夜が薄く白み始める、その少し前だった。
森の空気はまだ冷たいままだったが、完全な闇だけが持つ濃さは、もうゆっくりとほどけ始めている。
朝霧誠司は浅い眠りから半ば意識を浮かせたまま、自分の腕の中に残る体温を、どこか現実感の薄いものとして感じていた。
シノンはまだ寄り添っていた。
深く眠っているわけではないのだろうが、少なくとも昨夜のような張り詰めた警戒はもう表へ出ていない。
誠司の胸元へ額を預けるようにして目を閉じ、その細い指先は、眠っている間にも離れたくないとでもいうように、彼の服の端をかすかに掴んだままだった。
その無防備さは、つい昨日まで命を狙ってきた弓手のものとは到底思えない。
それでも、だからこそ誠司には分かってしまう。
彼女の中で何かが確かに変わったのだと。
昨夜、抱き締められ、言葉を交わし、自分の弱さを吐き出したことで、張り詰めていた糸の一部がようやく解けたのだろう。
そして、その変化に気づいたのは誠司だけではなかった。
「……お前たち」
低く、そして妙に平坦な声が落ちてきた瞬間、誠司の全身から血の気が引いた。
反射的に顔を上げる。
少し離れた岩陰、見張りの位置にいたはずのベルベットが、腕を組んだままこちらを見下ろしていた。
その顔に怒鳴り散らすような怒りはない。
代わりにあるのは、ひどく静かな呆れだった。
静かだからこそ、余計に怖い種類の視線である。
誠司の思考が、一瞬にして夜明けより明るく覚醒する。
まずい。
非常にまずい。
何がどうまずいのかを整理する暇もないまま、とりあえず“見られた”という事実だけが脳裏を駆け巡った。
その気配にシノンも目を覚ます。
まだ眠気の残る瞳がぼんやりとベルベットを捉え、次いで自分がどんな体勢にいるのかを理解した途端、耳まで一気に赤くなった。
彼女は慌てて身を離そうとするが、焦ったせいで逆に誠司の服を引っ張り、二人して妙にぎこちなくもつれかける。
そのみっともない慌てぶりが、かえって状況の言い逃れ不可能さを際立たせていた。
ベルベットの目が、じとりと細くなる。
その視線は誠司からシノンへ、シノンから誠司へと、実にゆっくり往復した。
怒っているというより、完全に“何を見せられているんだ私は”という顔である。
それがむしろ痛い。
「見張りをしている間に、ずいぶん余裕があるな」
ベルベットの声は冷たくも鋭くもなく、ただ呆れ果てていた。
「敵が追ってくるかもしれない場所で、仲良くぬくもりの確認か?」
言葉の端に棘はある。
けれど、それ以上に漂っているのは、本気の殺気ではなく、どう処理すればいいのか分からない案件へ直面した時の疲労だった。
誠司は口を開く。
開くが、何も出てこない。
違う、というには現状が説得力を欠きすぎている。
誤解だ、というには誤解されるだけの材料が揃いすぎている。
そもそも、昨夜のあれこれをどこからどこまで説明すればいいのか自分でも分からない。
最終的に脳内で弾き出された結論は、極めて単純だった。
「あの、本当に、なんというか、すみませんでした!」
次の瞬間、誠司は地面へ勢いよく両手をつき、見事なまでの土下座を決めていた。
自分でも驚くほど綺麗なフォームだった。
羞恥と焦燥が極まると、人はこうも無駄なく頭を下げられるのかと、半ば他人事のように思う。
だが、そんな感慨へ浸る余裕は当然ながら一秒もない。
「待て」
ベルベットが思わず言った。
その声にはさすがに僅かな動揺が混じっている。
「何で土下座になる」
「いや、これはもう、説明より先に謝るべきだと思って……!」
額を地面につけたまま誠司が答えると、ベルベットは深く長い溜息を吐いた。
その息に含まれる呆れの総量が、もはや目に見えそうなほど濃い。
一方のシノンは、顔を真っ赤にしたまま固まっていた。
さきほどまで誠司へ寄り添っていたことも、ベルベットに見つかったことも、そしてその結果として誠司が爆速で土下座へ移行したことも、すべてが処理しきれていないのだろう。
しばらく口をぱくぱくさせていたが、ようやく絞り出した声はひどく小さかった。
「……ご、ごめんなさい」
そう言ってから、自分も謝るべきなのだと気づいたらしい。
慌てて背筋を正し、誠司ほど見事ではないにせよ、かなり真剣な様子で頭を下げる。
それを見て、ベルベットは片手で顔を覆った。
完全に頭痛を堪える人間の仕草だった。
「何で二人揃って謝ってるんだ……」
「いや、でも、あの」
誠司がようやく顔を上げようとすると、ベルベットが手で制した。
「いや上げろ。土がつく」
「はい」
素直に従って顔を上げる誠司の額には、見事に土がついていた。
そのあまりの間抜けさに、シノンが一瞬だけ唇を噛み、それから耐えきれないように小さく肩を震わせる。
ベルベットはその様子を見逃さなかった。
視線がす、とシノンへ向く。
昨夜までの彼女なら、こんな場面で笑う余裕などなかっただろう。
なのに今は違う。
恥ずかしさで真っ赤になりながらも、誠司の土下座に思わず笑ってしまっている。
その変化は、ベルベットのような人間からすれば見誤りようがない。
「……なるほど」
ベルベットはぽつりと呟いた。
その声音には、完全な呆れだけではない別種の納得が混じっていた。
視線がもう一度、誠司とシノンの間を行き来する。
朝霧誠司。
相変わらず妙な方向へ馬鹿正直で、肝心なところで人を放っておけない男。
シノン。
敵として現れたはずが、今やその隣で顔を赤くしながら笑っている女。
