この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
:氷の檻と黄金の瞳
鉄格子を揺らす風の音すら、ここには届かない。肌を刺すような冷気と、ただひたすらな静謐という名の重圧が、部屋の空気を澱ませている。
ナザリック地下大墳墓、第九階層。その一角に設けられた特別拘留室の床は、鏡のように磨き上げられた黒大理石であり、微かな光さえも冷酷に反射していた。
「……あ、あは……冗談、だろぉ……?」
乾いた笑いが、高い天井へと虚しく吸い込まれていく。己の口から出たとは信じがたいほど、ひどく震えた声だった。
冷たい石の感触に頬をすり寄せるように転がされているのは、かつてスレイン法国『漆黒の聖典』第九席次に名を連ねた英雄、クレマンティーヌ。
幾多の冒険者の命を奪い、その証として纏っていた異形のプレートアーマーはとうに剥ぎ取られている。神官から奪った魔法の装束も、僅かな温もりを保つ下着すらも残されていない。
暗闇に投げ出されたのは、戦士特有のしなやかな筋肉を覆う、白磁のように滑らかな肢体。魔力で編まれた見えざる拘束具がその身の自由を完全に奪い、彼女はただ、這いつくばる無様な己の姿を冷厳な床面に映し出すしかなかった。
不意に、重厚な扉が無音で滑るように開かれた。
通路から差し込んだ淡い光が、一人の影を部屋の奥深くへと長く引き伸ばしていく。
「――居心地は悪くないだろうか、クレマンティーヌ」
鼓膜を静かに震わせる、深みのあるバリトン。朗々と響くその声色は、酷薄な響きを含みながらも、なぜか神殿で祈りを聞く聖職者のような神秘的な慈愛を湛えていた。
クレマンティーヌは床に顔を擦りつけたまま、濡れた瞳で視線だけを吊り上げた。
そこに佇んでいたのは、彼女が知るいかなる王侯貴族も持ち得ない、絶対的な威風を纏う存在。
豪奢な漆黒のローブの奥に潜む気配は、明らかに生者のそれとは異質だった。死の冷たさと、それを凌駕する濃密な魔力。何より、昏い闇の中で爛々と輝く黄金の瞳が、クレマンティーヌの魂を容易く射抜く。それは彼女の内に眠る原初的な生存本能を、無遠慮に掻き乱した。
「あん、た……誰ぇ……っ?」
血の味のする唾液とともに、掠れた声が喉の奥から絞り出される。
数多の強者や化け物を屠ってきた彼女の優れた直感が、目の前の存在を「理解不能の規格外」だと警鐘を鳴らして止まない。
人ではない。さりとて、低俗な不死者(アンデッド)の類でもない。
彼女がこれまで散々弄んできた「命」という矮小な概念など、この者の前では塵芥に等しい。圧倒的な格の違いを、本能が理屈抜きに理解させられていた。
「そう怯えるな。私は、君の美しい肉体を損なおうなどとは考えていない」
至高の御方は、滑るような優雅な足取りで彼女の傍らへと歩み寄る。
一歩進むたびに、古い書物と上質な香木が混ざり合ったような匂いと、肌を粟立たせる濃密な魔力が揺らぐ。
彼は身を屈め、震えの止まらない彼女の顎にそっと指先を添えた。氷よりも冷たいはずのその接触が、なぜか火傷を負ったかのような熱を帯び、クレマンティーヌの神経をジリジリと焼いていく。
「君という存在を知りたいのだよ、クレマンティーヌ。どこで生まれ、どのような景色を見て育ち、なぜ今の『君』という形に歪んでいったのか。君の歴史を、私に教えてはくれないか」
「……あはっ、そんなことぉ……聞いてどうするつもりだぁ? あたしの過去を広げて、腹を抱えて笑うのかねぇ……?」
クレマンティーヌは、ガチガチと鳴る歯を噛み締め、精一杯の毒を吐き捨てた。
それは、芯まで染み込んだ恐怖を悟られまいとする、彼女なりの哀れな虚勢だった。
しかし、目の前の絶対者は眉一つ動かさない。むしろ、ひねくれた愛し子を慈しむような、ひどく静かで甘い眼差しを彼女に注ぎ込んでくる。
「笑うはずがない。君の歩んできた血塗られた道は、たとえどれほど歪で救いがたいものであっても、君だけの軌跡だ。私はそれを余さず記録し、この掌に収めておきたいのだよ」
御方は、床に散らばった彼女の短い金髪を指先で梳きながら、甘やかな声で宣言した。
「これから毎日、君を訪ねよう。そして対話を重ねよう。もし君が私の問いに素直に答えてくれるのなら、相応の報酬を与えようではないか。……温かい食事、清らかな水、そしてその凍える肌を包む衣服。すべては、君が紡ぐ言葉次第だ」
「……あははっ、ふざける、な……っ。あたしがぁ、そんなどうしようもない餌に、尻尾を振って釣られるとでも……!」
「釣られるとも。君は賢い生き物だ。そして何より――酷く、生きたいと願っている」
御方の冷たい指先が、彼女の耳朶を労るようになぞる。
その瞬間、クレマンティーヌは背筋を太い針で貫かれたような衝撃に息を呑んだ。
蔑まれているのではない。理不尽な暴力を振るわれているわけでもない。ただ圧倒的なまでの『興味』と、ひどく倒錯した『慈しみ』を向けられている。その未知の感覚が、彼女の内に築き上げられた強固な狂気と自尊心を、みしみしと音を立てて軋ませていく。
「今日はこれで失礼しよう。次に会う時、君が最初の記憶の扉を開いてくれることを期待しているよ」
御方は身を翻し、音もなく部屋を後にした。
扉が閉まり、再び完全な暗闇が落ちる。
残されたのは、骨の髄まで凍えるような沈黙と、彼女の網膜に焼き付いた黄金の瞳の残像だけだった。
クレマンティーヌは、自身の冷え切った肩を抱きかかえるようにして、身を丸めた。
腹の底から湧き上がる空腹。喉を焼く渇き。そして、自分という存在の根源が、一枚一枚剥がされていくことへの名状しがたい予感。
彼女の戦いは、今、始まったばかりだ。
それは武器を取って命を奪い合う遊戯ではない。己の魂の欠片を切り売りし、絶対的な怪物へと捧げていく――抗いがたく、ひどく甘美で残酷な儀式の幕開けだった。
:沈黙の対価
暗闇の中で、クレマンティーヌは己の心臓が脈打つ音だけを、ただ延々と数え続けていた。
どれほどの時間が経過したのか。一時間か、あるいは一日か。
一切の光と音を絶たれたこの空間では、時間の概念などとうに溶け落ちている。魔力で編まれた見えざる拘束具によって身動き一つ取れない彼女にとって、この果てしない静寂は、真綿で首を絞められるような緩やかな処刑に等しかった。
喉が焼け焦げたようにひび割れ、空っぽの胃の腑は自身の内壁を削るように痙攣して疼いている。
だが、何より耐えがたいのは、白磁の肌を執拗に舐め回す冷気と、自分がいかなる装甲も魔法の衣すらも纏っていない、完全なる無防備状態であるという事実だった。
「――再会を喜んでくれるかな?」
不意に、微かな風の揺らぎとともに扉が開かれた。
網膜を刺す淡い光を背負って現れたのは、あの恐るべき「黄金の瞳」を持つ怪異。
至高の御方は今日、片手に豪奢な装飾が施された黒檀の木箱を、もう片手に湯気の立つ小さな銀のカップを携えていた。
「あ、あは……。また、来たのかよぉ……死に損ないの王様が、さぁ……」
クレマンティーヌは、ひび割れた唇から乾いた毒を絞り出す。だが、彼女の意志とは裏腹に、その双眸は吸い寄せられるように銀のカップへと釘付けになっていた。
そこから立ち昇る、肉と野菜をじっくりと煮込んだ芳醇なブイヨンの香り。
彼女の生存本能が狂い咲いたように警鐘を鳴らし、同時に、屈辱的なまでの期待に喉が鳴る。ごくり、と、唾液すらない喉を動かした音が、やけに大きく響いた。
「あまり強がるものではない。君の身体は、限界だと悲鳴を上げている」
