## 第十三話 名前の先にあるもの
風は弱く、木々のざわめきも小さかった。
それでも、その場の空気は張り詰めていた。
ベルベットの異形の左腕は、シノンの喉元へ届く位置にあり、少しでも暴れれば血が流れることだけは明白だった。
地面へ押さえ込まれたシノンは、逃げようとも、助けを乞おうともせず、ただ息だけを静かに整えている。
その様子が、誠司にはかえって危うく映った。
本当に追い詰められた人間というものは、時として暴れるより先に諦める。
彼女はいま、まさにそういう顔をしていた。
「……どうする」
誠司が小さく問うと、ベルベットは視線をシノンから外さずに答える。
「話す気があるなら聞く。ないなら縛って放るか、ここで終わらせる」
相変わらず冷たい言い方だった。
だが、その選択肢に“聞く”が入っている時点で、彼女もまたこの相手を単純な賊として処理しきれていないのだろう。
シノンの眼にある何かを、ベルベットも見逃してはいない。
「シノン」
誠司はその名を呼ぶ。
彼女の肩がほんの僅かに揺れた。
名前で呼ばれることに慣れていないのか、あるいはその音が予想より柔らかかったのか、その理由までは分からない。
ただ、敵として押さえつけられている場面にしては、その反応が妙に脆かった。
「どうして、俺たちを狙った」
誠司の問いは真っ直ぐだった。
責め立てるような口調にはしない。
だが、曖昧に逃がすつもりもない。
敵意はあった。
矢は確かに殺す角度で飛んできた。
だからこそ、その理由を聞かなければ先へ進めない。
シノンはすぐには答えなかった。
視線を地面へ落とし、乾いた土を見つめる。
沈黙は長く、ベルベットの忍耐が切れる方が早いかと思われたほどだった。
やがて彼女は、小さく言う。
「生きるため」
それだけだった。
短く、切実で、同時に説明としてはあまりにも足りない。
けれど、その一言には嘘の薄さがあった。
誠司はそれを感じ取る。
適当に作った言い訳ではない。
たぶん、この女は本当に、その理由ひとつでここまで来たのだ。
「それじゃ足りない」
ベルベットが冷たく言う。
「生きるために何をしたのか、どこでそうなったのか、そこを聞いてる」
言葉と同時に、異形の腕がわずかに圧を強める。
シノンの喉がひくりと動いた。
だが、それでも彼女は怒鳴り返さない。
恐怖に取り乱すこともしない。
ただ、しばらく目を閉じ、それからゆっくりと開いた。
「……村が潰れた」
最初の言葉は、それだった。
声は低く、どこか乾いていた。
感情を込めれば壊れてしまうから、最初から削いでいるような喋り方だった。
「王国の兵に荒らされた。村にいたら全員まとめて潰されるって分かったから、父と母と一緒に逃げた」
誠司は息を呑む。
王国。
その単語の重さは、この世界へ来たばかりの彼にも少しずつ分かるようになっていた。
村を壊すのが魔物や波だけではない。
人間もまた、同じだけ容赦なく他人の生活を踏みにじる。
その現実が、シノンの口調の冷たさからひしひしと伝わってきた。
「追っ手が来た」
シノンは続ける。
「父は狩人だった。森の道を知ってたし、隠れるのも上手かった。だから最初は逃げ切れると思った」
そこで初めて、彼女の声音へわずかな揺れが差した。
「でも、無理だった。父は追っ手に見つかって、私たちを逃がすために残った」
それだけで、結末は見えた。
誠司の胸に嫌な重さが落ちる。
だが、シノンは止まらなかった。
いや、止まれないのだろう。
ここで言葉を切れば、また二度と口を開けなくなるとでもいうように、彼女は乾いた声で先を続ける。
「母を守ろうとして、私は父の弓を取った」
その言葉とともに、誠司の脳裏へさきほどの射撃が蘇る。
正確で、冷たく、迷いのない矢。
あれは才能だけではない。
必要に迫られて身についた技だ。
