※この作品はR-18です。

銃の勇者の探索記   作:ボルメテウスさん

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ぬくもりの在処

夜はまだ明けない。

風は冷たく、草を撫でる音だけが静かに続いていた。

少し離れた場所で眠るベルベットの気配は遠く、まるで今この場だけが、世界から切り離された小さな空白のように思える。

その空白の中で、朝霧誠司は腕の中のぬくもりを確かめていた。

 

シノンはまだ寄り添ったままだった。

胸元へ頬を寄せ、呼吸を落ち着けるようにゆっくりと息をしている。

最初に身を預けてきた時の震えは少し収まっていたが、それでも完全に力を抜けているわけではない。

緊張と安堵が入り混じったような、ひどく繊細な身体のこわばりが、抱き締めた腕へかすかに伝わってくる。

 

誠司はその感覚を壊さないように、ただ静かに背へ手を添えていた。

慰めるというより、ここにいていいのだと伝えるための抱擁だった。

それ以上の意味を急いで足してしまえば、きっと今のシノンはまた身を引いてしまう。

そう思っていた。

思っていたのだが。

 

不意に、腕の中の彼女がわずかに動いた。

誠司は反射的に視線を落とす。

シノンはまだ彼の服を指先で掴んだまま、ゆっくりと顔を上げていた。

月明かりは弱い。

それでも、近すぎる距離にあるその表情ははっきりと見える。

揺れる瞳。

少しだけ熱を帯びた頬。

何かを言いたそうなのに、言葉へ変える前に消えてしまいそうな、危うい沈黙。

 

「シノン?」

小さく名を呼ぶと、彼女の睫毛が震えた。

だが返事はない。

代わりに、視線だけが誠司の目から唇へ、そしてまた目元へと戻る。

その動きはあまりにも正直で、誠司の鼓動が急に早くなった。

 

彼女は、たぶん自分でも整理がついていないのだろう。

抱き締められて安心している。

体温がほしい。

離れたくない。

その感情の延長で、いま何をしたいのかを、本能の方が先に知ってしまっている。

そんな顔だった。

 

「……どうした」

誠司がもう一度、今度は少しだけ低い声で問う。

するとシノンは、ほんの僅かに唇を開きかけて、結局首を振った。

言葉にするのは無理だ、とでもいうように。

そして次の瞬間、ためらいがちに、けれど逃げるよりはずっと真っ直ぐに、彼女は顔を寄せてきた。

 

誠司の思考が一瞬止まる。

近い、と思った時にはもう遅かった。

柔らかい感触が、唇へかすかに触れる。

 

それは深く奪うようなキスではない。

触れるだけの、確かめるような、ひどく不器用な口づけだった。

けれど、その不器用さがかえって生々しい。

シノンが何かを求めて、衝動のままにそこへ触れたのだと、いやでも分かってしまうからだ。

 

誠司は目を見開いた。

本当に、驚いた。

言葉通り、初めてのキスに対するような、あまりにも素朴で、あまりにも無防備な驚きだった。

心臓が一気にうるさくなる。

体温が跳ね上がる。

けれど、腕の中のシノンが逃げるように離れかけた瞬間、その気配に反応して、誠司は無意識に抱き締める力を少しだけ強めていた。

 

「……っ」

シノンの喉から、小さな息が零れる。

拒絶されたと思ったのかもしれない。

あるいは、自分が何をしたのかを今さら理解してしまったのかもしれない。

頬がさらに赤くなり、視線が揺れる。

だが、誠司が引き剥がさなかったことで、彼女はそのまま彼の胸元へ半ば隠れるように身を寄せ直した。

 

「ご、ごめん……」

かすれた声だった。

「その……違う、違わないけど、違くて……」

完全に言葉を見失っている。

その慌て方が、逆に誠司の胸を締めつけた。

彼女は誘惑しようとしたのではない。

ただ、あたたかさを求める気持ちが行き場を失って、最も近い形で零れてしまっただけなのだ。

 

誠司は息を整えようとしたが、うまくいかなかった。

唇に残った微かな感触が、消えない。

あまりにも軽かったはずなのに、その一瞬の熱だけが妙に強く残っている。

驚きはまだ収まらない。

それでも、彼の腕はシノンを放そうとしなかった。

 

「……別に、嫌じゃない」

ようやく出た声は、思ったよりも静かだった。

シノンが胸元でぴくりと震える。

「びっくりしたけど」

正直にそう付け足すと、彼女は小さく息を呑んだあと、ほんの少しだけ顔を上げる。

月明かりの下で見えるその目は、ひどく潤んでいた。

泣きそう、というのとも少し違う。

感情が溢れそうなのに、どういう名前を付けていいか分からず、ぎりぎりのところで堪えている目だった。

 