御方は呆れたように、しかしひどく甘やかな声で囁くと、優雅な所作で床に腰を下ろした。そして木箱を開き、純白の上質な羊皮紙の束と、鈍く銀色に輝く万年筆を恭しく取り出す。
彼は銀のカップを彼女の鼻先にそっと近づけ、その濃厚な香りを存分に肺腑へと吸い込ませた。
「さて、取引の続きをしよう。君が私の問いに誠実に答えれば、この温かいスープと水、そして……その凍える身を覆うための柔らかな布を与えよう」
「……はっ、随分な安売り、だなぁ……。あたしの過去が、たかだかスープ一杯分かよぉ……?」
「価値を決めるのは君ではない。私だ」
絶対的な宣告とともに、御方は万年筆を手に取り、さらさらと白紙の上に滑らせた。
その滑らかな動きには微塵の迷いもなく、まるで彼女という女の人生を、これから全く別のものへと描き換えていく造物主のようであった。
「君が覚えている、一番古い記憶を教えて欲しい。……どこで生まれ、何を見た?」
クレマンティーヌは、血が滲むほど強く唇を噛みしめた。
語れば最後、自分という存在の根源的な一部を、この得体の知れない怪物に差し出すことになる。直感がそう告げている。
だが、視界の端で揺らめくスープの熱気と香りが、彼女の残けしばかりの理性を無慈悲に、そして確実に削り取っていく。
一秒が永遠にすら感じられる、張り詰めた沈黙。
やがて、彼女は敗北と屈辱に顔を歪めながら、ひどく掠れた声で口を開いた。
「……泥、だよぉ……」
「泥、とな?」
「……スレイン法国の、立派な神殿の裏庭さぁ……。冷たい雨が降ってて、酷い泥の匂いがしてた……。前を歩く、兄貴の背中を追いかけて……転んで、鼻の奥まで泥が入り込んで、さぁ……」
一度口を突いて出た言葉は、最初は堰を切ったように、やがては熱に浮かされた独白のように、薄暗い部屋に溶け出していく。
御方はその言葉のひとしずくすらも漏らさぬよう、万年筆を走らせ続けた。
カリカリ、というペン先が紙を引っ掻く微かな音だけが、彼女の鼓膜を奇妙な心地よさで打つ。
「家族は、どうだった?」
「……いたよぉ。名門クインティア家の、立派な大人たちが、さぁ。でも、誰もあたしのことなんか見てなかった。みんな……『漆黒の聖典』に選ばれた、出来の良すぎる兄貴だけを見てたのさぁ……!」
クレマンティーヌの瞳の奥に、暗く濁った炎が灯る。
それは長い間、狂気と殺戮の裏側にひた隠しにしてきた、選ばれなかった少女の矮小で惨めな劣等感。
御方は彼女の怨嗟の言葉を一切遮らず、ただ静かに、その吐露を羊皮紙へと定着させていく。
やがて、一段落を書き終えた彼は、約束通り銀のカップを彼女の震える唇へと傾けた。
「……っ、ふ、あぁ……ッ……」
温かい液体が枯れ果てた喉を潤し、空虚な胃の腑をじんわりと満たしていく。
極上の旨味と、命を繋ぐ熱。そのあまりの心地よさと慈愛に、彼女の目から不意に、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
それがスープの熱さのせいなのか、それとも、生まれて初めて「自分の惨めな話」を、一切の否定なく誰かに聞いてもらえたことへの動揺なのか、彼女自身にも理解できなかった。
「よく話してくれた。素晴らしい記憶だ。……今日はここまでとしよう。約束の品だ」
御方が空いた手を虚空にかざすと、そこから純白の分厚い毛布が現れ、彼女の震える肩から背中をすっぽりと包み込んだ。
肌を刺す冷気が完全に遮断され、ふかふかとした心地よい重みと温もりが、彼女を外の世界から保護する。
「……あんた、本当に……何なんだ、よぉ……」
「私はただの観測者だよ。君という、ひどく美しくて哀れな物語のね」
御方は万年筆を丁寧に木箱に収めると、満足げに目を細めた。
その黄金の瞳に見つめられている間だけ、彼女は自分が「狂気の英雄」でも「出来損ないの妹」でもなく、ただの「クレマンティーヌ」という一個の存在として認められているような――恐ろしくも、麻薬のように甘美な錯覚に陥っていた。
扉が閉まり、再び静寂が降りてくる。
しかし、今度の闇には、先ほどまでの絶望的な冷たさはなかった。微かに漂うスープの残香と、全身を包む毛布の温もりがそこにある。
クレマンティーヌは毛布の縁に顔を擦りつけるようにしながら、自分を内側から支配し始めた「記録」という名の呪縛の重みを感じつつ、抗いがたい深い眠りへと落ちていった。
:才能という名の毒
その日、黒檀の木箱と共に運ばれてきたのは、ふっくらと焼き上げられた柔らかな白パンと、黄金色の蜂蜜をたっぷりと垂らした温かいミルクだった。
クレマンティーヌは与えられた純白の毛布にすっぽりと身を包み、まるで毒気を抜かれた猛獣のような顔つきで、縁の厚いカップからミルクを啜った。
昨日のブイヨンスープが、枯渇した命を繋ぐ「生存」のための栄養であったなら、今日の喉を焼くような甘みは、彼女の警戒心を内側から溶かす「安寧」という名の毒に他ならない。
「……あ、はっ……甘いねぇ。あたしを丸々太らせて、美味しく食べる準備でもしてるのかねぇ……?」
「あいにく、私は少食でね。それに、君が紡ぐ物語のほうが、いかなる豪奢な晩餐よりもよほど芳醇な味わいだよ」
至高の御方は、昨日と寸分違わぬ優雅な所作で羊皮紙を広げ、鈍色の万年筆を構えている。
窓一つない地下牢。時間の感覚はとうの昔に消え失せ、今の彼女にとっての世界のすべては、この数メートルの冷たい空間と、目の前に座る黄金の瞳の怪異だけになっていた。
「さあ、続きを語ってもらおうか。泥の中を這いずっていた少女が、いかにしてあの国で『英雄』の端くれへと至ったのかを」
「……英雄、ねぇ……。あはっ、そんな立派なもん、なりたくてなったわけじゃないよぉ……」
クレマンティーヌは空になったカップを、惜しむようにゆっくりと床へ置いた。
口内にまとわりつく蜂蜜の甘い余韻が消えきらぬうちに、彼女の脳裏に遠い日の景色が蘇る。スレイン法国の、冷たく整えられた広大な修練場。埃と汗の匂い。そして、決して追いつけない背中。
「最初はさぁ、ただの残酷な『比較』だった。兄貴が息をするようにできることが、あたしにはどうしてもできない。あいつが剣を振れば風が鳴って光が踊るのに、あたしが振ったって、無様に空を切るだけ。……周りの大人たちの目は、いつだってあたしを素通りして、その先にいる『出来の良すぎる長男』だけを見てたんだよぉ……」
彼女の声から、いつもの狂気に満ちたねっとりとした粘り気が薄れ、乾いた砂を噛むような、ひどく惨めな響きが混じり始める。
御方の万年筆が、滑らかに羊皮紙の上を走る。カリカリというその規則的な音は、まるで彼女の隠し続けてきた古傷の輪郭を、そっと撫でさするかのようでもあった。
「ある日、分かっちまったんだ。真っ当に剣を振って競ったって、あいつには一生勝てない。あいつは眩しい太陽で、あたしはただの泥に塗れた影だ。……だから、変えたのさ。戦い方そのものを、ね」
「変えた、とは?」
「あはっ、そうだよぉ。剣の道を捨てるんじゃなくて、技術を純粋な『殺し』の道具へと特化させたのさ。あいつが騎士道だの正々堂々だのって甘っちょろいもんを磨いてる間に、あたしは相手の急所を抉ることだけを考えた。泥水を啜りながら、相手が瞬きして油断する隙を待って……薄っぺらい装甲の隙間に、針みたいな刃を突き立てて、喉笛を掻っ切る……! そうしたらさ、あははっ、面白いくらいにあっさりと、みんな死んでいくんだよぉ!」