この一晩で何があったかなど、細部は聞かずとも大体察せられる。
「お前」
ベルベットがシノンへ言う。
「顔つきが変わったな」
その一言に、シノンの肩がぴくりと揺れる。
誠司もまた、思わず彼女を見る。
シノンは少し戸惑ったように目を瞬かせたあと、どう答えていいか分からずに視線を伏せた。
だが、その頬にまだ残る赤みと、硬さの薄れた表情が、答えとしては十分だった。
「そ、そう見える?」
シノンがかすかに尋ねると、ベルベットは即答する。
「昨日までのお前は、いつ死んでも構わない顔をしてた」
言葉は容赦ない。
だが、事実でもある。
「今は少なくとも、少しは生きる方へ寄ってる」
その指摘に、シノンは何も言い返せなかった。
けれど、否定もしない。
それがたぶん、一番正直な反応だった。
誠司は二人のやり取りを見ながら、ようやく状況が少し落ち着いてきたのを感じる。
怒鳴られなかった。
殺されなかった。
少なくとも即座に絞め落とされるような事態にはなっていない。
それだけで十分ありがたい。
だが、それとこれとは別で、羞恥が消えるわけでもなかった。
「本当にすみませんでした……」
再び誠司が言うと、ベルベットは今度こそ露骨に顔をしかめた。
「だから何に謝ってるんだお前は」
「いや、その、見張りの最中にご迷惑を」
「迷惑ではある」
ばっさりだった。
誠司は反射的に「はい」と返す。
するとベルベットは、半眼のまま続けた。
「でも、別にお前らが抱き合っていようが口づけしていようが、私に直接被害はない」
その瞬間、シノンの顔が再び一気に熱を帯びた。
誠司もまた息を呑む。
ばれている。
というか、思っていた以上に色々と察されている。
「た、たたたしかに被害ではないですけど!」
誠司が意味不明な返しをすると、ベルベットは深い溜息を吐いた。
「お前は黙ってろ。余計に酷くなる」
完全に正論だった。
誠司は即座に口を閉じる。
しばしの沈黙のあと、ベルベットは髪をかき上げるようにして小さく息を吐いた。
「まあいい」
そう言った時の声音は、最初より少しだけ柔らかかった。
「戦力が不安定なままよりは、互いに妙な壁が残ってない方が動きやすい」
その現実的な言い方が、いかにもベルベットらしい。
情緒や恋愛感情で整理する気はなく、まず旅の構造として有益かどうかで判断しているのだ。
しかし、そういう理屈であっても、受け入れたことに変わりはない。
シノンはその言葉を聞き、目を伏せたまま小さく呟く。
「……怒ってないの?」
「怒る理由があるなら怒る」
ベルベットは肩を竦める。
「だが、今のところ問題はそこじゃない。お前が逃げるかどうか、戦えるかどうか、足を引っ張らないか。その方がよほど大事だ」
ひどく実務的で、しかし妙に優しい答えだった。
少なくともシノンにとっては、そう聞こえただろう。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから少しだけ表情を緩めた。
「ベルベットって、案外……」
誠司がぽろりと漏らしかけた瞬間、ベルベットの視線が突き刺さる。
「言うな」
「はい」
一瞬で会話が終了した。
だが、そのやり取りに、シノンがまた小さく笑う。
今度の笑みは昨夜より自然だった。
それを見て、ベルベットもさすがにこれ以上何か言う気は失せたらしい。
軽く頭を振ると、近くの岩へ腰を下ろす。
「夜明けまでもう少しある」
彼女はそう言って目を閉じた。
「次はお前らが見張れ。私は少し寝る」
「え、いいのか」
誠司が尋ねると、ベルベットは片目だけ開ける。
その視線には、まだ少しだけじとっとした呆れが残っていた。
「これ以上、私の目の前で変な空気を出される方が落ち着かない」
「すみません」
「また謝った」
「すみません」
「お前は本当に馬鹿だな」
最後の一言には、さすがに毒気が少し薄れていた。
誠司は苦笑しながら頭を掻き、シノンと顔を見合わせる。
すると彼女は頬へ残る赤みを隠しきれないまま、それでも確かに微笑んだ。
その笑みには、昨夜までの消えそうな儚さだけではなく、少しだけ地に足のついた温度があった。
ベルベットが見抜いた通り、彼女は確かに変わり始めているのだろう。
やがてベルベットは本当に目を閉じ、今度こそ眠る体勢へ入る。
その横顔は相変わらず険しいが、少なくとも先ほどまでのような露骨な呆れはもうない。
誠司は小さく息を吐き、改めてシノンの方を見る。
彼女もまたこちらを見て、二人同時に視線を逸らした。
さすがに気まずさが完全に消えたわけではない。
だが、その気まずささえ、今はどこかくすぐったいものへ変わり始めている。
「……土下座、すごかった」
ぽつりとシノンが言う。
誠司は思わず肩を落とした。
「忘れてくれ」
「無理」
「そこは頑張ってくれ」
「頑張っても無理」
その返しが、妙に楽しそうだった。
つい昨日まで、死んでも構わないような目をしていた少女が、今はこうして夜明け前の空気の中で他愛ないやり取りをしている。
それが不思議で、そして少しだけ嬉しかった。
空はゆっくりと明るくなっていく。
旅はまだ続く。
メルロマルクへの道も、波への距離も、彼らが抱える傷も、何一つ簡単には片づかない。
それでもこの朝、三人の間には昨日までなかった形の空気が生まれていた。
呆れたように見守る者がいて、顔を赤くして笑う者がいて、土下座で謝る者がいる。
あまりにも締まらない。
けれど、その締まらなさの中にこそ、ようやく“仲間”らしい温度が宿り始めていた。