※この作品はR-18です。

四季を歩む   作:さとむら春音

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銀貨一枚の時間

 

 またいつか、と約束ではない言葉を口にした。

 いつかはいつかだ。決まった日はない。

 けれども、彼女の——ジャンヌの値段や二日食べていないという言葉を思い出す。

 

 三ペンス。それで買えるは、労働者の軽い朝ごはんだ。パン一個、りんごが二から三個、薄いスープが皿一杯。

 それすらろくに食べられない日がある。それでも彼女は、スープは全て食べてもパンを半分、苺は二粒残した。それは、また食べられなくなった時のため備えかあるいは夕飯になるのだろうと思うとたった三ペンスで一日を生きているということの悲惨さを物語っていた。

 

 毎日は無理だ。仕事がある。

 金は、軍にいた頃給金と退役したときの報酬のほとんどを溜め込んでいたからそれには困っていない。でもそれに手をつけず棗は、肉体労働者としてあるいはなんでも屋として地に足のついた生活を選んだ。

 だから毎日、施しをすることはできない。それに会えるとも限らない。

 

 夜は、ジャンヌはどうしているのか知らないがおそらく本格的な仕事の時間だろう。

 トーライトの夜は、物騒だ。住人も夜には出歩かない。

 だからきっとジャンヌは、別の場所で稼いでいるのだろう。それはおそらく、アッシュ・ライン。工場地帯。日雇い労働者や工場で働く者たちの下層の街。労働と生活と性が交わる場所。

 そこに行くのはかまわない。だが、行って彼女の時間をたった三ペンスで買うの違う。

 三ペンスは、食べるものの値段であり、彼女の体の値段であって時間の値段ではない。食事する時間と少し話す時間を三ペンスで買うのは気が引けた。もしその時間があるなら、少しでも多くを稼ぎたいだろう。

 棗はベッドに寝転んで天井の節を眺めながら考える。

 

 毎日は会えない。けれど毎日、せめて二食は食べるもの困らない値段でなければ彼女のほんの三十分、一時間と会話をする時間を買うのに適した金額。

 一日六ペンス。二日で一シリング。いや、食事はたった一日の一食分、こっちが用意すればいい。そうすれば食費一食分が彼女の手元にまるまる残る。二日か三日に一度会えば彼女はなんとか三食食べられなくても朝と夜は確保できる。

 

 明日でジャケットを返してもらってから三日経つ。

 棗は、起き上がると財布を持って階下に降り、台所にる大家さんに声をかけた。

 

 棗の昼間の仕事を日が沈む頃に終えると、その仕事中に入った副業の何でも屋としての三件の荷運びと手紙の配達をする。

 アードウィックには、町の中でやり取りする手紙や荷物を配達してくれる郵便屋も運送屋もある。ただそこは、ある程度量が集まってから配送して回るので町の中ですむのに配達先に届くまで二日三日かかることがある。

 今日明日中になるだけ届けて欲しいものが棗の元に持ってこられるのだ。

 それらを配達してから下宿に帰る頃には日は沈んで雲の隙間に月が出ていた。

 

 昼間の埃をお湯で流してから、大家さんと食卓を囲む。

 食べ終わり棗が食器を洗い終えた頃に頼まれてたもの用意できてるよという言葉とともに大家さんが布包みを渡してくれた。

 それに礼を言って、棗は再び下宿を出た。

 

 アッシュ・ラインかトーライトの長屋に行くかを少し悩んで、トーライトにした。

 アッシュ・ラインでも良かったが、路上に立っているならそのすぐ近くに別の女が立って客を取っているだう。

 痴態が繰り広げられてるその横で呑気に食事させる気にはならない。

 

 棗は、ジャンヌの家の場所はうすらぼんやりと覚えていた。

 露店からそんなに離れていないことと、薄壁一枚隔てて屋根を連ねた長屋ではなく独立した窓無しの小屋であること。

 それを頼りに月明かりと脇道の印としてある街灯、そして手にしたオイルランプを歩く。店じまいした露店を二軒見送って三軒目の露店がある小さな広場を横目に確認してから、昨日の雨が乾き切ってない湿った土の道を進む。

