棗は、ジャンヌの小屋の前であるものを作っていた。
夏は過ぎて季節は秋の入口にたっていた。
水を毎日、運ぶことはなくなった。
浅井戸の臭いは落ち着き始め、川の水位も安定して濁りは減ってきた。
だが、根本的な水質の問題は改善していない。
浄水されていない地下水か川の生水かというのは変わらないのだ。
だったら毎日水を運んでくればいいというのは簡単だが、それではいつまでも彼女の生存権を棗が握ることになる。
夏は、いつも以上に水が必要だから持ってきたただけでそれ以外の季節は喉が渇く頻度減るだろう。
そういう時期に水を少しでも安全に使うための濾過装置を作るのだ。
容器として用意したのは廃材として安く譲ってもらった酒樽。中はしっかりと洗って乾かして酒の臭いがしないようしてある。直接酒を樽から注げるようにレバーが着いてるので、これは使えると思っのだ。
底に空間を作って水を貯めておけるようする。丸く切り抜いた木枠に網を張ったものを中にはめ込み、その上に折りたたんだ布を置く。そのに小石を敷き、その上には砂利を敷き詰め、さらに活性炭、そして砂を敷き詰める。そして最後にまた折りたたんだ布を被せる。
軍役時代、安全な水を確保できない時に瓶の底を割って作った簡易濾過装置の樽版がが完成した。
それを積みかさねただけのレンガの上に置き、タライなどに水を注ぎやすいように高さを作っておく。
外に設置したのは、汲んできた井戸水や川の水をそのまま外で流し込めるからだ。それに小屋の中は狭い。樽は場所をとるから外に設置するしかしなかった。見た目はただの古い樽だ。盗んでいく奴もいないだろう。
後はこれがちゃんと機能するかどうかの確認をするだけだ。
棗は、棒の両端にバケツを紐で吊るしたものを肩に担いで河原に降りるためのレンガ造りの階段を降りた。
その途中で、人の姿を見つけた。
長い金髪。ジャンヌだった。
通りに立っていたはずの彼女がなぜか川の浅瀬に腰をつけてしゃがみこんでいる。
まさか気分が悪いのか。
棗は急いで階段を駆け下りた。
「ジャンヌ!」
河原に降りるいなや棗は、彼女の名を叫んで走る。
ジャンヌは、弾かれるように顔を上げた。
「どうした!? なんかあったんか!?」
ジャンヌは、通り立ってきますと言ったときは体調が悪そうには見えなかった。
それが今、顔色が悪くなっている。
「こ、来ないでっ!」
棗が駆け寄ろうとしたとき、ジャンヌがそれを拒んだ。
それと同時にぷびっと何かが漏れるような音ともに川の流れにジャンヌの尻から何かが落ちた。
それも断続的に。
「見ないでください……お願い、見ないで……」
ジャンヌの顔が泣きそうに歪む。
棗は、それでようやく気づいた。
ジャンヌは今まさに生理現象の真っ最中であるということ。それもどっちの方かと言えば固形物の方だ。
尊厳の揺らぐ瞬間を棗は、見てしまったのだ。
「わ、悪い……」
棗は、顔をそむけた。
誰だって生きている途上にあるその行為を見られたくはない。
行為そのものを汚いとは思わないが、見られるのは痛い。
ただでさえジャンヌは、常日頃から恥も人間としての生理現象の一つも切り売りしている。
自分は、そうなってはならいという意識が棗にはあった。
ぱしゃんと水を大きく弾く音がした。
出た音ではない。
見るなと言われてもそんな音が聞こえれば、どうしたって視線を戻してしまう。
ジャンヌは、片腕で腹をおさえながらもう片手を川底について前かがみになっていた。
「ジャンヌ……!」
来るなと言われた見るなと言われた。けれど、目を背けるにはあまりにもジャンヌの姿は痛々しすぎる。
靴もズボンも濡れるのを気にせずに棗はジャンヌの傍に寄るとしゃがんで裸の背中をさすった。
「見ないで……お願いです、からぁ……見ない、でぇ……」
苦しそうに息を吐く合間にジャンヌは、ただ見ないでと訴え続けた。
「見とらん。見とらんけん。今はゆっくり息せぇ。息詰めたら余計きつうなる」
