寒気がする。
藁敷の上に横になり裂けたシーツと藁編みを被って眠るジャンヌは、寒さでない寒さに震えていた。
熱いのに寒い。
瞼を上げるのも辛く、体勢を変えることも難しい。
意識が遠のく。でも眠れない。
食べることも水を飲む気力もない。
このまま死ぬのかもしれない。
そんなことが脳裏を掠めた頃、ドアが控えめに叩かれた。
◇◆◇
雪が降るようになった。通りの女たちは、寒さに耐えながら男を待っている。
棗は、その中にジャンヌの姿を探した。手にはいつもの布包みと古い毛布がある。
ジャンヌ小屋には防寒できるようなものが何もない。だから、古物屋で買ってきたのだ。
けれど、ジャンヌは見つからない。
交渉の為に屋根の下に行ったのかと思い待ったが、いっこうに淡い太陽の光のような金髪は現れなかった。
「小屋か?」
棗は、ダークグレイッシュを抜けてトーライトに向かった。
長屋が並ぶ土は凍てつき雪化粧して、ひっそりとした空気に満ちていた。
川の流れを聞きながら歩いて小屋の前に辿り着つく。
浄水樽の蛇口は開いていた。ぽたりとひとしずくがタライはられた水に落ちる。
水を使った痕跡がない。
夜は蛇口を開けるように伝えていた。そうしないと凍り割れるからだ。
だから一晩中、流れた水がタライに溜まっている。
嫌な予感がした。
ノックをする。返事がない。
またバートン男爵のところに呼び出されたのか。そうでないことを祈りながら扉を開く。
小屋の中は外と同じく冷えた空気に満ちていた。そこにわずかに排泄物の臭いが混ざっている。
普段はすることのない臭いだ。
暗闇の中に小さな山が一つ。
棗は、小屋の中の唯一の明かりであるろうそくに火を灯した。
仰向けに藁の中に横たわっているジャンヌの姿が浮かび上がった。
その顔は、酷く赤かった。
「ジャンヌ!」
驚きで思わず声が大きくなる。
ひたいに張り付く前髪を避けて触ると焼けるように扱った。
息も荒く呼吸の合間にヒューヒューと肺が濁った音が混ざっている。
「……なつ、め……」
ジャンヌが緩慢に瞼をあげた。青い瞳の光は弱い。
「喋らんでよか。すぐに医者に連れてくけんね」
棗は、毛布を広げて藁編みごとジャンヌを包み抱き上げる。驚くほど軽かった。
腕の中で震える体から、命の灯が細く揺れているように思えた。
外へ出ると、雪が頬に当たった。夜明けの冷気が、肺の奥に突き刺さる。
辻馬車を捕まえるまでの時間が異様に長く感じた。
ようやく止まった馬車に飛び乗り、棗は震える声で行き先を告げた。
「町医者んとこまで、急いでくれ」
ネイチャー・ラインの顔なじみの町医者の診療所の扉を乱暴に叩けば、何事かと言うように白髪まじりの髪の医者が出てきた。
彼は、慈善診療所の医師でもあるので貧民を診ることに抵抗がないのを棗は知っていた。
「病人や! 酷い熱がある!」
棗は、短く伝える。
医者は、棗が抱えてる人の姿を見るなり早く中へと促した。
「その子をここに」
棗に短く言って診察台の上に寝かせた。
医者は毛布と藁編みと裂けたシーツをのけるとジャンヌは、裸だった。
医者は、肌に手を添えた。冷たくそれでいて、熱かった。
とっさに棗は目を背けた。だが、医者の声がその肩越しに響く。
「風邪をこじらせている。肺の音も悪い。このままじゃ、治るものも治らん」
聴診器を耳から外した医師は、机の上に薬瓶を並べながら、医者は短く言葉を続けた。
「薬を出す。あとは、暖かい場所で休ませてやれ」
その言葉を聞いた棗は迷わなかった。
「……俺んとこに連れて帰ります」
医者は少しだけ眉を上げたが、何も言わず頷いた。
「代金はいらん。この子は、長く放っておくと駄目になる。気をつけなさい」
医者の手から薬の包みを受け取ると、棗は再びジャンヌを抱き上げた。
彼女の髪が頬に触れる。冷たさと熱が入り混じっていた。
扉を開けると、外の世界は再び白一色だった。
雪はしんしんと降り続け、道の足跡をすぐに消していく。
風で毛布がめくれた。それを掴み直しながら、彼は歩き出した。