 

 少し歩けば目的の小屋を見つけた。窓はない。そして目印になるようなものも置いていない。

 念の為にとノックしたが返事はない。人の気配もしなかった。

 留守にしていると分かり、棗は待つことにした。布包みを置いて帰っても良かったが盗まれる可能性もある。それに誰が置いてったのか分からないものを食べるのは怖いだろうと思ったのだ。

 夜はどんどん深まっていく。

 

「誰……?」

 

 小屋の壁に背中を預けて立ったままいると声がした。不審がるような声音。

 棗はランプを少しかざした。

 様々な色と柄の色褪せた布切れをツギハギしたものが見える。白い足はほとんど見えていた。股がなんとか隠れているくらいの頼りない丈。

 片袖が肩からずりおちているどころか、片乳が出るほどの着崩れをしている。

 しかし右手にはしっかりとブリキ缶を抱えていた。

 

「あなた……棗さん」

 

 ランプの明かり向こうに見えた顔を見てジャンヌは、呟いた。

 

「よぉ。腹減っとるか。飯ば持ってきたばい」

 

 棗の右手に提げられた布包みを見たジャンヌは、少し表情を曇らせる。

 

「お腹は……」

 

 ジャンヌが呟いた瞬間、川の流れの音でも誤魔化せなかった腹の虫の音が鳴り響いた。

それを聞いた棗は減っとるなと言い、鳴らしたジャンヌは恥ずかしそうに少し俯いた。

 小屋に入り、藁敷の上に座り向かい合う。

 

「うちの大家さんが作ってくれた。もう冷めとるけど、食べんよりはよか」

 

 布包を広げるとパンが一つと小鍋がひとつと苺が入った小さな器が出てくる。

 小鍋の中にはスープが一人分。だが、ジャンヌはそれらに手をつけようとしない。

 でも腹の音はしている。どうしたのかと棗は、それをじっと見てから彼女が食べ物を警戒しているのだと気づいた。

 棗はスープを一口、お玉から直接口に含んだ。夕飯に食べた肉の旨味と野菜の味が染み出した味が口の中に広がる。パンは二つに割ってから中にジャムなどが詰まっていないことを確認して、一口ちぎって食べた。

 

「見てのとおり、普通の食べ物。毒とか入っとらん。だから、安心してよか」

 

 ジャンヌにちゃんと会った日のこと言葉を棗は思い出す。

 

 ———食べ物を買っていただけませんか? それか三ペンスで私を買ってください。

 

 目の前で食べ物買って欲しい。あるいは自分で買うからその代わりに自分を買って欲しいということ。つまりは、食べものの施しは露店で売られているものしか受け付けないということだ。

 過去になにか食べ物に関してあったのだろうと思うと棗は、顔を顰(しか)めた。

 生きるには食べねばならない。その最低限のことすら危機感をいだかずにはいられないことをされた。だから自分の目の前で用意されたものしか口にしない。毒で苦しむよりも飢える方がまだマシと思える環境。一体何をされたのかと考えるだけでおぞましかった。

 

 ジャンヌは、棚から木皿とスプーンを取り出すとお玉からスープを掬い皿に移してから恐る恐る食べ始めた。

 自分の口でも確かめて本当に普通の何も混ぜ物はされていない気づくと静かにスープを掬うスプーンが心做し早くなり、パンは棗がちぎった分から一口ずつちぎって食べた。

 けっしてがっつかない。けれど、空腹をなるだけ早く鎮めたいという動きだった。そして、その仕草にもどこか上品さが滲む。

 そして三日前と同じでスープは平らげるが、パンは半分、苺は半分残して棚によける。

 

「お肉なんて何年も食べてませんでした……」

 

 ジャンヌは、美味しかったの代わりに久しぶりに食べた肉の味を呟いた。

 棗は、そうかと短く返した。

 

「夜は、どこに立っとると?」

 

 棗は、彼女の夜の所在を尋ねた。

 

