俺が最初に学んだ秩序は、法律でも倫理でもなかった。煙だった。
この世界では、吸うことが文明であり、吐くことが礼儀だった。
空気は共有物ではなく、思想の延長線にあった。
全面喫煙国家ニコチン共和国。 その名を、当時の人間は誇りとともに口にした。
肺を黒くすることは忠誠の証であり、咳は努力の結果だった。
吸わない者は裏切り者ではない。ただ「未完成」と見なされていた。
共和国の都市は、常に薄曇りだった。 それは気象現象ではない。
無数の意思が吐き出した煙が、空を占拠していた。
建築物は換気を前提に設計され、広場には灰皿が街路樹のように並んでいた。
子どもたちは煙の濃淡で風向きを読み、大人たちはその日の喫煙指数で景気を判断した。
俺はその国家の中枢にいた。 ニコチン共和国軍統合作戦本部長。
戦争を指揮し、外交を決め、そして空気の濃度を決定する立場だった。 机上に並ぶのは地図ではない。
地域別喫煙率、年齢層ごとのニコチン摂取量、士気と肺活量の相関表。
前線から届く報告書は、死傷者数よりも「吸わなかった兵士の数」で評価された。
誰も疑問を抱かなかった。 なぜなら、吸うことで世界は回っていたからだ。
産業は煙で動き、経済はタールで潤い、文化は灰の上に築かれていた。
劇場では開演前に一斉喫煙が行われ、国会では採決前に必ず休憩が入った。
正しさは、常に白い煙の向こう側にあった。
だが敵は存在した。 禁煙国家。 彼らは空気を「自然」と呼び、肺を「個人の所有物」だと主張した。
それは我々にとって、暴力的な思想だった。
選択を個人に委ねるという考え方そのものが、秩序を破壊すると本気で信じられていた。
彼らの都市は異様だった。 空が澄み、建物の輪郭がくっきりと見える。 咳をしない人間が普通に歩いている。
その光景は、我々にとって不気味ですらあった。
煙のない世界は、努力の痕跡を否定しているように見えたからだ。
戦争は避けられなかった。 いや、正確に言えば、避ける理由が存在しなかった。
吸う世界と吸わない世界は、同じ空の下で共存できないと、 誰もが前提として受け入れていた。
妥協は裏切りであり、共存は敗北だった。
俺は命じた。 兵器の開発を。 だがそれは憎しみからではない。 調和のためだった。
一つの正しさに統一すれば、争いは終わる。 そう信じることは、この国では美徳だった。
その夜、作戦室で一人になったとき、 俺は初めて自分の肺の音に耳を澄ませた。
呼吸は重く、確かで、世界と同期しているように思えた。
この秩序を守ることが、世界を守ることだと、疑いなく信じていた。
この時、俺はまだ知らなかった。 正しさが完成した瞬間から、世界は壊れ始めるということを。
そして、その最初の音は、 誰にも聞こえないほど静かな、 一服の終わりだったということを。