ヒロシが仕事を終えて帰宅したころには、すでに夜の十時を回っていた。
重い扉を閉めると、ようやく一日が終わった実感が湧く。
心身ともに疲れきっていた。
だが、それ以上に、頭の奥に引っかかって離れないものがある。
──エルザだ。
あれほどの美女が、どうして自分のような男と、いつまでも一緒にいるのだろうか。
しかも、それは一時の気まぐれには思えなかった。
なにより、エルザとの間には、人には言えない身体の関係がある。
何を要求しても応えてくれるし、彼女の方から積極的に求めて来ることさえある。
それは、まるで結婚したばかりのアツアツの夫婦のように。
たとえ衣食住を保証してるとはいえ、こんな年の離れたおっさんに、ここまでしてくれるのは理解できない。
自分には特別な才能があるわけでもない。
実家が裕福というわけでもない。
どこにでもいる、定年が視野に入り始めた普通の会社員だ。
宝くじの一等を引き当てたような奇跡的な幸運だと、自分でもわかっている。
だが──こんな幸運が、いつまでも続くはずがない。
現に、エルザの周りにはいつも男の影がある。
街へ頻繁に出かけているのも、それが原因なのだろう。
夫婦でも、恋人でもない。
だからやめてくれ、と言える立場ではないこともわかっている。
それでも──
この曖昧な関係を“幸運”と思いながらも、彼はいつか訪れる”別れ”に並々ならぬ恐怖を感じていた。
自分がエルザにとって、どんな存在なのかわからない──
それが彼の、疑心暗鬼を着々と育てていた。
「おかえり~」
リビングの扉を開けると、室内は薄暗かった。
間接照明のぼんやりと灯る部屋の中で、エルザはそう言ってヒロシを笑顔で迎える。
仕事の疲れなど一気に吹き飛んでしまうような、いつもの美しい顔立ち。
しかも、衣服はいっさい身に着けていない。
──まさに、生まれたままの姿。
その妖艶で魅惑的な裸体に、頭がくらくらするほどの眩暈が起こる。
だが、疑念が芽生えてしまった今のヒロシには、素直に喜ぶことができなかった。
「どうしたの? ……少し暗いね?」
そう言ってエルザは微笑む。
いつも通りの、柔らかい声。
こうして出迎えれば、彼が喜ぶことを彼女は知っている。
けれど今日のヒロシは違った。
いつもなら姿を見た瞬間、子どものように抱きついてくる。
だが今は、半歩だけ距離を残して立ち尽くしている。
視線が定まらない。
宙を泳ぎ、何かを探すように落ち着かない。
そんな彼の様子を、エルザは少しだけ不思議に思った。
だが、いつもと変わらぬ調子で、あっけらかんと口を開く。
「ほら、おいでよ。……今日でお別れなんだから……」
──お別れ。
その一言が、胸の奥に鋭く突き刺さる。
ヒロシは、ついにその時が来たのだと愕然とした。
いつか終わると、どこかで覚悟していた。
だが、それがこんなにもあっさりと告げられるとは思っていなかった。
思っていた以上に、ショックは大きい。
いつの間にかエルザという存在は、ヒロシにとってなくてはならないものになっていたのだ。
瞳から自然と涙が溢れ、頬を伝う。
ヒロシは、癇癪を起こした子どものように声を荒げた。
「別の男のところに行くんでしょ!? ……僕よりイケメンで、若い男の方がエルザさんにはお似合いだよ!」
五十を過ぎた男の姿とは、とても思えなかった。
エルザは大きく溜め息をつく。
そして、穏やかに告げた。
「私はこの世界の人間じゃないんだ……元の世界に帰らなきゃいけないのは、おっさんだってわかってたでしょ?」
子どもに言い聞かせるような、穏やかな口調。
だが、彼女を失うかもしれないという恐怖に煽られ、ヒロシの燃え上がった感情は収まらない。
「嘘だ! ……僕より良い男を見つけたんでしょ!? だってエルザさん、他にもたくさん男がいるじゃん!」
言ってしまった瞬間、自分でも最低だと思った。
だが止められなかった。
自分以外の男の存在に、ヒロシは薄々気づいていた。
それでも、目を逸らしてきた。
なぜ彼女は、自分のもとに戻ってくるのか。
わからない。
だからこそ、怖かった。
何度も眠れない夜を過ごした。
このまま、帰ってこないのではないかと。
感情を剥き出しにしたヒロシの言葉に、エルザは珍しく悲しげな表情を浮かべた。
それは普段の彼女からは想像もつかないほど、弱々しい顔だった。
「そんな風に思ってたんだ……」
ぽつりと呟く。
「……確かに、傍から見れば私はビッチだよ」
自嘲するように、少しだけ笑う。
けれどその目は笑っていない。
「でもさぁ……」
その瞳は、涙を湛えているのか、きらりと光を宿していた。
「誰彼かまわずそういうことしてるわけじゃない。ちゃんと理由があるし、信念もある」
その眼差しに、嘘はなかった。
「私はエルフだから、長寿じゃん。……長く生きてるとさぁ、わかるんだよ。永遠なんてものは、どこにもないって」
「……へ?」
ヒロシは間の抜けた声を漏らした。
エルザがエルフ──?