「ダークグレイッシュ・レーンです」

「ダークグレイッシュ……」

 

 それはサン・ストリートの南西裏からアッシュ・ラインに差し掛かるようにしてある日雇い労働者や工場労働者向けの共同下宿が並ぶところだ。

 聞いた話ではあるが、元々はレヴェリー・ラインとヴィータ・ラインの傍にあったらしいが、双方から嫌われて今の場所に移設した比較的新しいレーンだと言う。

 アッシュよりも黒いからダークグレイッシュと名付けられたという。その名のとおりで昼と夜とで雰囲気が変わる。昼は人が出払って静かだが、夜は男たちの喧騒と女の声が夜空の下で一緒くたにまじ回るレーンで、合法非合法問わない。いや、非合法のところが多いかもしれない。

 

「危なかろ」

「夜のトーライトの川べりに比べたらいいです。……路地にいきなり引き込まれないだけ」

 

 棗の言葉にジャンヌは、淡々とした声音で返した。

 もう既に彼女は、何度も危険な目にあっているようだ。感覚が麻痺している。

 

 そんな価値観持つなとは言えない。誰もが皆、下を見てはあそこよりはあの人よりはマシだと思って生きている。

 棗もまた日雇いでその日暮らしをしないだけマシだと思っていた。だから、言えない。

 

「手ぇ、出せ」

 

 棗が言えば、ジャンヌを両手を水を汲むときのようにながら手を出した。

 その掌に棗は、銀貨を一枚乗せる。

 

「これは?」

 

 ジャンヌは、首を傾げた。

 

「飯代と時間代や。二日か三日に一度だけ、飯と銀貨を渡す。生きるためには、まず飯を食わにゃどうしようもなか。まぁ飯以外に使ってもよかばってん、とにかく飢えて死ぬような目に遭うな。知り合った人間が、餓死した……なんて、俺は聞きたない」

 

 それは、棗が昨日決めた彼女の時間を僅かばかり買いながらも最低限食べていけるだけの値段。癖づいているなら、朝にパンとスープと果物を買ってパンと果物は半分残して夜にはスープのみ買っているはず。昼食を食べるには足りないが、朝と晩で四ペンス。それでも二日半から三日は持ちこたえられるはずだ。

 

「二日か三日……」

 

 繰り返したジャンヌにあぁと棗は頷いた。

 

「今度は、ダークグレイッシュに迎えに行く。飯はここで食う。それでよか?」

「……はい」

 

 少しの沈黙の後にジャンヌは、頷いた。

 

「じゃあ、また二日か三日後に。今度は、ダークグレイッシュで」

 

 棗は、そう言って鍋を布に包むと立ち上がり帰った。

 一人になったジャンヌは、掌の銀貨を見つめた。

 一シリングは銅貨十二枚分。自分の値段は三ペンス。交渉四回分。

 きっと、二日か三日後には自分の体は彼だけに四回分すり減らされるのだろう。

 そう思うと怖い。怖いが受けて取ってしまった。頷いてしまった。そうしないと生きてはいけないから。

 ジャンヌは唇を噛んでその銀貨を強く握りしめた。

 

◇◇◇

 

 ダーク・グレイッシュは、煤けた臭いと男の臭い、酒の臭い、食べ物の臭い、とにかく労働と生活の臭いが混ざっていた。そこにほんの僅かに女の香水の匂いが混ざる。

 

 約束のとおりに棗は、パンとスープの入った小鍋と果物を包んだ布包みを持ってここに来た。

来る途中から小雨が降り始めた。この国は、雨が多い。

 小雨なんてこの季節いつものことだ。傘を差すほどのことでもない。

 