「……あったかかった、から」

シノンが囁く。

声はかすかに震えている。

「抱き締められてると、変になる」

その告白は、あまりにも真っ直ぐだった。

官能や誘惑の言葉ではなく、もっとずっと切実で、生き物としての本音に近い。

「一人じゃないって思うと、怖いのが少しだけ薄れて……それで、もっと欲しくなった」

 

誠司は何も言えなかった。

その“もっと”が何を意味するのか、彼女自身もまだ分かりきっていないのだろう。

ただ、抱擁の延長にあるぬくもりを、もう少しだけ確かめたかった。

その衝動が、キスという形で零れただけだ。

だからこそ、軽く扱えない。

 

「……ごめん」

シノンがもう一度言う。

今度はさっきより少しだけ静かだった。

「勝手にした」

「うん」

誠司は頷く。

「勝手にされた」

その返しに、シノンが一瞬だけ困ったような顔をした。

怒られるのか、拒まれるのか、まだ分からなくて身構えている顔だった。

 

だが誠司は、すぐに続ける。

「でも、逃げるほど嫌じゃない」

その言葉が落ちた瞬間、シノンの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

完全な安堵ではない。

それでも、自分の衝動がすべてを壊したわけではないのだと分かっただけで、彼女の中の緊張が目に見えて緩んでいく。

 

誠司はそっと、彼女の頬へ触れた。

指先が熱い。

夜の冷気の中で、その体温だけがやけに鮮明だった。

シノンはその手から逃げない。

むしろ、少しだけ目を細める。

触れられることへ、まだ慣れていないのに、拒みたくない。

その矛盾が、彼女の表情をひどく柔らかく見せていた。

 

「シノン」

名前を呼ぶと、彼女は小さく「ん」と答える。

その返事があまりにも素直で、誠司の胸がまた熱くなる。

「無理しなくていい」

誠司は静かに言った。

「何かしたいって思ったなら、それをすぐ否定しなくてもいいけど……苦しくなるなら、ゆっくりでいい」

自分でも少し不器用な言い方だと思った。

それでも、いまの彼女へ向ける言葉としては、それが一番近かった。

 

シノンはしばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと誠司の胸へ頬を預け直す。

今度はさっきより、少しだけ深く。

腕の中へ収まることを、自分から選んだみたいに。

その動きひとつで、彼女がどれほど抱き締められる感覚を求めていたのかが分かる。

安心。

体温。

拒まれないこと。

そうしたものを長く失っていた人間にとって、この距離はきっと、ただ甘いだけのものではない。

 

「……抱き締められると」

シノンが胸元で囁く。

「自分の輪郭が、ちゃんとある気がする」

誠司は息を止める。

「消えそうじゃなくて、ここにいるって思える」

その本音は、先ほどのキスよりもずっと深く、彼の心へ入ってきた。

彼女が欲しかったのは、単なる接触ではない。

誰かに触れられることで、自分がまだ人間のままここにいると確かめることだったのだ。

 

誠司は返事の代わりに、シノンを抱く腕へそっと力を込めた。

強すぎず、緩すぎず。

逃げ道を残したまま、でも確かに包み込むように。

その抱き方に、シノンは細く息を吐く。

緊張が解ける音にも、甘い陶酔の前触れにも聞こえるような、曖昧で柔らかい吐息だった。

 

夜は静かに流れていく。

月は薄く、風は冷たい。

けれど二人の間には、さっきよりも明らかに濃い熱が生まれていた。

官能の一歩手前。

触れればもっと先へ行けるかもしれないと、互いにどこかで知ってしまっている距離。

だが、だからこそ今は、その一歩手前で立ち止まることに意味があるようにも思えた。

 

シノンはもう一度だけ、ほんの少し顔を上げる。

今度はキスをしない。

ただ近い距離で誠司の顔を見て、それから安心したように目を伏せる。

自分の衝動が拒まれなかったこと。

それだけで十分だとでもいうように。

 

「……ありがとう」

彼女の声は、今までで一番柔らかかった。

誠司は小さく首を振る。

「お礼を言うようなことじゃない」

「私には、そういうことなんだよ」

その返しに、誠司はもう何も言えなくなる。

代わりに、シノンの髪へそっと指を滑らせた。

彼女は目を閉じたまま、その感触を受け入れる。

 

少し離れた場所で、ベルベットは相変わらず眠っている。

起きているのかもしれないが、少なくとも何も言わない。

だからこの夜は、まだ二人だけのものとして静かに閉じていく。

 

唇に残る微かな感触。

腕の中の確かなぬくもり。

そして、抱き締められることで自分の輪郭を取り戻す少女の呼吸。

 

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