## 第十八話 女王の残影
メルロマルクへ向かう街道を外れて、誠司たちが乾いた高地へ足を踏み入れたのは、半ば偶然だった。
正確には、偶然と言うより、ベルベットが進路を微妙に曲げたからである。
街道沿いをそのまま進めば速度は出る。だが、そのぶん人目にもつきやすく、奴隷商の手先や追手と鉢合わせる危険も増す。
だから彼女は、最短距離よりも生き残る確率を優先した。
それだけの話だった。
高地の空気は乾いていた。
風は冷たく、土は痩せ、草もまばらで、命が生きるにはあまりに不向きな土地に見える。
だが、それゆえにこそ、ここには何かを隠す余地もまた少ない。
遠くまで見渡せるはずの荒地であるにもかかわらず、誠司はそこへ足を踏み入れた瞬間、妙な違和感を覚えた。
静かすぎるのだ。
魔物の気配がない。
獣の鳴き声も薄い。
風の音だけが乾いた大地を撫でていく。
それは平穏というより、何かが通り過ぎたあとの不自然な空白に近かった。
「……変だな」
誠司が小さく言うと、ベルベットは短く「ああ」とだけ返した。
先頭を歩いていた彼女は足を止め、視線を遠くへ投げる。
その表情はいつも通り険しいが、どこか苛立ちとは違う種類の緊張があった。
シノンもまた、周囲へ目を走らせていた。
弓を持つ彼女は、誠司よりずっと早く、この高地の異常さへ気づいていたらしい。
「何かいる、じゃない」
彼女は低く呟く。
「何かいた、だ」
その意味を理解するより早く、誠司の視界の端へ異様なものが映った。
黒ずんだ血。
裂けた肉。
転がる巨大な死骸。
それが一つではない。
二つ、三つ、いや、もっとだ。
高地の窪地へ降りた先には、魔物の死骸がいくつも散乱していた。
誠司は思わず足を止める。
以前なら、その光景だけで息を呑んでいただろう。
だが今は、恐怖と同時に別の感覚もあった。
見なくてはならない。
ここで何があったのかを知ることが、生き残るために必要だと、そう理解してしまっている自分がいた。
「……すごい」
口をついて出たのは、感想とも独り言ともつかぬ声だった。
魔物の種類は様々だった。
狼に似た牙持ちの獣。
外殻の硬い虫じみたもの。
人の背丈を超える猿に似た異形。
どれも、これまで誠司たちが相手にしてきた中では厄介な部類に入る。
それらが、まとめて殺されていた。
しかも、その殺され方が異様だった。
一体は右目を正確に射抜かれて絶命している。
一体は喉を槍のようなもので貫かれている。
さらに別の一体は、頭骨そのものが砕けていた。
斬られた跡ではない。
殴打か蹴りか、あるいはそれに類する純粋な破壊で叩き潰された痕だ。
「一人だな」
ベルベットが淡々と言った。
誠司は思わず彼女を見る。
「分かるのか」
「分かる」
彼女は死骸の並びと傷痕を見渡しながら続けた。
「倒した奴の動きに迷いがない。複数人で囲んだ戦い方じゃない。最初から最後まで、自分の間合いで殺してる」
シノンがしゃがみ込み、一体の死骸へ刺さった矢を見た。
矢羽の造りは見慣れたものではない。
街の兵や傭兵が使うような量産品ではなく、もっと洗練され、個性のある作りだった。
「この矢……」
彼女は眉を寄せる。
「上手いなんてものじゃない。外してない。全部、最短で急所を抜いてる」
「弓だけじゃない」
ベルベットが別の死骸を蹴って示す。
「こっちは槍だ。しかも突くだけじゃない。捌いて、崩して、そこへ刺してる」
そして、頭蓋を砕かれた魔物へ視線を落とした。
「で、こいつは素手か蹴りか。どっちにしても馬鹿みたいな膂力だ」
誠司は乾いた空気の中で、背筋が冷えるのを感じた。
これをやったのが一人だとすれば、尋常ではない。
しかも、ただ力が強いだけではなく、距離ごとの戦い方を使い分けている。
弓で射抜き、槍で貫き、近づけば肉体で叩き潰す。
それは一つの武器を極めた者の戦いではない。
あらゆる距離で殺せる者の戦いだった。
「まだ近くにいるかもしれない」
シノンが低く言い、自然と弓へ手を添える。
彼女の声には、警戒だけではなく、わずかな緊張が混じっていた。
弓手としての勘が告げているのだろう。
これは同業の匂いだ。
しかも、かなり格上の。
ベルベットは包帯の巻かれた左腕をわずかに動かしながら、前方の岩場へ視線を投げる。
「気配はある」
その一言とほぼ同時だった。
乾いた風を裂くように、ひとつの影が岩の上へ姿を現した。
誠司は息を呑む。
女だった。
