戦いのあとに残る静けさは、いつも少しだけ遅れてやってくる。
怒号が消え、魔物の断末魔が途絶え、ようやく人の泣き声や呻き声が耳へ戻ってきた時、朝霧誠司は自分がどれほど強く呼吸を詰めていたのかを知った。
胸の奥がまだ熱い。
手の中の銃も、撃ち終えた直後の震えをわずかに残している。
それでも、広場に立つ人々の顔に生気が戻りつつあるのを見ると、あの戦いは確かに意味を持っていたのだと、遅れて実感が追いついてくる。
「動ける者は怪我人を集めろ!」
ヒッポリュテの声が広場へ響く。
命令は短く、明確で、誰もが従わずにいられない力を持っていた。
「子供を先に運べ! 泣いている者から落ち着かせろ。荷車が使えるなら使え。歩けぬ者は二人で担げ!」
彼女はすでに戦場の只中から、戦後処理の中心へ立ち位置を移している。
それがあまりにも自然で、誠司は思わず見入ってしまった。
戦うだけではない。
勝ったあとに何を守り、何を残すかまで含めて、この女は王なのだ。
ベルベットは不機嫌そうな顔のまま、倒れた柵を持ち上げて道を作っていた。
口では面倒だの厄介だのと言いながら、こういう時に手を貸さずにはいられない。
そのあたりの不器用さは、今さら言うまでもない。
シノンは高所から降りてくると、広場の端で泣いている子供へ水を渡し、続けて周辺の索敵へ意識を向ける。
戦いは終わったが、二次被害の可能性は消えていない。
その切り替えの速さは、すでに旅の中で培われたものだろう。
誠司もまた、銃を下ろして負傷者の方へ向かった。
村人の一人が脚を噛まれ、別の女は転倒した際に腕を強く打っている。
本格的な治療はできない。
それでも血を止め、支え、運ぶくらいのことはできる。
そうして働きながらも、誠司の意識の一部はずっとヒッポリュテへ向いたままだった。
彼女は子供へ膝を折り、大人へ命じ、年寄りへ肩を貸し、ひとつとして無駄のない動きで人を動かしている。
誰より強く、誰より高く立ちながら、同時に誰よりも低い位置へ目を配っている。
それは誠司にとって、ひどく新鮮な強さだった。
ベルベットの強さは怒りに近い。
シノンの強さは研ぎ澄まされた生存本能に近い。
だがヒッポリュテのそれは、もっと大きなものを背負うための強さだ。
自分一人ではなく、群れごと前へ進けるための強さ。
誠司はそこに、王という言葉の現実を見ていた。
日が傾き始めた頃、村人たちの移動準備がようやく整った。
このまま広場へ留まれば、血の匂いにつられて別の魔物が来る可能性が高い。
だから傷の浅い者が歩き、深い者は荷車へ乗せられ、子供たちは大人に抱えられる形で、近くの避難小屋へ移ることになった。
その流れを最終的にまとめ上げたのも、やはりヒッポリュテだった。
「お前たちも来い」
彼女が当然のように言う。
誠司は少し驚く。
「俺たちも?」
「ここで別れて、また魔物へ喰われる方が無駄だ」
返答は素っ気ない。
だが、その素っ気なさの中に、すでに戦場を共にした者への扱いが混ざっている。
敵ではない。
とはいえ仲間ともまだ呼ばない。
その曖昧な位置が、むしろ今は心地よかった。
避難小屋は、村から少し離れた岩壁のくぼみを利用した場所だった。
粗末だが頑丈で、最低限の備えもある。
火を入れられる炉があり、干し肉と水樽があり、子供を横たえられるだけの敷物もある。
どうやらヒッポリュテは、こうした緊急時の避難場所まで把握していたらしい。
あるいは彼女自身が、波以降こういう生き方を続けてきたのかもしれない。
夜が落ちると、避難小屋の中へ柔らかい火が灯った。
昼間の荒々しい戦闘が嘘のように、空気は静かだ。
疲れ切った子供たちは眠りに落ち、大人たちは低い声で明日の相談をしている。
その中でヒッポリュテは、入口近くの壁へ背を預け、周囲を見守るように座っていた。
カリオンも小屋の外で静かに休んでいるらしい。
彼女が完全に気を抜いているわけではない。
けれど、少なくとも今は戦う顔ではなかった。
誠司は水をひと口飲んでから、そっと彼女の近くへ歩み寄る。
ベルベットは少し離れた場所で腕を組み、シノンは子供へ毛布をかけていた。
この空気なら、今なら、話せる気がした。
「……座ってもいいか」
誠司が言うと、ヒッポリュテは一瞬だけ彼を見る。
