※この作品はR-18です。

エロスの極み   作:村上しんご

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第17話 逃げ場のない人妻

 帰宅したナツコは、夫の帰宅時間に合わせて夕食の準備を始めていた。

 だが、病院での出来事が胸に重くのしかかり、包丁を握る手がわずかに震える。

 

 けして自分に非があるわけではない。

 それでも──夫に知られることを、心の底から恐れていた。

 

 彼女の夫は、自分の妻の話など聞いてくれる人間ではない。

 関係を持ったことにだけ焦点を当て、被害者である彼女を、ひたすら攻め続けるだろう。

 

 まるで罪人のように──。

 離婚で済むなら、まだ救いはある。

 だが彼は、この出来事を盾にして、死ぬまで彼女を縛りつける男だ。

 ナツコは、それを骨の髄まで理解していた。

 

 だから、隠し通すしかなかった。

 家に帰ってシャワーを浴び、あの男の痕跡をすぐに消した。

 何度もシャワーのお湯を当て、事実すら無かったことにしようとした。

 

 しかし、胸の奥に嫌な不安が過る。

 ナツコの旦那は、そういうことに関してだけは、異様なほど鼻が利くのだ。

 

 念のため、もう一度シャワーを浴びようと、ナツコはバスルームへ向かおうとした。

 その時──玄関のドアが開く音が響いた。

 

「帰ったぞ~。旦那様のお帰りだぁ~」

 

 その声に、ナツコの身体がびくりと跳ねる。

 慌てて玄関へ向かい、彼女は旦那の前に跪いた。

 

「お帰りなさい。キヨヒコさん」

 

 この家では、それが日常だった。

 ナツコにとっては、逆らうという選択肢そのものが存在しない。

 

 体育会系のキヨヒコは、男尊女卑の考え方が強く、妻が夫に従うのは当然だと、疑いすら持っていない。

 ナツコが跪く姿に、キヨヒコは満足げに笑った。そして、持っていた鞄を当然のように彼女へ差し出す。

 

「今日、病院行ってきたんだろ? どうだった?」

 

 その言葉に、ナツコの心臓がひくりと跳ねた。

 だが、今日の彼は妙に機嫌がいい。

 いつもなら、些細なことで苛立ちをぶつけてくるのに、怒気がまるでない。

 

 顔色を慎重にうかがいながら、ナツコは小さく息を整え、静かに答えた。

 

「……安定期に入ったみたいです。順調だと、言われました」

 

 嘘を吐くたび、胸の奥が軋む。それでも、こう言うしかなかった。

 

 その返答を聞いて、キヨヒコは満足そうに口角を吊り上げた。

 

「……そうか。それなら、安心だな……」

 

 意味深にそう呟き、彼は舐め回すような視線をナツコの全身へ向ける。

 

 ナツコには、その視線が何を意味しているのか、痛いほど分かっていた。

 だが、病院での出来事が頭から離れない。今日は、どうしてもそんな気分になれない。

 それ以上に──バレることが、恐ろしかった。

 

 夫は、ほんの小さな違和感すら見逃さない男だ。

 

「で、でも……お医者様は、もう少し様子を見た方がいいって……」

 

 それもまた嘘だった。

 だが今日は、どうしても受け入れるわけにはいかなかった。

 

 一瞬の沈黙。

 

 その空気を切り裂くように、キヨヒコの声が炸裂する。

 

「おい! 俺がどんだけ我慢してきたと思ってんだよ!」

 

 その瞬間、態度は一変した。

 さっきまでの余裕は消え失せ、剥き出しの怒りがぶつけられる。

 

 その怒声に、ナツコの身体がびくりと跳ねる。

 それでも声を上げることもできず、ただ静かに震えるしかなかった。

 

 ──そもそも、彼との出会いからして、ナツコにとっては不幸の始まりだった。

 

 すべては、大学時代に遡る。

 

 野球部でそこそこ活躍していたキヨヒコのことを、ナツコはまったく知らなかった。

 彼女はできるだけ人との関わりを避け、小さな頃から好きだった、植物の世話をして日々を過ごしてきた。

 スポーツや流行りごとの話題など、興味を持つことすらなかったのだ。

 

 だが、どこで目を付けられたのか。

 ある日を境に、野球部の仲間たちが、面白半分でナツコとキヨヒコをくっ付けようと、執拗に動き始める。

 

 当時のナツコは、彼氏など必要としていなかった。

 ましてや、キヨヒコに特別な感情を抱く理由もない。

 

 精悍な顔立ちに、野球部で鍛えた屈強な身体。

 体毛の濃さも相まって、まるで冒険漫画に出てくるコボルトのよう。

 ナツコの目には、それが生理的な違和感として映っていた。

 

 彼女はやんわりと断り続けていた。

 だが、昼休みも、帰り道も、顔を合わせるたびに声を掛けてくる。

 そのしつこさに次第に嫌気がさし、一度きりならとデートを受けてしまう。

 その選択が、後に大きな後悔になるとも知らずに。

 

 それでも──

 最初のうちのキヨヒコは、少なくとも表向きは、紳士的な態度でナツコに接していた。

 彼女の機嫌を取り、自分の「優しさ」を必死にアピールする。

 

 だが、押し付けの優しさの積み重ねは、少しずつ彼女から「断る」という選択肢を奪っていった。

 ナツコは元々、気弱で流されやすい性格──。

 

 気が付くと、自分で選んだつもりになったまま、彼と一夜を共にしていた。

 

 

「お前に選択肢などない! 俺の言う通りにしろ!」

 

 キヨヒコはそう怒鳴りつけると、ナツコの返事も待たずに寝室へ向かい、いつものようにドアを「バタン!」と乱暴に閉めた。

 

 ナツコは青ざめていた。

 このままでは、病院での出来事がバレてしまう。

 だが、これ以上旦那の機嫌を損ねるわけにもいかない。

 

 今になって、あの病院へ行ったことを深く後悔する。

 虚ろな顔のままキッチンへ戻り、再び夕食の準備を始めた。

 

 包丁を握り、無意識のまま野菜を切り始める。

 頭の中は混乱し、自分が何をしているのかすらわからない。

 

「トントントン……」

 

 包丁がまな板を叩く音だけが、虚しくキッチンに響いていた。

 

 

 

 

 

 

            ~to be continued~

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