 棗は、ジャンヌの姿を探した。あちらこちらで女の呼び込みの声と甘い声している。

 その中に彼女は、いた。

 交渉の真っ最中だった。壁に手を付き、白い肌が男の体の陰に少し隠れている。

 着るものを脱がされたのか脱いだのか知らないが足元に布らしきものが落ちている。

 瞬間、彼女の足元に液体が散った。

 それを見たのは何も棗だけではない。通りを歩いていた男たちもそれを見て何人かがそれを決め手に交渉中の男の後ろに並んだ。

 生きている以上仕方のない行為までもが彼女の価値に繋がるのかと思うと苦々しいものが胸にやどる。

 それでも彼女は、嫌だも止めても言わないな代わりに小鳥の囀(さえず)りのような声音に甘さを滲ませていた。

 

 男の陰が途切れるとやっとジャンヌは、やっと一息吐くことができた。缶の中が重くなるのはいいが、あの瞬間と交渉をいっしょくたにされるのはやはり何度経験しても慣れない。

 裸のまましゃがんで足元に落ちた布をツギハギして作ったチュニックのようなものを拾った。そして捻って含んだ雨と体温だった水分を絞る。これはもう今日は着れないから裸でこの後は過ごすことになるなとため息を吐いた。

 

「今、いいか?」

 

 背後からした声にジャンヌは、振り返る。

背が高く、黒髪と黒い瞳、浅く焼けた肌の男が立っている。棗だった。

 

「こんばんは」

 

 ジャンヌは、立ち上がり振り返ると夜の挨拶した。

 

「こんばんは」

 

 棗も同じように挨拶を返す。

 

「飯持ってきた。あと、これ羽織っとけ。もうそれは着れんやろ」

 

 棗は、ジャンヌの細い肩にジャケットをかけた。

着れないとわかっているということは、彼もあの瞬間を見たのかとジャンヌは、唇を噛んで少し俯いた。

 

「…………ありがとうございます。行きましょう」

 

 見られたことが恥ずかしい。でも、してもらったことには礼を言わないいけない。

 そして食事を持ってきてくれたことにもだ。

 ジャンヌは、銅貨が入った缶を拾い上げて両手で抱くと歩き出した。

 

 坂を上って小屋に帰れば、鍵こそないが密室になる。

緊張する。

 ジャンヌは、棗に気づかれないように息を吐いて座る。

 ジャケットを脱ごうとした。

 

「それ、まだ着とけ。汗かいとるやろ。それに雨にも濡れとるけん寒かろ」

 

 棗は、ジャンヌに脱がくていいと告げた。

ジャンヌは上着からそっと手を離す。

 棗は、布包みを広げる。パンとスープの入った小鍋といちごの入った小皿。

 今日のスープの具材は、豆だった。

 

「混ぜものの心配しとるなら俺が毒味しようか?」

 

食べ物を見ると彼女の顔がこわばる。

 ジャンヌは、なんの反応もしない。けれど、じっと棗が持ってきたものを見ている。

 まだ二回目だ。信用するには足らないのだろう。棗は、三日前と同じようにスープとパンを一口ずつ食べて嘔吐したり苦しんだりしないのを見せた。

 するとジャンヌは、やっと棚から皿とスプーンをだして食べ始めた。

 ただ前回よりは食べ方が落ち着いている。急がない。

 それはきっと少なからずとも朝か昼に食べたということなのだろうと棗は、察した。

 銀貨を渡した甲斐があったことに安堵する。

 苺を半分だけ食べてからジャンヌは食事をやめた。変わらずスープは全て食べてもパンと果物は半分残して棚によけた。

 

「これ、この間のお皿です」

 

 パンと苺の代わりにジャンヌは、小皿が一枚差し出さした。

 三日前に苺が入っていた器だ。

 棗は、それを受け取ると鍋と一緒に布に包む。

 その動作をジャンヌは、静かにじっと見ていた。

 片付けをしている手は、次は自分に伸ばされるだろう。どんな辱めを受けるのだろうか。痛いことと苦しいことがなければいいが、でも銀貨一枚だ。少しは我慢しないといけない。

 ジャンヌは、そう考えながら棗の動きを見ていた。

 体が緊張して手に汗が滲む。肩にかかるジャケッを握る手に力がこもる。

 

「そんなに警戒せんでもなんもせん……いや、何もしないほうが逆に怖いか。まぁ、ちょっと話しようや」

 