彼女の瞳の奥に、血の匂いに酔いしれるような歪んだ歓喜が宿る。
それは、誰にも認められなかった少女が、自らの手を汚して初めてもぎ取った「絶対的な力」の感触。
しかし、御方はその狂乱を冷淡に突き放すことも、醜いと嘲笑うこともなかった。ただ、一文字ずつ慈しむように、彼女の血みどろの告白を羊皮紙へと綴っていく。
「それが、君の『才能』が真に開花した瞬間だったわけだね」
「……才能ぉ? あはは、そんな綺麗なもんじゃないよぉ。こんなの、ただの『呪い』さ。……あたしが邪道に堕ちて強くなればなるほど、兄貴の真っ当な光はもっと濃くなった。結局、第九席次なんていう『漆黒の聖典』の末席に座れたのだって、あいつの優秀な妹だからっていう、おぞましい色眼鏡があったからこそだ。……ねえ、あんた。知ってるかい? どれだけ人を騙して、どれだけ英雄の血を啜っても、心の中にこびりついた泥は……ちっとも、消えないんだよぉ……」
クレマンティーヌは両膝を抱え込み、毛布の中に顔を深く埋めた。
万年筆の音が、ふっと止む。
御方は静かに椅子から立ち上がると、彼女の隣に膝をつき――なんの躊躇いもなく、その華奢な肩を毛布ごと抱き寄せた。
「……な、なにを……っ、やめ、ろよぉ……!」
「君がその暗い泥の中でもがき喘いできたからこそ、今の君の刃はこれほどまでに鋭く、そして……ガラス細工のように脆い。愛おしいほどにね」
頭上から降ってきたその言葉は、彼女がこれまでの人生で誰からも、たとえ血を分けた兄からでさえも与えられなかった、完全なる『理解』と『受容』だった。
本能が危険を察知し、身を捩って拒絶しようとした彼女の指先は、なぜか御方の漆黒のローブの裾をきつく握りしめ、決して離そうとはしなかった。
黄金の瞳に見つめられ、自分の血塗られた過去を「価値ある物語」として記録されるという、身の毛のよだつような快感。
クレマンティーヌは、まだ気づいていなかった。
甘いミルクで空腹を満たされるたびに。
万年筆の音で孤独を埋められるたびに。
彼女の魂が、そして自己の輪郭が少しずつ崩れ、この閉鎖された地下牢の一部へと完全に溶け込み始めていることに。
「明日は、君がその『漆黒の聖典』という檻の中で何を見たのかを、聞かせてもらおう。……今日はもう、眠りなさい」
御方のひんやりとした大きな手が、彼女の熱を持った瞼を優しく覆う。
抗いがたい強烈な睡魔が波のように押し寄せ、意識が暗い泥の底へと沈んでいく中。彼女は確かに、自分の名前を愛おしげに呼ぶ、深く温かい声を聞いたような気がした。
それは、彼女がずっと求めてやまなかった、泥の中に差し込む一筋の光そのものであった。
:漆黒の聖典、英雄の孤独
窓のない地下牢を満たす空気は、少しずつ、だが確実に変質していた。
かつて白磁の肌を容赦なく切り刻んでいた刺すような冷気はとうに影を潜めている。代わりに、至高の御方が持ち込んだ豪奢な香炉から紫煙が細く立ち昇り、薄暗い石造りの部屋を幻想的で甘美な香りで満たしていた。
今日の盆に載せられていたのは、香草とともに柔らかく煮込まれた骨付きの肉料理だった。
純白の毛布にくるまったクレマンティーヌは、もはや一切の躊躇いを捨て、その皿へと手を伸ばしていた。
名門の令嬢として、あるいは法国の英雄として叩き込まれたはずの礼儀作法など、とうの昔に剥がれ落ちている。油で指先が汚れることも厭わず、剥き出しの飢えに従って肉を食いちぎる。
その獣のように貪る姿を、至高の御方はいつものように羊皮紙へ万年筆を走らせながら、ひどく慈しむような眼差しで見下ろしていた。
「……あ、はっ……今日も、いい記録が取れそうかい?」
口の端にべっとりとソースをつけたまま、クレマンティーヌが自嘲と揶揄の混じった笑いを向ける。
御方は手を止めると、懐から真新しい絹の布を取り出し、屈み込んだ。そして、彼女の汚れた頬を赤子をあやすように優しく拭い去る。
対等の人間――いや、壊れやすい至宝を扱うかのようなその無造作な優しさに、彼女の心臓が奇妙なリズムで跳ね上がった。
「ああ。今日は君が『漆黒の聖典』という、人類の至宝の中に組み込まれていた時の話だからね」
「……至宝、ねぇ。あはっ、笑わせるよぉ。あそこに並んでたのは、都合よく磨き上げられた『部品』だけさぁ……」
彼女は骨を皿に放り投げ、汚れた指先を毛布に擦りつけながら両膝を抱え込んだ。
毛布の柔らかな感触が、かつて己の身を縛り付けていた、重苦しく冷たい魔法鎧の重圧を嫌でも思い起こさせる。
「あたしは第九席次だった。英雄だの天才だのって持て囃されたけど、結局は国を守るための便利な道具さぁ。あそこの連中は、誰もあたしという『個』なんか見てやしなかった。……あいつらが見てたのは、あたしの能力だけ。どれだけ速く動けるか、どれだけ正確に異教徒の急所を抉れるか。それが、あたしの存在価値のすべてだったんだよぉ……」
彼女の声は、光の届かない深い井戸の底から響くように、底冷えしていた。
カリカリ、と、御方の万年筆が羊皮紙の上を微かな音を立てて滑る。
「孤独だったのかい?」
「孤独……? あははっ! そんな感傷的で寂しいもんじゃないよぉ! もっと寒くて、もっと空っぽで、吐き気がするような虚無さ。戦場に出れば、隣にいる仲間だっていつ肉塊に変わるか分からない。あたしが死んだって、次の新しい『第九席次』が補充されて、何事もなかったように歯車は回り続ける。……ねえ、あんた。自分がいつでも代わりのきく使い捨ての部品だって分かってて、命を懸ける気分が分かるかい?」
クレマンティーヌの指先が、自身の二の腕を苛立つように強く掻き毟る。
白磁の肌に赤い爪痕が幾つも浮かび上がった。
英雄として称賛される裏側で、彼女の精神は少しずつ、確実に摩耗し、壊れていったのだ。
誰かに必要とされたい。ただ一人でいいから、選ばれたい。けれど、世界が必要とするのは「暴力」という機能だけで、「クレマンティーヌ」という人間ではない。
その絶望的な歪みこそが、彼女を他者の命を弄ぶ狂気へと駆り立てたのだ。
「だから……殺してやったのさぁ。あたしを部品としてしか見てない連中の、どうしようもなく絶望した顔が見たくてねぇ……! 命乞いをして、泣き叫んで……その瞬間だけは、あいつら、確かに『あたし』を見てくれたからさぁ……!」
「君が求めていたのは、肯定でも否定でもなく、ただ己の存在を証明するための『眼差し』だったというわけだね」
御方は静かに万年筆を置くと、二の腕を掻き毟る彼女の細い手をそっと取り、その掌を己の冷たい頬へと押し当てた。
人ならざる者の、氷のような温度。しかし、そこから伝わる圧倒的な存在感と魔力は、火傷しそうなほどの熱を持って彼女の皮膚から侵入してくる。
「少なくとも、私は君を見ているよ。君が奪った命の数でもなく、君が纏っていた肩書きでもなく……今ここで震え、過去を吐き出している君自身をね」
「……う、そだ……。あんただって、あたしの記憶を利用して、楽しんでるだけだろぉ……?」
震える唇で紡がれた反抗は、ひどく弱々しかった。
「利用価値なら、君の知識を引き出すだけで十分だ。……だが、そうだな。君が語るたびに、私の羊皮紙に君の魂が美しく定着していく。それは、この世界で唯一無二の、私だけの宝物だ。代わりなど、どこにもいない」
「……っ、あ……」
クレマンティーヌは息を呑み、黄金の瞳から視線を逸らした。
だが、御方に握られた手は引き抜けない。冷たいのに熱い、その奇妙な接触が、彼女の胸の奥底で凍りついていた芯をじわじわと、どうしようもなく溶かしていく。
