夜が明ける頃には、避難小屋の中へ満ちていた緊張も、いくらか薄れていた。
傷ついた村人たちは最低限の休息を取り、泣き疲れた子供たちもようやく眠りへ落ちている。
火は小さくなっていたが、消えてはいない。
その赤い残り火が、石壁へ揺れる影を淡く映していた。
朝霧誠司は、浅い眠りから目を覚ました直後、自分がひどく気まずい空気の中で朝を迎えていることを思い出した。
昨夜のヒッポリュテの発言は、夢であってほしい類の出来事だったが、現実は悲しいほど律儀に現実のままだった。
少し離れたところではシノンがまだどこか落ち着かない顔で弓の弦を確かめているし、ベルベットは「面倒事が増えた」と顔に書いてあるような不機嫌さで外を見張っている。
そして当のヒッポリュテだけが、何事もなかったように朝の準備を進めていた。
「起きたか」
彼女は振り返りもせずに言う。
その声音は平坦で、昨夜の延長など微塵も感じさせない。
誠司は逆にそれが怖かった。
「……起きた」
返事をしながら上体を起こすと、ベルベットがじろりとこちらを見た。
何も言わない。
ただ、その視線だけで「余計なことを言うな」と語っている。
誠司は内心で深く頷いた。
その忠告はたぶん正しい。
避難民たちは、日が完全に昇る前に次の避難場所へ移ることになっていた。
村はもう半ば壊滅しており、この場へ留まる理由はない。
問題は、その移動の最中にまた魔物が寄ってくる可能性が高いことだった。
しかも昨日の群れは、どうにもただの偶発的な襲撃というには統率がありすぎた。
一度崩したからそれで終わり、とは考えない方がいい。
ベルベットもシノンも、同じ結論に達している顔をしていた。
ヒッポリュテは、外で水を飲ませていたカリオンの首筋を一度だけ撫で、それから小屋の前へ出る。
村人たちは自然と道を開けた。
誰かが指示したわけではない。
それでも彼女がそこへ立てば、場の中心が定まってしまう。
王の持つ重力というものを、誠司はまたしても見せつけられる。
「ここから北へ二つ尾根を越えた先に、岩壁の陰がある」
ヒッポリュテが言う。
「道は狭いが、守るには向いている。そこまで辿り着けば、今日一日は持つ」
避難民たちの表情へ、わずかな安堵が灯る。
それだけで、彼女の声がどれほど人を支えるのかが分かる。
誠司はその横顔を見ながら、自分がいつかこういう声を出せる日が来るのだろうかと、ふと考えてしまった。
出発の支度が進む中、ベルベットが低く呟く。
「嫌な感じがする」
シノンもすぐに頷く。
「静かすぎる」
昨日の戦いのあとにしては、周囲の気配が妙に薄い。
魔物というのは、普通なら血の匂いや死骸に惹かれてもっと集まってくるものだ。
それがないということは、散ったのではなく、何かに押さえ込まれているか、あるいは――。
「来る」
ヒッポリュテが短く言った。
次の瞬間、地が揺れた。
小屋の外れ、崩れた柵の向こうから、鈍く重たい咆哮が響く。
昨日の群れよりずっと低く、ずっと重い。
誠司が外へ飛び出した時には、土煙の向こうで巨大な影が蠢いていた。
狼型の群れではない。
四つ足だが、甲殻のような外皮を持ち、肩は異様に盛り上がり、額から捻じれた角が二本生えている。
猪にも蜥蜴にも似ているが、どちらとも違う。
しかも、その後ろに昨日の残党らしき魔物が再び集まりつつあった。
群れを追い散らしただけでは終わっていなかったのだ。
中核が、もっと後ろに控えていた。
避難民たちの中から悲鳴が上がる。
ヒッポリュテは一歩前へ出た。
その動きに迷いはない。
彼女は槍を取る。
だが、その横顔を見た誠司は、不意に嫌な予感を覚えた。
一人で止めるつもりだ。