 俯いているジャンヌに棗は、なるだけ優しく声をかけた。

 弾かれるようにしてジャンヌが顔を上げる。

 その顔には、どうしてという疑問がありありと浮かんでいた。

 

「言ったやろ、時間を買うって。……まぁ俺も明日も仕事やけん、長うはいられんがな」

 

 棗は、小さく笑う。ジャンヌは、ぽかんとしていた。

 

「とりあえず聞かせてくれ。ジャンヌは、どこの出身なんや? 名前の響き的に、俺と同じで異国やろ」

 

 簡単な雑談。それが棗の求めた一食分の食事と銀貨に対価だった。

 

「…………フランス、です」

 

 ジャンヌは、緊張で声が震えないようにしながら答えた。

 対価が安すぎてなにかの罠なのではないかとさえ思えた。

 例えば、違法入国した者を炙り出すための作戦のひとつとか、そんなことがジャンヌの頭の中を過ぎる。

 

「なるほど。だから“聖女”の名前か。ちなみに俺は、遠い東の国……日本の出や。まぁ今は、誰も住んどらん離島になっとるやろけどな」

 

 棗は、穏やかに言いながら軍が解体したときに帰ることをしなかった故郷を思い出す。

 かつては人が生活していた国は、人知れずあった異形の生産工場に成り果てて今はもう誰も暮らしていないだろう。

 

「そうですか……」

 

 お互い帰るとろがないんですねとは、ジャンヌは言わなかった。

 言えば、自分がどうしてこんな生活をしているのかを説明しなくてはいけなくなる気がして言えなかった。

 そこから会話は、広がらない。

 ジャンヌには、話せるだけの話題がなかった。新聞も読んでいない。昼も夜も通り立って男に体を預けるのが仕事であり生活なった彼女には、話すだけの話題を持てるほどの会話をする相手などいなかったからだ。

 しばしの沈黙の後、棗はそろそろ帰ると言った。

 

「また通りに立つなら送っていくが、どうする?」

 

 棗の問いにジャンヌは首を横に振った。

 

「今日はもう立ちません」

 

 静かな声で言い、肩にかけられていたジャケットを脱いだ。

 

「これ、ありがとうございました」

「ん」

 

 差し出されたジャケットに袖を通して棗は、銀貨を一枚、ジャンヌに渡した。

 

「じゃあ、また三日後。食い忘れたりするなよ」

 

 それだけ言い残して包みを持って小屋を後にした。

 

 そして三日後にまた棗は、布包みを持って通りに現れた。

 今日の分と言って銀貨をジャンヌの足元の缶の中に落とす。

 そしてジャンヌの住処の小屋に行き、ジャンヌが食事が終えるのを見届けると少しの雑談をして帰っていく。

 

 いったい彼は、なにがしたいんだろうかとジャンヌの中に疑問が渦巻く。

 食事を与えて三日食い繋げるだけの銀貨を差し出して、得ていくのは短い会話と沈黙だけ。

 隣に座ってくることはない。拳二つ分と鍋一つ分の距離にいつもいてそこから動かない。触ろうと思えば触れる距離にもかかわらず腕を伸ばしてこない。

 会話も他愛ない話ばかりだ。今日の天気だったり、昼の仕事のことだったり、街で見かけた野良猫のことだったりと取り留めのないことを話して、それにジャンヌが相槌打つだけでも沈黙したりしてもある程度、時間が経てば帰っていく。

 

 なにかを探ってくるようなことをしない。

 ただそれが罠なのかもしれない。実は食事には一口では問題ないが一定量摂取を続ければ命を落とす毒を仕込んでいるとか、他愛のない会話に痺れをきらしたジャンヌの方から手を出してくれと言って売り買いの決定的な言葉を引き出すためだの種を撒いている可能性もある。

 でも、だったら三日に一度ではなく毎晩来ればいい。

 人には排泄という行為がある。仮に毒をしこんでいても三日に一度では、摂取させても次までのその間に体の外に出てしまう。

 会話にしたってそうだ。誘き出すためなら食事で事足りる。それに金まで置いていったら彼の方がジャンヌを買ったという証拠ほうが残ってしまう。

 だから余計に目的が分からなくて困惑する。

 