そんな話は初耳だ。
出会ったときから、年下の少女だとばかり思っていた。
だが今の口ぶりは、どう考えても自分より長く生きている者のそれだ。
突っ込みたい。問い詰めたい。
だが、今はそんな空気ではない。
ヒロシはただ、黙って彼女の言葉を待った。
「人間だって、もっと自由に生きていいんじゃないかなぁ~」
いつもの、少し気の抜けた調子。
けれど、その目は真剣だった。
「私はおっさんを気に入ったからここに来たし」
一歩、近づく。
「今は──おっさんを愛してる」
その一言で、ヒロシの涙腺は完全に決壊した。
愛してる。
そんな言葉を、エルザの口から聞ける日が来るとは思ってもみなかった。
彼女が自分と一緒にいるのは、きっと打算だと思っていた。
大勢いる男のうちの一人。
たまたま都合がいいから、ここにいるだけなのだと。
だが──
目の前の彼女の眼差しに、偽りはなかった。
少なくとも、今この瞬間は、本気で愛していると伝わってくる。
「私は思うんだ」
エルザは静かに続けた。
「永遠なんてどこにもないからさ。だから、今の自分に正直に生きようって」
「好きになったり、嫌いになったりなんて、ほんの一瞬だよ」
「長く生きてるとね……好きな人を失くすことだって、何度もある」
その声には、作り物ではない重みがあった。
長い時間を生きた者だけが知っている、愛の儚さ。
そして、それでもなお人を好きになる愚かさと強さ。
「私はおっさんと過ごした日々を後悔してないし、誇りにさえ思ってる」
まっすぐに見つめてくる。逃げ場のない、真剣な瞳。
「そして、あんたを愛したことは、生涯忘れない」
その言葉に、軽さはなかった。
エルザはただ、今この瞬間を、誰よりも誠実に生きているだけなのだ。
「私は明日、自分のいた世界に帰る」
ひどくあっさりとした口調。
けれど、それはもう決まっている未来なのだと分かる声。
「だから──おいで」
そっと手を差し出す。
「忘れられない夜にしよう」
「エルザさ~ん!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ヒロシは彼女の胸に飛び込んだ。
その瞬間──
誰が何を言おうと、今この時だけは二人は相思相愛だった。
強く、固い絆で、結ばれている。
その先に待つ別れなど、今はどうでもよかった。
二人は夜通し、言葉よりも確かな温もりで、お互いの愛の深さを確かめ合った。
夜は、残酷なほど静かに更けていった。
そして──
翌朝。
エルザは、真っ白な神官帽と神官服を纏い、ヒロシのマンションを後にする。
そこに昨夜の面影はなかった。
ラフな服で笑っていた女の姿は、微塵も残っていない。
ブロンドの髪は絹糸のように揺れ、雪のような白い肌に曇りはない。
切れ長の瞳には瑠璃色の光が宿り、見下ろすでもないのに、人を寄せつけぬ威厳を放っている。
その姿は──
まさに勇者パーティーの神官、エルザ・フォン・エスタービッチ。
夜通し泣きはらした目で、ヒロシはその背中を見つめていた。
「エルザさん……僕、貴女と過ごしたことを一生忘れない! そして、今、僕も貴女を愛してる。それを誇りに思う!」
その声に、彼女は一瞬だけ足を止める。
そして──振り返った。
柔らかな笑み。
それは未練ではなく、同じ想いを抱いた者への、静かな敬意だった。
だがエルザは、すぐに歩み出す。
もう振り返らない。
未練がないと言えば、嘘になるだろう。
それでも──
長い年月を生きているからこそ彼女は知っている。
時間というものが、どれほど尊く、取り戻せないものかを。
だからこそ、過去に縋らない。
後悔にも溺れない。
今を、全力で生きる。
その生き方の果てにこそ、彼女の求める“エロスの極み”がある。
朝日を受け、白き神官は真っ直ぐ前を見据える。
そして──彼女は振り返らずに歩み続けていった。
~【エロスの極み】fin.~