原作では登場しない銃の勇者を主役にしながらの作品となります。
活動報告で募集を行いながら、皆様の応募、お待ちしています。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=337896&uid=45956
勇者とは、人の祈りが形を得たものではない。
むしろそれは、人が自らの無力を直視することに耐えられぬ時、外部へ責任を押し付けるために捏造した、最も都合の良い偶像に過ぎなかった。
朝霧誠司は、その夜までは、そうした残酷な真理と無縁の場所にいた。
二十年という年月の中で、彼は英雄など一度も志したことがなかったし、誰かの救済を引き受けるほど傲慢でもなかった。
大学の講義に出て、友人と他愛ない話を交わし、時には将来への漠然とした不安を抱えながら、それでも明日が今日の延長にあると信じて眠る。
その程度には平凡で、その程度には幸福な、ありふれた若者だった。
だが、召喚という暴力は、そうした連続性を何の感慨もなく断ち切る。
気づいた時、彼は石畳の上に立っていなかった。
豪奢な王城でもなければ、歓迎の言葉に満ちた謁見の間でもなかった。
鼻腔に満ちていたのは、血と煤と、焼けた木材の臭いである。
耳に届いたのは喝采ではなく、風に煽られた残火の音と、遠くで啼く獣の濁った声だけだった。
視界の端には、崩れた家屋があった。
そのまた向こうには、壁を引き裂かれた納屋と、踏み荒らされた畑がある。
村だったもの。
人が暮らしていた痕跡だけを残し、人間だけが綺麗に失われた、敗北の抜け殻だった。
誠司は立ち上がろうとして、右手に絡みつく異物の感触に気づいた。
それは、彼の意思とは無関係にそこに存在していた。
黒鉄を思わせる鈍い光沢と、過剰なまでに洗練された構造を持つ武器。
銃。
だが、単なる工業製品ではないことを、彼は一目で理解した。
握った瞬間に生じる不可解な熱と、脳裏へ流れ込む断片的な理解が、それをただの道具ではなく、己と結びついた何かだと告げていたからである。
理解は半端で、だからこそ不気味だった。
これは自分のものだ。
しかし、なぜ自分のものなのかは分からない。
使える。
だが、何のために与えられたのかは、なおさら分からない。
その時だった。
背後で、砂利を踏む音がした。
振り向いた彼の視界にいたのは、兵士ではなかった。
鎧の代わりに革を纏い、忠誠の代わりに値踏みの目を宿した男たちである。
剣呑な笑み。
薄汚れた荷車。
そして、人間を人間として見ない者だけが持つ、あまりにも慣れた手つき。
「珍妙な格好だな」
そう言った男の声には、警戒より先に打算があった。
「異国人か、それとも波で流れてきた難民か。どっちでも構わねえ。売れるならな」
誠司は、一歩だけ後退した。
話せば分かる。
そう考える癖は、彼の中にまだ残っていた。
それは善性の証明であると同時に、世界の悪意に対しては致命的なほど無防備な態度でもあった。
「待ってくれ。ここがどこなのか、俺は――」
最後まで言えなかった。
棍棒が振り下ろされるより早く、別の男が背後へ回り込んでいたからである。
鈍い衝撃が後頭部を打ち、視界が大きく傾ぐ。
膝が砕けたように折れ、地面が急速に近づいた。
勇者。
その肩書が、倒れゆく彼を守ることはなかった。
意識が薄れてゆく、その刹那。
誠司は、自分の右手から一発の銃声が放たれたのを聞いた気がした。
それは反射だったのか、武器の自律だったのか、彼には分からない。
ただ、誰かの短い悲鳴だけが、闇の底へ沈みゆく意識に最後の波紋を残した。
次に目を覚ました時、世界は鉄でできていた。
鼻を衝くのは、汗と黴と血の腐臭である。
四肢は重く、首には冷たい輪が嵌められていた。
視線を巡らせれば、粗末な檻が並び、その中には人影がいくつも蹲っている。
男も、女も、子供さえいる。
彼らの瞳からは希望ではなく、希望を失い尽くした後にだけ残る、乾いた諦念が覗いていた。