生きるために、外さないことだけを覚えてきた者の弓だった。
「……当たった」
シノンは土を見つめたまま呟く。
「当てるつもりで撃った。外したら母が死ぬと思ったから。そしたら本当に当たって、追っ手が倒れて……私たちは生き残った」
その“生き残った”という言い方には、勝利の響きがなかった。
救いでもない。
ただ、死ななかったという結果だけを置いた声音だった。
ベルベットは何も言わない。
喉元へ添えていた腕の圧はまだ緩めないが、耳は確かに話を聞いている。
彼女もまた、家族を波に奪われた人間だ。
喪失の形こそ違えど、その痛みの輪郭には少し似たものを感じているのかもしれない。
「でも、母は駄目だった」
シノンの声が、さらに低くなる。
「逃げ延びた後も、ずっと壊れたままだった。父が死んだ時から、もう戻らなかった」
言葉の意味は簡単だ。
だが、その簡単さがむしろ痛い。
廃人になった、ということだろう。
身体だけが生き残り、心はそこへ追いつけなかった。
そして、その先を誠司は聞く前から想像してしまう。
「母も死んだ」
シノンは目を閉じたまま言った。
「そう長くは持たなかった。残ったのは私ひとりだけだった」
風が葉を揺らし、その音だけがしばらく場を満たした。
誰も口を挟まない。
軽々しい慰めを入れられる空気ではなかったし、そもそもそんな言葉で埋まる話でもない。
誠司はただ、彼女が自分から話し続けるのを待った。
「悲しんでる暇なんてなかった」
シノンは笑いもしないまま言う。
「食べなきゃ死ぬし、寝る場所がなければ凍える。誰かが助けてくれるわけでもない。だったら、狩るしかなかった」
誠司にはその意味がよく分かった。
獣を狩る。
鳥を落とす。
生きるために射る。
最初はそうだったのだろう。
だが、そこから先がきっと問題だった。
「そのうち、獣より人を射る方が金になるって知った」
シノンは、そこで初めて誠司を見た。
その眼には諦めがあった。
自分の言葉が相手にどう映るかなど、もう期待していない目だった。
「だから、依頼を受けた。最初は脅しだけのつもりだった。でも、一回やったら次も来る。断れば食えない。受ければ生きられる」
彼女はそこで少しだけ口元を歪めた。
自嘲とも、吐き気ともつかない歪みだった。
「そうしてるうちに、狩りと殺しの区別なんて分からなくなった」
誠司は言葉を失う。
目の前にいるのは、自分たちを狙った危険な弓手だ。
その認識は変わらない。
だが同時に、彼女がそこへ至るまでに、まともな選択肢など最初から用意されていなかったことも分かってしまう。
生きるために撃つ。
その一言の裏に、これほど長く、これほど乾いた時間があったのかと、胸の奥が重くなる。
「だから、あんたたちを狙ったのか」
誠司が静かに問うと、シノンはあっさり頷いた。
「逃げた奴隷を見つけたら金になるって話だった。上手くいけば、しばらく食べられる」
感情のない口調だった。
だが、責任を逃れようとはしていない。
自分が何をしたかを分かった上で、その事実をそのまま置いている。
その潔さが、かえって誠司の中で彼女を単純な悪人へ押し込めることを難しくしていた。
「最低だな」
ベルベットが低く吐き捨てる。
その言葉は正しい。
正しすぎるほどに。
シノンも反論しない。
ただ、小さく「分かってる」と言った。
そこには開き直りも逆恨みもなく、ただ自分がどれだけ汚れた道を歩いてきたかを知っている者の疲れだけがあった。
誠司はしばらく黙っていた。
彼の中にも怒りはある。
自分たちは実際に命を狙われたのだ。
一歩間違えば、どちらかがここへ倒れていてもおかしくなかった。
だが、それでもなお、彼女の話を聞いたあとで“敵だから殺す”と簡単に切り分ける気にはなれなかった。
