「みなさんは今の姿のまま過去にタイムスリップできるとしたら、どうしますか?」
年始にかこつけて集まった親戚たちの酒のつまみにしかならないような正月番組の、ありきたりなトークテーマ。常に半笑いで、見ていてイライラするMCの言葉に、頭の悪そうなアイドルが呆れるほど聞いた、中身のない返答を繰り返す。
基本テレビはつまらないが、正月になるとそのつまらなさにより拍車がかかると思う。今年の運勢だとか、初笑いだとか、全部どうでも良くて。まあ、普段テレビしか見ないような老人向けのコンテンツだから仕方がない。そんな考えが頭をよぎった。
それでも俺がこの居間から離れられないのは、隣でせっせとみかんを剥いて、嬉しそうに差し出してくるひとがいるから。
そのしなやかな指先を追っている。くるくると器用にオレンジ色の皮を剥くその指先を追っている。俺にとっては、テレビも、親戚も、お年玉も、おまけでしかない。ただみかんを剥くその指先を見つめるためにここにいる。
「一颯なら、どうするんだい?」
みかんを剥く手が止まった。先程まで下に向けられていたその眼差しは真っ直ぐに俺を見つめていた。きょとんとした、何も知らない顔。親愛に満ちた、優しい顔。どこまでも純粋で、どこまでも残酷な、世界で一番愛するひとの顔。
ああ、そうだなあ。
俺なら。
俺が過去に戻れるとしたのなら。
俺を身籠った母親の腹を割いて、何もかもを終わらせていた、と思う。
「うーん、そうだな。俺なら、小さい頃の姉さんに、また会ってみたい、かな」
〜
このひとを俺のものにしたい。
このひとを俺に縛り付けたい。
このひとを俺で染めあげたい。
いたってふつうの人間が抱くものと何ら変わらないであろうその感情は、ある特定の条件が揃うだけで、途端に形を変える。
小学生の夏、家族でひまわり畑に遊びに行ったことがある。たしか、白いワンピースを見に纏ったあなたと手を繋いで、見て回ったっけ。
その途中、妙に配列の狂ったひまわりを見つけた記憶が今でも鮮明に残っている。黄色い花びらが歪に繰り返されて、縦に横にとその姿を伸ばす光景は、今まで図鑑や写真で見たものと違う、異様なものだった。
なんだか、怖いね。そう言ってあなたはひまわりから目を背けた。対する俺は、どうしてかこのひまわりから目を離せなかった。むしろ、その中心に吸い込まれてしまうような感覚がそこにあった。
スタンダードとされている形からは程遠い、花屋に一生並ぶことのないであろうその花に、気持ち悪いほどの親近感を覚えたから。
家に帰ってから、あのひまわりについて調べてみた。どうやらあれは、帯化現象と呼ばれるものらしい。
遺伝子の異常。突然変異。細菌の感染。生育環境での異常。はたまた、害虫や薬剤などの外的要因。
そのいずれかがきっかけで、美しく咲くはずだった花はグロテスクに変貌する。
そう、今の俺みたいに。
あなたの唇から、白濁の糸がつたう。何度目かの吐精。チカチカと点滅する頭と視界の真ん中には、いつもあなたがいる。
そう。俺が好きになったひとは、血を分けたたったひとりのきょうだいだった。
荒くなった息を、ゆっくり、ゆっくり整えて、あなたの唇にぴとりと沿わせたそれを離して、また、押し付ける。まるで恋人が接吻を交わすように、息継ぎをするように、くっついて、離れて。少しだけ空いた上唇の隙間から覗く白に、欲望を何度も放った。
──口開けて、ねえさん。
唇を無理やり自分の唇で押し広げる。舌先でその白をなぞった。あなたの唾液と白濁が混ざった味がして、思わず吐きそうになるが、続ける。つくづくこの人は並びが綺麗だな、なんて関係ないことを考えて、なぞった。
……これも矯正、しといたほうがよかった? 俺、あなたみたいに、薫姉さんみたいに、並びがよくないからさ。そこがコンプレックスで、あんまり人前で笑えないんだ。
……でも、姉さんだけは言ってくれたよね。その八重歯が一颯のチャームポイントだって。一颯が笑った時、その八重歯が覗く瞬間が一番大好きだって。
姉さん。今、俺、上手に笑えてるかなあ。尖った歯先が唇に食い込んで、少しだけ血が出る。舌で舐めとった鉄の味は、俺のものと全く同じだった。
〜
思い返せば、俺はいつも姉の一歩後ろをついて回るような弟だったと思う。
常に挙動不審で、人とまともに目も合わせられなくて、同い年の輪に混ざれないが故に、二歳も上の姉のおままごとに混ぜてもらってばかりいた異分子だった。
姉さんは、そんな不器用な俺の気持ちをなんでもわかってくれた。うまく話せない俺の口になって、うまく物事を見れない俺の目になって、うまく人の話を聞けない俺の耳になって、うまく物事を考えられない俺の頭となって。
