トーライト・レーンの長屋群で深刻なのは、水の問題だ。
それは他のレーンよりも酷く、井戸は下水道の上を通る地下水のを浅井戸か川から直接水を汲むしかない。
どちらも濁ることが多い。特に夏の間は浅井戸の水は臭いも出てくる。濾過するものもないからそれをそのまま生活用水にも飲水にも使う。
「うぅ……」
ジャンヌは、低く呻きながら腹をおさえてまだ増水の名残が残る濁りといつもより流れの早いメイル川に腰を付けてしゃがんでいた。
ほとんど力まずとも水のように体の内側から出てくるものを川に流す。
毎日がこんな調子だった。喉が乾けば水を飲まなくてはならない。でも飲めば、酷い痛みと共に老廃物が緩くなり外に出ていこうとする。
川で水を汲み、飲み、川に出しに行く。
水は、生きるには必要なのものだ。なのにそれにすら人間としての尊厳を削られる。
体を資源にするとき、尊厳を踏みにじられそうになれば嫌だと言える。それ以上は三ペンス以上払われても見せられないしすることもできないと断ることができる。
体温を残す液体にすら価値を見つけて好む者がいるのは知っている。
だが、窄みが出てくるほうを好む人間は余程の加虐心を抱いている者くらいだろう。
前者はまだ耐えられる。後者は耐えられない。だから断る。
けれども、資源としないときは誰に見られるとも分からない川で生きている限りどうしようもなく、また情けない姿を晒すことになる。
その瞬間が一番自分は、惨めだと認識させられる。
恥ずかしくて悔しい。でも、我慢もできない。
この瞬間を誰にも見られていないことを消費物になっていないことを願いながら、また押し寄せてきた痛みに体の力を入れた。
◇◇◇
珍しく棗は、昼間にトーライトに出向いた。
三日も経たずに来た棗は、ただ暇だったからと言って露店の傍に立っていたジャンヌの時間を銀貨一枚で買った。
小屋には行かない代わりに建物の影に入り、そこに座って話をする。
「なんか、ちいと痩せたか?」
襟ぐりが扇情的に開いた穴とほつれが目立つチュニックに膝が見える破れた布を腰に巻いたジャンヌの体を見て棗は、呟いた。
「少し入り用で……食べていないことはないです。少し量を減らしただけで……」
ジャンヌは、そう返した。
実は、少し客足遠のいたことで自分の体がまた痩せたことに気づいてはいた。
痩せた女は好まれないのを知っている。でも必要なものがあったからほんの少し。具体的に言えばスープを減らしただけ。ほんの一ペニーを食べなくなった。
それと痩せたのは、食べるものを減らしたのだけが原因ではないだろう。
毎日のように腹を下していた。ただでさえ栄養が十分ではないのに出すものだけが過剰に出るのだから結果として体はやつれていく。
「ちゃんと食わんといかんばい。これから先の季節、外におるだけでも体力ば使うけん。ほら、さっき渡した金で食べ物買ってこんね。食べ終わるとこ見るまで俺は帰らんけんね」
棗の言葉にジャンヌは、じっと彼の顔を見た。
そしてやがてわかりましたと小さく呟いて露店の方に行く。
やがて帰ってきた彼女の手に皿に入れられたスープとパンとビルベリーが数粒入った小皿があった。
ジャンヌは、棗の隣に座るとそれを静かな所作で食べ始める。
棗は、それを見るともなしに眺める。
ジャンヌは、パンもビルベリーもスープも残さなかった。残さなかったのは、おそらく夜の分は小屋に残しているからだろう。
「お皿、洗ってきます」
「おぅ」
ジャンヌが立ち上がると棗も立ち上がる。共用の井戸までついて行く。
古い滑車式の井戸。組み上げた自らは腐臭にも近い臭いがしていた。
「臭かねぇ……」
棗は、顔を顰めた。
「この時期はいつもこうです。水の流れが滞るんだと思います」
淡々と声音でジャンヌを言いながら、木製のスープ皿を水洗いした。
「まさかやけど、この水、飲んどると?」
棗の問いにジャンヌの肩が小さく揺れた。
「飲むこともあります。でもほとんどは川の水です。そっちの方が臭いは少ないので……」
食器を洗ったり、顔を洗うくらいなら井戸の水でもかまわない。でも、飲むとなるとこの臭いは鼻につきすぎる。
だからジャンヌは、飲水は川で確保していた。
「川って生水やろが。濁れば泥も混じるけん、腹こわすばい」
棗の意見は、もっともだ。
川の水を直接配管を通して井戸に流し込んで使っている場所は、アードウィックでは多くある。というより、ほとんどの場所がそうだ。
