## 第十九話 誇りの民
高地を離れてなお、あの女の残した気配は、誠司たちの中から完全には消えていなかった。
風に削られた岩肌、乾いた土の匂い、そして魔物の死骸が散乱していたあの異様な場所。その中心に、まるで最初からそこが自分の領土であるかのように立っていた女戦士の姿は、強烈すぎる印象を残していた。
誠司は先頭を歩くベルベットの背を見ながら、何度目か分からないほどあの目を思い出していた。
強い。
それは間違いない。
だが、ただ強いだけではなかった。
あの眼差しの奥には、もっと深い何かが沈んでいた。
誇りに似ていて、憎しみにも似ていて、それでいてどちらだけでも説明のつかない、重い喪失の色が。
「まだ考えてるのか」
不意に、前を向いたままベルベットが言った。
誠司は少しだけ肩を揺らす。
「何を」
「さっきの女のことだ」
図星だった。
誠司は苦笑する。
「そんなに分かりやすいか」
「分かりやすい」
ベルベットの答えは短く、容赦がない。
「お前は気になるものがあると、露骨に考え込む」
少し後ろを歩いていたシノンが、それへ小さく息を吐く。
「……私も気にはなってる」
その声には、昨日の柔らかさと、弓手としての緊張が混じっていた。
「弓だけじゃなかった。槍も、近接も、全部が一流だった」
彼女はそこで少しだけ眉を寄せる。
「正直、ああいう戦い方は初めて見た」
ベルベットは振り返らないまま「だろうな」と言った。
「弓で仕留めるだけならまだ分かる。だが、あれは最初から最後まで自分一人で戦場を完結させる動きだ。遠くで削り、近づけば刺し、間合いが潰れたら肉体で壊す」
声音はいつも通り刺々しい。
だが、その裏にあるのは侮りではない。
認めているのだ。
それもかなり高く。
「嫌そうだな」
誠司が言うと、ベルベットは露骨に顔をしかめた。
「嫌なものは嫌だ」
「強いから?」
「強い上に、自分が何者かを一切疑ってないからだ」
その言葉が妙に印象に残った。
自分が何者かを疑っていない。
誠司にはそれが、羨ましいような、眩しいような響きに聞こえた。
いまだに銃の勇者という肩書へ実感を持ちきれず、自分の在り方を手探りしている彼からすれば、なおさらだった。
それからしばらく、三人は無言で進んだ。
高地を下りたあとは、風が少し弱まり、代わりに空気へ妙な重さが混ざってくる。
人気はない。
けれど、ただ荒れているだけの土地とは違う。
土の上に、生活の残り香のようなものがある。
人がいた。
暮らしていた。
その痕跡が、風化しきらぬままそこかしこへ残っていた。
最初に気づいたのはシノンだった。
「……これ」
彼女が立ち止まり、足元の土を見下ろす。
そこには、半ば埋もれた木杭があった。
ただの杭ではない。
縄を張るためのものだ。
天幕、あるいは囲い。
生活に使う構造物の残骸だった。
さらに進めば、割れた土器があり、折れた槍の柄があり、布の切れ端があった。
どれも長く打ち捨てられていたわけではない。
風雨に晒されてはいるが、完全に朽ちるには至っていない。
つまり、そう遠くない時期まで、ここには誰かがいたのだ。
「集落の跡か」
誠司が呟くと、ベルベットは無言で辺りを見渡した。
その目が、いつものように警戒だけを探しているのではないことに、誠司は気づく。
ベルベットもまた、ここにあった生活を見ているのだ。
波で壊された村を知る者として、無意識に自分の過去を重ねているのかもしれない。
さらに奥へ進むと、その痕跡はより鮮明になった。
岩場を利用するように張られていたらしい天幕の土台。
積み上げられていた石の囲い。
女性用と思われる腕輪や装飾。
しかも、戦いの共同体らしく、訓練用の的や、練習で使われた形跡のある槍、傷だらけの木盾まで残っている。
