※この作品はR-18です。

エロスの極み   作:村上しんご

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第29話 さらば、エルザ・フォン・エスタービッチ

 ヒロシが仕事を終えて帰宅したころには、すでに夜の十時を回っていた。

 重い扉を閉めると、ようやく一日が終わった実感が湧く。

 

 心身ともに疲れきっていた。

 だが、それ以上に、頭の奥に引っかかって離れないものがある。

 

 ──エルザだ。

 

 あれほどの美女が、どうして自分のような男と、いつまでも一緒にいるのだろうか。

 しかも、それは一時の気まぐれには思えなかった。

 

 なにより、エルザとの間には、人には言えない身体の関係がある。

 何を要求しても応えてくれるし、彼女の方から積極的に求めて来ることさえある。

 それは、まるで結婚したばかりのアツアツの夫婦のように。

 

 たとえ衣食住を保証してるとはいえ、こんな年の離れたおっさんに、ここまでしてくれるのは理解できない。

 

 自分には特別な才能があるわけでもない。

 実家が裕福というわけでもない。

 どこにでもいる、定年が視野に入り始めた普通の会社員だ。

 

 宝くじの一等を引き当てたような奇跡的な幸運だと、自分でもわかっている。

 

 だが──こんな幸運が、いつまでも続くはずがない。

 

 現に、エルザの周りにはいつも男の影がある。

 街へ頻繁に出かけているのも、それが原因なのだろう。

 

 夫婦でも、恋人でもない。

 だからやめてくれ、と言える立場ではないこともわかっている。

 

 それでも──

 

 この曖昧な関係を“幸運”と思いながらも、彼はいつか訪れる”別れ”に並々ならぬ恐怖を感じていた。

 

 自分がエルザにとって、どんな存在なのかわからない──

 それが彼の、疑心暗鬼を着々と育てていた。

 

「おかえり~」

 

 リビングの扉を開けると、室内は薄暗かった。

 間接照明のぼんやりと灯る部屋の中で、エルザはそう言ってヒロシを笑顔で迎える。

 

 仕事の疲れなど一気に吹き飛んでしまうような、いつもの美しい顔立ち。

 しかも、衣服はいっさい身に着けていない。

 

 ──まさに、生まれたままの姿。

 

 その妖艶で魅惑的な裸体に、頭がくらくらするほどの眩暈が起こる。

 だが、疑念が芽生えてしまった今のヒロシには、素直に喜ぶことができなかった。

 

「どうしたの? ……少し暗いね?」

 

 そう言ってエルザは微笑む。

 いつも通りの、柔らかい声。

 

 こうして出迎えれば、彼が喜ぶことを彼女は知っている。

 

 けれど今日のヒロシは違った。

 

 いつもなら姿を見た瞬間、子どものように抱きついてくる。

 だが今は、半歩だけ距離を残して立ち尽くしている。

 

 視線が定まらない。

 宙を泳ぎ、何かを探すように落ち着かない。

 

 そんな彼の様子を、エルザは少しだけ不思議に思った。

 だが、いつもと変わらぬ調子で、あっけらかんと口を開く。

 

「ほら、おいでよ。……今日でお別れなんだから……」

 

 ──お別れ。

 

 その一言が、胸の奥に鋭く突き刺さる。

 

 ヒロシは、ついにその時が来たのだと愕然とした。

 

 いつか終わると、どこかで覚悟していた。

 だが、それがこんなにもあっさりと告げられるとは思っていなかった。

 

 思っていた以上に、ショックは大きい。

 

 いつの間にかエルザという存在は、ヒロシにとってなくてはならないものになっていたのだ。

 

 瞳から自然と涙が溢れ、頬を伝う。

 

 ヒロシは、癇癪を起こした子どものように声を荒げた。

 

「別の男のところに行くんでしょ!? ……僕よりイケメンで、若い男の方がエルザさんにはお似合いだよ!」

 

 五十を過ぎた男の姿とは、とても思えなかった。

 

 エルザは大きく溜め息をつく。

 そして、穏やかに告げた。

 

「私はこの世界の人間じゃないんだ……元の世界に帰らなきゃいけないのは、おっさんだってわかってたでしょ?」

 

 子どもに言い聞かせるような、穏やかな口調。

 だが、彼女を失うかもしれないという恐怖に煽られ、ヒロシの燃え上がった感情は収まらない。

 

「嘘だ! ……僕より良い男を見つけたんでしょ!? だってエルザさん、他にもたくさん男がいるじゃん!」

 

 言ってしまった瞬間、自分でも最低だと思った。

 だが止められなかった。

 

 自分以外の男の存在に、ヒロシは薄々気づいていた。

 それでも、目を逸らしてきた。

 

 なぜ彼女は、自分のもとに戻ってくるのか。

 

 わからない。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 何度も眠れない夜を過ごした。

 このまま、帰ってこないのではないかと。

 

 感情を剥き出しにしたヒロシの言葉に、エルザは珍しく悲しげな表情を浮かべた。

 それは普段の彼女からは想像もつかないほど、弱々しい顔だった。

 

「そんな風に思ってたんだ……」

 

 ぽつりと呟く。

 

「……確かに、傍から見れば私はビッチだよ」

 

 自嘲するように、少しだけ笑う。

 けれどその目は笑っていない。

 

「でもさぁ……」

 

 その瞳は、涙を湛えているのか、きらりと光を宿していた。

 

「誰彼かまわずそういうことしてるわけじゃない。ちゃんと理由があるし、信念もある」

 

 その眼差しに、嘘はなかった。

 

「私はエルフだから、長寿じゃん。……長く生きてるとさぁ、わかるんだよ。永遠なんてものは、どこにもないって」

 

「……へ?」

 

 ヒロシは間の抜けた声を漏らした。

 

 エルザがエルフ──?

