追跡者の矢を退けてから、誠司とベルベットは街道から少し外れた岩場へ身を潜めていた。
木々がまばらに生え、風の通りは悪くないが、視線は通りにくい。
休むにも、敵を待つにも、中途半端に都合のいい場所だった。
本来なら長居を避けたい地形だが、あえてそこへ留まっているのは、ベルベットの判断だった。
「まだ近くにいる」
彼女はそう断言した。
根拠を問えば、たぶん彼女は「臭いがする」とでも答えただろう。
実際、説明できるような証拠があるわけではないのかもしれない。
だが、これまでの経験上、ベルベットがそういう時に外したことはほとんどない。
誠司は銃を膝の上へ置きながら、何度目かになる緊張の息を静かに吐いた。
「さっきの弓手か」
「たぶんな」
ベルベットは短く答える。
包帯の巻かれた左腕を庇う様子はない。
むしろ、いざとなればすぐ動けるよう、身体の重心を低く保っている。
その姿は休息中というより、獣が身を伏せて獲物の気配を待っている時のそれに近かった。
誠司は周囲へ視線を巡らせる。
何も見えない。
風が草を揺らし、鳥の鳴き声が遠くでひとつ響く。
平穏そのもののような風景だ。
だが、さっきまで命を狙われていた以上、その静けさはむしろ不気味だった。
「どうして戻ってくると思うんだ」
誠司が小さく尋ねると、ベルベットは岩の陰から動かぬまま答えた。
「狩人の目だった」
それだけだった。
だが、その短い説明だけで、彼女が何を言いたいのかは何となく伝わる。
あの弓手は、仕事だから仕方なく一度矢を放っただけの相手ではない。
獲物を落とすまで諦めきれない、そういう類の目をしていた。
しばらく、何も起きなかった。
空の色が少しずつ傾き始め、陽の角度が木々の影を長くする。
誠司は気を張り続けることの難しさを改めて思い知っていた。
戦っている時の方がまだ楽だ。
敵が目の前にいるなら、やるべきことは単純になる。
だが、こうして見えない殺意を待つ時間は、神経をじわじわと削ってくる。
「……来る」
不意に、ベルベットが囁いた。
誠司は反射的に銃へ手を伸ばす。
だが、彼にはまだ何も感じ取れない。
何処だ。
何が来る。
そう問う前に、ベルベットの姿が掻き消えた。
ほとんど跳ねるような初動だった。
彼女は岩陰から飛び出し、誠司の右後方へ回り込むように斜面を蹴る。
その瞬間、誠司の視界の端に、一筋の影が走った。
木々の隙間。
弓を構える前の、わずかな輪郭。
あの弓手だ。
だが、今度は矢が飛ぶよりベルベットの方が早かった。
弓手が反応して退こうとする。
その動きも速い。
森の地形に慣れた者の足取りだ。
だが、ベルベットはさらにその内側へ踏み込み、一気に間合いを潰す。
異形の左腕が赤黒く脈打ち、相手の弓を掴むより先に、その細い身体ごと地面へねじ伏せた。
「っ……!」
鈍い息が漏れる。
女だった。
前回と同じく、細身で、鋭い目をした若い弓手。
だが、遠目に見た時の凍てついた印象と違い、こうして近くで押さえ込まれた姿は、どこかひどく痩せて見えた。
追い詰められた獣というより、休み方を忘れた人間の身体つきだった。
「離せ」
女は低く言った。
その声には怒りがある。
だが、それ以上に擦り減った気配があった。
ベルベットは一切応じない。
膝で相手の肘を押さえ、左腕で喉元すれすれへ異形の爪を添えている。
少しでも暴れれば、そのまま裂ける位置だった。
「次は逃がさない」
ベルベットの声は氷のように冷たかった。
「さっき私たちを狩ろうとした報いだ」
その言葉に、女は小さく目を細める。
恐怖ではない。
むしろ、どこか諦めたような目だった。
誠司は数歩遅れて駆け寄り、足を止める。
彼の胸に最初に浮かんだのは、怒りではなかった。
もちろん、自分たちを殺そうとした相手だ。
その事実は消えない。
だが、目の前の女には、死地へ追い込まれた者に特有の“生き残ろうとする必死さ”が薄かった。
抵抗はしている。
逃げようともしている。
それでも、その奥底にあるのは執念というより、ひどく静かな疲弊だった。
「……お前」
誠司が思わず漏らすと、女は視線だけをこちらへ向ける。
その眼に宿っているのは敵意だ。
だが同時に、敵意だけで立っていられる人間の顔にも見えなかった。
まるで、殺されることそのものに、どこか現実感を失っているような目だった。
「誠司、下がってろ」
ベルベットが言う。
「こいつは厄介だ。油断したら喉を抜かれる」
「分かってる」
誠司は答えつつも、その場を離れなかった。
女の弓はすでにベルベットが蹴り飛ばしている。
短剣の類を隠している可能性はある。
だから警戒は必要だ。
だが、それでも今の彼女は、森の中で矢を放っていた時よりずっと脆く見えた。
女は小さく息を吐いた。
そして、それきり抵抗を弱める。
完全に諦めたわけではないだろう。
ただ、ここから力任せに暴れても無駄だと理解したのかもしれない。
あるいは、それ以上に、もう踏ん張る気力が残っていないのかもしれない。
その沈み方が、妙に静かすぎた。
「殺すなら早くしろ」
彼女はぽつりと言った。
声には虚勢がなかった。
挑発でもない。
本当に、そうするならそうしてほしいとでも言うような、乾いた口調だった。
誠司は眉をひそめる。
