルベイユ」
女は、一瞬の沈黙の後、名を告げた。異国の響きのある名前だった。
「ジャンヌな……またいつか、な」
彼女の名前を繰り返した棗は、それでようやく小屋を出た。
またいつか。約束ではない。でもそれは、また彼女に会う気でいる自分がいることの確かな証明だった。