俺という人間が外の世界と繋がるための媒体になってくれていたのが、他の誰でもない姉さんだった。
「こわくない、こわくないよ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだからね」
「私は、いぶくんの味方だから」
俺が泣きそうになるたび、姉さんは口癖のように言い聞かせてくれた。それが誇らしくて、嬉しくて、宝物みたいに、何度もノートに書き留めたっけ。
側から見れば、おかしな姉弟だったと思う。互いをいぶくん、かおるちゃんと呼び合って、いつもどんな時も離れない、ツガイのような関係だったと思っている。
──関係だったと思っている。
「かおるちゃん、ぼく、次はかおるちゃんのだんなさん役がいいな」
肩くらいまである横髪をすくって、顕になった耳にそっと口元を近づける。かおるちゃんにしか聞こえない距離。かおるちゃんにしか聞こえない囁き声。これが、俺なりのコミュニケーションだった。
その息がくすぐったくて、たまにかおるちゃんが吹き出してしまうこともあったっけ。もう、いぶくんってば。そう言って唇を尖らせる姿が、愛おしくて仕方がなかった。
ああ、幸せだな。幸せ。いつかおままごとじゃなくて、本当にけっこんしようね。これが、二人でいる時の俺の口癖。きょうだいだから、けっこんはだめだよ。先生が言ってたんだ。これが、二人でいる時のかおるちゃんの口癖。俺のいうことよりも先生の言うことを信じてしまうその真面目さが疎ましくて、愛おしかったことを、今でも覚えている。
このまま、二人だけの世界のまま、大人になれたらよかったのに。かおるちゃんが中学生になった瞬間、その関係性は音を立てて崩れ落ちた。
かおるちゃんは、中学で演劇部に入った。それから、なかなか俺と遊んでくれなくなった。寂しいけど、楽しそうなかおるちゃんの顔を見ていると、何も言えなくなった。
かく言う俺も、周りに合わせる形で社会に迎合しかけていた。見様見真似で人間のふりをしているだけだから、それが本当に正しいのかはわからないけれど。
そんなある日、かおるちゃんが泣きながら帰ってきた。理由を聞いても、かおるちゃんは頑なに何も答えてくれない。ただ、俺に分かったのは、その頬に、誰かに殴られたようなアザがあることだけ。
どれだけ言葉を重ねても、俺の目は誤魔化せないのに。誰よりもずっとそばにいたから、わかるよ。その痛みを俺に曝け出してくれないかおるちゃんが、嫌で仕方がなかった。
俺たち、きょうだいなんだから。なんでも分け合って、何でも分かり合わないと。片方が悲しい思いをしたら、もう二度とそんな思いをしないように、もう片方が助けてあげるんだよ。あの日、かおるちゃんが俺にしてくれたみたいに。
……その日は、早く眠るふりをした。音を立てないように一階のトイレに潜んで、リビングで話すかおるちゃんと両親の会話を聞いた。
いてもたってもいられなかった。
次の日の朝、俺が通っている小学校ではなくかおるちゃんの通う羽丘に、勝手に足が進んでいた。
かおるちゃんが苦しそうな声で口にした、ニンゲンの名前。たしか演劇部の顧問で、社会のせんせいらしい。性別は男。茶色のスーツに黒縁のメガネ、身長は百八十五ほど。
──ああ、見つけた。
最初、どんな会話を交わしたか、今ではよく思い出せない。とりあえず覚えているのは、俺が、あいつをひたすら殴ったこと。そう、返事をしなくなるまで、何度も何度も殴った。顔の骨が折れる音が、肉がぐちゃりとちぎれる鈍い音が、低い男の悲鳴が、俺の耳をつんざいた。
でもいいんだ。俺は正しいことをしたと思っている。俺のかおるちゃんを傷つけたやつがのうのうと生きているなんて、耐えられないから。
そもそも、お前が馬鹿でアホで間抜けで、生徒に性欲を向けるカス教師で、それをかおるちゃんが止めたから、暴力? 全てにおいて気持ちが悪すぎて反吐が出る。
運動靴のかかとで、その汚い汚物を潰すようにぐりぐりと踏みつける。保健の先生が教えてくれたんだ、男の人はここで物事を考えてるんだって。だから脳みそと一緒に潰して仕舞えば、もう何も怖くないよね。俺って天才だと思うんだ。
かおるちゃんはね、何も悪くないんだ。むしろ、世界で一番かっこいい俺のおねえちゃんだ。だから、俺がそれを証明してあげる。かおるちゃんがみんなを守るように、かおるちゃんのことは、俺がちゃんと守ってあげるから。
あと一発、あと三発、あと五発打ち込めば俺はかおるちゃんのヒーローになれる。その後は、きっとかみさまがこいつを地獄まで連れていってくれるんだと思った。