昨日の戦いでも、彼女は最後まで自分一人で背負うつもりだった。
今回の相手がそれ以上の規模なら、なおさらその選択を取るだろう。
王として。
守るために。
民を背に立つ女として。
それは美しい。
けれど、同時に致命的でもある。
「ヒッポリュテ!」
誠司が声を張る。
彼女は振り返らない。
「ここは我が受ける!」
予想通りの返答だった。
「貴様らは民を連れて下がれ!」
その命令は正しい。
戦力配分だけを見れば、確かに正しい。
だが、誠司の中で何かがそれを拒んだ。
ベルベットが舌打ちする。
「またそれか」
「当然だ」
ヒッポリュテの声は揺るがない。
「王が前に立たずして何とする」
その言葉は、彼女の誇りそのものだった。
一人で立つ。
一人で受ける。
一人で守る。
その在り方が彼女を支えてきた。
だからこそ、それを否定されることは、自分の生き方を否定されるに等しいのだろう。
けれど、ベルベットはそこへ一歩も引かなかった。
「王だろうが何だろうが、一人で全部背負って死ぬなら、それはただの自己満足だ」
その言葉は冷たかった。
鋭く、容赦がなかった。
だが、ベルベット自身、同じ地獄を知っている。
大切なものを失い、その喪失を一人で抱えて戦おうとしてきたからこそ言える言葉だった。
ヒッポリュテの目が険しくなる。
怒り。
あるいは反発。
そのどちらも確かにあった。
だが、ベルベットは続ける。
「お前が強いのは分かってる。でも、強いからって一人で背負うことが正しいわけじゃない」
彼女の左腕が、包帯の下でわずかに脈打つ。
「死んだら終わりだ。残すだの未来だの言うなら、なおさら一人で勝手に背負うな」
シノンもまた、弓を握ったまま低く言った。
「一人で残るやり方しか知らないのは、強いんじゃなくて……寂しいだけだ」
その声は震えていなかった。
彼女もまた、自分の過去を重ねているのだろう。
生きるために一人で弓を引き続けた時間。
それが強さではなく、ただ他に選び方を知らなかっただけだと、今は少し分かるからこその言葉だった。
ヒッポリュテは初めて、シノンを正面から見た。
その視線には驚きがあった。
自分よりずっと年若い弓手から、そんな言葉を向けられるとは思っていなかったのかもしれない。
最後に、誠司が前へ出る。
銃を構えながら、しかし視線はヒッポリュテから逸らさない。
「一緒に行けるなら、その方がいい」
とても不器用な言葉だった。
もっと王らしい台詞も、もっと格好いい理屈も言えたかもしれない。
だが、誠司にとって本音はそれだった。
「一人で全部背負わなくていい。背負えるなら、一緒に背負った方がいい」
その瞬間、ヒッポリュテの中で何かが揺れたのが分かった。
彼女は王だ。
だからこそ、誰かに支えられるより、自分が支える側であろうとしてきた。
それが当然だった。
だが今、目の前にいる三人は、その当然を真正面から否定している。
しかも、弱さや未熟さを抱えたまま、それでも共に立とうとしている。
咆哮が再び響く。
議論している猶予はない。
巨大な角持ちの魔物が地を蹴った。
その背後から群れも一斉に動き出す。
「来る!」
シノンが叫び、同時に高所へ跳んだ。
ベルベットは前へ。
誠司は銃口を上げる。
ヒッポリュテは一瞬だけ目を閉じ、それから深く息を吐いた。
「……ならば、見せてみろ」
その声は、命令でも拒絶でもなかった。
試す者の声だ。
けれど、それで十分だった。
彼女は一人で完結させることを、ほんの少しだけ手放したのだ。
戦いが始まる。
先頭の小型が跳ぶ。
シノンの矢が喉を射抜き、誠司の銃弾が続く。
ベルベットが左から群れを裂き、ヒッポリュテは正面の大型へ槍を向ける。
今度の違いは明確だった。
彼女は突っ込まない。
