※この作品はR-18です。

銃の勇者の探索記   作:ボルメテウスさん

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名を持つ獲物

追跡者の矢を退けてから、誠司とベルベットは街道から少し外れた岩場へ身を潜めていた。

木々がまばらに生え、風の通りは悪くないが、視線は通りにくい。

休むにも、敵を待つにも、中途半端に都合のいい場所だった。

本来なら長居を避けたい地形だが、あえてそこへ留まっているのは、ベルベットの判断だった。

 

「まだ近くにいる」

彼女はそう断言した。

根拠を問えば、たぶん彼女は「臭いがする」とでも答えただろう。

実際、説明できるような証拠があるわけではないのかもしれない。

だが、これまでの経験上、ベルベットがそういう時に外したことはほとんどない。

誠司は銃を膝の上へ置きながら、何度目かになる緊張の息を静かに吐いた。

 

「さっきの弓手か」

「たぶんな」

ベルベットは短く答える。

包帯の巻かれた左腕を庇う様子はない。

むしろ、いざとなればすぐ動けるよう、身体の重心を低く保っている。

その姿は休息中というより、獣が身を伏せて獲物の気配を待っている時のそれに近かった。

 

誠司は周囲へ視線を巡らせる。

何も見えない。

風が草を揺らし、鳥の鳴き声が遠くでひとつ響く。

平穏そのもののような風景だ。

だが、さっきまで命を狙われていた以上、その静けさはむしろ不気味だった。

 

「どうして戻ってくると思うんだ」

誠司が小さく尋ねると、ベルベットは岩の陰から動かぬまま答えた。

「狩人の目だった」

それだけだった。

だが、その短い説明だけで、彼女が何を言いたいのかは何となく伝わる。

あの弓手は、仕事だから仕方なく一度矢を放っただけの相手ではない。

獲物を落とすまで諦めきれない、そういう類の目をしていた。

 

しばらく、何も起きなかった。

空の色が少しずつ傾き始め、陽の角度が木々の影を長くする。

誠司は気を張り続けることの難しさを改めて思い知っていた。

戦っている時の方がまだ楽だ。

敵が目の前にいるなら、やるべきことは単純になる。

だが、こうして見えない殺意を待つ時間は、神経をじわじわと削ってくる。

 

「……来る」

不意に、ベルベットが囁いた。

誠司は反射的に銃へ手を伸ばす。

だが、彼にはまだ何も感じ取れない。

何処だ。

何が来る。

そう問う前に、ベルベットの姿が掻き消えた。

 

ほとんど跳ねるような初動だった。

彼女は岩陰から飛び出し、誠司の右後方へ回り込むように斜面を蹴る。

その瞬間、誠司の視界の端に、一筋の影が走った。

木々の隙間。

弓を構える前の、わずかな輪郭。

あの弓手だ。

 

だが、今度は矢が飛ぶよりベルベットの方が早かった。

弓手が反応して退こうとする。

その動きも速い。

森の地形に慣れた者の足取りだ。

だが、ベルベットはさらにその内側へ踏み込み、一気に間合いを潰す。

異形の左腕が赤黒く脈打ち、相手の弓を掴むより先に、その細い身体ごと地面へねじ伏せた。

 

「っ……!」

鈍い息が漏れる。

女だった。

前回と同じく、細身で、鋭い目をした若い弓手。

だが、遠目に見た時の凍てついた印象と違い、こうして近くで押さえ込まれた姿は、どこかひどく痩せて見えた。

追い詰められた獣というより、休み方を忘れた人間の身体つきだった。

 

「離せ」

女は低く言った。

その声には怒りがある。

だが、それ以上に擦り減った気配があった。

ベルベットは一切応じない。

膝で相手の肘を押さえ、左腕で喉元すれすれへ異形の爪を添えている。

少しでも暴れれば、そのまま裂ける位置だった。

 

「次は逃がさない」

ベルベットの声は氷のように冷たかった。

「さっき私たちを狩ろうとした報いだ」

その言葉に、女は小さく目を細める。

恐怖ではない。

むしろ、どこか諦めたような目だった。

 

誠司は数歩遅れて駆け寄り、足を止める。

彼の胸に最初に浮かんだのは、怒りではなかった。

もちろん、自分たちを殺そうとした相手だ。

その事実は消えない。

だが、目の前の女には、死地へ追い込まれた者に特有の“生き残ろうとする必死さ”が薄かった。

抵抗はしている。

逃げようともしている。

それでも、その奥底にあるのは執念というより、ひどく静かな疲弊だった。

 

「……お前」

誠司が思わず漏らすと、女は視線だけをこちらへ向ける。

その眼に宿っているのは敵意だ。

だが同時に、敵意だけで立っていられる人間の顔にも見えなかった。

まるで、殺されることそのものに、どこか現実感を失っているような目だった。

 

「誠司、下がってろ」

ベルベットが言う。

「こいつは厄介だ。油断したら喉を抜かれる」

「分かってる」

誠司は答えつつも、その場を離れなかった。

女の弓はすでにベルベットが蹴り飛ばしている。

短剣の類を隠している可能性はある。

だから警戒は必要だ。

だが、それでも今の彼女は、森の中で矢を放っていた時よりずっと脆く見えた。

 

女は小さく息を吐いた。

そして、それきり抵抗を弱める。

完全に諦めたわけではないだろう。

ただ、ここから力任せに暴れても無駄だと理解したのかもしれない。

あるいは、それ以上に、もう踏ん張る気力が残っていないのかもしれない。

その沈み方が、妙に静かすぎた。

 

「殺すなら早くしろ」

彼女はぽつりと言った。

声には虚勢がなかった。

挑発でもない。

本当に、そうするならそうしてほしいとでも言うような、乾いた口調だった。

 