みぞおちに向かって拳を振り下ろそうとした瞬間、誰かが俺の邪魔をしようとした。どうして邪魔なんてするんだろう、俺はかおるちゃんを守りたいだけなのに。
……コイツを庇うなら、どうせそいつも同罪だ。ターゲットを切り替える。やけにやわらかい肉の感触が、印象に残った。その違和感に、もっと早く気づければよかったのかもしれない。
男のものとは違う、苦しそうな声。ひどい咳。うずくまる姿。その紫には、ひどく見覚えがあった。その色は、風に揺れて視界を覆った俺の前髪と全く同じ色をしていたから。
何が起こったのか、理解してしまった。理解してしまったがゆえに、脳みそがエラーを起こす。
「……一颯。どうして、こんなことを、したのか、説明……してくれ」
かおるちゃんが、血まみれになった俺を見ている。化け物を見るかのように怯えた目で、こちらを見ている。
俺が伝えられる、伝えるべき言葉は何でもあった。全ては、かおるちゃんのためだったんだから。でも、その眼差しで見つめられた瞬間、喉が、思考が、全て凍りついた。
どうやら、少し前にかおるちゃんが警察と救急車を呼んでいたらしい。俺は、何も伝えられないまま、赤いサイレンに連れて行かれた。
弁護士の話も警察の話もどうでもよかった。かおるちゃんに嫌われていないか、ただ、それだけが不安で仕方がなかった。
……いや、どうして嫌われないといけないんだろう。俺は正しいことをしたはずなのに。
一日が経った。家には帰らせてもらえなかったから、知らないベッドで寝た。
警察官から聞いた話によると、どうやら男は一命を取り留めたらしい。皮肉にも、かおるちゃんは生きる価値のないクズの命を救ったヒーローになった。あんなやつ、死んで当然だったのに。どうしてかおるちゃんはこんな奴を庇ったんだろう。
……かおるちゃんがヒーローなら、俺は何になるんだろう。俺は、俺は、わるものになるの? そう考えただけで、胸がぞわりと冷えていく。
でも。
でも、きっと、わかってくれる。かおるちゃんなら、わかってくれる。かおるちゃんなら、どうして俺がヒーローになろうとしたのか、わかってくれるし。俺は、かおるちゃんを助けたかった、それだけなんだ。だからきっと、かおるちゃんは、俺の味方でいてくれるはず。今も、昔も、ずっとそうだったから。
「君の気持ちは、わかった。けれど、だからといって、それは誰かを傷つけていい理由にはならないんだよ」
「もしあの時、君が本当に先生を殺してしまっていたらどうしていたんだい? 人の命を、人生の命を奪うことの重さを、本当に一颯は理解しているのかい?」
「小さい頃、一緒に読んだ絵本にあっただろう? 正義のヒーローが、正義の意味をどんどん間違えていって、やがて、みんなを傷つける悪者になってしまうお話が」
「私は、一颯にそうなってほしくないんだ」
「……君は、私の大切な、世界にたったひとりだけの、弟だから」
あれ、ちがったみたいだ。
かおるちゃんだけが俺を信じてくれればよかったのに。かおるちゃんだけが俺をわかってくれればよかったのに。かおるちゃんだけは、俺の味方でいてほしかったのに。小さな恨み言が膨れ上がって、風船みたいに爆発する。でも、それを伝える元気も、勇気も、どこにも残っていなかった。
それ以上に湧き上がるのは、かおるちゃんに見放されたくない。かおるちゃんに嫌われたくない。かおるちゃんとずっと一緒にいたい。純粋な欲求だけだった。
道端に咲く花の花弁をむしって遊ぶのが好きだった。節足動物の四肢をむしって遊ぶのが好きだった。自由帳に書いた人間の絵をビリビリに破くのが好きだった。
でも、かおるちゃんはそれを嫌がった。可哀想だから、もうしないで。って言ってた。だから、やめた。今回もきっとそれと同じ。俺が普通になれないから、薫ちゃんを怖がらせてしまったんだと思う。
なら、なら。
普通の弟になれば、かおるちゃんとずっと一緒にいられるかな。かおるちゃんはずっと俺をそばに置いていてくれるかな。
「ごめん、姉さん。もうあんな真似はしないよ。自分の身勝手で人を傷つけて、馬鹿みたいだったよね」
「それでさ、姉さんに付きまとうのもやめる。もう、姉さんの足枷になりたくないからさ」
「だから、これからも、普通の弟として接してほしい」
「……一颯」
「俺、姉さんに見合う弟になりたいんだ」
〜
夢を見ていた。こたつのぬくい熱のせいで、いつの間にか眠っていたのだろう。腰から下が熱くて仕方がない。これだからこたつで寝たくないんだけど。
「……おはよう、一颯。よく眠れたかい?」
「うん、おかげさまで」
その声に答えるように、ゆっくりと身体を起き上がらせる。つまらないテレビ番組は、未だに中身のない会話を繰り広げていた。
