反逆というものは、常に華々しい狼煙とともに始まるわけではない。
多くの場合、それは血に濡れた石床の上で、まだ震えの止まらぬ指先が鍵束を握り締める、そのみじめで頼りない瞬間にこそ産声を上げる。
朝霧誠司の掌には、まだ銃把の感触が残っていた。
人の膝を撃ち抜いた反動は、火薬の匂いとともに神経へ焼きつき、いまなお彼の内側で鈍い熱となって疼いている。
撃ったという事実は消えない。
たとえ相手を即死させていなくとも、肉を裂き、骨を砕くために己の意志が引き金を引いたという一点だけで、彼はすでに元いた世界の無垢から幾歩か遠ざかっていた。
それでも、立ち止まることだけは許されない。
奴隷舎の奥から鳴り始めた警鐘は、反逆の発覚がもはや覆せぬ段階へ至ったことを告げていたし、猶予という言葉がこの夜から完全に剥奪されたことをも意味していた。
誠司は荒い呼吸を押し殺しながら、手元の鍵束を見た。
鉄はどれも似た形をしていて、だからこそ、そこに人間の都合の悪質さが透けて見える。
解放される者の人生など顧みず、ただ管理のしやすさだけを追求した結果が、この無機質な重さだった。
「急げ」
ベルベットの声音は低く、そして驚くほど冷えていた。
先ほど男を半ば喰い殺しかけた女と同一人物とは思えぬほど静かな声でありながら、その実、深部には押し殺した狂気がまだ脈打っていることが分かる。
「次の見張りが来る前に、開けられるだけ開ける。逃げる気のない奴まで無理に引っ張る必要はないが、走れる奴は走らせろ」
誠司は頷き、最寄りの檻へ駆け寄った。
鍵穴へ一本ずつ差し込み、合わず、また差し替える。
焦燥に震える指先がもどかしい。
檻の中では、頬のこけた男が半信半疑の目でこちらを見ている。
助けを待つ者の眼差しではない。
これは罠ではないか、外へ出たところでどうせまた捕まるだけではないか、そうした諦念と猜疑が泥のように沈殿した目だった。
「開くから、後ろに下がって」
誠司がそう告げると、男は一拍遅れて身を引いた。
その瞬間、ようやく鍵が噛み合い、鈍い音を立てて錠が外れる。
鉄格子が僅かに開いた音は、妙に小さかった。
人が自由を取り戻す音というには、あまりにもささやかで、あまりにも弱々しかった。
だが、その小さな音に呼応するように、奴隷舎の空気が変わる。
周囲の檻から、押し殺した呻きが漏れ、虚ろだった視線の底に、消えかけていた何かが再び灯る。
希望、と呼ぶにはまだ危うすぎる。
だが、少なくとも絶望だけではない感情が、確かにそこには生じ始めていた。
誠司は次の檻へ向かった。
鍵を差し込みながら、耳の端ではベルベットが倒れた見張りの剣を蹴り寄せ、別の檻の錠前を力ずくで引き裂いている音が聞こえる。
彼女の異形の左腕は、もはや人の筋肉の動きではなかった。
脈動するたび、赤黒い血管めいた紋様が表皮の下で蠢き、そのたびに周囲の空気までわずかに軋むように感じられる。
それは強さだった。
しかし同時に、その強さがどこか決定的に壊れていることも、誠司にははっきりと分かった。
(急がないと)
(でも、ベルベットの様子が……さっきよりおかしい)
(怒ってるとか、そういう段階じゃない)
(まるで、あの腕に引っ張られてるみたいだ)
三つ目の檻を開けた時だった。
奴隷舎の入口が外側から乱暴に蹴り開けられ、夜気とともに怒号が雪崩れ込んできた。
「いたぞ、反抗した奴らだ!」
「殺すなよ、値が下がる! 腕と脚を折れ!」
「女の方は捕まえろ、あれは見世物になる!」
松明の光が一斉に差し込み、薄暗かった奴隷舎の内部を暴力的に暴いた。
武装した見張りが四人、その後ろに捕縛用の縄を持った男が二人。
