※この作品はR-18です。

銃の勇者の探索記   作:ボルメテウスさん

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もう一つの波

波の前触れは、空の色からして既に異様だった。

夕刻にも似た赤でも、嵐の前の鉛色でもない。

世界そのものの皮膚が薄く裂け、その裏側から見慣れぬ光が滲み出しているような、不快な色だった。

メルロマルクの港町一帯は、その不吉な天光の下で張り詰めきっていた。

鐘が鳴る。

兵が怒鳴る。

荷車がきしみ、船着き場では縄を引く音と怒号が交じり合う。

誰もが来ると知っている。

だが、知っていることと、それに耐えられることは、まるで別の話だった。

 

朝霧誠司たちは、主戦力が集められている港の中心からは少し外れた、王都外縁の避難路へ回される形になっていた。

正確には、誰かに命じられたわけではない。

ただ、兵士たちの流れと避難民の混乱、そして戦力の偏りを見た瞬間に、ヒッポリュテが「こちらだ」と断じ、ベルベットもシノンもそれへ異論を挟まなかっただけだ。

四聖勇者は本戦へ出る。

ならば、その陰で必ず取りこぼされるものが出る。

誠司たちが立つべきなのは、そういう場所だった。

 

「こっちは兵が少なすぎる」

シノンが高台の石垣から周囲を見渡し、低く言った。

彼女の声には緊張があったが、怯えはない。

すでに彼女は、自分の立つ位置を理解している。

遠くを見る者の目だった。

 

「主力を海へ寄せすぎてる」

ベルベットが吐き捨てる。

「分かりやすいな。派手な方へ人を集める」

その言い方には、国や軍へ向けた剥き出しの不信があった。

けれど、間違ってはいない。

港の方には兵も物資も多い。

その一方で、王都外縁の避難誘導路には、せいぜい数十人の兵と、不安げな民衆が押し込められているだけだった。

 

「兵が少ないのではない」

ヒッポリュテが静かに言う。

カリオンの手綱を握ったまま、その視線は遠くの空を捉えている。

「足りぬ場所が生まれているのだ。戦場が広すぎる」

王としての物言いだった。

全体を見る者の声だった。

誠司はその横顔を見ながら、自分が今まさに“国家規模の戦”の一端へ触れているのだと、ようやく実感する。

地方の村を襲った波とは違う。

ここでは、ひとつの判断の遅れが、そのまま何十人何百人の死へ繋がる。

 

避難民たちは列を成していた。

老人、子供、怪我人、荷を抱えた女たち。

その誰もが足早ではあるが、足並みは揃わない。

列の先頭では兵が声を張り上げていたが、緊張しきった空気は人を整然と動かすより先に、心を細らせる。

誰かが転べば、誰かが立ち止まる。

誰かが振り返れば、そこへ不安が伝染する。

そういう脆さが、すでにこの場全体へひびのように広がっていた。

 

「子供と怪我人を前へ寄せろ」

ヒッポリュテが鋭く言う。

その一声だけで、近くにいた兵士たちが思わず振り向いた。

「歩ける者は外側へ。抱えられる者は抱えろ。止まるな。止まれば死ぬ」

王命じみた断定だった。

何者だと問うより先に、人はああいう声へ従ってしまう。

兵の一人が反射的に動き、列の組み替えが始まる。

ベルベットが舌打ちしながらも手近な荷車を押して道を開け、シノンは高所を取り直して視界を広げた。

誠司もまた、列の詰まりを解くために子供を抱き上げる男の肩を支え、逃げ道を整理する。

 

その時だった。

空が鳴った。

 

雷ではない。

もっと生理的な嫌悪感を伴う音だ。

布を無理やり裂く音にも似ている。

あるいは、世界そのものの継ぎ目を引き剥がす音にも。

王都外縁の上空に、紫と黒の光が亀裂のように走る。

空間が歪み、その奥から異様な光が脈打った。

 

「来る!」

シノンが叫ぶ。

誠司の背筋へ、冷たいものが走る。

何度経験しても、この瞬間だけは慣れない。

波は自然現象ではない。

世界そのものへねじ込まれる悪意のようなものだ。

だからこそ、その始まりには、理屈を超えて本能が怯える。

 

裂け目から最初に現れたのは、小型の魔物だった。

猿に似ているが、関節の向きが明らかにおかしい。

次いで、犬とも狼ともつかぬ獣型。

さらにその後ろから、甲殻を持つ虫じみた個体が次々と落ちてくる。

数が多い。

主戦場から漏れた残滓などという生易しい量ではない。

避難路ひとつを壊滅させるには十分な群れだった。

 

「誠司!」

ベルベットの声で、彼は即座に銃を構える。

もう迷いはない。

目の前にいるのは波から来た怪物だ。

その背後にあるのは、怯え、逃げ遅れ、踏み潰される人々の列だ。

ここでためらう余地は最初から存在しない。

 

「前は私が抑える!」

ベルベットが地を蹴る。

包帯の巻かれた左腕が、怒りと共に赤黒く脈打った。

彼女の戦いは、やはり獣じみて苛烈だ。

だが以前のような破綻一歩手前の暴発ではない。

その怒りは確かに荒れ狂っている。

それでも、後ろに誰がいて、どこまで踏み込めば支えが届くのかを、身体のどこかで理解している動きだった。

 