それから「好きにしろ」とだけ返した。
その言い方は相変わらず威厳に満ちていたが、追い払う気はない。
誠司は少し距離を取って腰を下ろす。
沈黙が落ちる。
火のはぜる音だけが小さく続いた。
「子供に優しいんだな」
不意にそう口にすると、ヒッポリュテは眉ひとつ動かさなかった。
だが、返ってきた声は思いのほか静かだった。
「当然だ」
「当然?」
「子は未来だ。未来を粗末にする王など、最初から王ではない」
その答えはあまりにも真っ直ぐだった。
誠司は言葉に詰まる。
彼女にとって、強さとは支配する力ではないのだ。
未来を守る力であり、次の世代へ何かを繋ぐための責任なのだ。
「部族の子供たちも、そうやって守ってたのか」
問いかけた途端、火の向こうでベルベットの視線が一瞬だけ動いた。
踏み込みすぎかもしれない、と誠司は遅れて思う。
だが、ヒッポリュテは怒らなかった。
むしろ、少しだけ目を伏せて答える。
「守るつもりだった」
その一言の方が、長い説明よりもずっと重かった。
「強く育つ者もいれば、戦いを嫌う者もいた。狩りの得意な者、歌の上手い者、馬に愛される者、泣き虫な者。皆それぞれだった」
その声音は平坦だ。
平坦であるがゆえに、その奥へ沈んだものの大きさだけが見える。
「だが、波はそれを待たぬ。育つ途中も、迷う途中も、等しく奪っていく」
誠司は黙る。
ヒッポリュテは続ける。
「だから私は未来へ執着する」
彼女の横顔は炎に照らされ、どこかひどく硬質に見えた。
「民を失った王に残るのは、死者を悼むことだけではない。次を残せなかった責だ」
その言葉に、誠司の胸の奥が強く打たれる。
彼女は喪失を悲劇として抱えているのではない。
王としての責任として抱えている。
だからこそ泣けないし、立ち続けるしかないのだ。
「……すごいな」
誠司が呟くと、ヒッポリュテはわずかに目を細めた。
「貴様はそればかりだな」
「いや、本当に」
誠司は苦笑する。
「俺なら、そこまで背負える気がしない」
それは卑下ではなく本音だった。
この世界へ来てから少しずつ強くなってはいる。
仲間も増えた。
でも、自分はまだ“誰かを率いる者”としては未熟だ。
ヒッポリュテのように、失ってなお王のままでいる強さは、遠いものに思える。
「貴様は違う形で背負う」
ヒッポリュテが言う。
「それでよい」
「……そういうものか?」
「そういうものだ」
彼女は断言した。
「王は一つではない。槍で率いる者もいれば、視野で率いる者もいる」
そして、不意に誠司の銃へ視線を落とす。
「貴様はまだ弱い。だが、弱いからこそ周囲を見ている。群れの誰が何を背負えるかを無意識に測っている」
それは以前にも似たことを言われた。
だが、今夜の言葉は前より深く響く。
認められている。
少なくとも、ただの未熟者とは見られていない。
その時だった。
ヒッポリュテは、まるで何でもない事実を告げるような顔で言った。
「ゆえに、貴様の児を産みたい」
誠司の思考が、完全に止まった。
火のはぜる音だけが妙に大きく聞こえる。
一拍。
二拍。
三拍遅れて、ようやく今の言葉の意味が脳へ届く。
「……は?」
間の抜けた声が出た。
自分でも驚くほど情けない声だった。
だが、そうとしか返しようがない。
ヒッポリュテは至って真面目だった。
冗談の顔ではない。
挑発の気配もない。
あまりにも真顔で、あまりにも当然の結論みたいに言ったのだ。
「待って」
誠司は本気で混乱しながら、両手を軽く上げる。
「ちょっと待ってくれ。今、何て?」
「聞こえなかったか」
ヒッポリュテは眉をひそめる。
「ならもう一度言う。私は貴様の児を産みたい」
今度はさらに明瞭だった。
逃げ道がない。
少し離れたところで、何かが落ちる音がした。
見ると、シノンが水の入った木椀を取り落として固まっている。
耳まで真っ赤だ。
一方、ベルベットは片手で顔を覆い、ひどく深い溜息を吐いていた。
あまりにも予想通りすぎる反応だった。
「やっぱり来たか」
ベルベットが低く言う。
「嫌な予感しかしなかった」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
誠司は慌てて言う。
「何でそうなるんだ!?」
ヒッポリュテは本気で不思議そうな顔をした。