目の前にいるのは、人を射ることでしか生き延びられなかった女だ。
そしてその在り方は、程度の差こそあれ、この世界の理不尽そのものでもあった。
「シノン」
誠司は再びその名を呼んだ。
今度は彼女も、先ほどより少しだけ素直に顔を上げる。
名前で呼ばれることが、彼女にとって思いのほか効いているのかもしれない。
名を持つことで、単なる標的ではなく、一人の人間としてここへ引き戻されるからだ。
「お前は、この先どうしたい」
誠司の問いに、シノンは眉を寄せた。
「どう、って」
「生きるために撃ってきたのは分かった」
誠司はゆっくりと言葉を置いていく。
「でも、それだけじゃ、たぶんもう限界なんだろ」
その言葉は責めではなく確認だった。
彼女の眼にある疲弊を見れば、それくらいは分かる。
人を射ることで明日へ繋いできた。
だが、その明日がどこへ続くのかを、彼女自身もう見失っている。
シノンは視線を逸らす。
すぐには答えない。
否定しないということは、図星なのだろう。
彼女は唇を薄く噛み、やがてぽつりと言った。
「分からない」
それは、今までで一番人間らしい声だった。
「生きてきた。死なないようにしてきた。でも、その先が何かなんて、考えたことなかった」
その告白は、誠司の胸へ深く落ちた。
彼自身もまた、この世界へ来てしばらくは、生きることだけで精一杯だったからだ。
何のために戦うのか。
何処へ行くのか。
誰を守りたいのか。
そうした問いは、死なないための行動を重ねたあとで、ようやく浮かび上がってきた。
だからこそ分かる。
シノンはいま、その一歩手前で立ち尽くしているのだ。
「だったら」
誠司は静かに言った。
「決めるところから始めればいい」
ベルベットが怪訝そうに彼を見る。
シノンもまた、何を言われたのか理解しかねたような顔をした。
誠司は構わず続ける。
「俺も最初は何も分からなかった。生き残ることしか考えてなかった。でも、それだけだと苦しいんだよな」
脳裏に、波に壊された村、奴隷舎の檻、ベルベットの暴走しかけた腕、そしてさっきの魔物の群れが浮かぶ。
「だから、少しずつでも決めていくしかない。何のために進むのか、どこへ行くのか、何をしたくないのか」
誠司はそこで一呼吸置く。
「お前がもう、人を売るための矢を射ちたくないなら、別の道を選べるかどうかは、ここから決められる」
ベルベットが小さく息を吐いた。
呆れているのか、感心しているのか、そのどちらともつかない顔だった。
「甘いな」
彼女はそう言う。
だが、その声にはいつもの棘が少しだけ少なかった。
「こんな奴を信用するのか」
「すぐにはしない」
誠司は正直に答える。
「でも、ここで終わらせるのも違う気がする」
ベルベットはしばらく黙り、やがてシノンを見下ろした。
その視線にはなお厳しさが残っている。
だが、完全な拒絶でもなかった。
「お前はどうしたい」
今度はベルベットが問う。
「生きるために矢を射る、それしかないなら、ここで敵のまま終わる。私たちに付くなら、それ相応の覚悟を見せろ」
その問いは鋭い。
だが、そこには確かに選択肢があった。
ベルベットなりの、不器用な歩み寄りだった。
シノンは目を見開く。
自分が選べる側に立たされたこと自体、予想していなかったのだろう。
しばらく彼女は無言だった。
その沈黙の中で、きっと彼女は何度も過去をなぞった。
父の弓。
壊れた村。
母の死。
依頼を受けて人を狩る日々。
生きることだけが目的になり、その先を考える余裕を失っていった時間。
それらすべての先に、初めて別の道が差し出されている。
「……分からない」
彼女は再び言った。
だが、先ほどとは少し違っていた。
今度の“分からない”は投げやりではなく、迷いだった。
「でも、もう……ああいう仕事は、嫌だ」
その告白は小さい。