 本当に棗は、ジャンヌを知り合った人間として餓死させないことだけが目的なんだろうか。

 でもそんなことをしてなにか彼に理はあるのだろうか。

 分からない。分からないことは、怖い。

 だからとうとうジャンヌは、尋ねた。

 

「どうして、こんなことをするんですか?」

 

 それは、棗がジャンヌの許に来るようになってもう直に一ヶ月は経とうという頃だった。

 三日に一度でも、一ヶ月もすれば長い。

 その間、ジャンヌはずっと怯え続けた。施される食べ物にいつ毒が混じるのか、いつ彼の手が自分の肌に食い込むのか、あるいは自分の手に手錠のという鉄の重みがかかるのかと気が気でなかった。

 

 じきに雨季が来る。雨の日が増えてきた。

 濡れた肌を拭くためのタオルまで持ってくれた棗の行動の意味が分からなくて耐えきれなくなった。

 

「哀れみなら哀れみだと言ってください。なにか知りたいなら遠回しなことをせず聞いてください。逮捕したいなら泳がせずに逮捕してくださいっ」

 

 ようやく胸の内を吐き出すと息が上がる。

 苦しい。怖い。でもその手の中で自分はこの一ヶ月、生きながらえてきた。いや、生かされていたのかもしれない。

 とにかくも真綿で首を絞められているようなそんな日々から抜け出したかった。

 

「理由、ね……」

 

 棗の声がぽつりと屋根を叩く雨粒の音が響く小屋の中に落ちた。

 

「ただ、生きてほしか。それだけのことや」

 

 棗は、藁敷に力なく座るジャンヌの前にしゃがむ。

ジャンヌの肩は、寒さなのか憤りなのか分からないが震えていた。

 

「生きてほしい……?」

 

 ジャンヌは、棗の顔を見る。

 戸惑いが青い目に浮かんでいた。

 まるで初めて言われた言葉を耳にしたような顔だ。

 

「ジャケット返してもらいに来たって最初に言うたろ。あれな、半分は嘘や。春祭りの夜に見た白い肌と人形みたか顔が忘れられんでな。探したんや」

 

 棗は、花祭りの夜に見たあの白い肌を思い出す。

 

「探して見つけた人間が食うにも困っとったら、見過ごせんやろ。名前まで聞いたのに食べるに困って死んだとか、目覚め悪すぎるやん」

 

 苦笑して肩をすくめた。

 

「そんなん聞いたら寝ても寝れんばい。……それに、そんな相手を死なせたくないって思うことになんの不思議があると? 知り合いに生きててほしいと思うのは、普通のことや。お前に求めとるのは、そういう当たり前のことやけん。食って、寝て、働いて……それでええ。それが理由じゃいかんか?」

 

 なるだけ声を柔らかくしてジャンヌの質問に対する答えを出した。

 

「食べることは生きることや。俺はな、ジャンヌ。お前に生きてほしか。それだけのことや」

 

 棗は、初めてジャンヌに触れた。

 頭を撫でてやった。雨に濡れたせいか小屋の中を淡く照らすろうそくの火に浮かんだのは、煤が落ちた太陽の光のような金髪だった。

 

 ジャンヌはその手を握って俯いた。視界が滲む。

信じていた神にすら見放されたような気持ちで生きてきた。

 誰も信じられず、怯えて震えて、毎日、自分の影すら薄くなっていくような気さえしていた。

 生きてほしいと言われることがこんなに自分の存在を、ここいていいのだと証明してくれる言葉と思わなかった。

 

「簡単に生きてええ人間もおらんけど、簡単に死んでええ人間もおらん。……やけん、ジャンヌ。お前も生きろ」

 

 棗の言葉が胸にしみわたる。

 ジャンヌは、声をあげなかった。でも確かに生きている温度が頬にいくつも伝わせた。

 

 

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