夜は静かだった。
森を抜けてから見つけた小さな岩陰は、三人が身を寄せて休むには十分とは言えないが、それでも風を避ける場所としては悪くなかった。
火は焚いていない。
焚ける状況でもない。
奴隷商の手先がまだ追ってきている可能性もあるし、街道沿いで余計な灯りを晒すのは、こちらから標的になるようなものだった。
だから今夜もまた、冷えた地面と、互いの気配だけが眠りの代わりだった。
ベルベットは少し離れた場所で横になっていた。
眠っているのか、眠ったふりをしているだけなのか、相変わらず判別はつかない。
ただ少なくとも、いまこの時間、彼女の呼吸は深く静かだった。
包帯の巻かれた左腕は胸元へ寄せられ、顔半分を外套の影が覆っている。
昼間の鋭さが僅かに薄れたその姿は、起きている時よりいくらか年相応に見えた。
誠司はその様子を確認してから、少しだけ視線を横へ滑らせる。
シノンは岩壁へ背を預けるように座り、膝を軽く抱えていた。
弓はベルベットがまだ完全には返していない。
手の届かない位置へ置かれたままだ。
当然といえば当然だった。
仲間になると口にしたからといって、即座に疑いが消えるほど、これまでの経緯は軽くない。
それでも、昼間よりは空気が柔らかい。
少なくとも今の彼女は、逃げる算段をしている顔ではなかった。
「眠れないのか」
誠司が小声で言うと、シノンは少しだけ肩を揺らした。
気配で分かってはいたのだろうが、声を掛けられること自体へ、まだ微かな警戒を残しているらしい。
だが、その目に怯えはない。
あるのは、どう応じればいいのか分からない人間の戸惑いだった。
「……あまり、こういうのに慣れてない」
彼女は小さく答える。
「誰かと一緒に寝るの」
その一言だけで、彼女がどれほど長く一人で生きてきたのかが、妙に生々しく伝わってきた。
誠司はすぐには返事をせず、夜気をひとつ吸い込む。
安い同情の言葉を投げるのは簡単だ。
だが、それがこの相手にどれほど空疎に響くかくらいは、もう何となく分かる。
「俺も、慣れてるとは言えない」
だから、少しだけ正直に言った。
「こういう場所で眠るのも、命を狙ってきた相手と同じ夜を過ごすのも、全部初めてだ」
そう言うと、シノンはほんの僅かに目を丸くした。
そして、そのあとでごく小さく息を漏らす。
笑った、とまでは言えない。
だが、少なくともさっきまでの張りつめた空気よりは、少し人間らしい緩みがあった。
「……それは、そうかも」
彼女の声はまだ細い。
それでも、昼間よりずっと素直だった。
敵意の向こう側にある、本来の声音がやっと姿を見せ始めたように思える。
誠司はしばらく黙ってから、ふと空を見上げる。
木々の隙間から覗く夜空は、日本で見たものと似ているようで、やはりどこか違っていた。
同じように星があり、同じように暗いのに、その下に広がる世界はまるで別物だ。
波があり、勇者がいて、人が人を売り、そして生き残るために弓を引く少女がいる。
その奇妙な現実に、いまだ自分が立っていることが時折信じられなくなる。
「お前さ」
不意にシノンが口を開く。
「どうして、あんなこと言えたんだ」
「どんなこと」
「来い、って」
彼女は膝へ顎を預けたまま、視線だけをこちらへ向ける。
その目には純粋な疑問があった。
責めでもなく、試しでもなく、本当に理解できないことを知りたい時の顔だった。
誠司は少し考える。
勢いで出た言葉だった部分もある。
だが、だからといって軽い気持ちだったわけでもない。
上手く説明できるかは分からないが、答えないままにしておくのも違う気がした。
「……見捨てたくなかったんだと思う」
そう言ってから、自分でも少し曖昧すぎると感じる。
だが、誠司はそのまま続けた。
「お前が俺たちを狙ったのは事実だし、許せるかって言われたら簡単じゃない。でも、それで終わらせるには、お前の目が……なんていうか、敵の目じゃなかった」
シノンは黙って聞いている。
誠司は自分の言葉を探りながら、ゆっくりと続ける。
「いや、敵ではあったんだけど、憎んで殺そうとしてる人の目じゃなかったんだ」
それは変な言い方かもしれない。
だが、誠司にとってはそれが一番近かった。