数としては絶望的というほどではない。
だが、逃走途中の奴隷たちと、戦闘慣れした相手との衝突として考えれば、十分に悪夢だった。
誠司の喉がひりつく。
右手の銃を構える。
だが、狙いを定めるより早く、ベルベットが一歩前へ出ていた。
「下がってろ」
その一言には、共闘の提案も、背中を預ける信頼もなかった。
ただ、自分の獲物へ他人が触れるのを拒む獣の本能だけがあった。
次の瞬間、彼女の左腕が膨れ上がるように形を変える。
肉が蠢き、骨格が軋み、指先は刃にも牙にも見える凶悪な輪郭へと収束してゆく。
人が神に選ばれて得た力ではない。
これはもっと原始的で、もっと醜悪で、それゆえに凶暴な、災厄そのものに近い力だった。
先頭の男が剣を振り上げる。
ベルベットはそれを正面から迎えた。
剣身が彼女の異形の腕に触れた瞬間、金属同士の衝突音ではなく、まるで生きた肉を打ったような濁った音が鳴る。
次いで、男の顔に困惑が走る。
刃が通っていない。
いや、通らないのではない。
異形の腕が、刃そのものを喰らっていた。
「なっ――」
絶句は続かなかった。
ベルベットの左腕が横薙ぎに振るわれ、男の胴が壁へ叩きつけられる。
肋骨が折れる音が、乾いた薪の折れる音のように軽く響いた。
二人目が槍で突き込むが、彼女は半歩身を沈めるだけで躱し、右手でその柄を掴むと、怪力だけで相手ごと持ち上げ、別の見張りへ投げつけた。
人体が鈍器として使用される光景には、戦いという言葉すら生ぬるい野蛮さがあった。
「……っ」
誠司は息を呑みながらも、後方の一人へ向けて引き金を引いた。
銃声が奴隷舎に反響し、松明を持っていた男の肩口が弾ける。
火が床へ落ち、藁がじりじりと燻り始める。
非致死を狙ったつもりでも、人体を撃ち抜くという現実が軽くなることはない。
それでも彼は、もう撃つことから目を逸らさなかった。
逸らした先にあるのが、より多くの破滅でしかないと知ってしまったからだ。
だが、その一瞬の銃撃すら、ベルベットの暴威の前では小さく見えた。
彼女は三人目の喉元へ食らいつくように腕を伸ばし、逃げ遅れた四人目を壁際へ追い詰める。
その動きはあまりにも速く、あまりにも苛烈で、人が怒りに任せているというより、怒りそのものが人の姿を借りて暴れているかのようだった。
「ベルベット、もういい!」
誠司が叫ぶ。
だが彼女は振り向かない。
聞こえていないのではなく、もはや聞くという段階を越えているのだ。
異形の左腕はさらに膨張し、肩口まで赤黒い脈絡が這い上がっている。
呼吸は獣の唸りに変わり、背筋は不自然なほど弓なりに反っていた。
その姿には、怒りに酔った戦士の勇ましさなど一片もなく、ただ呪いに身体を明け渡しかけた者の痛々しさだけがあった。
追い詰められた見張りが、恐慌した表情で短剣を振るう。
刃はベルベットの脇腹を浅く裂くが、彼女は痛みに反応しなかった。
いや、痛みを感知するより早く、その殺意に呑まれている。
異形の左腕が男の顔面へ伸びる。
あと一瞬で、頭蓋ごと潰すだろう。
その時、誠司の脳裏に、第二話で彼女が告げた言葉が蘇る。
躊躇えば死ぬ。
憐れめば喰われる。
奪う覚悟だけは持て。
その教えは間違っていない。
だが、だからといって、彼女自身が獣へ堕ち切ることまで肯定してよいわけではないはずだった。
(このままじゃ駄目だ)
(こいつを止めないと、見張りだけじゃ終わらない)
(きっと、この場にいる誰彼かまわず壊す)
(でも、どうやって)
(撃つのか、腕を)
(いや、それじゃ止まらない。たぶんもっと暴れる)
(なら――俺が、行くしかない)
考えるより先に、身体が走っていた。
誠司は銃を腰へ押し込み、ベルベットへ背後から飛びつく。