あれからというもの、俺たちは本当に普通のきょうだいになっていったと思う。昔のようにべったりと、互いに依存するような関係でなく、ただ、毎日を同じ屋根の下で過ごすだけの、血のつながった関係。良くも悪くも、ドライな家族になっていったと思う。
「こうしてじっくり話すのは、久しぶりだね」
「はは、俺も姉さんも忙しいからしょうがないよ。こうしてリビングで会えるの、食事の時と正月休みくらいしかないからね」
大学生になって本格的に舞台の道を志した姉さんは、以前よりも頻繁に家を空けるようになった。最近だと、夕食も舞台関係の人と食べてくるとかで、顔を合わせるタイミングがどんどん少なくなっている。
まあ、それが健全なのかもしれない。かくいう俺も、バイトと部活で忙しいし。花屋さんでバイトをしながら園芸部に所属するなんて……! 君は本当にお花が大好きなんだね、とどこかの姉さんは言っていたけど、実際のところ真逆だ。
「そうだ、今度の舞台に来てくれた子猫ちゃんにはひとりひとりそれぞれ一輪の薔薇を送ろうと思っていてね」
「そっか。姉さんらしいね」
「そこで、だ。一颯にお願いがあるんだ。子猫ちゃんに贈るためのとびきり綺麗な薔薇を、一緒に選んでくれるかい?」
「……うん、俺でいいなら」
美しく、正しくないと切り捨てられ、廃棄される花に、憐みの感情を覚えたから。あの日見たグロテスクなひまわりが、未だに脳みそに焼き付いて、笑っている。きっと、惹かれていたんだろう。あの正常になれなかったひまわりに。
正しく咲かなかった花を、同級生は気持ち悪いと一蹴した。店長の指示で、店のゴミ箱に歪な形をした花をいくつも押し込んだ。現実はそんなものだ。誰も、歪な花に興味なんてないんだ。
そう言って姉さんは、おもむろにバッグから何かを取り出す。それは手紙のようだった。これは何? 俺がそう聞くと姉さんはラブレターだよ、と笑っていた。
「……私にいつもラブレターを送ってくれる子猫ちゃんがいるんだ。ファンレターをもらうことはたくさんあるけれど、ラブレターはあまりないから新鮮だね」
「……ラブレター、もらうんだね」
「フフ、一颯ももらったことがあるだろう? 忘れはしないさ、それは去年のバレンタインのこと……」
ああ、あれね。俺のことを姉さんの代替品みたいに扱うのがキモかったから破いて捨てたよ。そうは言えず、そういえばそんなこともあったね、と話を濁した。
返事を考えないとね、姉さんは万年筆を取り出してすらすらと文字を書き始める。俺が、去年、姉さんの誕生日にあげた姉さんのための万年筆を使って、知らない誰かのラブレターへの言葉が紡がれていく。
ずるい、と思った。血が繋がっていないだけで、いとも容易くその言葉を口にできる浅ましい精神が、姉さんに想いを受け止めてもらえると思い込む傲慢さが、憎らしかった。
今すぐその紙を奪って破ってゴミ箱に捨ててやりたくなった、が、過去のことを思い出して、やめる。
俺の姉さんへの感情は、昔と何ひとつ変わっていない。ただひとつ変わったのは、その欲望の形だけだった。
中学に上がってすぐ、セックス、という概念を同級生に教わった。愛し合う男女がする、愛を確かめ合う行為。欲を吐き出す行為。
お前も見てみろよ、そう言って見せられた知らない裸の女性と、男が抱き合っている映像。俺は何も感じなかった。
ただ、気持ち悪い。虫の交尾でも見せられているのかと思った。虫の方がマシか。人間はいつだって醜いから。
そう思って過ごしていた矢先のことだった。たまたま運悪くタイミングが重なってしまい、風呂上がりの姉さんと鉢合わせた日があった。
……昔はずっと一緒に同じ風呂に入っていた。けれど、大人になるにつれ、なんとなく、避けるようになった。きっとそれが普通なんだろう。お互いの裸や下着姿も、なんとなく、見てはいけないものと思うようになった。
久しぶりに、一糸纏わぬ姿の姉さんを見た。びっくりさせてしまってすまないね、とタオルで隠したその身体に、俺は釘付けになっていた。
何も言わず自室に駆け込んだ。大丈夫かい、具合でも悪いのかい、とドアの向こうから語りかけてくるその声を聞きながら、俺は自身の欲望を必死に慰めた。
おかしくなってしまったのかと思った。でも、今すぐに吐き出さないとおかしくなりそうだった。扉の向こう側にギリギリ聞こえないような小さな声で想い人の名前を呼んで、吐精する。その時、ようやくわかった。
ああ、俺。姉さんのことが好きなんだ。
全てのピースが、ピッタリハマる音がした。
俺、したい。姉さんとセックス、したい。あの映像でしてたようなことだって、姉さんとならしたい。姉さんの身体をぐじゅぐじゅに侵したい。姉さんの全部を俺で染め上げたい。
