何の薬かは分からなかった。
それでもナツコは、彼から手渡されたそれを、疑おうともしなかった。
シンスケとの甘い生活を夢見ながら、夫──キヨヒコが口にする料理へと、ためらいもなく混ぜていく。
煩わしい夫が、もうじき目の前から消える。
そう思うだけで、指先に自然と力が入った。
いつもは義務のように作っていた料理が、その時から、格段に豪勢になっていった。
何も知らない夫は、料理の腕が上がったと単純に喜ぶ。
その様子を見て、ナツコは内心、静かにほくそ笑んでいた。
夫は、彼女のことを、まだ少しも疑っていない。
いつまでも自分だけのもので、服従を誓っていると信じ切っている。
目の前の料理を口にしながら、その裏で何が進んでいるのかも知らない。
機嫌の良い夫を前に、彼女はいつも通りに振るまう。
素知らぬ顔をしながらも、頭の中では、これから始まる新しい生活を思い描いていた。
ナツコは、シンスケと暮らせることを疑っていない。
お腹の子の父親になってくれると、信じ切っている。
彼がそんな約束をしたことは、一度もないというのに。
彼との逢瀬を重ねながら、夫の前では感情を押し殺し、何事もない顔で日常を繰り返す。
そして、ただ黙々と薬を混入させ続け──
一か月が過ぎた頃。
キヨヒコは、寝室からほとんど出られなくなっていた。
元気だった頃の面影はまったくなく、げっそりとやせ細り、かつて自慢していた筋肉の痕跡すら見えない。
目の周りは大きく窪み、あれほど自信に満ちていた精悍な顔つきも、今では別人のようだった。
ナツコは、献身的に看病を続けているように振る舞っていた。
だが、その心の奥では、この哀れな姿を前に、確かな喜びが芽生えていた。
早く居なくなってくれ──
そう願いながら、彼に食べさせるお粥に、今日も変わらず薬を混ぜていった。
──その最中だった。
キヨヒコの元に、一人の女が訪れる。
「コボルトはいる~?」
「……こ、コボルト?」
玄関口で応対したナツコは、目の前に立つ少女の姿に、思わず言葉を失った。
まず目に飛び込んできたのは、少し長めの、さらりとした金髪。
日本人とは思えない整った顔立ちは、雑誌のモデルのようで、それでいて妙に生活感がない。
派手な柄のプリントシャツの上から黒いパーカーを無造作に羽織り、白いミニスカートを履いている。
パーカーのポケットに両手を突っ込み、物怖じする様子もなく立っている。
その姿は、まるで繁華街の路上にたむろするギャルが、間違って場違いな家の玄関に立ってしまったかのようだった。
「アンタの旦那のことだよ。名前は……なんて言ったっけ?」
その言い草に、ナツコの胸の奥で何かがカチリと音を立てた。
明らかに年下で、しかも礼儀の一つもない。
人の家に上がり込む態度ではない。
「貴女、いったい誰なんです? 家の旦那とは、どういう関係で──?」
その言葉を聞いた瞬間、少女の瑠璃色の目がキラリと光った。
「アンタの旦那は、私の奴隷だよ……」
そう言ってニヤリと笑う少女を見た瞬間、ナツコの背筋に冷たいものが走った。
理解が追いつかない。
それなのに、少女は怯える素振りひとつ見せず、太々しいほど落ち着き払っている。
その姿は凛としていて、不釣り合いなほどの気品すら感じさせた。
よく見ると、雪のように白い肌には傷一つ見当たらない。
──まるで、異国の絵画から抜け出してきた存在。
絶世の美女と呼ぶに相応しい姿だった。
混乱したナツコは、言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「アンタ、嫁ならわかるでしょう? あいつがどんな性格をしてるか……」
少女はナツコの顔を覗き込みながら、そう言った。
そして、少し間をあけてから言葉を続ける。
「私は、奴のせいで身投げしようとしていた“お嬢さん”の代わりに、お灸をすえてやったんだ」
それを聞いて、ナツコの胸がドキリと跳ねた。
──夫が、家庭の外でも同じことをしていた可能性が、脳裏をよぎる。
思い当たる節が、あまりにも多すぎた。
「……身投げ……ですか? ……」
ナツコは、顔を曇らせながら呟いた。
胸の奥に、嫌な納得が広がっていく。
やはり、夫のような男は、今生きる女たちにとって害でしかない。
──そう思った瞬間、胸のどこかが、ひどく軽くなった。
このまま死んでしまった方が、世の中にとっても良い。
そんな考えが、自然な結論のように心に収まっていく。
「まぁ、アンタが気にする事じゃないさ。でも、最近コボルトが顔を見せなくなったから、どうしたのかと来てみた」
あまりにも軽い口調だった。
まるで、誰かの安否を気遣うというより、道端の野良猫でも探しているかのように。
少女はそう言って、長い髪をかき上げた。
風に乗って、その芳しい匂いがナツコの鼻先をかすめる。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が芽生えた。
(この人はいったい、何者? 奴隷って……どういう意味?)