正気の判断ではない。
魔物じみた膂力を振るう女を、素手で止めるなど自殺行為に等しい。
だが、他に間に合う手段がなかった。
「ベルベットッ!」
彼の腕が彼女の肩と胸を押さえ込んだ瞬間、異形の左腕が反射的に逆方向へ薙がれた。
爪のように伸びた組織が、誠司の脇腹から背へ浅からぬ裂傷を刻む。
焼けた鉄を押しつけられたような激痛が走り、視界が白く弾けた。
呼吸が途切れ、膝が笑う。
それでも彼は離さなかった。
「やめろ……っ、もういい!」
血が服の内側を伝い、熱いのか冷たいのかすら分からない液体となって肌を濡らす。
ベルベットは唸り声を上げ、身体を振り払おうとする。
常人ならそれだけで吹き飛ばされるほどの力だったが、誠司は腕にさらに力を込めた。
肩が軋む。
肋が悲鳴を上げる。
それでも、放せば終わる気がした。
「離せ……!」
ベルベットの声は、すでに人の音階を半ば失っていた。
喉の奥から洩れるそれは拒絶であり、警告であり、そしてどこか、救難信号にも似ていた。
本人すら抗いきれぬ何かが、彼女の内側で暴れているのだと、その濁った声音だけで分かる。
「離さない!」
誠司はほとんど叫んでいた。
痛みと恐怖で涙が滲む。
自分がいま何をしているのか、正しいのかどうかすら分からない。
ただ、彼女をここで化け物にしたくなかった。
人を殺すことへ戸惑っていた自分と同じくらい、それだけは駄目だと、理屈ではない部分が叫んでいた。
(怖い)
(めちゃくちゃ怖い)
(このまま腕を振り抜かれたら、たぶん俺は死ぬ)
(でも、それでも)
(この人を一人で地獄に落としたくない)
ベルベットの身体が激しく震える。
異形の腕が壁を掻き、石を抉る。
そのたびに破片が飛び散り、誠司の頬や額へ細かな傷を増やした。
見張りたちはその狂乱に完全に呑まれ、腰を抜かして後退している。
誰も近寄れない。
いや、近寄った瞬間に餌へ変わると本能が理解しているのだ。
「ベルベット……!」
誠司は彼女の名を繰り返した。
呪文のように、祈りのように、何度も。
それ以外にできることが、本当に何もなかったからだ。
説得の理屈も、心を鎮める言葉も、この極限では無力に思えた。
だからせめて、彼女がまだ誰かに名前で呼ばれる人間であることだけは、手放させたくなかった。
「大丈夫だ、俺はここにいる……!」
それは根拠のない言葉だった。
傷だらけで、血を流し、次の瞬間には腕ごと引き千切られるかもしれない状況で、大丈夫だなどと口にする資格は本来ない。
だが、事実の正確さより先に、人には聞かなければならない嘘がある。
この言葉も、きっとそういう類のものだった。
ベルベットの唸りが、ほんの僅かに鈍る。
誠司はそれを見逃さなかった。
肩越しに見えた彼女の横顔は、怒りと苦痛に歪みながら、その奥で確かに揺れていた。
憎悪だけではない何かが、そこへ差し込んでいる。
長い間忘れ去っていた温度。
利用でも打算でもなく、ただ傷つくことを厭わず伸ばされた手の温度が。
彼女の弟が死んだ日から、世界は冷え続けていたのだろう。
波は奪い、魔物は喰らい、人は売り買いし、誰も彼女へ「大丈夫だ」とは言わなかった。
そんな場所で、人は優しさを信じなくなる。
善意など弱者を騙す甘言に過ぎぬと知る。
だからこそ、その信じていないはずのものが、傷だらけの体温を伴って抱き止めてきた時、憎悪だけでできていたはずの心にも、ほんの一瞬の綻びが生まれる。
「……なんで」
掠れた声が落ちた。
それは見張りへ向けた殺意ではなかった。
自分を止めようとするこの愚かな男への、理解しがたい問いだった。
「なんで、そこまで……」