「右上を取る!」

シノンが石垣を蹴って高所へ走る。

弓を引く姿勢に無駄がない。

彼女の矢は、もはや“自分が死なないため”だけに放たれるものではなかった。

下で逃げる子供の頭上を越え、飛びかかろうとした獣型の首筋へ正確に突き立つ。

魔物は地面を転がり、悲鳴のような声を残して痙攣した。

 

「避難民を止めるな! 前だけ見て走れ!」

ヒッポリュテの声が飛ぶ。

カリオンが地を蹴り、その巨躯をもって進路の中央へ躍り出た。

騎乗の勢いを乗せた槍が、虫型の魔物を一突きで貫く。

さらにその死骸を盾のように払って、後続の群れを押し返す。

王の戦い方だった。

ただ敵を殺すのではなく、民の逃げ道を開くために、最適な位置で最適な圧をかける。

その在り方が、誠司には異様なほど鮮烈に映る。

 

「左二体、抜ける!」

シノンの声が降る。

誠司は反射的に銃口を左へ振る。

犬型二体。

速度は速い。

だが、以前の自分なら怖さで視界が狭まったところを、今はまだ追えている。

一発目で前脚。

二発目で肩口。

止まりきらずに体勢を崩したところへ、ベルベットが横から殴りつけた。

骨が砕ける音がする。

それでも彼女は立ち止まらず、そのまま前線を押し上げていく。

 

誠司は呼吸を整えながら、周囲を見た。

数が多い。

真正面から押し切るには厳しい。

ならば、必要なのは流れを作ることだ。

前を止め、横を絞り、避難路へ抜ける個体を一匹ずつ潰す。

誰が何を最も得意とするかは、もう理解している。

ベルベットは突破。

シノンは制圧。

ヒッポリュテは抑えと守り。

ならば自分は、その間を繋ぐ。

 

「ベルベット、右へ寄れ!」

誠司が叫ぶ。

「虫型は銃で抜く、獣型だけ見ろ!」

ベルベットが舌打ちする。

だが従う。

その瞬間、誠司は硬質な外殻を持つ魔物へ三連続で撃ち込んだ。

普通の刃なら弾かれる部位でも、銃弾は衝撃ごと叩き込める。

甲殻が割れ、内部から黒い体液が噴き出す。

そこへヒッポリュテが槍を滑り込ませ、確実に仕留めた。

 

「よく見ている!」

彼女の声が飛ぶ。

王からの称賛とも、戦友への短い合図ともつかぬ一声だった。

誠司はそれへ返事をする暇もなく、さらに次の射線を探す。

 

だが、波はそう簡単に終わらない。

第一陣の勢いが落ちかけたその時、空間の裂け目の奥で、さらに大きな影が蠢いた。

誠司の喉が詰まる。

嫌な予感が、形を持って現れる。

 

それは狼型とも違い、虫型とも違っていた。

四足だが、背中には骨のような突起がいくつも伸び、前脚だけが異様に発達している。

顔はほとんど獣だが、口元は不自然なほど裂けており、その奥で赤黒い光が明滅している。

しかも、その一体だけではない。

周囲の小型魔物たちが、そいつを中心に明らかに動きの質を変えた。

中核個体だ。

主戦力の抜けたこちらを潰すために出てきた、本命の一つ。

 

「大きいのが来る!」

ヒッポリュテが叫ぶ。

彼女は即座にカリオンを進めようとする。

正面から受けるつもりだ。

だが、それだけでは足りない。

あれを単独で止めれば、後ろの小型に避難路を裂かれる。

 

「待て!」

誠司がほとんど反射で叫んだ。

ヒッポリュテがわずかに目を見開く。

王へ向かって待てと言える場面では、本来ない。

けれど今は王国でも部族でもない。

この四人は、一つの群れとして戦っている。

 

「ベルベットは左脚を止めろ!」

誠司は叫び続けた。

「シノン、目じゃなく関節! ポルテは正面で引きつけてくれ!」

一瞬、場が張る。

命令するのか、とヒッポリュテの目が問うた。

だが誠司も引かなかった。

「今は群れで戦ってる!」

その一言に、ヒッポリュテはほんのわずかだけ口元を歪めた。

怒りではない。

むしろ、試されていることへ応じる戦士の笑みだった。

 

「よかろう!」

次の瞬間、彼女はカリオンを蹴った。

真正面からではなく、半身で大型の進路へ入り、その視線を奪う。

ベルベットが横から飛び込み、異形の腕で左前脚へ全力の打撃を叩き込む。

鈍い悲鳴。

巨体が傾ぐ。

そこへシノンの矢が関節へ吸い込まれ、さらに誠司の銃弾が外殻の割れた隙間を抉る。

連続する衝撃で、大型は初めてその足を完全に崩した。

 