金のため、生きるため、必要だから矢を放った。
その切実さが、逆に彼女を単純な悪人へ見せなかったのだ。
シノンは視線を伏せる。
「……あんまり、そういうこと言われたことない」
その声には困惑が混じっていた。
彼女の人生で、人を射ることへ事情を見ようとした者など、おそらくほとんどいなかったのだろう。
利用するか、恐れるか、憎むか。
そのどれかで済まされてきたに違いない。
だからこそ、誠司のような見方は、彼女にとって逆に扱いづらいのかもしれない。
「ベルベットにも、そういうところあるよな」
誠司がぽつりと言うと、シノンが顔を上げた。
「……どこが」
「厳しいし怖いし、放っておくと何でも物騒な方向へ行くけど」
思わず視線が、少し離れた場所で眠るベルベットへ向く。
「でも、本当にどうでもいい相手なら、話なんか聞かないと思う」
その言葉に、シノンは静かにベルベットを見る。
昼間、自分を押さえつけていた異形の腕。
刺すような視線。
あの女が優しいなどとは口が裂けても言えない。
それでも、誠司の言う意味は分かるのかもしれなかった。
本当に切り捨てるつもりなら、名前を聞く前に終わっていたはずだ。
「お前は、不思議だな」
シノンは小さく言った。
「もっと馬鹿みたいに甘いのかと思ってた」
「褒めてるのか」
「分からない」
その返事に、誠司は苦笑する。
だが、その曖昧さの中に以前ほどの刺はなかった。
シノン自身、まだ誠司をどう定義していいか分からないのだろう。
敵ではない。
かといって完全に信用するには早い。
それでも、自分をただの追跡者や商品としてではなく、一人の人間として見てくる相手なのだと、少しずつ理解し始めている。
夜風が吹き、草が擦れる音がした。
誠司は膝を立てたまま、ぼんやりとその音を聞く。
沈黙は気まずいものではなくなっていた。
それはたぶん、シノンが最初の問いを投げてきた時点で、すでに会話の主導権が“尋問”から“対話”へ移っていたからだろう。
「父さんの弓、だったんだ」
不意に、シノンが自分から言った。
誠司はそちらを見る。
彼女は膝を抱えたまま、どこか遠くを見るように続けた。
「最初に持ったのも、あれと同じ形の弓だった。だから、いまの弓も手放せない」
その声音はひどく静かで、でも少しだけ柔らかかった。
過去を語る時にだけ滲む、人間らしい温度だ。
「大事なんだな」
誠司がそう言うと、シノンはすぐには頷かなかった。
少し考えてから、ようやく小さく言う。
「……たぶん、それしか残ってないから」
その一言は軽かった。
けれど、そこに含まれる重さは簡単に測れない。
家族も、村も、まともな未来も失った中で、手元に残ったのが弓だけだったのなら、それは武器である前に、自分が消えないための証みたいなものなのかもしれない。
「そういうの、あるよな」
誠司は銃へ視線を落とす。
「俺のこれも、なんかそんな感じがする。まだよく分からないけど、これがあるから、この世界で自分が完全に消えてない気がするんだ」
シノンはその言葉に少し驚いたようだった。
おそらく彼女は、勇者の武器を持つ誠司を、自分とは違う側の人間だと思っていたのだろう。
最初から選ばれ、最初から意味を与えられた者。
だが、実際の誠司はそうではない。
何も分からないまま放り込まれ、ようやく銃の性質を少しずつ掴み始めているに過ぎない。
「……お前も、怖いのか」
シノンが問う。
その問いには、興味より確認の色が濃かった。
自分だけが怯えているわけではないと知りたいような、そんな響きだった。
「そりゃ怖いよ」
誠司は即答した。
「人を撃つのも、魔物と戦うのも、波の話も、全部怖い」
自分でも拍子抜けするほど、言葉はすんなり出た。
もう今さら取り繕う必要がないのだろう。
「でも、怖くてもやるしかない時があるって、少しずつ分かってきた」
そして苦笑する。
「たぶん、お前もそうだったんだろ」
シノンは何も言わない。
ただ、その目がほんの少しだけ揺れた。
図星なのだ。
怖くないわけがない。
それでも弓を取った。
そして、それを何度も繰り返すうちに、怖いと言う言葉すら自分の中で薄れていったのだろう。
「……そうかもしれない」