「分からない……!」
誠司は息を切らしながら答える。
「分からないけど、君がここで壊れるのは嫌だ……!」
その返答は、英雄の論理などではなく、ただの人間の本音だった。
理屈も、美学も、復讐の正当性も、何一つ整理できていない。
それでも、目の前で苦しんでいる相手を、これ以上深い闇へ沈めたくないという感情だけは嘘ではなかった。
ベルベットの異形の腕が、ぎちりと音を立てる。
だが、先ほどまでのような膨張は続かない。
肩口まで侵食していた赤黒い脈絡が、少しずつ退いてゆく。
荒れ狂っていた呼吸も、まだ獣めいてはいるものの、辛うじて人の律動へ近づき始めていた。
その変化を確かめるより先に、奴隷舎の外からさらに多くの足音が迫ってくる。
応援だ。
ここで立ち尽くしていれば、二人ともすぐに包囲される。
見張りの生き残りたちも、その音に我を取り戻し、慌てて武器を拾おうとしていた。
ベルベットは数秒だけ黙したまま、やがて誠司の腕を振りほどいた。
だがそれは先ほどのような暴力ではなく、己を立て直すための最小限の動きだった。
彼女は肩で息をしながら、自分の左腕を睨みつける。
その眼差しには嫌悪があった。
敵への憎悪よりも深い、自分自身の内に棲む怪物への嫌悪が。
「立てるか」
彼女が問う。
誠司は答える前に膝が揺れたが、壁へ手をついてどうにか立ち上がる。
脇腹から流れる血が痛みと熱を訴えていたが、まだ動けないほどではない。
むしろ、いま動かなければ本当に終わる。
「なんとか……」
声は情けないほど掠れていた。
ベルベットはそれを聞き、眉を僅かにひそめる。
先ほどまで暴走の淵にいたとは思えぬほど、その視線はもう冷静さを取り戻しつつあった。
だが、その瞳の底には、消え切らぬ揺らぎが確かに残っている。
「馬鹿だな、お前」
吐き捨てるような言葉だった。
けれど、その声音には、先ほどまでなかった種類の熱がわずかに混じっていた。
「普通は、ああいう時に飛び込んでくる奴から先に死ぬ」
「普通じゃない世界なんだろ、ここ」
誠司が苦笑にもならぬ息を漏らすと、ベルベットは一瞬だけ目を見開き、それから短く鼻で笑った。
笑みと呼ぶにはかすかすぎたが、確かにそれは殺意ではない表情だった。
次の瞬間、入口から新たな見張りたちが雪崩れ込んでくる。
十人近い。
正面突破は不可能に見えた。
しかし、ベルベットは天井近くの換気窓へ視線を向け、そのまま床を蹴った。
「掴まれ」
言われるまま、誠司は彼女の腰へ腕を回す。
直後、視界が跳ねた。
ベルベットの脚力は、もはや負傷した人間のそれではない。
異形の腕による補助もあったのだろうが、それにしても常識を置き去りにした跳躍だった。
彼女は檻の上へ飛び乗り、そこを足場にさらに壁面を蹴る。
背後で見張りたちの怒号が重なるが、追いつける速さではない。
誠司の傷口に振動が容赦なく響き、意識が飛びそうになる。
それでも、落ちれば終わりだ。
彼は歯を食いしばり、必死に彼女へしがみついた。
換気窓へ到達した瞬間、ベルベットの左腕が鉄格子を掴む。
金属が悲鳴を上げ、捻じ曲がる。
赤黒い肉塊のようなその腕は、まだ完全には鎮まっていない。
暴走寸前の熱を残したまま、それでもいまは彼らを外へ連れ出すための力として辛うじて制御されている。
彼女自身がどれほど危うい均衡の上に立っているかを、誠司はその震える筋肉の感触で知った。
外気が流れ込む。
夜だ。
煤と血の臭いにまみれた奴隷舎の空気とは違う、冷たい夜風だった。
それは救済というほど優しくはない。
だが少なくとも、まだ檻の内側ではないという一点だけで、ひどく自由な空気に思えた。