「ポルテ!」

誠司の声が飛ぶ。

ヒッポリュテの槍が、落ちるように振り下ろされた。

一突き。

喉元を貫き、そのまま捻る。

赤黒い光が、裂けた口元から濁って噴き出す。

巨体はなお暴れようとするが、その背へカリオンの蹄が叩き込まれ、ベルベットの異形の腕が横合いから頭部を押し潰す。

最後にシノンの矢が、まだ動いていた片眼を正確に射抜いた。

完全に動きが止まる。

 

その瞬間、中核を失った群れが一斉に乱れた。

誠司は間を置かずに叫ぶ。

「押し返す! 避難路へ入れさせるな!」

自分でも驚くほど、声が迷っていなかった。

ベルベットが前へ。

シノンが上から射る。

ヒッポリュテが中央を支え、誠司が抜けかける個体を確実に落とす。

四人の役割が噛み合い、ようやく避難路は息を吹き返した。

 

やがて最後の一匹が地へ沈んだ時、誠司は遅れて膝が笑いそうになるのを感じた。

だが、まだ座れない。

まず見るべきは後ろだ。

避難民の列は――残っている。

誰も踏み潰されていない。

泣いている子供も、肩を貸されている老人も、皆、生きている。

 

その事実が、胸の奥へ静かに落ちた。

 

「た、助かった……」

避難民の女が泣きそうな声で呟く。

別の男が何度も頭を下げる。

「ありがとう……本当に……」

誠司は言葉を失った。

自分は何か立派なことをしたのか。

英雄のように振る舞ったのか。

そんな実感はない。

ただ、やるしかなかったからやっただけだ。

それでも、目の前の誰かにとっては、それで十分なのだろう。

 

ベルベットが汗を拭いながら吐き捨てる。

「礼は受け取っとけ」

「でも」

「でもじゃない」

その返しは鋭い。

だが、責める色はない。

「守れたんだから、それでいい」

シノンもまた、小さく頷いた。

彼女の表情は疲れていたが、その眼には以前のような暗い翳りが薄い。

守るために撃った。

その実感が、彼女をほんの少しだけ前へ進ませているのだろう。

 

ヒッポリュテが槍を地へ突き立て、誠司の方を見る。

その視線には、戦場での値踏みとは違う、もっと静かな確信があった。

「今日の貴様は、十分に群れを導いていた」

その一言が、誠司の胸へ深く落ちる。

四聖勇者でもない。

国に認識された救世主でもない。

それでも、波へ立ち、人を守り、仲間を動かし、ここを支えた。

ならば、自分はもう“何者でもない”ではいられない。

 

「……勇者って呼ばれなくても、関係ないのかもな」

ぽつりと漏れた本音へ、ベルベットが鼻を鳴らす。

「今さらか」

「うん、今さらだ」

誠司は苦笑する。

でも、その今さらに辿り着けたことが大きかった。

名前がなくてもいい。

誰に証明されなくてもいい。

目の前の波へ立てたのなら、それが自分の答えなのだ。

 

その時だった。

遠く、港の方角で、空そのものが揺れた。

凄まじい魔力の奔流が夜空へ走り、次いで鈍い衝撃音が遅れて届く。

港の向こう、海上の主戦場で何か大きなものがぶつかったのだと、一目で分かった。

 

「……何だ、あれ」

シノンが呟く。

ヒッポリュテはそちらを見据えたまま答える。

「本戦だ」

ベルベットが小さく舌打ちする。

「四聖勇者の方か」

誠司もまた、赤黒く揺れる空を見上げる。

海上では、本編の主戦場が動いている。

盾、剣、槍、弓。

国に認識された勇者たちが、災厄の中心へ立っている。

だが、それだけではない。

ここにも波はあった。

ここにも守るべき人がいて、ここにも戦場があった。

そして、自分たちは確かにそこへ立ったのだ。

 

「……こっちだって、波だ」

誠司がそう言うと、ヒッポリュテがわずかに目を細めた。

「そうだ」

短い肯定だった。

だが、それで十分だった。

主役ではない。

けれど傍観者でもない。

本編の英雄譚の外側で、それでも同じ災厄へ抗う者として、自分たちはここにいた。

 

波の第一段が去り、王都外縁には疲弊と安堵が入り混じった沈黙が残る。

兵たちが遅れて駆けつけ、避難民の再編が始まり、傷の浅い者が立ち上がり、深い者が担がれていく。

その中で、誠司は銃を見下ろした。

黒い金属の表面には、まだ火薬の匂いが残っている。

この武器が何者なのか、すべてはまだ分からない。

だが今日ひとつだけはっきりした。

自分はもう、名前を与えられるのを待つ側ではない。

波へ立った。

守るために撃った。

その事実だけは、誰にも奪えない。

 

夜風が、遅れて頬を撫でていく。

その冷たさの中で、誠司は静かに思う。

次に四聖勇者たちと交わる時、自分たちはもう“噂の向こうを眺めていた外の者”ではいられない。

同じ波へ立った者として、いずれ彼らと向き合うことになる。

その時、自分は何を名乗るのか。

まだ答えは出ていない。

けれど、もう焦りは前ほど強くない。

守る相手を決め、そのために立つ。

その先にしか名はないのだと、今日の戦場が教えてくれたからだった。

 

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