そこが何であるかを理解するのに、時間は要らなかった。
奴隷商。
あるいは、それに類する場所。
少なくとも、人間が品物として並べられる場所であることだけは、嫌でも理解できた。
「起きたか、新入り」
檻の外からではない。
すぐ傍から聞こえた声に、誠司は反射的に顔を向けた。
暗がりの中、鎖に繋がれた女が一人、壁にもたれて座っていた。
年はそう変わらないように見える。
しかし、その顔に刻まれた陰影は、歳月ではなく、喪失の濃度によって形作られたものだった。
長い黒髪は乱れ、痩せた頬には疲弊が滲んでいる。
だが、その眼だけは死んでいなかった。
凍りつくほど静かな怒りが、消えずにそこにあった。
そして何より、彼女の左腕だった。
肘から先が、人のものではない。
皮膚は禍々しい深紅と黒に侵され、獣の顎を思わせる異形の線を描いている。
生きている肉でありながら、同時に呪われた武器そのもののようでもあった。
誠司は息を呑んだ。
彼女はそれを見て、口元だけで笑った。
笑みと呼ぶにはあまりにも冷たい、侮蔑と自己嘲弄を等量ずつ混ぜたような表情だった。
「そんな顔をするなよ。化け物を見るのは初めてか」
「……いや」
違う。
初めて見たのではない。
初めて知ったのだ。
この世界では、人間はこういう形で壊れるのだということを。
女は視線を逸らし、低く呟いた。
「なら覚えておけ。ここじゃ、壊れた奴から先に使われる。使い潰される。そうやって残ったものが、次に誰かを壊す側へ回る」
その声音には講釈めいた響きがなく、ただ事実だけがあった。
幾度も繰り返し噛み締められ、感情という成分を削ぎ落とされた絶望の事実だけが、そこにはあった。
「君は……名前は」
「ベルベット」
それだけを答えたあと、彼女はしばらく黙っていた。
だが、やがて独白のように、吐き捨てるでもなく言った。
「波の日に、弟が死んだ」
声は平坦だった。
平坦であるがゆえに、その奥底へ沈殿した激情が見えた。
「その直後、私は魔物に食われかけた。食い千切られて終わるはずだった。なのに死ななかった。代わりに、この腕だけが残った」
異形の左腕が、まるで彼女の憎悪に呼応するように、わずかに脈打つ。
誠司は何も言えなかった。
安っぽい慰めが、この女にとって侮辱でしかないことを、本能的に察したからである。
ベルベットは彼を見た。
その視線は、仲間を探す者のものではなかった。
使えるか、使えないか。
それだけを測る刃物のような目だった。
「お前、ただの坊ちゃんじゃないな」
彼女の視線が、誠司の右手へ落ちる。
そこには、奪われたはずの銃が、まるで意思を持つように再び収まっていた。
誰にも取り上げられず、いや、取り上げること自体を拒んだかのように。
「銃っ」
「・・・銃?聞いた事のない名前だが、武器なのか」
「それは」
困惑を隠せずに、思わず頷く。
それと共に彼女はため息を吐く。
「・・・見た事のない武器、まるで勇者だな」
「勇者?」
「・・・今のお前には関係ない事だな、その武器。ここにいる連中が見たことのない顔をしてる。お前も、そうだ。なら一つだけ教えてやる」
ベルベットは鎖を鳴らしながら、僅かに身を乗り出した。
その瞳にあったのは希望ではなく、血で濡れた契約の予兆である。
「ここから出たいなら、善人でいるな。躊躇えば死ぬ。憐れめば喰われる。復讐でも、生存でも、理由は何でもいい。だが、奪う覚悟だけは持て」
誠司は、その言葉を否定できなかった。
彼女の言うことは、きっと正しくない。
だが、この世界では、正しさより先に生き残る術が要求される。
その不条理だけは、もう疑いようがなかった。
檻の外では、品定めをする足音が近づいている。
次に開く扉が、売買のためか、暴力のためか、それともさらに劣悪な何かの始まりなのかは分からない。
だが、確かなことが一つだけある。
この出会いは救済ではない。