わずかに待つ。
それにより、誠司の射線とシノンの援護が自然に活きる。
巨大な魔物が角を振るう。
ヒッポリュテは槍で受け、力を逃がす。
だが、単独ならそこでさらに踏み込んでいたはずだ。
今回は違った。
半歩退き、肩の向きを変える。
その空いた右目へ、誠司の弾が吸い込まれる。
呻き。
怯んだ隙へ、ベルベットが横合いから異形の腕を叩き込む。
体勢を崩した巨体へ、シノンの矢が角の根元へ突き立つ。
最後にヒッポリュテが槍を捻じ込み、深く抉る。
連携だった。
綺麗に組み上がったわけではない。
けれど、確かに一人の戦いではなく、四人の戦いだった。
「右、三匹抜ける!」
誠司が叫ぶ。
ヒッポリュテは即座に反応しようとするが、その前にシノンが矢を放つ。
一匹の脚を止め、二匹目を誠司が撃つ。
残る一匹へベルベットが飛び込み、地面ごと叩き潰す。
その一連の流れを見て、ヒッポリュテの瞳に驚きが走る。
自分が一人で抑えなくとも、他の者が流れを補完している。
その事実が、彼女の戦い方を少しずつ変えていく。
大型魔物がなおも吠える。
片目を潰され、血を噴きながら、それでも倒れない。
ヒッポリュテはそこで決断した。
一人で確実に仕留める形ではなく、仲間の援護を信じた深い踏み込みを選ぶ。
「開けろ!」
彼女が叫ぶ。
誠司とシノンが同時に動く。
銃弾が脚を打ち、矢が首筋を抉る。
ベルベットが異形の腕で角を押さえ込み、わずかに頭部を逸らす。
その隙へ、ヒッポリュテが渾身の突きを放った。
槍は喉を抜け、さらに奥へ。
巨体が震え、絶叫し、やがて崩れ落ちる。
土煙が上がる。
群れの残党は、その瞬間に戦意を失った。
散る。
逃げる。
追う必要はない。
四人とも、それを理解していた。
守るべきは後ろだ。
もう十分に押し返した。
静寂が戻る。
避難民たちの息遣い。
泣き出す子供の声。
そして、自分たちの荒い呼吸。
誠司は銃を下ろし、肩で息をしながらヒッポリュテを見る。
彼女は槍を支えに立っていた。
傷は浅い。
だが、その顔は戦闘の疲労よりも、別の驚きに染まっているように見えた。
一人ではなかった。
自分だけで終わらせなかった。
それでも、守れた。
その事実が、彼女の中でまだうまく馴染んでいないのだろう。
ベルベットが先に口を開く。
「ほらな」
それだけだった。
だが、その一言に込められた意味は十分すぎる。
一人で抱えなくても戦える。
その証明が今ここにある。
シノンもまた、息を整えながら小さく言う。
「……一人で残る必要、なかった」
ヒッポリュテはしばらく何も答えなかった。
やがて、ゆっくりと視線を三人へ巡らせる。
ベルベット。
シノン。
誠司。
その目には、前までの値踏みだけではない何かが宿っていた。
「……そうだな」
彼女はようやく言った。
その一言は、敗北の認めではない。
もっとずっと重いものだった。
長く信じてきた在り方へ、初めて別の可能性を許した声だった。
避難民を安全な位置へ移し終えたあと、四人は少し離れた岩場で一息つくことになった。
村人たちはまだ怯えてはいるが、もう全滅の恐怖に飲まれてはいない。
それを確認してから、ヒッポリュテは槍を地へ立て、静かに誠司たちの前へ立つ。
「聞け」
その声に、三人とも自然と顔を上げた。
彼女は夕陽を背にしている。
その姿は相変わらず王らしく、けれど今はどこか戦士としての素直さも滲んでいた。
「私は民を失った」
彼女は言う。
「失った以上、本来なら王としての役目もそこで終わっていたのだろう」
ベルベットが微かに眉を寄せる。
だが口は挟まない。
ヒッポリュテの言葉は続く。
「だが、終われなかった」
その一言に、火傷のような痛みがあった。