絶対者に利用され、支配されることへの原初的な恐怖。だが、それよりもはるかに強く彼女の魂を揺さぶったのは、これほどまでに深く自分という存在を見つめられ、永遠の記録として求められることへの――背筋が粟立つような悦びだった。
「君の虚無は、私がすべてここに書き留めよう。……さあ、続きを。君がその『部品』であることを放棄した、あの夜の話を」
御方の静かな誘いに、彼女の心臓が警鐘のように大きく脈打った。
それは、彼女が最も深く心の底に隠し、そして本当は、誰かに暴いてほしくてたまらなかった禁忌の領域。
万年筆が再び紙をなぞり始める音。そのリズミカルな音色に身を委ねるように、彼女はゆっくりと、兄を、そして国を裏切った前夜の記憶について口を開き始めた。
:空白の欠落と浄化の熱
薄暗かった地下牢は今、柔らかな湯気の白さと、上質な石鹸が放つ清潔な香りに満たされていた。
床に置かれているのは、たっぷりと温かなお湯を張った大きな銀のたらいと、雪のように白く分厚い数枚のタオル。
クレマンティーヌは、御方の手によって魔力系拘束具を一時的に緩められ、毛布を肩から落とした姿で、立ち昇る湯気の中に呆然と立ち尽くしていた。
「……あはっ、今度はあたしの死体を綺麗に洗って、清潔な『標本』にでもしてくれるのかい?」
「標本にするには、君は少しばかり生命力に溢れすぎている。……さあ、そこへ座るといい。こびりついた泥を落とそう」
至高の御方は静かに促し、傍らに用意した低い木椅子を指し示した。
彼自身が袖を捲り、純白のタオルを湯に浸して硬く絞る。そして、椅子に腰を下ろして背を丸める彼女の肩甲骨へ、その温もりを躊躇いなく押し当てた。
「っ……!」
クレマンティーヌの背筋が、高圧の雷撃を浴びたように大きく跳ねる。
他者の手が、これほどまでに無防備な肌に直接触れる。
暗殺者として、あるいは歪んだ英雄として生きてきた彼女にとって、「他者との接触」とは常に殺し合いの序曲か、さもなくば薄汚い暴力でしかなかった。
だが、今彼女の背中をゆっくりと拭い清める手の動きには、微塵の殺意も、あるいは下俗な情欲すらも混じっていない。ただひたすらに丹念に、極上の美術品を慈しむように、彼女の輪郭をなぞっていく。
「君は、話題を逸らすのが上手いね」
御方のひどく穏やかな声が、濡れた耳元で微かに響いた。
彼は彼女の細い首筋から華奢な肩口にかけて、凝り固まった緊張を解すように、ゆっくりとタオルを滑らせる。
「昨日、君が聖典を脱走し、祖国を裏切る直前の話を始めた時だ。君は不自然に笑い声を上げ、唐突に別の話題へと飛躍した。……私には教えられぬ『空白』が、そこにあるのかな?」
「……あはは、記憶力がいいねぇ、死に損ないの王様は。……ただの、詰まらない話だよぉ。裏切りなんて、いつだって衝動的で、身勝手なもんだろぉ……?」
「嘘だね。君の黄金の瞳は、もっと深く、暗い『欠落』を映している」
御方はタオルをたらいに戻し、今度は冷たい素手で、彼女のうなじに張り付いた短い金髪をそっとかき上げた。
温かなお湯と湯気で蒸された白磁の肌は、ほんのりと桜色に上気している。
その滑らかな肌を滑っていた御方の指先が、ふと、うなじの生え際に残る小さな、しかし深い刃の痕で止まった。
「……やめ、てよぉ……触るなっ……」
「ここにある古い傷は、誰につけられたものだい? 任務で仕損じた標的か、聖典の仲間か……あるいは、君がずっとその背中を追い、そして決して振り向いてはくれなかった、あの『兄』かな?」
「……っ!!」
最も柔らかい急所を正確に抉られ、クレマンティーヌの呼吸が激しく乱れた。
彼女がスレイン法国を捨てたのは、単に強大な力を秘めた宝珠が欲しかったからではない。
どれだけ手を血で染めても、「自分という存在が、誰の記憶にも残らない」という絶望的な確信。そして、唯一自分を世界に繋ぎ止めていた『兄』という鎖が、冷酷な正義のもとに、いとも容易く自分を切り捨てたあの夜の記憶。
御方は彼女の正面へと静かに回り込み、その冷たい床に片膝を突いた。
そして、新しく絞った温かいタオルで、彼女の歪んだ頬を、まるで壊れ物を扱うようにゆっくりと拭っていく。
「話したくないことは、無理にとは言わない。だが、君がその魂の欠落を埋めるために、どれほどの血と涙を流してきたのか……私はそれを知りたい。ぜひ、知りたいのだ。君のすべてを」
「……あんたに、何が分かるってんだよぉ……っ。あたしが、どれだけ汚れてるか……どれだけ、惨めで空っぽか……!」
「汚れているというのなら、こうして私が拭い去ろう。何度でも、いつまででも。君が、君自身を許せるようになるその日まで」
慈愛に満ちたその宣告は、彼女の心の最も深く、頑なに閉ざされていた場所に、容赦なく突き刺さった。
洗い流されていくのは、肌にこびりついた物理的な汚れだけではない。
彼女が長年、狂気と嘲笑の裏側に必死で隠し続けてきた「誰にも選ばれなかった子供」としての悲痛な慟哭が、温かなお湯の熱と共に、堰を切って溢れ出そうとしていた。
「……あ、あぁ……っ」
クレマンティーヌは、ついに耐えきれず、目の前に跪く御方の胸元へと顔を埋めた。
差し出された腕が、崩れ落ちる彼女を柔らかく受け止める。
タオルから香る、清潔な、血みどろの自分には決して似合わないはずの匂い。
それがあまりに心地よくて、あまりに優しくて。彼女は自分が「英雄」であったことも、国を捨てた「裏切り者」であることも、すべてを一瞬だけ忘れてしまいたかった。
至高の御方は、震えながら声を殺して泣く彼女の背中を、ただ静かに撫で続けた。
今日、彼は万年筆を手に取らなかった。
紙にインクを落とす代わりに、彼女の熱と涙を直接その身に刻み込むように、決して逃がさぬ力強さで抱きしめていた。
:裏切りの夜、剥がれ落ちる鱗
温かな湯で血と泥を洗い流され、御方の手によって直接、柔らかな絹の寝衣に袖を通された時。クレマンティーヌの内に長年構築されていた「武装」は、完全に沈黙していた。
至高の御方は、彼女を冷たい椅子ではなく、足先が沈み込むほど分厚く豪奢な絨毯の上へと座らせた。自身もそのすぐ隣、吐息が届くほどの距離に腰を下ろし、再び鈍色の万年筆を指に挟む。
「……あ、はっ……もう、逃げらんないんだねぇ。あたしの、一番みっともなくて、かっこ悪いところまで、さぁ……」
クレマンティーヌは自嘲気味に口角を歪め、両膝をきつく抱え込んだ。
熱を帯びた清潔な肌が、上質な絹の滑らかさにひどく過敏に反応する。それは、常に死と隣り合わせの泥にまみれて生きてきた彼女にとって、身の毛がよだつほど異質で、抗い難い「安息」だった。
「語ってくれるかい。君がスレイン法国を、あの『漆黒の聖典』を捨てた夜のことを。何が君を突き動かし、何が君をそこまで絶望させたのか」
「……絶望、なんて……あはっ、そんな大層で綺麗なもんじゃないよぉ……。ただ、疲れちゃったんだ。……あの日、あたしは兄貴と一緒に、ある極秘任務に就いてたんだよぉ」
彼女の濡れた黄金の瞳が、虚空を彷徨う。
脳裏に鮮明に蘇るのは、冷たい雨の匂い。鼻腔を突く血の悪臭。戦場の重圧と、隣を歩む兄の、憎らしいほど完璧な横顔。
「戦況は最悪だった。予期せぬ伏兵に囲まれて、部隊を脱出させるには、誰か一人が殿(しんがり)の囮にならなきゃいけなかったんだよぉ。……あたしはさ、馬鹿みたいに期待してたんだ。優秀で、立派で、あたしの太陽だった兄貴なら……『俺が残る、お前は行け』って、妹を庇ってくれるんじゃないかってさぁ……。でも、あいつの口から出たのは、反吐が出るほど冷徹な『最適解』だった」