むしろ、二人の地獄が、ようやく同じ方向を向いただけのことだった。
そして、その地獄の底でこそ、勇者という言葉は初めて、血の温度を持つのかもしれなかった。
人は、どこまで追い詰められれば、他者の死を必要経費として勘定できるようになるのだろうか。
その問いに対する答えを、朝霧誠司はまだ持っていなかった。
いや、持たずに済む場所で生きてきた、と言うべきだった。
人を傷つけることは悪であり、奪うことは罪であり、命は何にも優先されるべき重さを持つ。そう信じることのできる世界にいた。
それは幸福であり、同時に、こうした地獄では致命的な欠陥でもあった。
檻の外を見張りが行き来している。
粗末な松明の炎が揺れるたび、鉄格子の影が地面に細く長く伸び、まるで首を括るための縄のように見えた。
闇は静かだったが、静けさとは安堵の別名ではない。むしろそれは、次に訪れる暴力の前触れとしてのみ、この場所に存在していた。
誠司は壁にもたれ、膝を抱えるようにして呼吸を整えた。
右手には相変わらず、あの銃があった。
奪われたはずで、奪われていない。
何者かに与えられた力でありながら、彼自身の意志よりも深い場所で結びついている異物。
それを見下ろすたび、彼の胸中には理解の追いつかない感覚がよぎった。
これは武器だ。
命を守るための道具ではなく、命を奪うために完成された機構だ。
少なくとも、そういう側面を否定することはできない。
(これを使えば、きっと脱出の可能性は上がる)
(でも、それはつまり――人を撃つってことだろ)
自問は、あまりにも直接的だった。
だからこそ、誤魔化しが利かなかった。
大学にいた頃、誠司は暴力とは縁遠い人間だった。
喧嘩を買ったことも、売ったこともない。
誰かを殴った経験でさえ、記憶の底を探らなければ出てこない程度には、彼の人生は温和なものだった。
そんな人間にとって、「殺す覚悟を持て」という言葉は、剣や魔法よりもなお重く、現実味のない何かとして心の表面を滑っていく。
だが、この世界は、その曖昧さを許してはくれない。
「眠れないのか」
低い声が、すぐ傍から落ちた。
ベルベットだった。
彼女は壁際に座ったまま、膝を立て、その上に異形の左腕を預けるようにしていた。
赤黒く変質した腕は、松明の火を受けるたびに生肉のような生々しい艶を返している。
それは怪物の一部であり、同時に、怪物に抗って生き残った証でもあるように見えた。
「……ああ」
誠司の返答は短かった。
短くなるしかなかった。
この場所で「大丈夫だ」と言うのは嘘であり、「怖い」と言うには自尊心が邪魔をした。
ベルベットは鼻で笑うように息を吐いた。
「そういう顔だ。何かに怯えてる奴の顔」
「分かるのか」
「分かるさ。散々見てきた」
彼女の声音に優しさはなかった。
だが、そこには奇妙な正確さがあった。
慰める気はない。
ただ、相手の内側にある傷を見抜くことに慣れすぎている者の目だけがあった。
「お前、自分が何を怖がってるのか、ちゃんと分かってるか」
誠司はすぐには答えられなかった。
言葉にした瞬間、それが現実として定着してしまう気がしたからだ。
「……人を撃つこと、だと思う」
沈黙の末にそう口にすると、ベルベットは「そうか」とだけ言った。
嘲るでもなく、呆れるでもなく、ただ事実として受け取った声だった。
「なら、まだまともだな」
「まとも?」
「ここじゃ、人を殺すことに何の抵抗もなくなる方が、たぶん壊れてる」
彼女はそう言ってから、ゆっくりと天井を見上げた。
薄汚れた板張りの向こうには夜があるはずなのに、この場所に落ちてくるのは星明かりではなく、湿った冷気だけだった。
「でもな、まともなまま死ぬ奴も多い」
声には感情がなかった。
いや、正確には、感情を込めるには同じ事実を見過ぎてしまった者の乾きがあった。
「何も奪えず、何も壊せず、何も選べないまま、勝手に食い潰されて終わる。そういう奴を私は山ほど見た」