ベルベットは誠司を先に押し上げ、自らも傷だらけの身体で窓を潜り抜ける。
外へ転がり出た先は、奴隷舎の裏手へ繋がる傾斜屋根だった。
足を滑らせれば、そのまま地面へ叩き落される高さである。
しかも背後では見張りたちが窓へ群がり始めていた。
「走れるな」
ベルベットが問う。
その声には、もう迷いを差し挟む余地がなかった。
誠司は脇腹を押さえ、痛みに顔を歪めながらも頷く。
ベルベットはそれを確認すると、躊躇なく屋根の上を駆けた。
暴走寸前だった怪物の腕を持ちながら、それでもなお信じ難い均衡感覚と身体能力で闇を切り裂いてゆくその姿は、壊れた天使というより、血に染まった獣の女王に近かった。
誠司もその後を追う。
屋根板が軋み、背後では矢が一本飛来して耳元を掠めた。
月光の下、二つの影が奴隷商の建物群を飛び越えてゆく。
一つは傷だらけのまま、それでも善意を捨てきれぬ青年。
もう一つは復讐と呪いをその腕に宿しながら、なお人の温もりによって辛うじて引き戻された女。
逃走は成功したわけではない。
自由を手に入れたわけでもない。
明日が生き延びられる保証などどこにもない。
だが少なくともこの夜、彼らはただの商品であることを拒絶した。
それだけで、世界の見え方はわずかに変わる。
夜の闇へと身を躍らせながら、誠司は痛みの中で思う。
勇者とは人を救う者ではなく、まず誰かの地獄へ手を伸ばしてしまう愚か者のことなのかもしれない、と。
そしてベルベットは、肩越しに振り返ることなく、ただ前だけを見ていた。
その胸中にあるのは波への憎悪か、それともさきほど抱き止められた時に残った微かな熱か。
まだ彼女自身にも分からない。
分からないまま、それでも彼女は走る。
止まれば再び檻へ戻るだけだと、誰よりよく知っているからだった。
その夜、奴隷舎の屋根を越えて消えた二つの影は、まだ伝説でも英雄譚でもなかった。
ただ傷つき、迷い、血を流し、それでもなお前へ進むことをやめなかった者たちの、あまりにも小さな逃走の記録に過ぎない。
だが、世界を変える火種というものは、往々にしてそうした取るに足らぬ反逆の残り火から始まるのである。
逃走とは勝利ではない。
それはただ、その場で死ぬという最悪だけを辛うじて回避したに過ぎず、むしろ本当の意味での苦境は、逃げ延びたその後から始まる場合が多い。
朝霧誠司とベルベットが奴隷舎の屋根を越え、夜の闇へ身を沈めてからどれほど走ったのか、もはや誠司には正確に分からなかった。
脇腹を裂いた傷は走るたびに鈍く熱を発し、血の気を失った身体は、足を前へ出すという単純な動作すら徐々に苦行へ変えていく。
それでも倒れなかったのは、背後からなおも微かに追手の怒号が聞こえていたことと、隣を走るベルベットの背が少しも立ち止まる気配を見せなかったからだった。
やがて二人は、村外れに建つ一軒の民家へ辿り着いた。
それは波の被害から辛うじて形だけを残した家であり、屋根の一部は崩れ、窓の板は割れ、庭先には踏み荒らされた畑の残骸が月明かりの下で白く浮いていた。
だが、灯りはなく、人の気配もなく、少なくとも今夜の隠れ場所としては十分だった。
ベルベットは戸口へ耳を寄せ、内部の音を探るように数秒だけ静止した。
その横顔には、先ほどまで暴走の淵へ足を踏み入れていた者の気配が、まだわずかに残っている。
しかし、その眼差しはもう獣ではなく、あくまで生き残るために周囲を読む人間のそれへ戻りつつあった。
「入るぞ」
彼女は短く言い、壊れかけた扉を慎重に押し開く。
蝶番が軋み、乾いた埃の匂いが夜気と混ざって流れ出した。
誠司もその後へ続くが、敷居を跨いだ瞬間、緊張の糸が少しだけ緩み、危うくその場へ膝をつきかける。