クレマンティーヌの震える指先が、毛足の長い絨毯を強く引き毟る。
「『第九席次。お前が残れ。それが部隊の最も生存率が高い』……あはっ、笑っちゃうだろぉ? あいつの目に映ってたのは、妹のあたしじゃなくて、ただの便利な持ち駒だったのさぁ。……あたしは、兄貴に選ばれたかっただけなのに。たった一度でいいから、席次や序列なんて関係なく、ただの『クレマンティーヌ』っていう弱い子供として……守られたかっただけなのにねぇ……!」
叫びに近い、血を吐くような独白。
カリカリと羊皮紙を走っていた万年筆の先が、ピタリと止まる。
御方は彼女の悲鳴のような言葉を、ただ静かに、その身で受け止めていた。
「だから、逆を選んでやったのさぁ。囮になるフリをして、あいつの無防備な背中に、針を突き立ててやろうとした……。でも、出来なかった。……あたしには、あいつを殺す勇気すら、あいつの足元に縋り付いて泣く権利すらないって、その瞬間に分かっちまったんだよぉ。だから……奪って逃げた。あいつらが命に代えても護りたかった神の遺物、『叡者の額冠』をさぁ! あいつらの完璧な任務を台無しにして、その綺麗な顔に泥を塗ってやるためにねぇ!」
激しい嗚咽と共に、彼女の華奢な肩が上下に跳ねる。
裏切りの真相は、強大な力への高尚な野心などではない。誰にも選ばれず、拒絶された哀れな子供の、ひどく稚拙で身勝手な癇癪だった。
分厚い狂気の鱗が完全に剥がれ落ちた下から現れたのは、居場所を失い、怯えて震えるだけの小動物のような魂。
「……あはっ……期待外れ、だったろぉ……? 英雄様の裏切りの理由が、こんな……こんな、みっともない理由で、さぁ……」
「いいや。これほどまでに人間らしく、そして愛おしい動機を、私は他に知らない」
御方は万年筆を木箱に置くと、絨毯を握りしめていた彼女の震える両手を、自身の大きく冷たい掌でふわりと包み込んだ。
そして、涙に濡れた彼女の耳元で、甘く、絶対的な確信に満ちた声を紡ぎ出す。
「兄に選ばれなかった君を、私が選ぼう。祖国に捨てられた君を、私のナザリックが永遠に迎え入れよう。……君の血塗られた過去も、惨めな罪も、その身勝手な絶望も。すべては今、私の手の中で最も価値ある真実となったのだから」
「……っ、あ……あ、ぁあ……っ」
クレマンティーヌは、自分を包み込むその巨大な庇護の力に抗うことを、ついに放棄した。
彼女は縋り付くように御方の胸に顔を押し当て、声を上げて泣き崩れた。
溢れ出した熱い涙が、至高の存在が纏う高価な漆黒のローブを容赦なく濡らしていく。
すべてを暴かれ、その醜さのすべてを肯定された瞬間。
彼女の魂を長年縛り付け、狂気へと駆り立てていた『兄』という呪縛の幻影が、優しくも恐ろしい黄金の瞳の光によって、ゆっくりと、しかし確実に霧散していくのを感じていた。
:狂気の根源、ズーラーノーンへの傾倒
魂の奥底に溜まった澱までをすべて吐き出させた後の静寂は、耳の奥が痛むほどに深かった。
クレマンティーヌは、至高の御方の膝に顔を埋め、彼の漆黒のローブを縋るように握りしめたまま、時折ひっそりと華奢な肩を揺らしていた。
泣き疲れたあとに訪れる、指先すら動かせないほどの心地よい虚脱感。それは、戦場で死線を潜り抜けた直後に訪れる血液の沸騰とは正反対の――泥のように重く、そしてどこまでも温かい沈殿だった。
「……あはっ、出し切っちゃったよぉ。あたしの中の、一番汚くて、みっともない泥を、さぁ……」
「泥も、陽の光を浴びて乾燥すれば強固な壁となる。君の脆い心をこれまで守ってきたのは、他ならぬその泥だったのだろう」
御方の冷たい指先が、泣き濡れた彼女のうなじを優しく、労るようになぞる。
彼は彼女の頭をそっと撫でながら、空いた片手で虚空を滑らせた。すると、何もない空間が水面のように揺らぎ、そこから巨大な「異物」が音もなく押し出されるように姿を現した。
それは、殺風景で冷え切った地下牢にはあまりに不釣り合いな、豪奢なベッドだった。
無駄に派手な装飾で飾られた王侯貴族の俗悪な調度品ではない。実用性を極限まで高め、それでいて見る者に『絶対的な休息』という概念を物理的に突きつけるような、洗練を極めた寝具。
「……何、それぇ……?」
「君には休息が必要だ。冷たい石の床ではなく、私という記録者の傍らでね」
御方は事も無げに言うと、毛布ごと彼女の身体をふわりと抱き上げ、その広大なベッドへと横たえた。
クレマンティーヌの身体が、深く、けれどもしっかりとした反発を持ってマットレスに沈み込む。
柔らかすぎれば足場を失うようで不安になり、固すぎれば野営の戦場を思い出す。そのどちらでもない、全身の骨格を優しく支え上げるような『拒絶されない安息』の感触に、彼女の思考は急速に解け、甘く濁っていった。
「あ、はっ……これ、ダメだねぇ……。一度味わっちゃうと、もう冷たい床には戻れないよぉ……」
「戻る必要はない。君の居場所は、今この瞬間から、私の視界の中にしかないのだから」
御方はベッドの端に静かに腰を下ろし、再び黒檀の木箱から万年筆と羊皮紙を取り出した。
だが、その黄金の瞳は記録を急いではいなかった。ただ、極上の枕に沈み込む彼女の無防備な横顔を、慈しむように見つめている。
「……ねえ、あんた。あたしがどうして『ズーラーノーン』なんて狂った連中と手を組んだか……聞きたいんだろぉ?」
クレマンティーヌは重くなる瞼を微かに開け、微睡みの中で口を開いた。
「ああ。神の遺物を奪い、すべてを捨てた君が、なぜあのような死を崇める狂人たちの群れに身を投じたのかをね」
「……あいつらはさ、あたしのことを『英雄』なんて窮屈な名前で呼ばなかった。……ただの、手に負えない『狂人』として扱ってくれたんだよぉ。それがさぁ、当時のあたしには、ひどく都合のいい救いだったのさ……。太陽みたいな兄貴の横で、真っ当な光の中にいられないなら……いっそ一番深い闇の中にいた方が、息がしやすいだろぉ……?」
吐露されるのは、自己を正当化するための言い訳ではなく、光に灼かれた者の悲痛な諦観だった。
クレマンティーヌの瞳から、次第に焦点が失われていく。
ベッドの心地よい弾力と、至高の存在が纏う高貴な香の匂い。
自分の最も醜い部分を肯定し、その上で見守ってくれる絶対者を前に、彼女はもはや狂気を装って他者を威嚇する本能すら、完全に手放していた。
「……でも、今は……こっちの方が、ずっと……息が、しやすい……」
掠れた言葉の先を紡ぎ切る前に、底なしの深い眠りの淵が彼女の意識を浚っていった。
御方は、微かな寝息を立て始めた彼女の横顔を眺めながら、さらさらと万年筆を走らせる。
そこには、英雄の没落ではなく、一人の女が「個」として再生し、完璧な愛玩品へと作り替えられていくための、残酷で甘美な記録が綴られていた。
「おやすみ、クレマンティーヌ。君の抱える闇も光も、すべては私が管理しよう」
黄金の瞳が、無防備に眠る彼女をじっと見守り続ける。
地下牢の分厚く冷たい石壁は、もはや彼女の自由を奪うための檻ではなく、外の世界の理不尽と汚れを完全に遮断するための、絶対的な守護の城壁へとその性質を変異させていた。
:偽りのない肌、檻の中の安息
重い瞼を開いた時、クレマンティーヌは自分がまだ、ひどく都合のいい夢の底を彷徨っているのだと思った。