長身で、肢体はしなやかだが、細いというより研ぎ澄まされている。
風を受ける長い髪は、陽の色を宿したような金に近く、肌は日に焼けた大地を思わせる褐色を帯びていた。
ただ立っているだけなのに、その場の空気が一段重くなる。
美しい、という表現はたしかに当てはまる。
けれど、それだけでは圧倒的に足りない。
彼女は美しさより先に、戦場そのものの匂いを纏っていた。
背には弓。
手には長槍。
そして少し離れた場所には、一頭の大きな馬が静かに鼻を鳴らしている。
馬ですらただの家畜には見えなかった。
主に似て、張り詰めた戦気を持っている。
女は高所から誠司たちを見下ろし、その目を細めた。
その視線には警戒があり、選別があり、そしてわずかな興味があった。
最初にシノンの弓を見る。
次にベルベットの異形の腕を見る。
最後に誠司の銃へ視線が止まった。
その瞬間だけ、空気がさらに張った気がした。
「我が狩場へ踏み入るとは、無知か、あるいはそれに値するだけの胆力か」
女が口を開く。
その声音は低く、よく通り、命令することに慣れた者の響きを持っていた。
王だ、と誠司は直感した。
誰かの上に立ち、従わせ、守り、そして切り捨てる決断まで引き受けてきた者の声だ。
ベルベットが鼻を鳴らす。
「狩場? ずいぶんな言い草だな」
「違うと言うのか」
女は周囲の死骸へ目を向ける。
「ここへ入り、ここで生きるなら、弱き者は喰われ、強き者が立つ。それを狩場と呼ばずして何と呼ぶ」
その理屈は乱暴だった。
だが、どこかこの世界の現実そのものでもあった。
誠司は不用意に口を挟みかけ、けれどベルベットと女の間に漂う空気の鋭さに、半歩だけためらう。
シノンは弓へ手をかけたまま、相手の矢筒と弓の形状を観察していた。
「……ただ者じゃない」
小さく漏らしたその声は、ほとんど独り言だった。
だが、誠司には十分だった。
シノンがここまで明確に警戒する相手など、そういない。
「用があるなら名乗れ」
ベルベットが言う。
「用がないなら、こっちも無駄に噛みつかれる趣味はない」
挑発じみた言い方だった。
誠司は内心で冷や汗をかく。
この相手にそんな口を利いて大丈夫なのかと思うが、ベルベットがここで引くわけもない。
女はその物言いを不快に思った様子もなく、むしろわずかに口元を歪めた。
「面白い」
そう呟き、それからベルベットを正面から見る。
「牙を見せるな。敵であると自ら証明したいのなら、すぐにでも応じよう」
言葉は静かだった。
だが、その静けさの奥に、即座に戦えるだけの確信が満ちている。
誠司は思わず息を呑む。
この女は、戦うことを脅しとして使っていない。
本当に、次の瞬間には踏み込めるのだ。
「待ってくれ」
誠司がようやく口を開く。
二人の視線が同時に自分へ向いた。
「俺たちは争いに来たわけじゃない。ただ、メルロマルクへ向かう途中で、ここへ入っただけだ」
自分でも少し頼りない説明だと思う。
だが、正直に言うしかなかった。
相手が誤魔化しを嫌う類の人間だと、何となく分かったからだ。
女の視線が、誠司の目に止まる。
値踏みするような、ひどく真っ直ぐな眼差しだった。
その数秒の沈黙がやけに長く感じられる。
やがて彼女は言った。
「その武器」
誠司は反射的に銃へ手を置く。
「見たことがない。だが、ただの道具でもない」
女の視線は鋭かった。
「貴様、それを手にしていながら、まだ自分が何者か定まっていない顔をしているな」
その指摘に、誠司は言葉を失う。
核心だった。
あまりにも的確に、自分の曖昧さを撃ち抜かれた気がした。
ベルベットが横から吐き捨てる。
「いちいち偉そうな女だ」
「偉いからな」
女は迷いなく言い返した。
その返答のあまりの自然さに、誠司は危うく変な声を出しそうになる。
言い切った。
しかも本気で。
そこに嫌味も誇張もなく、ただの事実確認として。
シノンが小さく目を見張る。
おそらく彼女も、こういう種類の人間は初めてなのだろう。
強いだけではない。
自分が何者かを疑わず、それを背負うことへ一片の迷いもない。
それは確かに、王の在り方だった。
その時だった。
誠司たちの背後、死骸の山の陰で、不意に肉の裂けるような音がした。
一同の視線がそちらへ向く。
さきほどまで完全に沈黙していた大型の魔物の一体が、まだ死にきっていなかったらしい。
潰れたように見えた身体を無理やり起こし、血を流しながら、それでも本能だけでこちらへ牙を向けていた。
「っ!」