誠司は唇を噛んだ。
反論したかった。
人を殺さずに済む方法があるはずだと。
奪わずに生き残る道があるはずだと。
けれど、それはこの檻の中で口にするにはあまりにも空虚な願望に過ぎなかった。
(違う)
(そういう綺麗事を言いたいわけじゃない)
(ただ……本当に、そこまでしないと生き残れないのかって)
(俺はまだ、信じたくないだけなんだ)
その逡巡を見抜いたのか、ベルベットは視線を彼へ戻した。
暗がりの中で、その瞳だけが妙に冴えて見えた。
復讐に灼かれた目だった。
あまりにも多くを失った者だけが持つ、消えることのない熱を孕んでいた。
「勘違いするなよ」
彼女は低く言った。
「私はお前に、好きになって殺せとは言ってない。慣れろとも言ってない。ただ、自分が何を選ぶか決めろって言ってるだけだ」
「選ぶ……」
「そうだ。殺すか、殺されるか。助けるか、見捨てるか。ここでは誰かが代わりに決めてくれたりしない」
ベルベットの左腕が、ぴくりと震えた。
まるでその言葉に応じて、内に潜む何かが牙を鳴らしたようだった。
「選ばなかった奴から順に、都合のいい肉になる」
その一言は、妙に深く誠司の胸に沈んだ。
選ばない、ということもまた選択なのだ。
何もしないという態度は、決して無色透明ではない。
誰かが奪われるのを見過ごすこと。
誰かが踏みにじられるのを止めないこと。
それは善良さではなく、単に責任の引き受けを拒んだだけなのかもしれない。
(でも、それでも)
(人を殺したくないと思うのは、間違いなのか)
(ここでその気持ちを捨てたら、俺は俺じゃなくなるんじゃないか)
その思考は、かつての彼の人生と、今目の前にある現実との裂け目から滲み出る血のようだった。
善意を持つことは、美徳だった。
けれど、その善意が誰かを守れないのなら、それはただの自己満足ではないのか。
彼の中にあった常識は、ひとつひとつがこの世界では脆弱で、壊れやすいガラス細工のようだった。
不意に、廊下の向こうで怒鳴り声が上がった。
続いて、何かを蹴る鈍い音。
子どものものらしい短い悲鳴が、喉元で潰されたように途切れる。
誠司の身体がこわばった。
檻の奥では、別の奴隷たちがさらに身を縮めている。
見ないふりをすることに慣れきった、怯えた獣のように。
「始まったな」
ベルベットは立ち上がった。
鎖が音を立てる。
その表情には怒りも焦りもなく、ただ、予定された出来事を確認するような冷たさだけがあった。
「何がだ」
「品定めだよ。商品が従順かどうか、使い物になるかどうか、たまに試す」
彼女の言葉が終わるのと、足音がこちらへ近づくのはほとんど同時だった。
乱暴な笑い声。
酒臭い息。
鍵束の擦れる耳障りな音。
格子の前に現れたのは、昼間に見た男たちのうちの二人だった。
一人は顎に無精髭を生やした大柄な男。
もう一人は痩せぎすで、やたらと目だけがぎらついている。
どちらも人間らしい顔をしていながら、その実、人間を物として扱うことに何の痛痒も覚えぬ種族のように見えた。
「おい、女」
大柄な男が檻を蹴る。
「今日はそっちだ。腕が面白ぇからな。買い手に見せる前に、どれだけ暴れるか見ときたい」
その瞬間、空気が変わった。
ベルベットの瞳の奥で、炎のような何かが静かに揺れた。
「断るって言ったら?」
声音は穏やかですらあった。
だからこそ、それがどれほど危うい怒気を孕んでいるか、誠司にも分かった。
男は嗤った。
「断れる立場かよ、奴隷が」
鍵が差し込まれる。
鉄格子がきしみながら開く。
その音は、獣の檻を開ける音ではなく、獣を檻から引きずり出して見世物にするための音だった。
誠司の喉がひりついた。
立ち上がらなければならない、と分かっていた。
このまま見ていれば、何が起きるかは想像できる。
いや、想像したくないからこそ、身体が動かなかった。
(助けないと)
(でも、どうする)
(撃つのか?)
(こいつらを?)
(人を?)
