王都の空気は、夕暮れが近づくほどに重くなる。
朝から絶えず行き交っていた荷車の音も、兵士たちの怒鳴り声も、人々のざわめきも、夜が近いからといって静まるわけではない。
むしろ逆だった。
陽が落ちる前に済ませねばならぬ準備があるからこそ、王都メルロマルクは薄闇の気配を前にして、さらにせわしなく息を荒げる。
人が多いだけではない。
焦りが多いのだ。
恐れが多いのだ。
だからこそ、通りを満たす熱気は活気というより、破裂寸前の圧力に近かった。
宿へ荷を置いたあと、誠司たちは再び街へ出ていた。
目的は単純で、情報を拾うこと。
波がどこで起こるのか。
四聖勇者たちはどこへ向かうのか。
この国は何を知っていて、何を隠しているのか。
それらを確かめるには、王城へ乗り込むより先に、まず王都そのものが吐き出す噂を拾う方が早い。
少なくともベルベットはそう判断し、ヒッポリュテも異論を挟まなかった。
シノンは人混みに疲れた顔をしつつも、いざという時の射線を頭へ入れているようだった。
そして誠司は――自分でも気づかぬうちに、ずっと周囲の“勇者”という言葉へ耳を引かれていた。
市場の大通りを歩いているだけで、いくつもの声が断片となって耳へ入ってくる。
「次の波は海側だ」
「港の兵が増えてる」
「四聖勇者がまた前に出るらしい」
「槍の勇者は王城でも顔が利く」
「弓の勇者の一行はもう準備を終えた」
「盾の勇者はどうもな……いや、でも最近は――」
そのどれもが、誠司の胸へ微妙な重みを残した。
四聖勇者。
この国でその名は、もはや単なる伝承ではない。
噂であり、政治であり、軍事であり、人々の希望と不信の的であり、そして何より、現実にそこへいる“役職”のようなものなのだ。
「……本当に、勇者っているんだな」
ぽつりとこぼした誠司の声へ、隣を歩いていたシノンが小さく目を向けた。
「変な言い方」
「いや、なんていうか」
誠司は苦笑する。
自分でも上手く言葉にできない。
勇者という概念自体は、もうとっくに受け入れている。
銃を持ち、この世界へ放り込まれ、波の存在を知り、魔物を撃ってきた以上、今さらその単語へ現実味がないわけではない。
けれど、こうして街の人間たちが当然のように四聖勇者を語り、その動向へ一喜一憂している様子を見ると、別の意味で息苦しくなるのだ。
彼らは“制度の中の勇者”だ。
国に認識され、人々に名前を覚えられ、良くも悪くも社会の中へ存在している。
それに比べて、自分は何だ。
銃を握っている。
普通の武器ではない。
勇者に近い力を持っている。
なのに、その立場はどこにも分類されていない。
広場脇の酒場から、笑い声と怒鳴り声が混じった会話が漏れてくる。
冒険者崩れだろう男が、杯を振りながら大声で言っていた。
「波の時はどうせ勇者様が前だろ! 俺たちはその後ろで生き残りゃいい!」
別の男が鼻で笑う。
「言うほど簡単なら苦労しねえよ。盾の勇者なんか、最初は散々だったらしいしな」
「でも最近は違うって話だぞ」
「知らねえよ。剣と槍と弓がいりゃ何とかなるんじゃねえのか」
乱暴な会話だった。
正確でも公平でもない。
それでも、その雑な認識こそが、王都の人間にとっての勇者の位置をよく表していた。
救世主。
便利な駒。
華やかな顔役。
そして時に、不信の対象。
どれであってもいい。
とにかく“いる”のだ。
そこへ自分の名はない。
「何をそんなに引っかかっている」
不意に、低い声が横から落ちてきた。
ヒッポリュテだった。
彼女は人波の向こうへ視線を流しながらも、誠司の沈黙の意味だけは見逃していなかったらしい。
王は、群れの動揺へ敏感だ。
その鋭さが、こういう時ばかりは少し困る。
「……そんなに分かりやすいか」
「分かりやすい」
即答だった。
しかも、わずかの迷いもない。
誠司は苦笑してしまう。
一方、ベルベットは少し前を歩いたまま、面倒くさそうに言い捨てる。
「お前は考え込み始めると露骨に顔へ出る」
「そんなにか」
「そんなにだ」
シノンまで静かに追随した。
もはや逃げ道はない。
誠司は少しだけ人の少ない通りへ逸れ、ようやく息を吐く。
広場の喧騒が少し遠のく。
それでも王都のざわめきそのものは消えない。