腕の中でジャンヌの呼吸が浅くなるたび、心臓が跳ねる。
頬を寄せると、微かな熱と弱い息が伝わってくる。
「もう大丈夫やけん。着いたらすぐ寝かせるけんね」
小さく呟く声に、答えはなかった。
ただ、毛布の奥で指が微かに動いた。
棗の下宿は、北の坂を登った先にある二階建ての木造家屋だった。
階段を上るたびに軋む音が鳴る。
戸を開けると、暖炉の火を落としていたから冷えた空気が出迎えてくる。
彼は毛布ごと彼女を寝台に横たえ、ナイトテーブルの上にあるオイルランプに火を灯した。
浴室から水をたらいに汲んできて布を湿らせ、額に乗せる。
それでもジャンヌの体の震えは止まらない。
棗は息を吐き、椅子に腰を下ろした。
起こした暖炉の火の中の薪がはぜる音を聞きながら、薬の包みを見つめる。
「ジャンヌ……」
彼女の名前を呼んでも、返事はない。
窓の外では、雪が音もなく降り積もっていた。
外の冷たさとは逆に、部屋の中には静かな熱が漂う。
棗は毛布の上に薄く綿の入った布団を引き寄せ彼女の体にかけた。
さらにその上から自分の外套を脱ぎ、被せる。
オイルランプの火の光が頬を照らす。
その顔は、以前よりも痩せ、唇は乾いていた。
けれどその表情には、かすかな安堵の影が見えた。
生きている。それだけで、胸の奥がじんと熱くなった。
「……もう大丈夫や。ここでええ」
棗は静かに呟いた。
夜の雪が窓を叩く。
その音を聞きながら、彼は椅子を引き寄せ、火の灯りの傍で見守り続けた。
うっすらと眠気が訪れたとき、ふと目をやると彼女の指先がわずかに動き、毛布の端を握りしめていた。
その仕草は、まるで生きようとする意志のように見えた。
棗はそっと息をつく。
窓の外では、まだ雪が降り続いている。
音もなく、静かに、白い世界を覆いながら。
◇◇◇
目を開けた時、見知らぬ天井があった。
薄い木の梁、壁にかかる作業用の上着。
かすかに油と木の匂いが混ざっている。
「ここは……」
ジャンヌは、小さく呟いた。
「目ぇ覚めたか。二日も起きんかったけん、ダメかもと思うた」
視線を彷徨わせていると声がした。声の方をようようと視線を向けると棗がいた。
「ここは、俺の下宿の部屋たい。小屋は寒すぎるけん、ここば連れてきた」
棗の声は、いつもの淡々とした調子だった。
足音が近づき、木の床が軋む。
棗が手にはやかんとタライがある。
「風邪ばこじらせとる。起き上がるな。……体、拭くぞ」
言うなり、棗はやかんのお湯とタライの水を混ぜ、手で触れて温度を確かめる。
布を絞り、首筋から胸、腕、脇、腹部、脚へと静かに拭っていく。
布はすぐ温度を失い、また湯に戻される。
恥ずかしさはあった。けれど、それ以上に呼吸が苦しく、喉が渇いた。
「ここは自分で……」
ジャンヌは、かすれた声で言った。指先が震え、布を落とした。
棗はそれを拾い、何事でもない顔で続ける。
「ええ。任せとけ」
腰のあたりで一度、布が止まった。
冷えと熱でどうにもならず、薄い湿りが広がっていく。
ジャンヌは思わず目を閉じ、肩をすくめる。
棗は何も言わない。黙って乾いた布に替え、濡れた布は湯へ。
匂いも言葉も、暖炉の火の音に溶かしてしまう手つきだった。
拭き終えると、棗は自分の古いがまだ上等に着れるシャツを差し出した。
「これ、着とけ。まだ寒かろ」
肩を支えて袖を通させると、壊れ物を扱うようにボタンを留めた。
「……どうして、ここまでしてくれるんですか」
「死にそうなやつ放っとく人間、見たことあるか?」
ジャンヌは何も返せなかった。
喉の奥で何かが詰まり、視界が揺らぐ。
棗はそれを見透かしたように、湯気の立つ皿を持ってくる。
「薬飲むには腹ん中に何か入れとかな。ミルクのオートミールや」
スプーンを口に運ばれるたび、温かさが喉を下りていく。
だが直ぐに胃の奥から奥からなりかがせり上がってきた。
口元を手でおさえてひくりひくりと肩を震わすジャンヌ前に棗はとっさにもう使わなくなったぬるま湯の入ったタライを差し出した。