「おい」
ベルベットが振り向き、咄嗟に彼の肩を支えた。
その手は冷たかったが、力加減は驚くほど慎重だった。
誠司は痛みに顔を歪めながらも、どうにか立ち直る。
「大丈夫……とは、言えないけど、まだ動ける」
呼吸の合間にそう答えると、ベルベットは眉をひそめた。
呆れか、あるいは半ば呆れを装った別の感情か、その判別はまだつかない。
ただ、彼女はそれ以上何も言わず、居間らしき空間の中央へ彼を連れて行った。
家の中は、波がもたらした暴力の痕跡に満ちていた。
倒れた椅子、割れた食器、床へ散らばった衣類。
ここには確かに生活があったのだろう。
つい数日前まで、あるいは数時間前まで、誰かが朝を迎え、食卓を囲み、明日を疑わずに眠っていたのかもしれない。
その連続性を、波という災厄が何の感慨もなく断ち切った。
それは奴隷舎で見た人間の悪意とは別種の、しかし同じだけ理不尽な破壊だった。
ベルベットは棚を探り、まだ使えそうな布を見つけ出すと、暖炉の傍へ放った。
さらに戸棚の奥から水差しを取り出し、中身を確かめる。
濁りはあったが、泥や血は混じっていない。
完全な清潔など望むべくもないが、治療に使えぬほどではなかった。
「座れ」
彼女はそう言って、倒れていた椅子を起こし、誠司へ向ける。
誠司はそれへ腰を下ろした途端、全身の力が抜けるのを感じた。
極限まで張り詰めていた神経が、いまようやく自分はまだ生きているのだと知ったのだろう。
脇腹の痛みはむしろその瞬間から強くなり、先ほどまで熱に紛れていた傷の深さを、遅れて肉体へ告げ始めた。
ベルベットは彼の服の裂け目を無言で広げ、傷の具合を確かめた。
その指先が触れるたび、誠司は思わず息を呑む。
爪で裂かれた傷は思っていたより深く、周囲の皮膚は血と泥で汚れていた。
だが、臓腑へ届くほどではない。
出血さえ止められれば、今夜を越えられる可能性は十分にある。
「死ぬ傷じゃない」
ベルベットは淡々と言った。
その声音には慰めの響きはなく、ただ事実をそのまま置く冷たさがあった。
けれど、その冷たさは誠司にとって不思議と救いだった。
根拠のない励ましより、死なないと言い切られる方が、いまはずっと信じられたからである。
「それは、よかった」
誠司が苦笑まじりに返すと、ベルベットは一瞬だけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
だが、あの奴隷舎で見せていた凍てついた拒絶よりは、いくらか人間らしい表情だった。
彼女は水で布を湿らせ、傷口の泥と血を拭っていく。
その手つきは荒いようでいて、必要以上に傷を抉らないだけの加減を知っていた。
おそらく自分の傷を、自分で何度も処置してきたのだろう。
そうでなければ、こんな場所で生き残ってはいない。
「……っ」
布が傷へ触れた瞬間、誠司の喉から短い呻きが漏れる。
だが、それ以上の弱音は吐かなかった。
自分を止めるためにベルベットがどれだけ追い詰められていたかを思えば、この程度の痛みで騒ぐ気にはなれなかった。
やがて応急処置を終えると、ベルベットは残った布を自分の左腕へ巻き始めた。
赤黒く変質したその腕は、暴走の名残をまだ完全には失っておらず、包帯越しでも不気味な脈動が伝わってくるようだった。
彼女は慣れた手つきで何重にも布を巻きつけ、最後に歯で端を引き絞る。
それは隠蔽のためでもあり、拘束のためでもあるように見えた。
まるで、自分の中の怪物へ「今はまだ出てくるな」と言い聞かせる儀式のようだった。
誠司はその様子を見ながら、ふと口を開く。
「その腕……いつから、そうなったんだ」
ベルベットの手が一瞬だけ止まった。
沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は拒絶というより、記憶の底から引きずり出したくない光景へ視線を向けるための間だった。
「波の日だ」
彼女は低く言った。
「村へ魔物が雪崩れ込んできた。家も畑も、人も、全部まとめて壊された。弟を守ろうとしたけど、間に合わなかった」
その声は、第二話で語った時よりもさらに平坦だった。
平坦であるがゆえに、そこで削り取られた感情の大きさだけが逆に浮かび上がる。
「弟が死んだ直後、今度は私が魔物に喰われかけた。そこで終わるはずだった。でも、終わらなかった」
ベルベットは巻き終えた腕を見下ろす。
包帯の下で、異形の輪郭がなおもかすかに蠢いている。
「生き残った代わりに、これが残った」
彼女は吐き捨てるように続けた。
「波が全部持っていった。家族も、村も、人間だった頃の私も。だから私は、あれを許さない」
その「あれ」という二文字には、単なる災害への怒りでは済まぬ憎悪が籠もっていた。
波は自然現象ではない。
意思なき破壊であるはずなのに、ベルベットにとっては明確に討つべき敵として輪郭を持っているのだ。
誠司は黙って聞いていた。
軽々しく慰めの言葉を差し挟めば、それがどれほど空虚に響くかくらい、もう分かっていた。
だから彼はただ、彼女が語ることを遮らないよう、静かに耳を傾ける。
やがてベルベットは視線を上げ、今度は逆に誠司の右手に収まった銃へ目を向けた。
その瞳には警戒と興味が同居していた。
彼女はこの世界の武器を知っている。
剣も槍も弓も、そして勇者についての噂も。
だからこそ、そのどれにも当てはまらぬ異質さが気になって仕方ないのだろう。
「お前のそれ」
彼女は顎で銃を指した。
「剣でも槍でも弓でもない。なのに、あの檻の中でも離れなかった。見張りが奪えなかった。しかも、お前が握ると迷いなく火を吹く」
言葉の一つ一つが観察の結果だった。
感情に任せているようでいて、彼女は常に相手を見ている。
使えるか、危険か、信用できるか、その境目を測っているのだ。
「この国じゃ、波と戦うのは勇者だって言われてる」
ベルベットは続けた。
「盾、槍、剣、弓。そういう名前は聞いたことがある。でも、お前の武器は知らない。知らないけど、普通の武器じゃないのは確かだ」
そこで一拍置き、彼女はわずかに目を細めた。
「つまり、お前は私の知らない勇者か、少なくともそれに近い何かだ」
誠司は曖昧に息を吐くしかなかった。
自分でもまだ理解しきれていないのだ。
銃が何なのか。
なぜ自分と結びついているのか。
なぜ異世界へ放り込まれたのか。
確かなのは、あの奴隷舎でこの武器だけが理不尽に奪われなかったという事実と、撃てば現実に人を傷つけるという、あまりにも生々しい結果だけだった。
「……勇者、か」
誠司は呟く。
その響きは、自嘲とも困惑ともつかぬものだった。
「そんな立派なものかは分からない。俺は、まだ自分が何なのかも整理できてない」
それは弱音ではなく、正直な告白だった。
英雄として振る舞うには、彼はまだあまりにも生身で、善良で、迷いを持ちすぎている。
ベルベットはその返答を聞き、しばらく黙っていた。
やがて彼女は立ち上がり、割れた窓の向こうに広がる夜の村を見やる。
月明かりに照らされた無人の家々は、いまや墓標のようですらあった。
「それでも構わない」
彼女は背を向けたまま言った。
「勇者かどうか、お前が何者かなんて、今の私には大した問題じゃない」
その声は静かだったが、芯の部分は鉄のように硬い。