ただの村ではない。
ここには、武を日常として生きる集団がいた。
女だけの戦う民。
そんな印象が、自然と浮かぶ。
そして、そこかしこに残る破壊の痕。
焼け焦げた布。
砕かれた岩。
魔物の爪痕。
波の痕跡だった。
「……波、か」
誠司の口から低く漏れた言葉に、ベルベットの肩がわずかに強張る。
彼女は何も言わない。
だが、その沈黙だけで十分だった。
ここは、波に呑まれた場所なのだ。
シノンがしゃがみ込み、土の上から小さな飾り紐を拾い上げる。
子供のものだろうか。
傷んではいるが、まだ色が残っていた。
彼女はそれを見つめ、しばらく黙っていたあと、そっと元の場所へ戻した。
その仕草は、とても静かだった。
静かすぎて、彼女が何を思い出しているのかを、かえって想像させる。
「……嫌な場所だな」
ベルベットが吐き捨てるように言う。
「分かるのか」
誠司が聞くと、彼女は少しだけ目を細める。
「ああ。こういう壊れ方は忘れようがない」
それだけで十分だった。
波は、建物だけではなく、生活の温度ごと奪っていく。
その痕を、ベルベットは知りすぎるほど知っている。
その時だった。
風が変わった。
乾いた空気の中に、確かな気配が差し込む。
ベルベットとシノンが同時に顔を上げる。
誠司も遅れて、その存在感へ気づいた。
岩場の向こう。
折れた天幕の骨組みの先に、ひとりの女が立っていた。
前話で出会った、あの女戦士だった。
長い髪を風に流し、陽を浴びた褐色の肌はどこか古い彫像めいている。
背には弓。
傍らには槍。
少し離れたところで、愛馬が静かに鼻を鳴らしていた。
だが、前回と違うのは、彼女が今は戦うために立っているのではないと、一目で分かったことだ。
彼女の手には、古びた腕輪が一つあった。
拾い上げたばかりらしいそれを、女はしばらく見つめ、それからゆっくりと胸元へ押し当てる。
その仕草はひどく静かで、戦場で見せた鋭さとはまるで別のものだった。
誠司は思わず足を止める。
不用意に声を掛けていい空気ではない。
そう直感した。
ベルベットもまた、珍しく先に動かなかった。
あの女が、ここを単なる縄張りではなく、自分の死者の場所として見ていることを悟ったからだろう。
やがて、女の方から顔を上げる。
その視線は真っ直ぐこちらを射抜いたが、前回のような剥き出しの警戒ではなかった。
代わりにあるのは、冷えた確認だ。
侵入者が何を見たのか。
それを知ろうとする目だった。
「……見たか」
声は低く、前回よりわずかに疲れて聞こえた。
誠司が答えようとすると、その前にベルベットが小さく舌打ちする。
「見た」
いつもより短い返答だった。
「見えたものを見ただけだ」
それは妙にベルベットらしい物言いだった。
踏み込まない。
だが、目を逸らしもしない。
女はしばらく黙っていた。
それからゆっくりと歩み寄る。
その動きだけで空気が変わるのは相変わらずだ。
王だ、と誠司はまた思う。
この人は、自分が立つ場所の意味を絶対に揺るがせない。
「見たのなら知る義務がある」
女は言った。
誠司の胸へ、その言葉が重く落ちる。
「ここは、滅びた民の跡だ」
風が吹く。
壊れた天幕の端がかすかに揺れた。
女は周囲を見渡す。
その視線の運び方には、土地を確認するというより、失ったものを数え直すような静けさがあった。
「私はこの地の女王であり、戦士長であった」
その声音には嘆きがない。
だからこそ重い。
「我が民は女だけの部族。男の庇護も支配も受けず、己の槍と弓と誇りで生きる者たちだった」
誠司は息を呑んだ。
やはりそうなのだ。
ここはただの荒野の拠点ではなく、一つの部族の住処だった。
そしてこの女は、その頂点に立っていた。
「強かった」
女は続ける。
その一言に、誇張はなかった。