荒くなる息。二度目の吐精。誰かを想ってするそれがこんなに気持ちがいいものだとは、思わなかった。
息を整え、服を整え、扉を開ける。不安そうなあなたになんでもないよ、と無邪気に笑ってみせた。
……そんな紙切れなんかに惑わされないで、そばにいる俺だけを見てくれればいいのに。そんな世迷言が頭をよぎる。
普通の弟は、そんなこと考えないんだろうな。だから、頭がおかしくなる。普通の定義を理解するために、いろいろ学習しすぎたのがいけなかったのかもしれない。気づけば、常識という枷が全身にまとわりついてしまった。
でも、理性で本能を抑え込んだとして、たまにそれがはち切れて爆発しそうになる時がある。そんな時は姉さんの部屋に忍び込んで、まあ、そう。「寝かしつけて」もらうんだ。
この人は、いつまで気づかないんだろう。いつまで気づかないフリをするんだろう。普段勘が鋭いくせにこういう時だけ鈍いのがあなたらしいな、なんて。
あなたの指先が、文字を綴っていく。俺はただ、その指先を追っていく。眺めることしか、できないから。
その頬に鮮やかな赤が差している事実に、必死に目を背けた。背けた先にあるその指先に、また視線を向けた。
〜
「……彼と、会うことにしたんだ」
突然の告白だった。お互い冬休みも終わり、そろそろ学校が始まる、そんなある日の夕食後。姉さんは普段とは打って変わったもじもじした態度で、俺にこう打ち明けた。
「彼って、誰?」
「いつも私にラブレターをくれる子猫ちゃんのことだよ。すまない、分かりづらい伝え方をしてしまって」
「……あの人、男だったんだ」
ちょうど、一颯と同じくらいの子だよ。姉さんは嬉しそうにそう答えた。なら、尚更不快感が増す。このモヤモヤがどこから来たモヤモヤなのかはわからないけれど、さっきからずっと虫のいどころが悪い。
普段なら、よかったね、行ってらっしゃい。みたいな当たり障りのない言葉が言えるのに。今回だけは、口が勝手にこう動いていた。
「姉さん、やめときなよ。手紙でしか話せないようなやつなんて、どうせ碌な奴じゃないよ。絶対、姉さんのこと騙そうとしてる」
「そうかい? 彼は顔写真と電話番号を一緒に送ってくれたけれど……」
「だから、その写真が偽物の可能性もあるって! もし待ち合わせに来たのがあの時の演劇部の先生みたいなやつだったらどうするの?」
姉さんの顔が、こわばった。
「……ごめん」
「いいんだ、一颯」
空気が、重くなる。ああ、この話題だけは、絶対に触れないでおこうと思ったのに。
……姉さんは、優しく笑っている。それ以上この話に踏み込むこともなく、だからと言って無理やり話を変えようとするわけでもなく。その中途半端な優しさが、大好きで大嫌いだ。
「あの姉さんが実際に会いたい、って思うなんて。どんな手紙なのか、気になるな。もしよかったら、俺に読ませて」
「それは……彼との秘密を守れなくなってしまうからね。申し訳ないけれど、それはできないかな」
「そっか。ごめん」
無理やり話を変えようとして、失敗した。正直な話そいつが手紙で何を言っていようと関係ないが、ただ、姉さんが、俺以外のところに行くことだけが怖かった。
……どうしてこんなに怖いんだろう。それすらもわからなくなっていた。
その日の夜。俺はこっそり姉さんの部屋に忍び込んだ。いつものように「寝かしつけ」てもらうのではなく、また、別の理由で。
姉さんは、大切なものは机の引き出しにしまうタイプだ。それも、一番上の、一番取り出しやすい場所に。
音を立てないように、引き出しを引く。そこには、千聖さんとの写真や幼い頃の俺が描いた姉さんの似顔絵、例の手紙が入っていた。
……少しだけ、不安になる。けれど、確かめないと意味がないから。
綺麗な封筒に入れられた手紙を開き、中身を取り出す。そこには、綺麗な字でこう書いてあった。
薫さん、こんにちは。いつも、僕の拙い手紙にお返事を書いてくださりありがとうございます。
薫さんとこうして手紙でお話できることが、すごく嬉しいです! 薫さんは僕の手紙に、いっつも優しくお返事をくれるので、とっても幸せな気持ちになります。
そんな優しくて素敵な薫さんに、ひとつだけ、お願いがあります。
もしよかったら、僕と会ってくれませんか。
この通り、僕は、人が怖くて、うまく喋れません。手紙や、インターネットを通してでしか、人と繋がれなくて、でも、そんな僕を初めて肯定してくれたのが薫さんでした。
ハロハピちゃんねるに送ったメッセージに、薫さんが真摯に答えてくれたあの日のことを思い出すたびに、胸がぎゅっとなって、ポカポカした気持ちになります。