背中の曲線に吸い付くような上質なシーツの滑らかさ。全身の体重を預けても、決して底付きしない適度なマットレスの反発。
それらは、泥にまみれ、常に他者の寝首を掻く(あるいは掻かれる)ことを前提として生きてきた彼女の殺伐とした人生において、一度として許されてこなかった「極上の贅沢」そのものだった。
「……あはっ、まだ、ここにいても……いいのか、よぉ……」
「目覚めたかな。君が安らかな寝息を立てている間に、物語は随分と書き進められたよ」
すぐ傍らから、鼓膜を撫でるような深いバリトンが響く。
至高の御方は、彼女が眠りに落ちる前と寸分違わぬ姿勢でベッドの傍らに座り、インクの染みた万年筆を置いて彼女を見下ろしていた。
微かに漂う古いインクと香木の匂い。その黄金の瞳には、休息を経て白磁の瑞々しさを取り戻しつつある彼女の無防備な肌が、鮮明に映り込んでいる。
「あんた……、あたしが寝てる間、ずっとそこにいたのかい?」
「記録者が、愛すべき物語の続きを待つのは当然の務めだ。……さて、クレマンティーヌ。今日は君が『ズーラーノーン』に身を寄せ、冒険者たちを狩り続けた、あの狂乱の日々について聞かせてもらおうか」
御方はベッドの縁に深く腰を掛け直すと、どこからか温かな布を取り出し、彼女の眼前に差し出した。
クレマンティーヌは無意識のうちに身を起こし、素直にそれを受け取って自分の顔を拭う。昨日の『浄化』の儀式と、この絶対的な庇護下での深い睡眠を経て、彼女の心は驚くほど無抵抗に、過去の深淵へと潜っていく準備が完了していた。
「あはは……。あいつらとつるんでた日々なんて、ただの退屈な『死の展示会』だよぉ。あたしが目障りな冒険者を嬲り殺して、名札(プレート)を奪うたびに、あの陰気な死霊術師(カジット)は自分の計画が進むって喜んでた。……でもね、あたしが本当に欲しかったのは、死の宝珠の完成でも、ましてや薄汚い金属のプレートなんかじゃなかったんだよぉ……」
「では、君は何を求めて刃を振るっていた?」
「悲鳴、さぁ。……あたしが刃を突き立てた瞬間、相手は絶望して、あたしの名前を呼んで、泣き叫んで許しを乞う……。その瞬間だけはさ、あたしが彼らの世界の中で、一番『重要で、絶対的な存在』になれた気がしたのさぁ」
クレマンティーヌは自嘲的に笑い、ひどく自然な動作で、ベッドに腰掛ける御方の膝へと自身の頭を乗せた。
それは、かつて彼女が嬲り殺した者たちが、最期の瞬間に彼女へ向けたであろう「恐怖と懇願」を、完全に反転させたような、ひどく甘美で歪な依存の形だった。
「兄貴に無視され続けたあたしが、赤の他人の運命を完全に支配してる……。その万能感が、あたしを狂わせた。……でもね、あいつらの悲鳴は、死んじまえばすぐに消えちゃうだろぉ? 目が濁って動かなくなれば、あいつらはもう、あたしのことなんか見てくれない」
彼女の指先が、自身の細い腕をなぞる。そこにはもう、死者から奪い取った金属の鎧はない。
「だから……もっと、もっとたくさんの命が必要だった。あいつらの命の証(プレート)を奪って、鎧みたいに身に纏って……『あたしは一人じゃない、こんなに沢山の奴らがあたしを見てるんだ』って、必死に自分を慰めてたのさぁ……。滑稽だろぉ?」
「なるほど。その魂のひどい欠落を、今は私が埋めているというわけだね」
御方のひんやりとした指先が、膝に擦り寄る彼女の短い金髪に触れ、ゆっくりと絡め取る。
その洗練された所作は、無慈悲な解剖医のようでもあり、迷える子羊を導く聖者のようでもあった。
「君の身を守り、そして呪縛していた死者の鎧は、とうに剥がれ落ちた。だが、君が魂の底から求めていた『決して消えない眼差し』と『存在の証』は、今ここにある。……君が流した汗も、こぼした血も涙も、私がすべてこの羊皮紙に綴じ込めた。君の存在は、もはや消えることのない永遠の記録として、私の掌の中に刻み込まれている」
「……永遠に……?」
「そうだ。仮に君の肉体が滅びようとも、この記録は残る。私という読者が君を忘れない限り、君という物語がこの世界から消失することはない」
その重々しい宣告は、クレマンティーヌにとって、いかなる魔法薬よりも強烈に脳髄を痺れさせる「麻薬」だった。
誰かに、永遠に、決して消えない形で記憶され、愛でられること。
己の命すら、その記録のための素材でしかないという圧倒的な支配。
彼女は狂おしいほどの悦びに打ち震え、御方の膝に熱い頬を擦り寄せながら、喉の奥でくぐもった、しかし甘い笑い声を上げた。
「あ、は……あはははっ! 最高だねぇ、あんた……。あたしを、一生この檻の中に……あんたの視界の中に、閉じ込めておくつもりかい……?」
「檻ではないよ。これは、君という美しくも残酷な物語を、外の世界の汚れから守るための……堅牢な『表紙』だ」
御方は空いた手で再び万年筆を執り、見下ろした彼女の現在の顔――心からの陶酔と、狂気的な安堵が入り混じった、言葉を失うほど歪で美しい表情――を、一文字の狂いもなく羊皮紙へと書き記していく。
クレマンティーヌの黄金の瞳には、もはや外の世界(スレイン法国)への未練や、かつての武装への執着は微塵も残っていなかった。
彼女はただ、自分を「記録」という名で永遠に愛でてくれる怪物の腕の中で、圧倒的な幸福感に包まれながら、一個の戦士としての自我を完全に消失させていった。
:至高の寵愛、琥珀の秘密
語るべき過去のすべてが尽きた時、地下牢は文字通り、完全な静謐という名の分厚いヴェールに包み込まれた。
クレマンティーヌは、至高の御方の膝の上に身を横たえ、心地よい疲労感とまどろみに身を任せていた。
かつて彼女を全身に纏っていた狂気の刃や、他者を威嚇するための毒々しい牙はとうに抜け落ちている。今はただ、上質な絹の寝衣に包まれた胸の微かな上下と、喉の奥から時折漏れる甘い吐息だけが、彼女が生きた脆弱な人間であることを証明していた。
カリッ、と。
最後の一文字を書き終え、御方が万年筆を木箱に置く乾いた音が響いた。
彼は今日書き上げたばかりの真新しい羊皮紙を束ねると、愛おしげにその表面を指先でなぞった。
「すべてを書き終えたよ、クレマンティーヌ。君が暗い泥の中で足掻き、狂気という名の鎧に逃げ込み、そして……こうして私の手に落ちるまでの、美しき全記録だ」
「……あ、は……お疲れ様。……で? あたしの物語は、これで……完結、かい……?」
彼女は御方の膝から弾かれたように顔を上げ、すがりつくような、ひどく怯えた瞳で絶対者を見上げた。
彼にとっての自分の価値は「未知の記録」を提供することだったはずだ。物語が終わるということは、すなわち、記録者にとっての存在価値が失われることではないのか。
その決定的な疑念が、彼女の胸を氷の刃のように冷たく締め付ける。
だが、至高の御方はその問いに言葉で答える代わりに、震え始めた彼女の細い肩を、強引なほどの力で自身の胸へと抱き寄せた。
そして、その尊く冷たい指先で彼女の金色の前髪をゆっくりとかき上げ――無防備に露わになった額に、そっと、自らの唇を押し当てた。
「っ……!」
熱い。
人ならざる者の、死体のように冷たい唇を想像していた彼女にとって、その接触はまったくの規格外だった。氷のような感触の奥底から、彼女の魂を直接ジリジリと焼き焦がすような、恐ろしいほどの魔的な熱量が流れ込んでくる。
額に深く刻み込まれたそれは、長きにわたる孤独への労いのような祝福であり、同時に、決して逃れられない隷属の契約印(マーキング)でもあった。
