帰宅したナツコは、夫の帰宅時間に合わせて夕食の準備を始めていた。
だが、病院での出来事が胸に重くのしかかり、包丁を握る手がわずかに震える。
けして自分に非があるわけではない。
それでも──夫に知られることを、心の底から恐れていた。
彼女の夫は、自分の妻の話など聞いてくれる人間ではない。
関係を持ったことにだけ焦点を当て、被害者である彼女を、ひたすら攻め続けるだろう。
まるで罪人のように──。
離婚で済むなら、まだ救いはある。
だが彼は、この出来事を盾にして、死ぬまで彼女を縛りつける男だ。
ナツコは、それを骨の髄まで理解していた。
だから、隠し通すしかなかった。
家に帰ってシャワーを浴び、あの男の痕跡をすぐに消した。
何度もシャワーのお湯を当て、事実すら無かったことにしようとした。
しかし、胸の奥に嫌な不安が過る。
ナツコの旦那は、そういうことに関してだけは、異様なほど鼻が利くのだ。
念のため、もう一度シャワーを浴びようと、ナツコはバスルームへ向かおうとした。
その時──玄関のドアが開く音が響いた。
「帰ったぞ~。旦那様のお帰りだぁ~」
その声に、ナツコの身体がびくりと跳ねる。
慌てて玄関へ向かい、彼女は旦那の前に跪いた。
「お帰りなさい。キヨヒコさん」
この家では、それが日常だった。
ナツコにとっては、逆らうという選択肢そのものが存在しない。
体育会系のキヨヒコは、男尊女卑の考え方が強く、妻が夫に従うのは当然だと、疑いすら持っていない。
ナツコが跪く姿に、キヨヒコは満足げに笑った。そして、持っていた鞄を当然のように彼女へ差し出す。
「今日、病院行ってきたんだろ? どうだった?」
その言葉に、ナツコの心臓がひくりと跳ねた。
だが、今日の彼は妙に機嫌がいい。
いつもなら、些細なことで苛立ちをぶつけてくるのに、怒気がまるでない。
顔色を慎重にうかがいながら、ナツコは小さく息を整え、静かに答えた。
「……安定期に入ったみたいです。順調だと、言われました」
嘘を吐くたび、胸の奥が軋む。それでも、こう言うしかなかった。
その返答を聞いて、キヨヒコは満足そうに口角を吊り上げた。
「……そうか。それなら、安心だな……」
意味深にそう呟き、彼は舐め回すような視線をナツコの全身へ向ける。
ナツコには、その視線が何を意味しているのか、痛いほど分かっていた。
だが、病院での出来事が頭から離れない。今日は、どうしてもそんな気分になれない。
それ以上に──バレることが、恐ろしかった。
夫は、ほんの小さな違和感すら見逃さない男だ。
「で、でも……お医者様は、もう少し様子を見た方がいいって……」
それもまた嘘だった。
だが今日は、どうしても受け入れるわけにはいかなかった。
一瞬の沈黙。
その空気を切り裂くように、キヨヒコの声が炸裂する。
「おい! 俺がどんだけ我慢してきたと思ってんだよ!」
その瞬間、態度は一変した。
さっきまでの余裕は消え失せ、剥き出しの怒りがぶつけられる。
その怒声に、ナツコの身体がびくりと跳ねる。
それでも声を上げることもできず、ただ静かに震えるしかなかった。
──そもそも、彼との出会いからして、ナツコにとっては不幸の始まりだった。
すべては、大学時代に遡る。
野球部でそこそこ活躍していたキヨヒコのことを、ナツコはまったく知らなかった。
彼女はできるだけ人との関わりを避け、小さな頃から好きだった、植物の世話をして日々を過ごしてきた。
スポーツや流行りごとの話題など、興味を持つことすらなかったのだ。
だが、どこで目を付けられたのか。
ある日を境に、野球部の仲間たちが、面白半分でナツコとキヨヒコをくっ付けようと、執拗に動き始める。
当時のナツコは、彼氏など必要としていなかった。
ましてや、キヨヒコに特別な感情を抱く理由もない。
精悍な顔立ちに、野球部で鍛えた屈強な身体。
体毛の濃さも相まって、まるで冒険漫画に出てくるコボルトのよう。
ナツコの目には、それが生理的な違和感として映っていた。
彼女はやんわりと断り続けていた。
だが、昼休みも、帰り道も、顔を合わせるたびに声を掛けてくる。
そのしつこさに次第に嫌気がさし、一度きりならとデートを受けてしまう。
その選択が、後に大きな後悔になるとも知らずに。
それでも──
最初のうちのキヨヒコは、少なくとも表向きは、紳士的な態度でナツコに接していた。
彼女の機嫌を取り、自分の「優しさ」を必死にアピールする。
だが、押し付けの優しさの積み重ねは、少しずつ彼女から「断る」という選択肢を奪っていった。
ナツコは元々、気弱で流されやすい性格──。
気が付くと、自分で選んだつもりになったまま、彼と一夜を共にしていた。
「お前に選択肢などない! 俺の言う通りにしろ!」
キヨヒコはそう怒鳴りつけると、ナツコの返事も待たずに寝室へ向かい、いつものようにドアを「バタン!」と乱暴に閉めた。
ナツコは青ざめていた。
このままでは、病院での出来事がバレてしまう。
だが、これ以上旦那の機嫌を損ねるわけにもいかない。
今になって、あの病院へ行ったことを深く後悔する。
虚ろな顔のままキッチンへ戻り、再び夕食の準備を始めた。
包丁を握り、無意識のまま野菜を切り始める。
頭の中は混乱し、自分が何をしているのかすらわからない。
「トントントン……」
包丁がまな板を叩く音だけが、虚しくキッチンに響いていた。
~to be continued~