「おぇ……はっ……うっ……げぇ……」
未消化のオートミールと胃液が吐き出される。食べることすら体が拒んでいた。
棗は、その背中を黙ってさすった。
呼吸が落ち着いた頃に棗は、タライを下げて部屋を出ていく。
そしてしばらくして今度は別の小さな皿とスプーンを持ってきた。
「これなら食べれるやろ。ほとんど水分やけん」
棗が持ってきたのはすりおろしたりんご
ジャンヌの手は、嘔吐した余韻で震えていたので棗がスプーンで掬って口に運んだ。
りんご半分もなかった量をなんとかジャンヌがほとんど残さず食べると皿とスプーンを置いて液体の薬を混ぜた水を渡した。
ジャンヌは、それを静かに飲む。苦いが飲み下すと、胸の棘が一本抜けた気がした。
「長屋は俺が見とく。二日に一度は行って、人の出入りがあるようにしとくけん、心配すんな」
「……ありがとうございます。でも、私、返すものが……」
「返すとか気にするな。今は治すことだけ考えろ」
安堵が胸に広がる。
安堵の代わりに、また涙が零れた。
生きることを諦めきれなかった身体が、ようやく他人の手で温められている。
それが哀しく、そして救いだった。
その夜、ジャンヌはよく眠った。
明け方、汗でシャツが肌に貼りついていた。
棗が目を覚まし、何も言わず桶を持ってきてシャツを替えた。
シーツの湿りにも言及しない。
ただ火に布をかざし、温もりを戻し、静かに敷き直した。
二日、三日と過ぎるうち、熱は緩み、声も戻っていった。
棗は約束通り、二日に一度はトーライトの長屋へ足を運ぶ。
扉を開け、空気を入れ替え、藁布団を叩き、古着を紐にかける。
人の気配を保つだけで、盗人も娼館の客引きも遠ざかる。
帰ればジャンヌがおかえりなさいを覚えたばかりの子どものように小さな声で言い、棗はただいまと短く返す。それで充分だった。
ある夜、灯を少し落とした部屋で、ジャンヌがぽつりと問う。
「……私、あのまま死んでいれば、楽だったでしょうか」
棗は黙ってランプの芯をわずかに上げる。光が広がり、彼女の頬を照らす。
「楽やのうて、“何も感じん”だけや。生きとるなら、寒さも腹の減りも感じられる。それがまだ人間やっちゅう証拠やけん」
翌朝、窓の外で雪がちらついた。
棗は小鍋に牛乳を温め、少し砂糖を落としてオートの粥を作る。
一匙、二匙。彼女は自分の手で匙を持てるようになった。
手の震えが収まるまで、棗は器を支える役だけをした。
やがて、二週間が過ぎた。
棗は毛布を畳み、紙袋を二つ用意した。
一つには、解熱剤と咳止め。もう一つには、自分の古いのシャツが畳まれている。
「また熱出たら、これ使え。……裸で寝るな。」
ジャンヌは唇を噛み、視線を落とした。
「どう返せばいいのか、わかりません」
「返さんでいい。生きて、歩け。そんで、また笑えばそれでええ」
下宿の階段を降りると、白い息が二人の前に浮かんだ。
棗は通りの角まで付き添い、辻の向こうに長屋の屋根が見えるところで足を止める。
風が強く、雪が砂のように頬を打つ。
長屋に着くとマッチでろうそくに灯を点け、毛布を広げ、彼女の手に解熱剤の包みを渡す。
「水貯めてから帰るけん。また明日からは三日に一度は、また来る」
帽子を深く被り、マッチの箱を棚において立ち上がる。
「……棗」
呼び止められて振り向くと、ジャンヌが両手でシャツの包みを抱きしめていた。
顔色はまだ白いが、瞳には色が戻っている。
「ありがとうございます」
その言葉は、白い息に混じって、ゆっくりと棗の胸に降りた。
棗は、頷き戸口を出た。
外は相変わらず白く、静かだった。
雪はすべての足跡を
けれど、その下で確かに息づくものがある。
冬の土の奥の芽のように、二人のあいだに生まれた熱もまた見えないままそこにあった。
棗は、持ってきていた棒の両端にバケツを吊り下げたものを担いで川に降りて水をくみ、浄水樽に流し込んでから小屋を後にした。
鐘の音が遠くで鳴り、白い空に溶けていった。
冬の始まりは、まだ長い。
だが、その長さにもう独りの気配はなかった。