どこへ行っても、人と兵と勇者の噂がこの都の血流になっている。
その只中で、誠司はようやく口を開いた。
「俺も、たぶん勇者に近い」
声にすると、妙に不安定だった。
自分でもまだ断言しきれていないことを、やっと言葉へした感じがある。
「でも、この国じゃ誰も俺を勇者として見ない。剣でもない、槍でもない、弓でもない、盾でもない。だったら俺は何なんだろうって、ちょっと思ってた」
言い終えた瞬間、胸の奥に妙な空白ができる。
ずっとぼんやりしていた違和感へ輪郭を与えてしまったからだろう。
見ないふりをしていられなくなる種類の問いだった。
ベルベットが振り返る。
その目は相変わらず鋭い。
だが、そこに見下しはない。
「そんなの、国が決めることじゃない」
言い方は冷たい。
けれど、迷いはない。
「王都が認めたら勇者で、認めなきゃ違うっていうなら、そんな肩書は最初から腐ってる」
それはベルベットらしい答えだった。
制度より、目の前で立つか倒れるか。
その現実だけを信じる女の言葉だ。
だが、だからこそ誠司の中にある“気になる”という感覚までは、切り捨てきれない。
「でも、落ち着かないのは分かる」
静かに言ったのはシノンだった。
彼女は通りの端へ身を寄せるように立ちながら、視線だけを誠司へ向ける。
「どこにも入れない感じって、ずっと地面がないみたいだから」
その一言は、妙に胸へ響いた。
彼女自身、制度の外でしか生きられなかった人間だ。
誰かに名前を与えられることなく、ただ生き延びるために弓を引き続けた時間がある。
だからこそ、その“居場所のなさ”を誠司よりもずっとよく知っているのだろう。
ベルベットが眉をひそめる。
「お前まで甘やかすな」
「甘やかしてない」
シノンは珍しく、少しだけはっきり言い返した。
「分かるって言っただけ」
そのやり取りを見ていたヒッポリュテが、ゆっくりと口を開く。
「貴様は順序を違えている」
誠司が顔を上げる。
彼女の目は真っ直ぐだった。
王が兵へ何かを教える時のような、揺らぎのない視線。
「順序?」
「そうだ」
ヒッポリュテは街の喧騒を背にしながら、静かに言葉を置いていく。
「誰に何と呼ばれるかを先に気にしている。だが、それは最後につくものだ」
彼女は誠司の銃へ一度だけ視線を落とし、それから再び目を見る。
「まず決めるべきは、貴様が誰を守るかだ。何のためにその武器を取るのかだ。名は、その後からついてくる」
その言葉は、不思議なほど重かった。
勇者と呼ばれること。
それをどこかで“与えられる立場”として見ていたのかもしれない。
だがヒッポリュテは違う。
名は結果でしかないと切って捨てる。
先にあるのは、守る相手と立つ理由なのだと。
誠司は返事ができなかった。
心のどこかで、図星だったからだ。
四聖勇者と比べ、自分は外側だと感じていた。
だがそれは、誰かに“入れてもらう”側の思考だったのではないか。
もし本当に立つべき戦場があるなら、そこへ立ったあとにしか、自分が何者かなんて決まらないのかもしれない。
そう考えると、妙に悔しかった。
そして同時に、少しだけ息がしやすくなる気もした。
その時だった。
通りの向こう、物資の配給をしていた一角から怒号が上がった。
食料袋が倒れる音。
女の悲鳴。
続いて、子供の泣き声。
一行の視線が一斉にそちらへ向く。
見ると、粗暴な冒険者風の男が、配給の列へ割り込み、避難民らしい女から薬袋を奪おうとしていた。
周囲の人間は止めに入れず、少し離れた兵たちは別件で手一杯らしい。
波を前にした王都では、こういう小さな歪みがあちこちで軋んでいるのだろう。
「面倒だな」
ベルベットが吐き捨てる。
だが、その足はすでに動いている。
誠司も同時に駆け出した。
考えるより先に体が前へ出ていた。
誰かに勇者と呼ばれたからではない。
ただ、止めなければならないと思ったからだ。
「やめろ!」
誠司が声を張る。
男が振り向く。
酒気を含んだ目が、誠司の顔から銃へ、さらに後ろから来るベルベットたちへ移る。
「余所者は引っ込んでろ!」
怒鳴り返しながらも、その手は女の腕を離さない。
女は幼い子を庇いながら、必死で薬袋を引き戻そうとしている。