「波に手が届くなら、それでいい。私は波を殺したい。そのために使える力があるなら、私はそれを使う」
それは宣言だった。
感情ではなく、生存方針として定めた誓約に近い。
「お前が本当に波と戦える側の人間なら、私は手を貸す。復讐のために、お前を利用する」
あまりにも露骨な言い方だった。
だが、誠司はそこで不快になるより先に、妙な安堵を覚えていた。
利用する。
手を貸す。
その交換条件が明確であるほど、かえって裏切りの余地は少ない。
善意を装って近づかれるより、よほど分かりやすかった。
「じゃあ、契約だな」
誠司は痛みに顔をしかめながらも、どうにかそう言った。
「俺は生き残るために君の力を借りる。君は波へ辿り着くために俺を利用する」
言葉へしてみると、それは仲間と呼ぶにはずいぶん寒々しい関係に思えた。
しかし、いまの二人にはむしろその冷たさがちょうどよかった。
信頼など口にするには早すぎる。
けれど、敵ではないと確認するには十分だった。
ベルベットは振り返り、まっすぐに誠司を見る。
その視線にはなお警戒がある。
だが、先ほどまでのような剥き出しの拒絶は薄れていた。
代わりにあるのは、相手がどこまで本当に馬鹿で、どこまで本当に善人なのかを測るような、複雑な観察の色だった。
「そういうことだ」
彼女は短く答えた。
「勘違いするなよ。私はお前に恩を感じてるわけじゃない。さっき止められた件も、借りを返したいわけじゃない。ただ、目的が重なってる間だけ、一緒にいる」
言葉は素っ気なかった。
しかし、その口ぶりが妙に硬いのは、逆に彼女自身がその言葉だけでは片づけられぬ何かを自覚しているからかもしれないと、誠司はぼんやり思う。
「分かってる」
誠司は小さく笑った。
「こっちも、勝手に仲良くなったつもりはないよ」
そう返しながらも、その笑みに刺々しさが宿らないのは、彼の性分なのだろう。
こんな状況でも、相手を責めたり、壁をわざと厚くしたりすることができない。
それはこの世界では脆さであり、同時に、ベルベットのような人間にとっては厄介な暖かさでもあった。
ベルベットはその笑みに、一瞬だけ視線を逸らした。
苛立ったようでもあり、眩しがったようでもある。
やがて彼女は近くの床へ腰を下ろし、壁へ背を預ける。
「少し休め」
彼女はぶっきらぼうに言う。
「夜が明けたら、追手が動き出す前にここを離れる。お前の傷が開こうが、私は担いでまではやらない」
その言い草は冷たい。
だが、少なくとも夜明けまではここへ留まる前提で話していること自体が、彼女なりの配慮に見えなくもなかった。
「努力する」
誠司がそう答えると、ベルベットは小さく鼻を鳴らす。
その仕草は相変わらず愛想に乏しい。
しかし、その乏しさの隙間から、互いを完全には切り捨てられぬ人柄が、ほんのわずかに滲み始めていた。
壊れた民家の中で、二人は距離を置いて座る。
契約に過ぎない。
利害の一致に過ぎない。
それ以上でもそれ以下でもないと、口では言える。
だが、傷の手当てをした指先と、傷だらけになってまで暴走を止めた腕の記憶は、そうした言葉だけでは処理しきれぬ何かを、すでに互いの中へ残していた。
夜はなお深い。
家の外では、波に壊された村の静寂が、まるで世界そのものの弔鐘のように広がっている。
その只中で、勇者かもしれぬ青年と、波へ復讐を誓う女は、まだ仲間とは呼べぬ距離のまま、しかし確かに同じ明日を見始めていた。
その明日が救済に繋がるのか、さらなる地獄に繋がるのかは、まだ誰にも分からない。
ただ、少なくともこの夜、彼らは互いを単なる道具として扱い切れなかった。
その不器用な事実だけが、契約という冷たい言葉の底で、微かな熱を持って息づいていた。