そんな言い方をする人間を、彼はまだうまく扱えない。
敵意を剥き出しにされる方がむしろ楽だ。
だが、こうしてどこか死を受け入れかけているような相手は、こちらの足場まで曖昧にしてくる。
「黙れ」
ベルベットはぴしゃりと言った。
「こっちがどうするかは、私が決める」
その声音には不快感があった。
相手が命を投げるような物言いをしたことが、彼女には気に食わなかったのかもしれない。
ベルベット自身、死にたくて生き延びてきた女ではない。
たとえ復讐のためであっても、彼女は常に死ぬ側ではなく殺す側へ立とうとしてきた。
だからこそ、こうした諦め方は本能的に嫌悪の対象になるのだろう。
「お前、何者だ」
誠司が問う。
女はすぐには答えなかった。
視線だけが揺れる。
喉元に爪がある以上、余計な嘘は危険だと分かっているのかもしれない。
それでも、何をどこまで言うかを迷っているようにも見えた。
「……ただの依頼人だ」
やがて絞り出すように言う。
だが、その答えはあまりにも薄い。
依頼人ではなく、依頼を受けた側なのだろうということくらい、誠司にも分かる。
誤魔化しだ。
そして、誤魔化しきる気力も弱い。
「そんな答えを聞いてるんじゃない」
ベルベットの声が一段低くなる。
異形の腕がわずかに食い込み、女の首筋へ赤い線が走る。
「名前は」
その問いが落ちた瞬間、空気が少しだけ変わった。
誠司にはそれが分かった。
名前を問うという行為は、敵に対して奇妙に個人的だ。
ただ殺すだけなら、知る必要のないものだからだ。
だからこそ、その問いは相手を“敵”から“誰か”へ引きずり出す。
女はしばらく黙っていた。
横顔は土に汚れ、髪は乱れている。
それでも、その目だけは妙に澄んで見えた。
澄んでいるからこそ、底に沈んだ疲弊が余計に見える。
「……シノン」
ようやくこぼれたその名は、ひどく小さかった。
けれど、その小ささゆえに、誠司の耳へ不思議な重みを残す。
ただの弓手。
ただの追跡者。
そう呼んでいた相手に、急に輪郭が生まれた気がした。
「シノン、か」
誠司が反復すると、彼女――シノンは目を閉じる。
まるで、それ以上は何も言うことがないとでも言いたげな仕草だった。
あるいは、自分の名が相手の口から出ること自体、久しぶりすぎてうまく受け止められないのかもしれない。
「ふざけた真似をするな」
ベルベットは依然として警戒を解かない。
「名乗った程度で、こっちが甘くなると思うな」
その言葉は鋭かった。
だが、シノンは反論しない。
睨み返すでもなく、命乞いをするでもなく、ただ静かに横たわったままだ。
その態度が、逆に不気味ですらあった。
普通なら捕まった時点でもっと必死に生を掴みにくるはずだ。
けれど、彼女にはその必死さがない。
生きるために矢を放つ者のはずなのに、捕まった途端にどこか糸が切れたような顔をしている。
誠司はその違和感から目を離せなかった。
この女は強い。
間違いなく強い。
森の中での移動も、矢の精度も、一流とまでは言わずとも、それに近い実戦の匂いがある。
なのに、その内側には、強い者に通常備わっている“生き残ろうとする意思”が妙に希薄だった。
それはまるで、死ぬ気はないが、生きたい理由もまた薄れているような、危うい均衡に見える。
「お前、どうしてそこまでして俺たちを狙った」
誠司は思わず問う。
シノンは薄く目を開ける。
その視線は誠司を捉えたが、そこに敵意が燃え上がることはなかった。
代わりにあったのは、酷く疲れた静けさだった。
彼女は答えない。
ただ、何かを言おうとして、やめる。
喉元の異形の爪よりも、言葉そのものの方が重いとでもいうように。
その沈黙が、かえって彼女の事情の深さを示しているようだった。
ベルベットは小さく舌打ちした。
「喋らないなら、それでもいい」
だが、すぐに殺す様子もない。
完全に警戒はしたまま、それでも彼女もまた、この弓手の妙な空虚さを感じ取っているのだろう。
単純に首を刎ねて終わる相手ではないと、本能が告げているのかもしれない。
誠司はゆっくりと息を吐く。
名前を知った瞬間から、相手はただの襲撃者ではなくなってしまった。
もちろん油断はできない。
けれど、このまま何も聞かずに処理してしまえば、何か大事なものを見落とす気がする。
それが危険な甘さだとしても、彼にはそう思えてならなかった。
風が木々を揺らし、遅れて葉擦れの音が落ちてくる。
その中で、ベルベットに押さえ込まれたシノンは、相変わらずどこか遠い眼をしていた。
敵意はある。
警戒もしている。
それでもなお、その奥底には、誰にも見つけてもらえないまま消えていく火のような、弱い諦めが残っている。
誠司はその目を見ながら、次に自分が何を聞くべきかを考え始めていた。
どうしてここまで追ってきたのか。
誰に雇われたのか。
何のために矢を放つのか。
そして何より、どうしてそんな目をしているのか。
名前を知ったことで、その問いはもはやただの尋問ではなく、ひとりの人間の内側へ踏み込む入口へ変わっていた。
次に語られる言葉次第で、彼女は敵のまま終わるかもしれない。
あるいは、まったく別の立ち位置へ変わるかもしれない。
その境目が、いまこの場に静かに横たわっていた。