「弱者ではない。誇り高く、戦い、狩り、子を育み、歌い、生きていた」
そこで初めて、彼女の目がわずかに細くなる。
怒りでも涙でもない。
もっと深い、記憶の痛みだった。
「だが波は、それを区別しない」
誰も口を挟まない。
シノンはじっと彼女を見つめ、ベルベットは腕を組んだまま微動だにしない。
誠司だけが、喉の奥に何か重いものが溜まるのを感じていた。
彼女は泣かない。
声も震えない。
それがかえって、この喪失がどれほど深く彼女へ沈んでいるかを思わせた。
「愛馬カリオンを残し、民は全て死んだ」
その言葉とともに、少し離れた場所の馬が静かに鼻を鳴らした。
まるで、その名前へ応えるように。
誠司はそちらを見る。
ただの馬ではない。
主を残して民が死に絶えた、その事実ごと背負わされた存在なのだと、急に分かった。
生き残ったのはこの女だけではない。
あの馬もまた、最後の証人なのだ。
ベルベットが不意に口を開く。
「……で、それでも立ってるのか」
言い方は相変わらず刺がある。
だが、その問いの底にあるものは、誠司にも分かった。
同じだ。
大事なものを奪われ、それでも前へ進くしかなかった者同士の問いなのだ。
女はベルベットを見る。
そして、ほんのわずかだけ口元を歪めた。
笑みとも呼べぬ、ごく短い形だった。
「女王だからな」
それだけだった。
だが、その一言には、民を失ったあとも崩れぬ責任がすべて詰まっていた。
誠司は、気づけば一歩だけ前へ出ていた。
自分でもなぜそうしたのか分からない。
けれど、黙って聞くだけでは足りない気がしたのだ。
「……すごい、と思う」
口にしたあとで、あまりにも不器用な言葉だと自分で思う。
だが他に出てこなかった。
「全部失って、それでも立ってるのは」
女の目が、真っ直ぐ誠司へ向く。
鋭い。
だが、拒む色はなかった。
「憐れみではないな」
「違う」
誠司は首を振る。
「そんな風には見てない」
それは本音だった。
彼女は可哀想な人ではない。
失ってなお立つ王だ。
むしろ、その在り方が眩しいほどだった。
しばしの沈黙。
やがて、女はゆっくりと頷いた。
「ならよい」
その返答は短い。
しかし、誠司にはそれだけで十分だった。
少なくとも彼女は、こちらの言葉を侮辱とは受け取らなかった。
シノンがそこで、恐る恐る口を開く。
「あなたの弓……部族の弓なの?」
質問の角度が彼女らしかった。
喪失そのものではなく、そこへ残された技へ目が向く。
女はシノンを見た。
敵意ではなく、弓を持つ者を見る目だった。
「そうだ」
「すごく、綺麗だった」
シノンの声は低かったが、本心だった。
女は数秒だけ彼女を見つめ、淡々と返す。
「綺麗でなければならん。矢は部族の命を運ぶものだからな」
その一言だけで、シノンの表情がわずかに変わる。
技術ではなく、在り方の話をされた。
それが彼女にはひどく強く響いたのだろう。
ベルベットは相変わらず無愛想な顔を崩さない。
だが、誠司には分かった。
彼女もまた、この女を単なる面倒な強者とは見なくなっている。
波に奪われ、なお立つ。
その一点において、互いを理解してしまっているのだ。
やがて女は、再び誠司へ視線を戻した。
「貴様」
「え」
「その武器と、その目」
前回と同じ話題だったが、今度は響きが違った。
試すというより、測る声だった。
「未熟だ。だが、群れを率いる雄としては見どころがある」
誠司は数秒、完全に固まった。
また言われた。
しかも今度は、もっと真面目な場面で。
「……ええと」
何と返せばいいのか分からない。
褒められているのか。
値踏みされているのか。
いや、たぶん両方なのだろうが、それでも“群れを率いる雄”という表現が持つ妙な圧はどうにも慣れない。
