※この作品はR-18です。

エロスの極み   作:村上しんご

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第21話 掴みかけた夢

 何の薬かは分からなかった。

 それでもナツコは、彼から手渡されたそれを、疑おうともしなかった。

 

 シンスケとの甘い生活を夢見ながら、夫──キヨヒコが口にする料理へと、ためらいもなく混ぜていく。

 煩わしい夫が、もうじき目の前から消える。

 そう思うだけで、指先に自然と力が入った。

 

 いつもは義務のように作っていた料理が、その時から、格段に豪勢になっていった。

 何も知らない夫は、料理の腕が上がったと単純に喜ぶ。

 その様子を見て、ナツコは内心、静かにほくそ笑んでいた。

 

 夫は、彼女のことを、まだ少しも疑っていない。

 いつまでも自分だけのもので、服従を誓っていると信じ切っている。

 

 目の前の料理を口にしながら、その裏で何が進んでいるのかも知らない。

 機嫌の良い夫を前に、彼女はいつも通りに振るまう。

 素知らぬ顔をしながらも、頭の中では、これから始まる新しい生活を思い描いていた。

 

 ナツコは、シンスケと暮らせることを疑っていない。

 お腹の子の父親になってくれると、信じ切っている。

 

 彼がそんな約束をしたことは、一度もないというのに。

 

 彼との逢瀬を重ねながら、夫の前では感情を押し殺し、何事もない顔で日常を繰り返す。

 そして、ただ黙々と薬を混入させ続け──

 

 一か月が過ぎた頃。

 

 キヨヒコは、寝室からほとんど出られなくなっていた。

 元気だった頃の面影はまったくなく、げっそりとやせ細り、かつて自慢していた筋肉の痕跡すら見えない。

 目の周りは大きく窪み、あれほど自信に満ちていた精悍な顔つきも、今では別人のようだった。

 

 ナツコは、献身的に看病を続けているように振る舞っていた。

 だが、その心の奥では、この哀れな姿を前に、確かな喜びが芽生えていた。

 

 早く居なくなってくれ──

 そう願いながら、彼に食べさせるお粥に、今日も変わらず薬を混ぜていった。

 

 ──その最中だった。

 

 キヨヒコの元に、一人の女が訪れる。

 

「コボルトはいる~?」

 

「……こ、コボルト?」

 

 玄関口で応対したナツコは、目の前に立つ少女の姿に、思わず言葉を失った。

 

 まず目に飛び込んできたのは、少し長めの、さらりとした金髪。

 日本人とは思えない整った顔立ちは、雑誌のモデルのようで、それでいて妙に生活感がない。

 

 派手な柄のプリントシャツの上から黒いパーカーを無造作に羽織り、白いミニスカートを履いている。

 パーカーのポケットに両手を突っ込み、物怖じする様子もなく立っている。

 その姿は、まるで繁華街の路上にたむろするギャルが、間違って場違いな家の玄関に立ってしまったかのようだった。

 

「アンタの旦那のことだよ。名前は……なんて言ったっけ?」

 

 その言い草に、ナツコの胸の奥で何かがカチリと音を立てた。

 明らかに年下で、しかも礼儀の一つもない。

 人の家に上がり込む態度ではない。

 

「貴女、いったい誰なんです? 家の旦那とは、どういう関係で──?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、少女の瑠璃色の目がキラリと光った。

 

「アンタの旦那は、私の奴隷だよ……」

 

 そう言ってニヤリと笑う少女を見た瞬間、ナツコの背筋に冷たいものが走った。

 理解が追いつかない。

 それなのに、少女は怯える素振りひとつ見せず、太々しいほど落ち着き払っている。

 

 その姿は凛としていて、不釣り合いなほどの気品すら感じさせた。

 よく見ると、雪のように白い肌には傷一つ見当たらない。

 

 ──まるで、異国の絵画から抜け出してきた存在。

 絶世の美女と呼ぶに相応しい姿だった。

 

 混乱したナツコは、言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。

 

「アンタ、嫁ならわかるでしょう? あいつがどんな性格をしてるか……」

 

 少女はナツコの顔を覗き込みながら、そう言った。

 そして、少し間をあけてから言葉を続ける。

 

「私は、奴のせいで身投げしようとしていた“お嬢さん”の代わりに、お灸をすえてやったんだ」

 

 それを聞いて、ナツコの胸がドキリと跳ねた。

 ──夫が、家庭の外でも同じことをしていた可能性が、脳裏をよぎる。

 思い当たる節が、あまりにも多すぎた。

 

「……身投げ……ですか? ……」

 

 ナツコは、顔を曇らせながら呟いた。

 胸の奥に、嫌な納得が広がっていく。

 

 やはり、夫のような男は、今生きる女たちにとって害でしかない。

 ──そう思った瞬間、胸のどこかが、ひどく軽くなった。

 

 このまま死んでしまった方が、世の中にとっても良い。

 そんな考えが、自然な結論のように心に収まっていく。

 

「まぁ、アンタが気にする事じゃないさ。でも、最近コボルトが顔を見せなくなったから、どうしたのかと来てみた」

 

 あまりにも軽い口調だった。

 まるで、誰かの安否を気遣うというより、道端の野良猫でも探しているかのように。

 

 少女はそう言って、長い髪をかき上げた。

 風に乗って、その芳しい匂いがナツコの鼻先をかすめる。

 

 その瞬間、胸の奥に小さな違和感が芽生えた。

 

(この人はいったい、何者? 奴隷って……どういう意味?)