だが、トーライトの長屋群と決定的に違うのは、簡単でもいいから濾過するものがあるかないかだ。
濾過すれば多少の濁りとれる。煮沸すれば臭みも毒気も飛ぶ。
でも、トーライトの長屋にはそんなものはない。
ジャンヌの小屋にはケトルはおろか火鉢すらない。
濾過も煮沸もすることなく飲んでいれば体は毒気を感じてそれを外に出そうと動く。
それが過剰になれば嘔吐、脱水症状へと繋がり、無気力なり食べることもできなくなり死に至る。
「慣れました。それに水を貰うのは食べ物を貰うことより怖いことです」
井戸から露店まで道すがら、ジャンヌはそう言った。
「水をやると言われて、汚水を飲まされたことがあります。下水の水ではありません。生ぬるい体温のあるものです」
ジャンヌの告白に棗は、瞠目して息を飲んだ。
それは雨の中、客に請われたのであろう飲ませる行為を逆の立場でしたことがあるということだ。
それも望まぬ形で。
「水を飲むという行為は、食べるよりも生きることに密接にしています。水を飲まなければ人は干からびます。食べていなくても飲んでいれば少しは死から遠ざかります」
ジャンヌが言い終える頃、露店に戻ってきた。
洗った皿をありがとうございましたと言って店員に返すとジャンヌは、また日陰に入り座った。
「あなたが持っている水筒。それは、いちばん怖いです」
ジャンヌは、棗が手にしている金属の飲み口が着いた革の水筒をちらりと見た。
「中身が分かりません。水と偽って、お酒かもしれない。お酒ならまだいいです。毒かもしれない、薬かもしれません。もっと酷ければ排泄物かも……」
ジャンヌの声は、小鳥の囀りのようなのにどこまでも平坦だ。
その温度のなさが彼女がかつて飲水の為だけに味わった苦痛をものがっていた。
「だから水は貰いません。お腹を壊しても自分が選んだもので喉を潤す方がまだましです」
その選択の仕方は、生きるための選択だ。
屈辱を味わい死ぬよりはずっといいと言う悲しいほどの苦渋の決断だった。
棗は、それを黙って聞いた後に持っていた水筒の飲み口に口をつけて中身を飲んだ。
ジャンヌの目の前で。
喉が渇いていたわけではない。中身が安全なものだと認識はさせるためだ。
「はぁー……うまか」
わざと言葉にした。
「見てのとおりただの水たい。酒でも薬でも毒でもなか。まして排泄物でもなか。嘘と思うなら、飲んでみらんね」
棗は、水筒をジャンヌに差し出した。
ジャンヌは、迷った後に水筒を受け取り飲み口を咥えて水筒を傾けた。
喉を潤したのは、なんの味もしない。甘くも苦くもない、臭くもない水だった。
「おいしい……」
水を飲んで美味しいと思ったのは、初めてだった。
「これから毎日、夏の間は水ば持って来るけん」
「え……」
棗の言葉にジャンヌは、目を瞬かせた。
「水の入った水筒ば持って来る。水筒は前の日ん分と交換たい。対価は、干からびんこと、腹ば下さんことや」
水は生きるに必要なことだ。なのにその対価はあまりにも安い。いや、当たり前すぎることだった。
だが、その当たり前すら今のジャンヌは危ぶまれていた。
「……そんなに水筒あるんですか?」
気にするところはそこではないはずなのに自分の口から出てきた言葉にジャンヌは、自分がとても戸惑っているのことを察した。
「買えばよかろ。高いものでもなかけん」
棗は、なんて事ないように言った。
「言うたろ。生きてほしかって。食うとも水飲むとも生きるに必要なことやけん、その必要なもんば用意する。それだけのことばい」
その必要なことがジャンヌにはどれだけありがたいことか。
棗は、ただ生きることを望んでくれる。
資源でもなくただ生きた人間として扱ってくれる。
そのことが胸に沁みる。
ありがたくて嬉しくて泣きそうだった。
「ありがとうございます……」
ジャンヌは、礼を述べるだけで精一杯だった。
それ以上の言葉が見つからなかったのだ。
「ジャンヌは、よう礼が言えるけん、えらかね」
棗は、その言葉にすら優しく褒めた。
「その水筒、明日交換に来るけん。この夏の間は川の水とか直接飲むなよ」
棗は、そう言うとまた明日なと去っていった。
ジャンヌもまた明日と言って棗の背を見送った。
腕の中にはまだ残りがたっぷりとある水筒がある。
夏の間だけ。それだけでもジャンヌには十分すぎるほどだ。
もうお腹をくださなくてすむ。恥の瞬間が少しでも減る。それだけで生きた心地がした。