「う、くっ……はぁ……はぁ……んん……」
棗は、けっして川面には目を向けない。
ジャンヌの横顔とどこか遠くに視線を向ける。
ジャンヌの横顔は、苦しそうだ。そして力んでは少し力を抜く。その一瞬の表情ですら、人間的なのに綺麗だ。
なにをしていても綺麗な人間なんているんだなと場違いなことを考えながら、棗はジャンヌの苦痛が通り過ぎるのを待った。
「下剤と利尿剤を飲まされたみたいです」
ジャンヌは、小屋の扉の前に膝をたてて座って呟いた。
棗は、川で汲んだ水がをちゃんと濾過されるかを確認するために樽に流し込んでいた。
「飲まされたってどうやって」
ジャンヌが人から施される食べ物や飲み物を警戒してるのを棗は、知っている。
棗が持ってくる食べ物に素直に手をつけるまでに一ヶ月かかったほどだ。
ただそれは、棗が自分に危害を与えないと分かったから手を付けるようになっただけで、他者からになるとまた変わってくる。
なのにどうして飲せることができたのか棗は不思議でならなかった。
「三ペンス払うからこれを飲んで相手をしくれてとお酒の瓶を見せられたんです。もちろん断りました。お酒もお金もいらないと。そしたら急に体を掴まれて瓶を口に入れられて流し込まれました」
「………………」
ジャンヌは、淡々とした声でされた事実を述べた。
棗は、絶句する。
いくらトーライトが犯罪が多いレーンだとは言え、今日は安息日でしかもまだ日は高い。
そんなときでも関わらず、ジャンヌの傍には犯罪が付きまとっていた。
ふとジャンヌの体が震えた。
股を手でおさえて立ち上がると駆け出す。だが、川まで我慢できるほどではなかったらい。
岸の縁にしゃがんでぬるい体温の液体を下の河原に向けて流した。下の河原に流しきれなかったものが足元に水溜まりをつくっていく。
また見てしまったと棗は、目を伏せる。
かなりきつい薬を飲まされたのだろう。川でのことと今のようすで察することができる。
でも出せば、薬の効果はその分、薄れていく。媚薬などの類でないだけましだと思うしかない。
水を持ってくるんだったと棗は、後悔した。
出せば出すだけ体の中から水分は抜けていく。そうなれば脱水になる。
浅井戸の水も川の水も濾過せぬまま飲ませたくはない。棗は、作った濾過装置にの中に早く水が溜まってくれと祈るような願うような気持ちで樽を指で叩いた。
一時間ほどして樽の蛇口を捻ると真水のように透きとおるまではいかないが、濁りの少ない水が出てきた。
「やっぱりまだ濁るか……」
縁のかけたコップに入った水を見て棗は、難しい顔をした。
「でもこれだけ澄んでいれば大丈夫です。作ってくださってありがとうございます」
ジャンヌの表情が少し柔らかくなる。
自然と出た表情のようだった。
客引きの時の微かに唇に貼り付けた笑顔でも食事や会話をするのときの凪いだ表情でもない。
こんな顔ができるのかと棗は思った。
春の日差しのような柔らかく安心した表情。
そんな顔がもっと多く出るようにしてやりたいと思った。
「月に一回は俺が炭とか入れ替えるけん。それより早う濁ったら言え。冬は凍るけん、水は出しっぱなしにしとけ。栓閉めたままやと割れるぞ」
「分かりました。……ところで、お代はどうすれば?」
棗の言葉にジャンヌは、頷くと濾過装置の値段をどうしたらいいかと尋ねた。
作ってほしいとジャンヌが頼んだわけではないが、作ってもらったからには礼はしないといけない。
「濾過してない水を飲まないことでいい。俺が勝手にしたことやけん、そのくらいでいい」
棗は、ジャンヌからの見返りを求めない。
代わりにジャンヌが無事に生き抜くことを求めていた。
ジャンヌは、少し考えのちに口を開いた。
「分かりました。約束は守ります」
そう答えた。
「ああ、約束やけんね」
ささやかだけれど確かな約束。
そんな小さなことでも繋がる命はある。
苦い汁をなめるだけが自分の人生ではないのだとジャンヌが思える瞬間が棗にとっての安寧だった。