ようやく落ちたその声は、ひどく小さかった。
だが、その小ささこそが、本当の答えなのだと誠司には分かった。
大きく認めるにはまだ怖い。
それでも、否定はしない。
その程度には、彼女の心がこちらへ寄り始めている。
シノンはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「お前といると、変な感じがする」
「悪い意味で?」
「……分からない」
彼女は少しだけ顔をしかめる。
「もっと馬鹿みたいに綺麗事ばっかり言うのかと思ってた。でも、そうじゃないのに、やっぱり甘い」
「それ、結局褒めてないよな」
「褒めてない」
そう言い切ったあとで、彼女の口元が僅かに緩んだ。
今度ははっきり分かった。
笑ったのだ。
ほんの少しだけ。
それでも、今までの彼女からすれば十分すぎる変化だった。
誠司はその笑みを見て、胸の奥に静かな安堵が広がるのを感じる。
きっと彼女はまだ完全にはこちらを信じていない。
明日になればまた壁を作るかもしれない。
それでも、いまこうして笑えたのなら、壊れ切ってはいない。
その事実だけで十分だった。
「なあ、シノン」
誠司は少しだけ声を落とす。
「これから先、お前がどうしたいか、まだ全部決まってなくてもいいと思う」
シノンは目を伏せたまま聞いている。
「でも、もし少しでも“今までと違う方へ行きたい”って思うなら、そこから考えればいい」
それは説教ではない。
自分へ向けても言っている言葉だった。
生きることしか考えられなかった時期を抜けて、ようやく“何のために進むか”を探し始めた自分自身にも重なる話だからだ。
シノンは膝へ頬を預け、しばらく何も言わなかった。
やがて、本当に小さな声で言う。
「……お前たちと一緒にいたら、見つかるのかな」
「何が?」
「進みたい道」
その問いに、誠司はすぐには答えられなかった。
保証なんてできない。
自分自身、答えを持っているわけではない。
それでも、黙ったままでいるのは違う気がした。
「たぶん、探すのは一人よりましだと思う」
それが今言える、精一杯の本音だった。
シノンはその言葉を聞き、しばらく目を閉じる。
そして、また小さく笑った。
今度の笑みは、さっきより少しだけ柔らかかった。
「……変な奴」
「よく言われる」
「ベルベットにも?」
「いや、あいつはもっとひどい言い方をする」
その返しに、シノンは声を立てないまま肩を震わせた。
笑い慣れていない人間が、忘れかけた仕草を恐る恐る取り戻していくみたいな笑い方だった。
少し離れた場所で、ベルベットが寝返りを打つ。
二人は反射的にそちらを見るが、彼女は起きる気配を見せない。
本当に眠っているのか、それとも会話を聞きながら黙っているのか、相変わらず分からない。
だが、その曖昧さも含めて、いまは妙に心地よかった。
「そろそろ寝ろ」
誠司が言うと、シノンは素直に頷いた。
さっきまでなら考えられないほど、抵抗のない仕草だった。
彼女は岩壁へ寄りかかる姿勢を少し崩し、目を閉じる。
その顔からは、ほんの僅かだが、昼間まで張りついていた死んでも構わないような諦めが薄れていた。
誠司もまた、銃を手元へ置いて目を閉じる。
眠りへ落ちる前の最後の意識の中で、彼は思う。
仲間になるというのは、何か大きな誓いを交わすことではなく、こういう夜を一つずつ重ねることなのかもしれない、と。
敵だった相手の名前を呼び、話を聞き、笑い方を知る。
その小さな積み重ねの先に、ようやく一緒に歩ける距離が生まれるのだろう。
そしてシノンもまた、閉じたまぶたの裏で、さっきの会話を静かに反芻していた。
甘い。
お人好しだ。
危うい。
それでも、その危うさに心が少しだけ引かれている自分を、もう彼女は否定しきれなかった。
生きるためだけに矢を放ってきた時間の中で、誰かとこんな風に言葉を交わす夜が来るなど、思ってもみなかったからだ。
夜はなお静かで、冷たかった。
それでもその冷たさの中に、確かに新しい熱がひとつ灯っている。
それはまだ恋や信頼と呼ぶには早すぎる。
けれど少なくとも、シノンがこの旅の中で初めて、自分の心が誰かへ少しずつ傾いていく感覚を知った夜ではあった。