子供の顔色は悪い。
あの袋が必要なのだろうことは、見れば分かった。
誠司は間合いを詰め、男の手首を掴んだ。
力では敵わないかもしれない。
それでも引いた。
「ここで奪い合ってどうする!」
思ったより大きな声が出る。
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
「波の前に自分たちで潰れる気か!」
その一言が、場の空気を一瞬だけ止めた。
理屈としては正しすぎるほど正しい。
だからこそ、怒鳴られた男も、周囲で固まっていた人々も、反射的に言葉を失う。
そこへベルベットが前へ出た。
顔は不機嫌そのものだ。
「それ以上やるなら、私が止める」
低い声。
だが、その威圧は酒に酔った男の浅い怒気など一瞬で押し潰すだけのものだった。
さらにヒッポリュテが一歩進み出る。
王の声が落ちる。
「秩序を乱すなら、波の前に我が処分するぞ」
その一言で、男の顔色が変わった。
ただの脅しではないと分かったのだろう。
最終的に男は舌打ちし、悪態だけを残して引き下がる。
シノンは終始弓を抜かなかったが、いつでも射てる位置取りだけは崩していなかった。
群れとしての動きだった。
場は収まった。
たいした騒ぎではない。
けれど、誠司にとっては妙に重い出来事だった。
いま自分は、名も肩書もないまま、それでも目の前の流れを変えた。
誰かに勇者と認められなくても、やることはやれたのだ。
その事実が、胸の奥で静かに音を立てた。
「今のは悪くなかった」
ヒッポリュテが言う。
誠司が振り返ると、彼女は平然と続けた。
「貴様の言葉で流れが変わった。名がなくとも、群れの動きを止められるなら、それは力だ」
その評価は、誠司が欲しかった種類のものだった。
火力ではない。
強さでもない。
けれど、自分がそこへいる意味として確かなもの。
誠司は少しだけ息を吐く。
「……たまたまだよ」
「違う」
ヒッポリュテは即座に否定した。
「貴様は自分のやったことを軽く見る癖がある」
ベルベットが横で鼻を鳴らす。
「ようやく少しは分かったか?」
その一言に、誠司は苦笑しながらも、否定しなかった。
日が傾くにつれ、王都のざわめきはさらに色を変えていく。
港へ向かう兵の数が増え、物資の荷車も南西の通りへ集中し始めた。
人々の噂も、もはや“次の波が来るらしい”ではなく、“どこで受けるか”“誰が出るか”という具体的な話へ変わっている。
どうやら沿岸か、あるいは海上が主戦場になるらしい。
四聖勇者もまた、そちらへ動く可能性が高い。
つまり、王都の中で様子を見ている時間はもうほとんど残されていない。
宿へ戻る道すがら、誠司は夕焼けに染まる王都の空を見上げた。
赤い。
石壁も、塔も、人の流れも、すべてが薄い血の色に染まって見える。
波の前の王都とは、こういう色をしているのだろうかと思う。
華やかで、騒がしくて、そしてどこまでも不安定な赤。
「……見に来ただけじゃ駄目だな」
誠司がぽつりと言う。
ベルベットは「最初からそのつもりだ」と返し、シノンは不安を隠しきれぬ顔で、それでも頷く。
ヒッポリュテだけが、まっすぐ前を向いたまま静かに言った。
「ならば、関わるために進め」
その言葉に、今度は誠司も迷わなかった。
四聖勇者の外側だろうと関係ない。
呼ばれていようがいまいが、立つべき戦場があるならそこへ行くしかない。
誰を守るのか。
何のために銃を取るのか。
その答えを、いまさら王都の外へ置いてくるつもりはない。
名前はあとからついてくる。
ならば、まずは立つ。
その覚悟だけが、夕焼けの中で静かに定まっていった。
王都メルロマルク。
四聖勇者の都。
波へ備える国の心臓。
そして、誠司たちが本当に“本編の外側にいた群れ”ではなく、この世界の災厄へ関わる当事者として歩き出す場所。
第二の夜を迎えようとするその都の中で、誠司はようやく理解する。
自分はもう、噂の向こうにいる勇者たちを眺めるだけの異邦人ではいられない。
次に波が来れば、自分たちもそこへ立つ。
そう決めた時、王都の空気は重いままでありながらも、どこか少しだけ、吸い込めるものへ変わった気がした。