薫さんは、僕の人生に光をくれました。喜びをくれました。幸せをくれました。薫さんは、僕のお星さまみたいな人です。
……無理にとは言いません。大好きな薫さんの負担にはなりたくないですから。ただ、僕の光になってくれてありがとうって、直接伝えたいんです。
もし、薫さんがよかったら、次の日曜日のお昼ごろ、公園でお待ちしています。
そこに添えられた一枚の証明写真。学ランを着た黒髪の少年が幸せそうに微笑んでいた。
ふざけるのも大概にしろよ。
頭が、怒りでふつふつと煮えていく。こんな馬鹿げた手紙をよこすそいつにも、それに真摯に返事をする姉さんにも、それを眺めることしかできない俺にも。
全部に腹が立つ。薫さんは光です、なんてポエムをつらつら書いておきながら姉さんの負担も考えないで自分の都合だけ押し付けてくるところとか、だいたい! 姉さんが優しいからお前のバカみたいな文通ごっこは成り立っているのであって、こんな、こんな。
姉さんも姉さんだ。こんな会話するような価値もない子供に構うくらいなら、こいつと同い年でもっとあなたのそばにいる存在を見てあげればいいのに。こんな素性も知れない、得体の知れない子供に会いに行くなんて、どうかしてる。そうなるくらいなら、俺と一緒にいる時間を増やしてくれたっていいじゃないか。
そう言いたい。そう言えない。どうしても理性というタガが、外れてくれないのだ。
俺がこんなにも苦労して手に入れた居場所を、そんな甘ったれた理由で奪おうとする卑怯者がいるのに。そんな卑怯者に構う前に、もっと俺を見てほしいのに。この口は、そんな当たり前のことすら言えなくなってしまった。
いっそ、狂気で頭を支配することができればよかったのか? 愛に狂う人間を馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまうぐらいには、俺は理性的だ。理性的すぎる。
思わず自嘲じみた笑いが出た。
「……一颯。その手紙、読んだのかい?」
どうやら起こしてしまったらしい。姉さんは恐る恐る、俺に問いかけてきた。その眼差しは、あの日と同じ、バケモノを見る目だった。
……ああ、そっか。俺、まだ、姉さんに信用してもらえてなかったんだ。こんなに頑張っても、またダメだったんだ。
そうだ。結局そうなんだ。
努力はいつも救われない! 今まで嫌というほど思い知らされてきた。俺の悪癖を矯正したのも、全部、ぜんぶ無駄だったのかもなあ。
ねえ、俺がどれだけ苦労したか知ってる? どれだけ自分の歪さを隠していたと思う? 何年普通のフリをし続けてきたと思う? 姉さんは鈍感だから、わからないだろうね。どれだけ普通が難しいことか。どれだけ取り繕うのが苦しいことか。
本当はさ、学校も部活もバイトも辞めて、もちろん姉さんも全部やめて、二人だけで過ごしたいよ。でも、それを言ったら姉さんは嫌がるでしょう? だから我慢してるんだ。俺。ずっと我慢してるんだ。ずっとずっとずっとずっと我慢してるんだ。
姉さんがしつこいくらい繰り返す子猫ちゃんの話、笑って聞いてたよ。ハロハピとかいうわけわかんないバンドのライブにも行ったし、姉さんが知らない女と恋愛シーン演じてる舞台も吐きそうになりながら見たよ。
でも知らないんだよね。姉さんは。この苦しみを。この時間を。この感情を。なんだか不平等だよね。
でもさ、こうして俺がどれだけ心を削っても、心を尽くしても、心を隠し通しても、結局最後は俺の苦しみのひとかけらも知らないような馬鹿共に大切を全て奪われるんだ。
あの時、警察に捕まる前にあいつも殺しておけばよかった。この手紙が届き始めた瞬間にこの手紙を破り捨てて送り主の家を大火事にしておけばよかった。どうせ剥がれる化けの皮なら、最初から化け物になっておけばよかった。
結局のところ、本能を理性で抑えたところで損をするのはいつも俺。それに、もっと早く気づけたらよかったな。
「うん、読んだよ」
「すっごく……すっごく、バカバカしかった!」
ごめんね、姉さん。俺は手紙の彼みたいな、あなたの望むお利口さんになれないみたいだ。手に持ったそれを二つに割き、床に叩き捨てた。姉さんの瞳の色が、また変わった。その色は、あの日血まみれになった俺を見ていた時と全く同じ色だった。
そうだよ、結局のところ、どれだけ理性で抑えようが化け物は化け物のままなんだ。そう気づかせてくれて、ありがとう! どれだけ人間のふりをしても、どれだけ反応を抑え込んでも、結局ダメなんだ。
普通の弟のフリはもうやめよう。俺が普通を演じてる間に、感情を抑え込んでいる間に、大切なものも、大切な人も、全部全部、悪者が持っていっちゃうからさ。 それらしい「手紙」なんか書いちゃってさあ!