横を見ると、シノンが微妙に気まずそうな顔をしており、ベルベットは露骨に面倒くさそうな半眼になっていた。
「その言い方、どうにかならないのか」
ベルベットが低く言う。
女は即答した。
「ならん」
「だろうな」
ベルベットは本当に嫌そうに吐き捨てる。
だが、そこに以前ほどの剥き出しの敵意はなかった。
鬱陶しい。
けれど理解不能ではない。
そういう温度だ。
女はそのやり取りを意に介した様子もなく、辺りを見渡した。
風がまた吹き、壊れた共同体の跡を撫でていく。
その荒涼とした景色の中で、彼女だけが未だに王として立っていた。
「波を討つために進むのなら」
女が言う。
「中途半端な覚悟で歩くな」
声音は低く、重い。
「それは死者への侮辱だ」
その言葉に、誠司の胸が強く打たれる。
ベルベットも、シノンも、返す言葉を持たない。
正しいからだ。
波に奪われたものを知りながら、半端なまま挑むことは、失われた命を軽く扱うことと変わらない。
彼女はそう言っているのだ。
誠司はゆっくりと頷いた。
「……分かった」
本当に分かったのかと言われれば、まだ足りない部分もあるだろう。
それでも、今はそう答えるしかなかった。
彼女の言葉を、軽く受け流したくなかったからだ。
女はしばらく誠司を見つめていたが、やがて視線を外した。
それが、会話の終わりだった。
彼女は踵を返し、愛馬の方へ歩き出す。
カリオンは静かに近寄り、彼女が手綱へ触れると、当然のように頭を垂れた。
主従というより、長い時を共にした戦友のような距離感だった。
「また会う」
女は背を向けたまま言った。
断言だった。
予感ではない。
そうなると知っている者の口調だった。
誠司はその背中を見ながら、妙な確信を抱く。
そうだろう。
この人との関わりが、これで終わるはずがない。
ベルベットは小さく息を吐く。
「……厄介さが増したな」
「でも、前より分かった気はする」
誠司がそう言うと、ベルベットはちらりと横目で見る。
「何がだ」
「強いだけじゃないってこと」
誠司は去っていく女王の背を見つめながら続ける。
「失ったものごと背負ってる」
ベルベットは何も言わなかった。
否定もしない。
ただ、それを聞いた顔が少しだけ硬くなる。
たぶん彼女自身も、認めているのだ。
シノンもまた、女の去った方向を見ていた。
その目には、前回とは違う色がある。
恐れではなく、敬意に近い光だった。
「……ああいう風に立てるんだな」
小さな呟きだったが、誠司には聞こえた。
シノンにとってあの女は、ただ強いだけの存在ではなくなったのだろう。
失ってなお誇りを保つ強さ。
それは彼女がまだ持ち得ていないものだった。
風は相変わらず乾いている。
壊れた共同体の跡は、黙ったままそこにある。
だが、誠司の中で何かは確かに変わっていた。
波を止めたい。
その思いは前からあった。
けれど今は、それがもっと具体的な痛みと結びついている。
ベルベットの弟。
シノンの家族。
そして、名も知らぬアマゾネスたちの民。
波はそれらを区別なく奪った。
だからこそ、自分たちは止めなければならないのだと、前よりずっとはっきり思えた。
「行くぞ」
ベルベットが言う。
いつものぶっきらぼうな声だ。
けれど、前へ進む意志は三人とも同じだった。
誠司とシノンも頷き、壊れた部族の跡をあとにする。
背後では、風が折れた槍を鳴らしていた。
それは弔いの音にも、次へ進けと背を押す音にも聞こえた。
誠司は一度だけ振り返る。
高地の向こうにはもう女王の姿はない。
それでも、その存在感だけはまだこの場所へ強く残っていた。
次に会う時、きっと今よりもっと深く関わることになる。
そんな予感だけが、滅びた民の跡地に立ちのぼる乾いた空気の中で、ひどく鮮明に胸へ残っていた。