右手の銃がずしりと重かった。
それは道具の重さではなく、選択そのものの重量だった。
引き金に指をかければ、取り返しのつかない一線を越える。
その先にいるのは、もう以前の朝霧誠司ではないかもしれない。
だが、目の前では大柄な男がベルベットの髪を掴もうとしていた。
ベルベットはまだ動かない。
いや、動けないのではない。
おそらく彼女は、動くなら確実に相手を殺すと分かっているからこそ、最後の瞬間まで均衡を測っているのだ。
「やめろ」
誠司の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
男たちが振り向く。
その顔に浮かんだのは、虫が鳴いたことに気づいた程度の軽蔑だった。
「ああ? 何だ、新入り」
痩せた男が笑う。
「お前も見学したいのか。だったら特等席で――」
言葉は最後まで続かなかった。
誠司が銃を向けたからだ。
静寂が落ちる。
松明の火が揺れる音さえ大きく感じられた。
男たちは、一瞬だけ目を丸くした。
それが何なのか理解できていないのだ。
剣でも槍でもない、見たことのない形状の武器を前にして、警戒と嘲笑が中途半端に混ざっている。
「何だそりゃ」
大柄な男が言う。
「脅しのつもりか?」
誠司の指先が震えた。
照準は定まっているようで、定まっていない。
喉の奥が焼けるように乾く。
心臓がうるさい。
耳の内側で血流が脈打ち、視界の端が僅かに暗くなる。
(撃て)
(いや、待て)
(足を狙えばいい。殺さなくて済む)
(でも外したら?)
(撃たなかったら、ベルベットはどうなる)
思考が千々に裂ける。
選択肢はあるようで、実際には一つもない。
その場しのぎの正しさと、生き残るための非情さが、彼の中で互いの喉を締め合っていた。
「誠司」
ベルベットが初めて、彼の名を呼んだ。
それだけで、誠司は息を呑んだ。
「中途半端は一番駄目だ」
彼女の声は低く、ひどく静かだった。
「撃つなら撃て。撃たないなら下ろせ」
それは背中を押す言葉ではなかった。
優しさですらなかった。
ただ、曖昧さに逃げることを許さない現実の声だった。
誠司は、歯を食いしばった。
視線の先には男の膝がある。
致命傷ではない。
止めるための一撃。
そう自分に言い聞かせる。
(殺すためじゃない)
(止めるためだ)
(助けるために撃つんだ)
(それでも――人に向けるのは、同じことじゃないのか)
引き金が、鉛のように重かった。
その重さは、道徳の残骸だった。
彼がまだ人の命に怯え、人の痛みに想像を及ぼせる証拠だった。
次の瞬間、大柄な男が舌打ちとともに一歩踏み込んだ。
「舐めてんじゃ――」
銃声が、狭い奴隷舎に炸裂した。
火薬の匂い。
耳鳴り。
短い悲鳴。
男の膝が砕けるように折れ、巨体が横倒しに崩れ落ちた。
血が飛沫となって石床を汚す。
誠司は自分が何をしたのか理解しながら、なおそれを実感できずにいた。
(撃った)
(俺が)
(人を――)
胃の底が冷える。
吐き気に似た感覚が喉元までせり上がった。
致命傷ではない。
そう自分に言い聞かせても、肉を破り、骨を砕く手応えは、あまりにも生々しく手の中に残っていた。
だが、現実は彼の衝撃を待ってはくれなかった。
「この野郎ッ!」
痩せた男が剣を抜く。
誠司の身体が反応しきるより早く、ベルベットが動いた。
鎖が唸りを上げる。
異形の左腕が膨れ上がるように脈動し、獣の顎めいた赤黒い爪が、男の手首へ喰らいつく。
骨の砕ける音がした。
絶叫が狭い空間を引き裂く。
剣が宙を舞い、血が松明の火に濡れた宝石のように散る。
ベルベットは止まらなかった。
そのまま男を壁へ叩きつける。
衝撃で肺の空気を吐き出した男の喉元へ、彼女の異形の腕がぴたりと添えられる。
あと少し力を込めれば、容易く食い千切れる距離。
「ベルベット、待て!」
反射的に叫んでいた。
自分でも何を言っているのか分からなかった。