「これは、君がこれまでにたった一人で耐え抜いてきた、惨めな孤独への報いだ」
御方の深く甘い声が、耳の奥で直接響く。
続いて、彼は彼女の右の頬――かつて彼が、戦場の血と泥の汚れを優しく拭い去ってくれたその場所に、再び熱を帯びた唇を落とした。
絹のように滑らかな白磁の肌が、御方の静かな呼気に触れて粟立つ。
「あ、ああ……っ。あんた、本当に……ズルい、よぉ……」
クレマンティーヌの瞳から大粒の涙が溢れ、視界が黄金色――いや、深く透き通った琥珀色に揺れる。
スレイン法国の英雄として、あるいはズーラーノーンの狂人として。彼女はこれまで多くの者から「利用」され、あるいは「恐れ」られてきた。だが、これほどまでに一個の女として、ひどく壊れやすい極上の美術品を愛でるように扱われたことは、ただの一度としてなかった。
「……あたしを、もう離さないって……約束、してくれるかい……? あたしが、またあの冷たい泥の中に落ちないように……あんたの、その甘い記録の中に、ずっと閉じ込めておいてくれるって……」
「約束しよう。君という物語に、終わり(エピローグ)など必要ないのだから」
御方は彼女の濡れた頬を両手で優しく包み込み、その爛々と輝く黄金の瞳で、彼女の全存在を真っ直ぐに射抜いた。
その神秘的な瞳の奥に映る自分。
それはもう、血に飢え、狂気に顔を歪めた醜い殺人鬼ではない。ただ純粋に、絶対的な愛と庇護を渇望し、それを与えられることに至上の悦びを感じている一人の女の姿だった。
クレマンティーヌは、自分を縛り付けていた見えない過去の鎖が、より強固で、より甘美な「琥珀」へと掛け替えられたことを確信した。
黄金の樹液に閉じ込められた虫が、その腐敗を免れ、永遠に美しさを保ち続けるように。
外の世界の自由など、もういらない。
御方の手によって綴られた言葉の一つ一つが、彼の冷たい唇が刻み込んだ熱の一つ一つが、今の彼女にとって命を繋ぐ唯一の呼吸となっていた。
彼女は狂おしいほどの安堵とともに、御方の胸に深く顔を埋め、自分を極限まで甘やかすその魔的な温もりに完全に身を委ねた。
もはやこの地下牢は、罪人を閉じ込める牢獄などではない。彼女だけを永遠に守り、愛でるための、神聖なる琥珀の聖域へと変質していた。
:ナザリックの光
長らく彼女を包み込んでいた地下牢の重く甘い空気とは対照的な、ひどく爽やかな風が吹き抜けた。
クレマンティーヌが眩しさに目を細めると、そこには見渡す限りの緑と、突き抜けるような青空が広がっていた。
ここはナザリック地下大墳墓の深層。本来ならば絶対的な闇に閉ざされているはずの地下に作られた、広大で狂気的な箱庭(第六階層)の景色である。第九階層の静謐とも、地下牢の濃密な停滞とも違う、圧倒的な生命の躍動を感じさせる異空間。
だが、彼女の素足が、その柔らかな芝生を踏みしめることはなかった。
彼女の華奢な身体は、至高の御方の強靭な腕によって、いわゆる「お姫様抱っこ」の形で高く持ち上げられ、完全に宙に浮いていたからだ。
「……あ、はっ……本当に、牢から出しちゃうんだねぇ。あたしがこのまま、外に逃げ出したらどうするつもりだい?」
「その心配はまったくしていないよ。君の魂は、すでに私の羊皮紙の中に――私の掌の中に、完全に閉じ込められているのだから」
御方は事も無げに、そしてひどく甘やかな声で答え、彼女の体重など羽毛のようにしか感じていない軽やかな足取りで、疑似太陽の光が最も美しく降り注ぐ丘の上へと歩を進めた。
クレマンティーヌは身をよじることもなく、御方の首に両腕を回し、その胸板に己のすべてを預けた。
上質な薄い寝衣越しに伝わる、人ならざる者の冷たくも魔的な熱。そして、彼が纏う高貴な香木の残り香。
かつては他者との距離を「殺しの間合い」としてしか認識できず、常に全身の筋肉を張り詰めていた彼女にとって、自らの足で立つことすら放棄したこの無防備な密着は、何よりも甘美で絶対的な『服従の証』だった。
「……眩しい、ねぇ。スレイン法国で見てた、あの本物の太陽よりも……ずっと、温かくて、残酷な光だぁ……」
「これからは、この空も光も、すべては君のものだ。私が許す限り、君は外の世界の理不尽に晒されることなく、この私だけの太陽の下で、ただ美しい愛玩品として微睡むがいい」
御方は丘の上の柔らかな芝生に腰を下ろすと、抱きかかえた彼女をそのまま自身の膝の上へと座らせ、背後からすっぽりと包み込むように抱きしめた。
空に浮かぶ魔法の光源が、彼女の濡れたような黄金の瞳を、透き通るような琥珀色へと変えていく。
見上げようとした彼女の額に、御方の大きな掌が、眩しい日差しを遮るようにそっと翳された。
「……ねえ、あんた。あたし、あの日……あの冷たい地下牢で、一度死んじまったのかなぁ……?」
「いいや、死んではいない。君は新しく生まれ直したのだよ。クレマンティーヌという名前だけを残し、その中身のすべてを……私が、美しく書き換えた」
御方は彼女の頬に滑らかな指を滑らせ、その柔らかさを確かめるように、愛おしげになぞった。
地下牢で泥に塗れた過去を吐き出し、余さず記録され、すべての罪と孤独を承認されたことで。彼女の魂を長年突き動かしていた飢餓にも似た「欠落」は、今や、背後に座る御方への狂おしい「渇望と依存」へと完全に昇華されていた。
外の世界に広がる血みどろの戦場も、利用し合ったかつての仲間も、自分を冷酷に否定した兄の影も。
今の彼女にとっては、この丘の上から見える美しい箱庭の景色よりもはるかに遠く、手を伸ばす価値すらまったくない、ひどく色褪せた幻影に過ぎない。
「あはっ……、そうだ、ねぇ……。今のあたしには、この温かい光と、あんたの声以外……もう、何一ついらないよぉ……」
クレマンティーヌは御方の腕の中にすっぽりと収まりながら、陽だまりで愛撫を待つ猫のように、心地よさそうに目を細めた。
かつては他者の命を奪い、絶望の悲鳴を聞いた瞬間にしか得られなかったあの万能感が。今はただ、己のすべてを記録し支配する絶対者に『抱かれている』という事実だけで、脳髄の奥まで満たしていく。
彼女は自分の両手が、もはや短刀を握って誰かの喉笛を掻き切るためではなく、御方の冷たい指に自身の指を絡ませるためだけに存在していることを、深き絶望にも似た幸福と共に受け入れていた。
「さあ、私の腕の中で眠るといい。君が目覚めた時も、私はこうして君の隣で、君という物語の続きを綴っていよう」
御方の優しく響く囁きを最高の子守唄にして、クレマンティーヌは疑似太陽の温かな光の中、意識を手放していった。
それは、世界で一番残酷で、世界で一番贅沢な――決して目覚めることのない、『お姫様』の夢だった。
:再構築されるアイデンティティ
ナザリック地下大墳墓、第九階層の一角。
かつての殺風景で冷え切った地下牢は、今や最高級の調度品と、至高の御方の私物というべき数多の「記録」に囲まれた、豪奢で秘密めいた書斎へと完全に変貌を遂げていた。
クレマンティーヌは毛足の長い絨毯の上に力なく座り込み、背後にある御方の脚を心地よい背もたれにしながら、一冊の分厚い羊皮紙の束を眺めていた。
そこには、彼女が自ら吐き出した忌まわしい過去、泥に塗れた劣等感、そして凄惨な殺戮の記憶が、この世の何よりも美しく流麗な筆致で綴じ込められている。
「……あ、はっ。こうして見るとさぁ、あたしのろくでもない人生って、全部……あんたの万年筆に踊らされるためにあったみたいだねぇ……」