 そんな話は初耳だ。

 

 出会ったときから、年下の少女だとばかり思っていた。

 だが今の口ぶりは、どう考えても自分より長く生きている者のそれだ。

 

 突っ込みたい。問い詰めたい。

 だが、今はそんな空気ではない。

 

 ヒロシはただ、黙って彼女の言葉を待った。

 

「人間だって、もっと自由に生きていいんじゃないかなぁ~」

 

 いつもの、少し気の抜けた調子。

 けれど、その目は真剣だった。

 

「私はおっさんを気に入ったからここに来たし」

 

 一歩、近づく。

 

「今は──おっさんを愛してる」

 

 その一言で、ヒロシの涙腺は完全に決壊した。

 

 愛してる。

 

 そんな言葉を、エルザの口から聞ける日が来るとは思ってもみなかった。

 

 彼女が自分と一緒にいるのは、きっと打算だと思っていた。

 大勢いる男のうちの一人。

 たまたま都合がいいから、ここにいるだけなのだと。

 

 だが──

 

 目の前の彼女の眼差しに、偽りはなかった。

 少なくとも、今この瞬間は、本気で愛していると伝わってくる。

 

「私は思うんだ」

 

 エルザは静かに続けた。

 

「永遠なんてどこにもないからさ。だから、今の自分に正直に生きようって」

 

「好きになったり、嫌いになったりなんて、ほんの一瞬だよ」

 

「長く生きてるとね……好きな人を失くすことだって、何度もある」

 

 その声には、作り物ではない重みがあった。

 

 長い時間を生きた者だけが知っている、愛の儚さ。

 そして、それでもなお人を好きになる愚かさと強さ。

 

「私はおっさんと過ごした日々を後悔してないし、誇りにさえ思ってる」

 

 まっすぐに見つめてくる。逃げ場のない、真剣な瞳。

 

「そして、あんたを愛したことは、生涯忘れない」

 

 その言葉に、軽さはなかった。

 エルザはただ、今この瞬間を、誰よりも誠実に生きているだけなのだ。

 

「私は明日、自分のいた世界に帰る」

 

 ひどくあっさりとした口調。

 けれど、それはもう決まっている未来なのだと分かる声。

 

「だから──おいで」

 

 そっと手を差し出す。

 

「忘れられない夜にしよう」

 

「エルザさ~ん!」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、ヒロシは彼女の胸に飛び込んだ。

 

 その瞬間──

 誰が何を言おうと、今この時だけは二人は相思相愛だった。

 強く、固い絆で、結ばれている。

 

 その先に待つ別れなど、今はどうでもよかった。

 

 二人は夜通し、言葉よりも確かな温もりで、お互いの愛の深さを確かめ合った。

 夜は、残酷なほど静かに更けていった。

 

 そして──

 

 翌朝。

 

 エルザは、真っ白な神官帽と神官服を纏い、ヒロシのマンションを後にする。

 

 そこに昨夜の面影はなかった。

 ラフな服で笑っていた女の姿は、微塵も残っていない。

 

 ブロンドの髪は絹糸のように揺れ、雪のような白い肌に曇りはない。

 切れ長の瞳には瑠璃色の光が宿り、見下ろすでもないのに、人を寄せつけぬ威厳を放っている。

 

 その姿は──

 

 まさに勇者パーティーの神官、エルザ・フォン・エスタービッチ。

 

 夜通し泣きはらした目で、ヒロシはその背中を見つめていた。

 

「エルザさん……僕、貴女と過ごしたことを一生忘れない! そして、今、僕も貴女を愛してる。それを誇りに思う!」

 

 その声に、彼女は一瞬だけ足を止める。

 

 そして──振り返った。

 

 柔らかな笑み。

 それは未練ではなく、同じ想いを抱いた者への、静かな敬意だった。

 

 だがエルザは、すぐに歩み出す。

 もう振り返らない。

 

 未練がないと言えば、嘘になるだろう。

 

 それでも──

 

 長い年月を生きているからこそ彼女は知っている。

 時間というものが、どれほど尊く、取り戻せないものかを。

 

 だからこそ、過去に縋らない。

 後悔にも溺れない。

 

 今を、全力で生きる。

 

 その生き方の果てにこそ、彼女の求める“エロスの極み”がある。

 

 朝日を受け、白き神官は真っ直ぐ前を見据える。

 

 そして──彼女は振り返らずに歩み続けていった。

 

 

 

 

 

 

 

           ~【エロスの極み】fin.~

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