だから、化け物は化け物らしく、全部奪い返すんだ。あなたが遠くへ行ってしまう前に、誰かのものになる前に。
瀬田薫を俺だけのものにしないと。
ベッドに向かい、そのまま姉さんを押し倒す。どうしたんだい、なんでこんなことをするんだい、姉さんは何度もそう繰り返す。
あまりにもうるさかったから、首を絞めた。少し腕に力を入れるだけで、あなたは潰れたカエルのような声で啼く。いつも子猫ちゃんたちを昂らせているであろうその美声が俺の手で締め上げられる様子に、下半身に熱が集まる。
「……ずっと、こうしたかったんだ」
そう言って、姉さんの身体を抱きしめる。起きてすぐの体温は、ほんのり温かい。昔はこうしてたくさん抱き合ったよね。
背中を撫でるたびに、あなたの身体がびくりと跳ねる。そんなに怯えなくても、怖いことなんて一つもしないのに。だって俺は、姉さんを、あなたを、かおるちゃんを愛しているから。
「一颯、きみ、は……」
「一颯じゃなくて、いぶくん、って呼んで。かおるちゃん」
あなたは、何もわかっていなかった。どうして俺がこんなことをしているのか、どうして俺がこんなに傷ついているのか、全部全部わかっていなかった。
本当に鈍感な人だと思う。でも、そこが好きだ。たまらなく好きだ。化け物だって思われてもいい。普通になんてなれなくたっていい。あなたの瞳が俺を見つめてくれる限り、俺は俺でいられるから。
あなたというレンズが俺を捉えてくれるから、俺はここに存在できるんだ。
「覚えてる? 父さんと母さんが出かけた夜の日、初めてキスしたこと」
「懐かしいな。少女漫画に憧れたかおるちゃんが、キスってどんな味がするんだろうって言ってさ」
「触れるだけの、軽いキスだった。けど、俺ははっきり覚えてる。忘れられないんだ、あの感触が。あなたもきっとそうだよね?」
「ねえ、もう一回しようよ。今度は、恋人みたいに、舌を絡めてさ」
顎を掴んで無理やり唇を寄せ、その口内を舌で蹂躙する。首を振って逃げようとする姿も愛らしい。ぷは、と息継ぎをして、もう一度顔を寄せた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
その涙は、どんな意味の涙なんだろう。まあ、聞くだけ無駄だろうな。聞いたところで、傷つくだけだ。
「ま、待ってくれ! 君は、一颯は、そんな子じゃ、ないだろう……」
「そんな子じゃないって、それは姉さんが勝手に俺にかけた色眼鏡の話でしょう? そんな嘘に惑わされないで、今の俺を見て」
姉さんの瞳が、俺を捉える。逃げようとジタバタもがいていた動きも止まり、あなたは、ただ、俺を見つめていた。その瞳に映る感情は、今まで見たものとはまた違う、新しい感情のように見えた。
「あなたのことを愛しています、瀬田薫さん。出会った時から、ずっと」
……ああ、言えた。言ってしまえた。あなたにずっと隠してきた、あなたにずっと言えなかった本当の気持ちを、今、ここでようやく口にすることができた。
姉さんからの返事はない。ただ、何かを考え込んでいるようだった。きっと、俺を正常に戻すためのセリフか、俺の目を覚まさせるためのシェイクスピアの言葉を必死にその脳みそから捻り出しているのだろう。この惨状を今更シェイクスピアの言葉なんかで救えるわけがないのに、バカだなあ。
ああ、本当に。ひどい人だ、あなたって人は。これは全部あなたが蒔いた種なのに。
「……一颯、私は」
「聞きたくない」
「姉さんが言いたいこと、俺、わかっちゃうからさ」
……きょうだいだからかな、俺もわかるようになったんだ。姉さんの考えてること、姉さんの伝えたいこと。
あなたは真摯で優しい人。きょうだいだから、っていう雑な理由で振るんじゃなくて、ちゃんと、しっかり、俺と、瀬田一颯と向き合った上で気持ちを伝えてくる。
だから聞きたくない。言わせない。そうなるくらいなら、いっそ。
「好きになってくれないなら、俺と一緒に死んで」
「それでさ、やり直そうよ。今度は赤の他人に生まれてさ、普通に出会って、普通に恋しよう。みんなの前で結婚式を挙げてさ、二人の名前を刻んだ指輪を作ろう」
「子供も二人ぐらいできたらいいね。せっかくだし、女の子と男の子がいいな。それでさ、家族みんなでシェイクスピアの舞台を観に行こうよ。俺、そういうのに憧れてたんだ」
「そうだよ。俺たちは、そうなるべきだったんだ」
独り言のように、自分に言い聞かせるように、言葉を吐き出していく。叶いもしない夢物語を、ただ、ただ、吐き出す。