誠司が銃を上げる。
だが、魔物との距離は近すぎた。
ベルベットも反応する。
しかし、そのどちらよりも早く、女が動いた。
一歩。
ただそれだけで距離が消える。
そう錯覚するほどの踏み込みだった。
長槍が風を裂き、魔物の喉元へ真っ直ぐ吸い込まれる。
貫く。
だが、それで終わらない。
女はそのまま槍を軸に身体を捻り、巨体の勢いを受け流すように半身をずらした。
体勢を崩した魔物が横を抜けようとした瞬間、今度は肘が叩き込まれる。
鈍い音。
骨が砕ける音。
最後に彼女は足を払うような低い蹴りで巨体を地へ沈め、止めとばかりに槍を深く押し込んだ。
すべてが一呼吸の間だった。
誠司は引き金にかけた指を止めたまま、その一連の動きへ見入ってしまう。
速い。
重い。
そして無駄がない。
弓の名手である前に、槍も拳も肉体の延長にしている戦士だ。
それも、おそらく一流。
いや、その言葉ですら追いつかないかもしれない。
魔物の身体が完全に崩れ落ちる。
女は槍を引き抜き、血を払うように一振りした。
その仕草すらどこか儀式じみていた。
戦いが生活の一部ではなく、誇りと一体化している者だけが持つ動作だった。
「……すごい」
誠司が思わず漏らすと、女はようやくこちらを振り向いた。
その目には、わずかな評価の色があった。
戦いを見て、正しく驚いた者への、ほんの少しの認知。
「貴様ら、弱くはない」
女はそう言った。
「だが、強いともまだ言い切れん」
そしてそのまま誠司を見据える。
「特に貴様だ、銃を持つ男」
不意に、背筋へ冷たいものが走る。
敵意ではない。
もっと厄介な何か。
試されている。
そういう感覚だった。
「その異形の武器も、その未熟な眼も、嫌いではない」
女は言う。
「次に会う時、貴様が敵か、あるいは試す価値のある雄かを見極めよう」
言葉の意味が、半分しか分からない。
というより、後半の意味は分かりたくない方向でしか伝わってこなかった。
誠司は思わず「雄?」と聞き返しかけるが、その前にベルベットが露骨に嫌そうな顔をする。
「面倒な匂いしかしないな」
「匂いではない。事実だ」
女は平然と言い返す。
そして、これ以上会話を続ける気はないのか、くるりと背を向けた。
愛馬が静かに近寄り、彼女は流れるような動作で鞍へまたがる。
その姿はあまりにも自然で、馬上の方がむしろ本来の居場所なのだと思わせた。
去り際、彼女は最後に一度だけ振り返る。
その視線は三人全員を見たが、やはり最も長く止まったのは誠司だった。
「生きてまた会え」
それだけを言い残し、女は乾いた高地の向こうへ去っていく。
馬蹄の音はすぐに風へ紛れた。
残されたのは、死骸の匂いと、奇妙に張りつめた沈黙だけだった。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に息を吐いたのはシノンだった。
「……なんなの、あの人」
声に混じるのは、呆れではなく純粋な圧倒だ。
弓手としての彼女にとって、あの女の技量はひどく鮮烈だったのだろう。
ベルベットは眉間を押さえるようにして小さく舌打ちした。
「嫌いな種類だ」
「え、そうか?」
誠司が思わず問うと、ベルベットはじろりと睨んでくる。
「強い。偉そう。自分のことを一切疑ってない。面倒だろ」
「面倒ではあるけど……」
誠司は言葉を選ぶ。
たしかに圧が強い。
かなり強い。
だが、不思議と不快感だけではなかった。
むしろ、彼女の中にある喪失の気配が、強さの奥でずっと燻っているように感じられたのだ。
「でも、あの人……」
誠司は高地の向こう、彼女が消えた方角を見る。
「たぶん、何かすごく大きいものを失ってる」
その言葉に、ベルベットもシノンもすぐには返さなかった。
二人とも、それを完全には否定できなかったのだろう。
あの圧倒的な存在感の裏に、ただの自信家ではない影があったことくらいは、彼女たちにも分かっていたはずだ。
ベルベットが最後に、面倒くさそうに、しかしどこか諦めたように言う。
「……次に会ったら、たぶんもっと厄介だぞ」
その予感は、たぶん正しい。
誠司は胸の奥へ残った奇妙なざわめきを抱えたまま、乾いた高地を見渡した。
女王のような戦士。
あらゆる武を身につけた強者。
そして、波の匂いに似た、深い喪失を背負った生存者。
彼女との再会が、ただ通りすがりで終わるはずがない。
そんな予感だけが、風に削られた大地の上で、不思議なほどはっきりと残っていた。