そこに羞恥は一切ない。
ただ、なぜ理解できないのか分からないという顔だった。
「何で、だと?」
彼女は静かに言う。
「貴様は弱いが、目がある。群れを見る。守るべきものへ自然と手を伸ばす。しかも、この世界にない異形の武器を担っている」
そのひとつひとつが、彼女の中では確かな評価なのだろう。
「ならば、未来を託す相手として不足はない」
シノンが完全に固まったまま動かない。
ベルベットは、もはや頭痛を堪えるように眉間を押さえている。
誠司だけが、話についていけないまま必死に理解しようとしていた。
いや、理解はできる。
価値観の違いなのだ。
ヒッポリュテにとってこれは、恋愛めいた口説きではない。
部族を率いてきた女王として、未来を残す相手を選ぶ発想なのだ。
だからこそ余計に、どう返すべきか分からなかった。
「ええと……つまり、その……」
誠司は顔が熱くなるのを自覚しながら、何とか言葉を探す。
「俺のことを、そういう意味で……」
「どういう意味だ」
「いや、だから!」
完全に泥沼だった。
ヒッポリュテの目は純粋だ。
純粋すぎる。
からかっているならまだ対処のしようもある。
だが、本気で、誇り高く、真っ直ぐに言われてしまうと、誠司のような人間はひたすら困るしかない。
ベルベットがそこで、ようやく顔を上げた。
半眼だった。
「あのな、ポンコツ女王」
「何だ」
「その話をいま出すな」
言い方は容赦ない。
だが、そこにはベルベットなりの助け舟も混じっていた。
ヒッポリュテは少し考えるように目を細め、それから「そうか」とだけ言った。
本当にただ納得した顔だった。
誠司は逆に頭を抱えたくなる。
引いたのではない。
単に、今この場がその話題に適していないと理解しただけなのだ。
その時、小屋の奥で眠っていた子供の一人が目を覚まし、不安げな声を漏らした。
ヒッポリュテは即座にそちらを向く。
誠司との会話はそこで自然に切れた。
彼女は迷いなく立ち上がり、子供の元へ歩いていく。
その背中を見ながら、誠司はようやく大きく息を吐いた。
「……何なんだ、あの人」
ほとんど独り言だった。
シノンがまだ顔を赤くしたまま、かすかに首を振る。
「私に聞かないで……」
ベルベットだけが、疲れ果てたように言う。
「文化が違いすぎるだけだ。たぶん悪気は本当にない」
「それは分かる」
誠司は頷く。
「分かるけど、分かるのと困るのは別だろ」
その返しに、シノンが思わず小さく吹き出した。
ベルベットも鼻を鳴らす。
笑っていいのか分からない、でも笑うしかない。
そんな空気だった。
やがて、ヒッポリュテは泣きかけた子供を落ち着かせ、小さな毛布を掛け直して戻ってきた。
その顔には先ほどのやり取りの気まずさなど微塵もない。
本当に、彼女の中では恥ずべきことを言った自覚がないのだろう。
誠司はもう一度だけ頭を抱えそうになり、それをどうにか堪えた。
それでも、奇妙としか言いようのないそのやり取りの奥で、ひとつだけ確かなことがあった。
ヒッポリュテは誠司たちを、ただの通りすがりではなく、自分の未来に関わる存在として見始めている。
それはあまりにも重く、あまりにも真っ直ぐで、だからこそ冗談では済まされない。
火は静かに揺れていた。
ベルベットは相変わらず不機嫌そうで、シノンはまだ落ち着かず、誠司は完全に困惑したままだ。
その中心で、ヒッポリュテだけがどこまでも堂々としている。
王とは、たぶんこういうものなのだろう。
自分の価値観を恥じず、曲げず、それを他者へそのまま突きつける。
誠司は火の向こうの彼女を見ながら、遅れて思う。
この女王が仲間になれば、きっと旅は今まで以上に賑やかで、厄介で、面倒なものになる。
だが同時に、それだけでは済まない何かが、この人にはある。
失った民の未来を、別の形ででも繋ごうとする意志。
それは波に奪われた者として、どこか痛いほど理解できる願いでもあった。
夜はまだ長い。
けれど、その夜の中で、誠司たちとヒッポリュテの距離はまた一段、妙な形で縮まっていた。
それが良いことなのか、頭の痛いことなのか、今の誠司にはまだ判断がつかない。
ただひとつ確かなのは、彼女との関わりがもう後戻りできないところへ進み始めている、ということだけだった。