ねえ、姉さん。俺たちはアダムとイブになるべきだったんじゃないかな。世界が俺たち二人だけだったら、他に邪魔は入らない。二人で、二人だけで、永遠になれたはずなんだ。
「……好きになってごめん」
「普通になれなくて、ごめん」
……ごめん。正しい弟になれなくて。ごめん。綺麗な花になれなくて。一度起こった遺伝子のエラーは、変えられない。
ひまわりの花は、いつでもあなただけを見つめている。その形が歪だっただけ。増えて、伸びて、歪んで、不気味に変貌してしまっただけ。そう片付けられたら、どれだけ楽だっただろうか。
……苦しいな。
あなたの首に手をかけた。全てを終わらせるために。これ以上、二人が苦しまないために。俺たちが、今度こそ幸せになるために。
少しずつ、少しずつ、力を込める。だんだん、だんだん、あなたの命の灯火が消えていく。ろうそくの炎が小さくなっていくように、花が枯れていくように。それが怖くて、一瞬手を離そうとして、やめた。ここであなたと永遠にならなければ、俺はもう、後戻りができないから。もう、どうしようもないところまで来てしまったから。
どうして、こんなことになったんだっけ。今は、その理由すら、思い出せない。でも、きっと、いつかは終わる運命だったんだ。それが今になっただけ。必死に頭の中で言い訳を紡いで、紡いで、紡ぐ。
ふと、俺の頬に手のひらが添えられる。それは、間違いない、あなたの手だった。
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
あなたの口がそう動いた気がした。
それ以上言葉を聞きたくなくて、締める力を強くする。あなたは掠れた息を吐くだけで、もう何も話さなかった。話せなかった。
どうしようもなく手が震えて力が抜ける。あなたの首にかけた体重が分散されていく。あなたは大きな咳を何回か繰り返して、再びベッドに倒れ込んだ。
どうしていいのかわからなくなった。脳みそが、全部、白で塗りつぶされていく。
何もかもわからなかなった今わかるのは、もう、この先の未来に光なんてないこと。
もっとちゃんと襲えばよかった。もっとちゃんと息の根を止められればよかった。でも、あなたという温もりを失うのが怖くて、どちらにも踏み切れなかった。
優しい腕が、俺を包む。それは間違いなく、あなたのものだった。震えながらも、力強く、温かい体温だけが、暖房の切れた冷たい部屋の中にあった。
「……寂しい思いを、させてしまったね」
世界で一番優しい死刑宣告。だと思った。あなたは、どこまでも優しい人だから。あなたは、どこまでも正しい人だから。なれはてになったしまった俺すらも見捨てられない。見捨ててくれない。
ああ、皮肉だなあ。誰にでも平等なあなたの優しさを嫌っていたのに、そんなあなたの優しさが最後の救いになるなんて。
あなたの、瀬田薫の優しさは鎖なんだ。俺みたいな化け物を生き地獄に繋ぎ止める、硬い硬い鎖。うまく断ち切れたらよかったのに。
「大丈夫、怖くないよ。私は、一颯の味方だからね」
「……今日は、二人で、ゆっくり眠ろうか」
俺とあなたを繋ぐのが、運命の赤い糸だったらよかったのにな。恋人のように、あなたの手に指を絡めてみた。あなたはそれを振り解かなかった。
ねえ、俺のこと、気持ち悪いって言ってよ。おかしいって、ダメだって叱って。おねえちゃんらしく、ダメな弟を罰してよ。
ねえ、俺のこと、好きって言ってよ。愛してる、離さないって抱きしめて。王子様みたいに、俺だけにあまい言葉を囁いてよ。
ぐちゃぐちゃになった感情が、ミキサーにかけられるように頭の中をぐるぐる回る。
「……かおる、ちゃん、姉さん、好き、好き……」
ああ、今日は、やけに月が綺麗ですね。うっとおしいくらいに、綺麗ですね。そんな言葉が、喉につっかえて、そのまま胃の中に落ちていく。それでいい、それでいいんだ。ひんやりとした空気が、心地よかった。
おかしいよね、ここからじゃ月なんて見えないのに。月の光なんて黒黒とした雲で覆い隠されてるのに、俺たちは何を見て綺麗というのだろう。その答えは、目の前のあなたにあるんだ。
あなたの瞳が俺を捉える。そのあかい満月には、はじめてちゃんと俺が映った。そのガラス玉の奥の自分は、どんな顔をしていたんだろう。全然、わからないんだ。あなたなら、わかるかな。あなたは、昔からなんでも俺に教えてくれたから。
でも、こんな俺でも、ひとつだけわかることがある。それはきっと。
誤魔化すように、唇をあなたに重ねる。舌で絡めとった唾液の味が全くして俺と同じだったから、思わず乾いた笑いが出た。