誠司は眉をひそめる。

そんな言い方をする人間を、彼はまだうまく扱えない。

敵意を剥き出しにされる方がむしろ楽だ。

だが、こうしてどこか死を受け入れかけているような相手は、こちらの足場まで曖昧にしてくる。

 

「黙れ」

ベルベットはぴしゃりと言った。

「こっちがどうするかは、私が決める」

その声音には不快感があった。

相手が命を投げるような物言いをしたことが、彼女には気に食わなかったのかもしれない。

ベルベット自身、死にたくて生き延びてきた女ではない。

たとえ復讐のためであっても、彼女は常に死ぬ側ではなく殺す側へ立とうとしてきた。

だからこそ、こうした諦め方は本能的に嫌悪の対象になるのだろう。

 

「お前、何者だ」

誠司が問う。

女はすぐには答えなかった。

視線だけが揺れる。

喉元に爪がある以上、余計な嘘は危険だと分かっているのかもしれない。

それでも、何をどこまで言うかを迷っているようにも見えた。

 

「……ただの依頼人だ」

やがて絞り出すように言う。

だが、その答えはあまりにも薄い。

依頼人ではなく、依頼を受けた側なのだろうということくらい、誠司にも分かる。

誤魔化しだ。

そして、誤魔化しきる気力も弱い。

 

「そんな答えを聞いてるんじゃない」

ベルベットの声が一段低くなる。

異形の腕がわずかに食い込み、女の首筋へ赤い線が走る。

「名前は」

 

その問いが落ちた瞬間、空気が少しだけ変わった。

誠司にはそれが分かった。

名前を問うという行為は、敵に対して奇妙に個人的だ。

ただ殺すだけなら、知る必要のないものだからだ。

だからこそ、その問いは相手を“敵”から“誰か”へ引きずり出す。

 

女はしばらく黙っていた。

横顔は土に汚れ、髪は乱れている。

それでも、その目だけは妙に澄んで見えた。

澄んでいるからこそ、底に沈んだ疲弊が余計に見える。

 

「……シノン」

ようやくこぼれたその名は、ひどく小さかった。

けれど、その小ささゆえに、誠司の耳へ不思議な重みを残す。

ただの弓手。

ただの追跡者。

そう呼んでいた相手に、急に輪郭が生まれた気がした。

 

「シノン、か」

誠司が反復すると、彼女――シノンは目を閉じる。

まるで、それ以上は何も言うことがないとでも言いたげな仕草だった。

あるいは、自分の名が相手の口から出ること自体、久しぶりすぎてうまく受け止められないのかもしれない。

 

「ふざけた真似をするな」

ベルベットは依然として警戒を解かない。

「名乗った程度で、こっちが甘くなると思うな」

その言葉は鋭かった。

だが、シノンは反論しない。

睨み返すでもなく、命乞いをするでもなく、ただ静かに横たわったままだ。

その態度が、逆に不気味ですらあった。

普通なら捕まった時点でもっと必死に生を掴みにくるはずだ。

けれど、彼女にはその必死さがない。

生きるために矢を放つ者のはずなのに、捕まった途端にどこか糸が切れたような顔をしている。

 

誠司はその違和感から目を離せなかった。

この女は強い。

間違いなく強い。

森の中での移動も、矢の精度も、一流とまでは言わずとも、それに近い実戦の匂いがある。

なのに、その内側には、強い者に通常備わっている“生き残ろうとする意思”が妙に希薄だった。

それはまるで、死ぬ気はないが、生きたい理由もまた薄れているような、危うい均衡に見える。

 

「お前、どうしてそこまでして俺たちを狙った」

誠司は思わず問う。

シノンは薄く目を開ける。

その視線は誠司を捉えたが、そこに敵意が燃え上がることはなかった。

代わりにあったのは、酷く疲れた静けさだった。

 

彼女は答えない。

ただ、何かを言おうとして、やめる。

喉元の異形の爪よりも、言葉そのものの方が重いとでもいうように。

その沈黙が、かえって彼女の事情の深さを示しているようだった。

 

ベルベットは小さく舌打ちした。

「喋らないなら、それでもいい」

だが、すぐに殺す様子もない。

完全に警戒はしたまま、それでも彼女もまた、この弓手の妙な空虚さを感じ取っているのだろう。

単純に首を刎ねて終わる相手ではないと、本能が告げているのかもしれない。

 

誠司はゆっくりと息を吐く。

名前を知った瞬間から、相手はただの襲撃者ではなくなってしまった。

もちろん油断はできない。

けれど、このまま何も聞かずに処理してしまえば、何か大事なものを見落とす気がする。

それが危険な甘さだとしても、彼にはそう思えてならなかった。

 

風が木々を揺らし、遅れて葉擦れの音が落ちてくる。

その中で、ベルベットに押さえ込まれたシノンは、相変わらずどこか遠い眼をしていた。

敵意はある。

警戒もしている。

それでもなお、その奥底には、誰にも見つけてもらえないまま消えていく火のような、弱い諦めが残っている。

 

誠司はその目を見ながら、次に自分が何を聞くべきかを考え始めていた。

どうしてここまで追ってきたのか。

誰に雇われたのか。

何のために矢を放つのか。

そして何より、どうしてそんな目をしているのか。

名前を知ったことで、その問いはもはやただの尋問ではなく、ひとりの人間の内側へ踏み込む入口へ変わっていた。

 

次に語られる言葉次第で、彼女は敵のまま終わるかもしれない。

あるいは、まったく別の立ち位置へ変わるかもしれない。

その境目が、いまこの場に静かに横たわっていた。

 

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