「そうかもしれないな。だが、余さず記録されたことで君の苦痛と罪は紙の上に固定され、もう君の魂を内側から蝕むことはない。……今の気分はどうかな?」
御方は彼女の華奢な肩を背後から抱き寄せ、その無防備な首筋に冷たい顔を寄せた。
かつて『漆黒の聖典』第九席次であった彼女なら、死角からの接近に対して無意識に喉笛を守り、相手に短刀を突き立てていただろう。だが今の彼女は、ただ蕩けたように目を細め、絶対者の魔的な体温に全神経を委ねるだけだった。
「気分……? あはっ、見事に空っぽだよぉ。……でもね、ちっとも嫌な感じじゃないんだ。重たくて臭い泥を全部あんたに預けちゃってさぁ……あたしは今、ただの『真っ白な紙』になった気分なんだよぉ……」
彼女は、己の細い掌をぼんやりと見つめた。
そこにはかつて、幾多の命を奪い、決して洗い流せないはずの血の匂いが染み付いていた。だが今、彼女の肌から漂っているのは、御方が愛用する高貴な香炉の煙と、彼女を清めた清潔な石鹸の残り香だけ。
彼女のしなやかな筋肉は、もはや瞬発的な殺意を練り上げるための武器ではなく、御方の寵愛をより深く、より甘く享受するための「器」へと完全に作り変えられていた。
「君はもう、スレイン法国の英雄でも、ズーラーノーンの狂人でもない。……このナザリックにおける、私の唯一無二の『生ける記録』だ」
御方は彼女の耳朶を甘く噛み、隠そうともしない強烈な独占欲とともに囁いた。
「外の世界では、クレマンティーヌという女はすでに死んだことになっている。法国も、もはや君を追うことはない。……君を縛り付けていたすべての鎖は消え去った。今の君を縛っているのは、私の紡ぐ言葉だけだ」
「……あはっ、最高だねぇ……。言葉の鎖なんて、世界で一番解きにくいじゃないか、よぉ……」
クレマンティーヌは御方の腕の中でゆったりと反転し、その首に両腕を回して強くしがみついた。
かつては誰かに選ばれることを拒絶され続け、絶望の泥の中で狂気を演じてきた哀れな少女。
彼女は今、自分を完全に理解し、定義し、そして所有してくれる絶対者の存在によって、かつてないほどの圧倒的な自己充足感に満たされていた。
「ねえ、あんた。……あたしの次のページには、一体何を書くつもりだい? あたしが、あんたのためにどんな風に壊れていくか……それとも、どんな風に愛でられて鳴くのか……。楽しみで、あはっ……おかしくなっちゃいそう、だよぉ……」
彼女の濡れた黄金の瞳に宿っているのは、かつてのような他者を傷つける破壊的な狂気ではない。
自分という存在のすべてを絶対者へ捧げ尽くすことを至上の悦びと誓った、盲目的でひどく純粋な「狂愛」の色だった。
御方は満足げに目を細め、万年筆を手に取ることなく、その冷たい指先で彼女の震える唇をそっとなぞる。
それは、白紙となった彼女の新しい物語の始まりを予感させるような、深く、残酷な微笑みだった。
:永遠の箱庭
ナザリック地下大墳墓の最奥。外界の喧騒も、沈みゆく太陽の光も届かないその場所では、時間はもはや何の意味も成さず、ただ「至高の御方」の慈愛という名の絶対的な法則だけが支配していた。
かつて数多の命を弄んだ殺人鬼、クレマンティーヌは今、御方の書斎で最後の一滴となる過去の残滓を捧げ終えていた。
豪奢な部屋の壁面を埋め尽くすように収められた、分厚い羊皮紙の束。それは彼女という一人の女を構成していた泥、血、孤独、そして再生に至るまでのすべてが綴じられた、世界で唯一の、そして最も完璧で残酷な伝記であった。
「――これで、最後、だねぇ」
クレマンティーヌは、分厚い絨毯の上で御方の足元に身体を丸め、その膝にすり寄るように顔を乗せた。
彼女が身に纏っているのは、もはや英雄の重い鎧でも、裏切り者の薄汚れた死装束でもない。御方の好みに合わせてあつらえられた、透き通るような淡い琥珀色のドレスだった。その極上の絹地は、彼女の白磁の肌と境界線が分からないほどに馴染み、彼女自身が巨大な琥珀に閉じ込められた美しい虫であることを雄弁に物語っていた。
「ああ。君の抱えていた過去は、泥の一粒に至るまですべて美しく収穫された。……さて、クレマンティーヌ。最初の約束通り、君に最後の『選択』を与えよう」
御方は羊皮紙の上から万年筆を静かに離し、膝にすり寄る彼女の金髪を労るように撫でた。
その神秘的な黄金の瞳は、あらゆる未来を見通すかのように、恐ろしいほどに透き通っている。
「この部屋の鍵は、すでに開いている。君が望むのなら、新しい名と、誰にも知られぬ安住の地、そしてこの先数十年を不自由なく暮らせるだけの莫大な富を与えよう。……君は再び、広大な自由の空の下で、一人の人間として生き直すことができる」
「……あはっ、自由……?」
クレマンティーヌは小さく喉を鳴らして笑い、御方を見上げた。
その濡れた瞳には、かつての狂信的な輝きも、獲物を狙う獣の鋭さも、あるいは外の世界への未練すらも微塵もない。そこにあるのは、底なしの深い湖のように澄み渡った、絶対者への陶酔だけだった。
「……嫌だよぉ。あんなに広くて冷たくて、誰もあたしを『永遠』に見てくれない世界に、今更戻れだなんて、さぁ……。あたし、もう自分の足での歩き方すら忘れちまったよぉ。あんたが書き残した、この温かい紙の中以外……あたしの居場所なんて、どこにもないんだから、さぁ……」
彼女は、自身の髪を撫でていた御方の大きく冷たい手を両手で包み込み、ゆっくりと、自らの細い喉元へと導いた。
かつて、多くの者の命を無慈悲に断ち切ってきたその急所。そこには今、御方から直接与えられた、彼に完全に属する愛玩品であることを示す、ひどく重く美しい首飾りが揺れている。
「あたしを、ここから絶対に出さないで、おくれよぉ。……あんたの万年筆が羊皮紙を引っ掻く音、あんたがページを捲る指の動き……。それだけが、あたしが今、息をして生きているってことの証明なんだ。……あたしを、永遠にこの『甘い檻』の中に閉じ込めて、ずっと……ずっと、愛でていておくれ、よぉ……」
御方は、その身勝手で愛おしい懇願を聞き届けると、ひどく満足げに目を細めた。
彼は冷たい指先で彼女の顎を掬い上げ、今度は額でも頬でもなく、狂信的な愛を紡ぐその震える唇に深く、決して不可逆な誓いのような接吻を刻み込んだ。
「ならば、望み通りにしよう。君という物語に、完結(エピローグ)など決して書かない。……代わりに、私が君を忘れない限り永遠に続く、美しい追記を綴ろう」
「……あはっ……。愛してる、よぉ……あたしの、至高の……飼い主、様……」
唇から伝わる魔的な熱に魂の底まで焼かれながら、クレマンティーヌは深すぎる幸福の溜息と共にゆっくりと目を閉じた。
外の世界では、彼女はすでに歴史の闇に葬られた、救いようのない「不浄な死者」でしかない。
だが、この甘い香の漂う温かな書斎の中では、彼女はどんな王妃よりも尊く、誰よりも深く愛され、そして完全に支配される、唯一無二の「生ける記録」として永遠の時を生き続けるのだ。
カリッ、カリカリ……。
静寂に包まれた部屋に、万年筆が再び新しい真白な羊皮紙の上を滑り始める音が響く。
それはもはや、彼女の魂を削り取る恐怖の音ではなく、二人だけの永遠の日常を刻む、ひどく甘美で規則的な心臓の鼓動(リズム)。
ナザリックの絶対的な深淵に、一人の少女の蕩けるような笑い声と、彼女を永遠に支配する怪物の静かな吐息が、途切れることなく深く溶け込んでいった。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。