「死者を背負い、未来を残せなかった責を抱え、それでも立つしかなかった。ゆえに私は、一人で背負うことを王の務めだと信じてきた」
そこで彼女は少しだけ目を伏せる。
「だが、今日、貴様らはそれを崩した」
誠司は黙って聞く。
これはきっと、彼女にとって簡単な告白ではない。
強さの形を変えることは、王としての自分を変えることでもあるからだ。
ヒッポリュテはゆっくりと顔を上げ、今度はまっすぐ誠司を見る。
「失われた民の代わりではない」
その声は明瞭だった。
「だが、未来を掴むために、私は貴様らと進む価値があると判断した」
誠司の胸がどくりと鳴る。
それは加入の宣言だった。
「私は貴様の群れへ加わろう」
ヒッポリュテは続ける。
「女王としてではなく、戦士として」
その言葉は、彼女が初めて“自分一人で完結する王”ではなく、“共に進む者”になると決めた瞬間だった。
誠司はすぐに返事ができなかった。
重い。
その決意があまりにも重く、簡単に受け取っていいものではないと感じたからだ。
だが、だからこそ、軽くは返さなかった。
「……ありがとう」
ようやく出た言葉は、それでも少し拙かった。
「正直、まだ俺は全然頼りないと思う。でも、一緒に来てくれるなら、すごく心強い」
それは飾らない本音だった。
ヒッポリュテはその答えを聞き、ほんのわずかに口元を緩める。
誇り高い女王にしては、ひどく静かな笑みだった。
ベルベットは腕を組んだまま、いかにも不満そうに鼻を鳴らす。
「認めたわけじゃない」
「知っている」
ヒッポリュテが即答する。
「だが、貴様は嫌っていても見捨てぬ女だ」
ベルベットの眉間に皺が寄る。
図星だった。
その様子に、シノンが小さく吹き出した。
シノンは一歩だけ前へ出ると、ヒッポリュテを見上げる。
「……よろしく、ポルテ」
その呼び名に、ヒッポリュテがわずかに目を見開いた。
避難民の子供が呼んでいた愛称を、シノンが自然に使ったのだ。
一瞬の沈黙のあと、彼女は静かに頷く。
「よい」
その一言だけで、受け入れたのだと分かった。
こうして、ヒッポリュテは正式に誠司たちの旅へ加わった。
部族を失った女王は、新しい群れと共に進くことを選んだ。
それは喪失を忘れたからではない。
むしろ逆に、失ったものを背負ったまま、未来へ手を伸ばすための決断だった。
夕陽は濃く、赤く、大地を染めていく。
新たに生まれた四人目の影が、三人の隣へ並ぶ。
その光景を見ながら、誠司は胸の奥で静かに思う。
これから先の旅は、間違いなく今まで以上に騒がしく、厄介で、面倒になる。
けれど、それだけではない。
この女王が加わったことで、届く場所も、見える景色も、きっと変わるのだと。
その時だった。
ヒッポリュテが何気ない顔で、誠司へ言う。
「ただし、児の件は諦めていない」
空気が止まった。
誠司は反応に一拍遅れた。
シノンの顔が一瞬で赤くなり、ベルベットは本日何度目か分からない深い溜息を吐く。
「お前は本当に……!」
ベルベットが頭を抱える。
ヒッポリュテは心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「何だ。加入したからと言って、その件が消えるわけではあるまい」
「消えててほしいんだよ!」
誠司が本気で叫ぶ。
シノンは耳まで赤くしたまま視線を逸らし、ベルベットは「やっぱり面倒だ」と吐き捨てる。
そのやり取りが、戦いのあとにようやく生まれた新しい空気を、どこか呆れるほど人間らしいものへ変えていく。
強くて、誇り高くて、厄介で、けれど確かに信じられる。
そんな新しい仲間を迎えて、彼らの旅はまた一歩、次の局面へ踏み出していくのだった。