「貴女、本当に誰!? 何をしに家に来たの!?」
思わず声を荒げた。
だが、少女はそんなナツコの動揺など意にも介さない。
「まあ、いいから、いいから……それより、コボルトはどこよ」
そう言うなり、少女は親しげにナツコの肩を抱き、そのまま家の中へ足を踏み入れようとする。
「ちょっと! 旦那は今、人に会える状態じゃないんです!」
引き留めようと腕を掴んだ瞬間、ナツコは息を呑んだ。
少女の力は、見た目からは想像もつかないほど強い。
抵抗する間もなく引きずられるように家の中へ連れ込まれ、ナツコは成す術もなく後を追う。
少女は脇目も振らず、迷いのない足取りで寝室へ向かっていった。
「コボルト~」
ふざけた調子でそう呼びかけ、ガチャリと扉を開ける。
寝台に横たわる瀕死のキヨヒコの姿を、しばらく無言で眺めてから──
少女は意味ありげに口元を歪め、ゆっくりとナツコへ視線を向けた。
「アンタ……大人しそうな顔して、結構やるね~」
一拍。
「──毒、盛ってるでしょ」
(ば……バレた!?)
そう思った瞬間、ナツコの背中を冷たい汗が伝った。
少女の視線を正面から受け止めることができず、ゆっくりと顔を逸らす。
青ざめた頬が引きつり、身体が小刻みに震え始めていた。
その様子を前にしても、少女は少しも動揺しない。
まるで最初から知っていたかのように、落ち着いた口調で口を開いた。
「どんな事情があるのかはわからない……でも、こいつはこいつなりに、今までの行いを悔い改めると誓ったんだ」
少女はそう言うと、再びキヨヒコに目を向けた。
「アンタも少しくらい、その変化に気付いたんじゃない?」
その言葉でナツコの脳裏に、旦那の記憶が蘇る。
──そういえば、ここ最近の旦那は妙に穏やかになったような気がした。
一緒に居て聞き慣れない優しい言葉が出たり、些細なことを手伝ってくれるようにもなった。
だが、盲目的にシンスケにのめり込んでいたナツコには、そんな些細な変化は、もはや意味を持たなかった。
それに──彼の言葉を信じると、もう決めていた。
邪魔者は、排除されるべき存在なのだと。
「何のことですか? それに毒なんて盛ってない」
ナツコの話は、まんざら嘘ではなかった。
薬が何なのかを知らない以上、毒を盛っているという意識すらなかったのだ。
とにかく、しらばっくれて少女をここから追い出すしかない。
ナツコはそう決め込むことで、胸の奥のざわめきを押し殺した。
今更、病院に行ったところで──夫は、もう手遅れなのだ。
「ふ~ん。まあ、いいや。……でも、こいつの治療はさせて貰うよ」
「治療? ……どうやって?」
少女はそう言うと、ベッドに向かって歩み寄っていく。
そして、荒く息を吐き、意識も朦朧としているキヨヒコに、そっと手をかざした。
「……キアリー」
呟くような詠唱と同時に、瀕死の身体が淡く光を帯びる。
それは医者の治療とも、祈りとも違う、得体の知れない光だった。
まるで、奇跡のような光景にナツコは大きく目を見開く。
血色の悪かった彼の顔に血の気が戻り、その呼吸も穏やかになっていく。
ゆっくりと目をあけるその姿を見て、ナツコは思わず声を上げた。
「ま、まさか……!」
それは喜びではなかった。
──自分がしてきたことが、無駄になるかもしれないという恐怖だった。
その胸中を悟ったかのように、少女はゆっくりと振り返る。
そして、何も言わずに動揺するナツコをジッと見つめた。
──その正体はエルザ・フォン・エスタービッチ。
彼女を前にして、ナツコは崩れるようにその場にへたり込んでいく。
重苦しい沈黙の中で、時だけがゆっくりと進んでいった。
~to be continued~