目の前の男は敵だ。
助ける義理などない。
むしろ殺してしまった方が後腐れは少ないのかもしれない。
それでも、誠司の口から出たのは制止だった。
ベルベットが振り返る。
その顔には、人間の怒りではなく、獣が獲物を前にした時の剥き出しの殺意があった。
だが、その瞳の奥に、ごく僅かに理性が残っているのも見えた。
「甘いな、お前」
低く唸るように彼女が言う。
「こいつを生かしたら、後で面倒になる」
「それでも……今、殺すのは――」
言い切れなかった。
正しい理屈などないと、自分が一番よく分かっていたからだ。
ただ、これ以上、目の前で命が壊れるのを見たくなかった。
自分が撃っただけでもう十分だった。
これ以上進めば、本当に戻れなくなる気がした。
ベルベットは数秒だけ彼を睨み、それから舌打ちした。
異形の腕を男の喉元から外し、その代わりに後頭部を床へ叩きつける。
男は白目を剥き、そのまま動かなくなった。
死んではいない。
だが、当分は起き上がれないだろう。
「借り一つだ」
ベルベットは吐き捨てた。
「次は止めても聞かない」
誠司は答えられなかった。
右手の震えが止まらなかったからだ。
銃を握る指先にはまだ余計な力が入り、呼吸は浅く乱れている。
人を撃った。
たとえ殺していなくとも、その事実は消えない。
彼の中の何かは、確かに先ほどの一発で傷ついていた。
(俺は結局、撃てた)
(本当に必要になったら、人に向けて引き金を引けたんだ)
(それを安心していいのか、怖がるべきなのか……分からない)
自分の善性が証明されたのか、それとも損なわれたのか。
もはや彼には判別がつかなかった。
ただ一つ言えるのは、この世界では、迷いは罪ではなく死因になるということだけだった。
ベルベットは倒れた男たちから鍵束を奪うと、躊躇なく誠司へ放った。
金属の重みが掌に食い込む。
「泣いてる暇はないぞ、銃の勇者」
その呼び方は、皮肉にも、あるいは事実確認にも聞こえた。
「どうせ騒ぎはすぐに広がる。ここで終わるなら、お前の覚悟はその程度だったってことだ」
誠司は鍵束を見下ろした。
その先には、他の檻が並んでいる。
怯えた目。
諦めた目。
縋ることすら忘れた目。
それらが一斉に彼を見ていた。
選ばなければならない。
またしても。
逃げるか。
助けるか。
どちらも背負えないと言い張るには、もう遅すぎた。
誠司は深く息を吸い、震える指で最初の鍵を確かめた。
まだ怖い。
まだ戸惑っている。
人を傷つけた感触は消えないし、次にもっと深い場所まで踏み込まされる予感もある。
それでも彼は、銃を捨てなかった。
目を逸らしもしなかった。
「……行こう」
その声は強くなかった。
英雄のそれには程遠い、傷ついた青年の声だった。
けれど、少なくとも前へ進む意思だけは、そこにあった。
ベルベットは初めて、ほんの僅かにだけ、獰猛ではない笑みを浮かべた。
それは共感ではなく確認だった。
この男はまだ壊れ切っていない。
だが、壊れないまま地獄を歩こうとしている。
その危うさが、彼女には少しだけ面白く思えた。
奴隷舎の奥で、警鐘が鳴り始める。
遅すぎた異変の発覚が、夜の闇を震わせる。
檻の中で生まれたこの小さな反逆は、まだ脱走にすら届いていない。
ただ、それでも確かに、ここから何かが始まっていた。
血と鉄と、ためらいの匂いに満ちたその夜。
朝霧誠司は初めて、人を殺さずに生き延びる道を探しながら、それでも人を撃つしかない世界へ足を踏み入れた。
そしてベルベットは、そんな甘さを抱えた男が、どこまで地獄に耐えられるのかを見定めるように、その背を見ていた。
二人の同盟は、信頼ではなく必要によって結ばれた。
だが必要とは時に、愛情よりもなお強く、破滅へ向かう者同士を結びつける鎖になる。
そしてこの夜、彼らはまだ知らない。
その鎖がやがて、波という災厄に牙を剥くための、最初の楔になることを。