 

「貴女、本当に誰!? 何をしに家に来たの!?」

 

 思わず声を荒げた。

 だが、少女はそんなナツコの動揺など意にも介さない。

 

「まあ、いいから、いいから……それより、コボルトはどこよ」

 

 そう言うなり、少女は親しげにナツコの肩を抱き、そのまま家の中へ足を踏み入れようとする。

 

「ちょっと! 旦那は今、人に会える状態じゃないんです!」

 

 引き留めようと腕を掴んだ瞬間、ナツコは息を呑んだ。

 少女の力は、見た目からは想像もつかないほど強い。

 

 抵抗する間もなく引きずられるように家の中へ連れ込まれ、ナツコは成す術もなく後を追う。

 少女は脇目も振らず、迷いのない足取りで寝室へ向かっていった。

 

「コボルト~」

 

 ふざけた調子でそう呼びかけ、ガチャリと扉を開ける。

 

 寝台に横たわる瀕死のキヨヒコの姿を、しばらく無言で眺めてから──

 少女は意味ありげに口元を歪め、ゆっくりとナツコへ視線を向けた。

 

「アンタ……大人しそうな顔して、結構やるね~」

 

 一拍。

 

「──毒、盛ってるでしょ」

 

(ば……バレた!?)

 

 そう思った瞬間、ナツコの背中を冷たい汗が伝った。

 少女の視線を正面から受け止めることができず、ゆっくりと顔を逸らす。

 

 青ざめた頬が引きつり、身体が小刻みに震え始めていた。

 

 その様子を前にしても、少女は少しも動揺しない。

 まるで最初から知っていたかのように、落ち着いた口調で口を開いた。

 

「どんな事情があるのかはわからない……でも、こいつはこいつなりに、今までの行いを悔い改めると誓ったんだ」

 

 少女はそう言うと、再びキヨヒコに目を向けた。

 

「アンタも少しくらい、その変化に気付いたんじゃない?」

 

 その言葉でナツコの脳裏に、旦那の記憶が蘇る。

 ──そういえば、ここ最近の旦那は妙に穏やかになったような気がした。

 一緒に居て聞き慣れない優しい言葉が出たり、些細なことを手伝ってくれるようにもなった。

 だが、盲目的にシンスケにのめり込んでいたナツコには、そんな些細な変化は、もはや意味を持たなかった。

 

 それに──彼の言葉を信じると、もう決めていた。

 邪魔者は、排除されるべき存在なのだと。

 

「何のことですか? それに毒なんて盛ってない」

 

 ナツコの話は、まんざら嘘ではなかった。

 薬が何なのかを知らない以上、毒を盛っているという意識すらなかったのだ。

 

 とにかく、しらばっくれて少女をここから追い出すしかない。

 ナツコはそう決め込むことで、胸の奥のざわめきを押し殺した。

 今更、病院に行ったところで──夫は、もう手遅れなのだ。

 

「ふ~ん。まあ、いいや。……でも、こいつの治療はさせて貰うよ」

 

「治療? ……どうやって?」

 

 少女はそう言うと、ベッドに向かって歩み寄っていく。

 そして、荒く息を吐き、意識も朦朧としているキヨヒコに、そっと手をかざした。

 

「……キアリー」

 

 呟くような詠唱と同時に、瀕死の身体が淡く光を帯びる。

 それは医者の治療とも、祈りとも違う、得体の知れない光だった。

 

 まるで、奇跡のような光景にナツコは大きく目を見開く。

 血色の悪かった彼の顔に血の気が戻り、その呼吸も穏やかになっていく。

 ゆっくりと目をあけるその姿を見て、ナツコは思わず声を上げた。

 

「ま、まさか……!」

 

 それは喜びではなかった。

 ──自分がしてきたことが、無駄になるかもしれないという恐怖だった。

 

 その胸中を悟ったかのように、少女はゆっくりと振り返る。

 そして、何も言わずに動揺するナツコをジッと見つめた。

 ──その正体はエルザ・フォン・エスタービッチ。

 

 彼女を前にして、ナツコは崩れるようにその場にへたり込んでいく。

 重苦しい沈黙の中で、時だけがゆっくりと進んでいった。

 

 

 

 

 

 

           ~to be continued~

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