けれど、誠司には十分だった。
嫌だと言えた時点で、彼女はまだ壊れ切っていない。
生きるために殺してきたとしても、そこへ完全に馴染んでしまったわけではない。
だからこそ、まだ別の道へ手を伸ばせる。
「だったら来い」
誠司は迷わず言った。
自分でも驚くほど自然に、その言葉は出た。
「俺たちはメルロマルクへ行く。波のことも、勇者のことも、そこで確かめるつもりだ」
そして、シノンをまっすぐ見る。
「その途中で、お前が進みたい道を考えればいい。少なくとも、矢を金のためだけに飛ばすよりはましだ」
ベルベットは呆れたように天を仰いだ。
「勝手に決めるな」
「駄目か」
「すぐ信用しないって言ったばかりだろうが」
そう言いながらも、彼女はシノンの喉元から腕をどけた。
完全に警戒を解いたわけではない。
だが、それでも致命の距離からは退いた。
それが答えだった。
シノンはしばらく起き上がれなかった。
突然選ばされた選択肢の重さに、身体がまだ追いついていないようだった。
やがてゆっくりと身を起こし、土に汚れた手を見つめる。
その手は、これまで何度も弓を引き、人を傷つけ、生き延びるためだけに使われてきた。
だが今、その先に初めて“他の使い方”があるかもしれないと突きつけられている。
「……本当に、いいのか」
彼女の問いは、誠司へ向けられたものだった。
信じられない、と言外に滲んでいる。
敵だったはずだ。
命を狙った相手だ。
それでもなお手を差し伸べる理由が、彼女には理解しきれないのだろう。
「良くない部分もあると思う」
誠司は苦笑した。
「でも、だからって見捨てるのが正しいとも思えない」
それは綺麗事かもしれない。
ベルベットに言わせれば、甘さだろう。
それでも、誠司はそれを口にせずにはいられなかった。
生きるためだけに矢を放つしかなかった人間を、ここで切り捨てるのは、たぶん自分がこの世界で戦おうとしている理由そのものに反する気がしたからだ。
ベルベットは肩を竦める。
「私はまだ半分も信用してない」
そのうえで、シノンを睨む。
「逃げるなら次は本当に終わらせる」
脅しではなく事実だった。
だが、そこまで言うということは、少なくとも今は殺さないという意味でもある。
シノンはしばらく二人を見ていた。
それから、ほとんど消え入りそうな声で言う。
「……行ってみる」
その一言には、決意というには頼りない震えがあった。
だが、誠司にはそれで十分だった。
誰かが自分の足で一歩を選ぶ時、最初から力強くある必要はない。
むしろ、震えた声で絞り出される“行ってみる”の方が、本物であることもある。
誠司は小さく頷く。
ベルベットは溜息をつきながらも、完全には反対しなかった。
それだけで、この場の結論は決まる。
敵として捕らえた弓手は、こうして同じ方向へ歩く可能性を得た。
森を抜ける風が、三人の間を通り過ぎる。
それはまだ、仲間になったというには早い空気だった。
警戒も残る。
傷も残る。
信頼など、これから少しずつ積み上げるしかない。
だが、それでも確かに、何かは変わった。
シノンはもはや“名もなき弓手”ではない。
過去を抱え、生き方を見失い、それでも進む先を探し始めた、一人の人間としてそこにいた。
誠司は立ち上がり、手を差し出す。
シノンはその手をしばらく見つめ、やがてそっと取った。
細く、冷えた指先だった。
だが、そのわずかな温度の中に、まだ消え切っていない生の火種を、誠司は確かに感じた。
メルロマルクへの道はまだ遠い。
波も、勇者も、復讐も、答えのない問いばかりが先にある。
それでもこの日、彼らの旅には新しい一人が加わった。
それは単なる戦力の追加ではない。
“生きるためだけに撃ってきた者”が、初めて“どこへ進みたいか”を考え始めた、その始まりでもあった。