波の前触れは、空の色からして既に異様だった。
夕刻にも似た赤でも、嵐の前の鉛色でもない。
世界そのものの皮膚が薄く裂け、その裏側から見慣れぬ光が滲み出しているような、不快な色だった。
メルロマルクの港町一帯は、その不吉な天光の下で張り詰めきっていた。
鐘が鳴る。
兵が怒鳴る。
荷車がきしみ、船着き場では縄を引く音と怒号が交じり合う。
誰もが来ると知っている。
だが、知っていることと、それに耐えられることは、まるで別の話だった。
朝霧誠司たちは、主戦力が集められている港の中心からは少し外れた、王都外縁の避難路へ回される形になっていた。
正確には、誰かに命じられたわけではない。
ただ、兵士たちの流れと避難民の混乱、そして戦力の偏りを見た瞬間に、ヒッポリュテが「こちらだ」と断じ、ベルベットもシノンもそれへ異論を挟まなかっただけだ。
四聖勇者は本戦へ出る。
ならば、その陰で必ず取りこぼされるものが出る。
誠司たちが立つべきなのは、そういう場所だった。
「こっちは兵が少なすぎる」
シノンが高台の石垣から周囲を見渡し、低く言った。
彼女の声には緊張があったが、怯えはない。
すでに彼女は、自分の立つ位置を理解している。
遠くを見る者の目だった。
「主力を海へ寄せすぎてる」
ベルベットが吐き捨てる。
「分かりやすいな。派手な方へ人を集める」
その言い方には、国や軍へ向けた剥き出しの不信があった。
けれど、間違ってはいない。
港の方には兵も物資も多い。
その一方で、王都外縁の避難誘導路には、せいぜい数十人の兵と、不安げな民衆が押し込められているだけだった。
「兵が少ないのではない」
ヒッポリュテが静かに言う。
カリオンの手綱を握ったまま、その視線は遠くの空を捉えている。
「足りぬ場所が生まれているのだ。戦場が広すぎる」
王としての物言いだった。
全体を見る者の声だった。
誠司はその横顔を見ながら、自分が今まさに“国家規模の戦”の一端へ触れているのだと、ようやく実感する。
地方の村を襲った波とは違う。
ここでは、ひとつの判断の遅れが、そのまま何十人何百人の死へ繋がる。
避難民たちは列を成していた。
老人、子供、怪我人、荷を抱えた女たち。
その誰もが足早ではあるが、足並みは揃わない。
列の先頭では兵が声を張り上げていたが、緊張しきった空気は人を整然と動かすより先に、心を細らせる。
誰かが転べば、誰かが立ち止まる。
誰かが振り返れば、そこへ不安が伝染する。
そういう脆さが、すでにこの場全体へひびのように広がっていた。
「子供と怪我人を前へ寄せろ」
ヒッポリュテが鋭く言う。
その一声だけで、近くにいた兵士たちが思わず振り向いた。
「歩ける者は外側へ。抱えられる者は抱えろ。止まるな。止まれば死ぬ」
王命じみた断定だった。
何者だと問うより先に、人はああいう声へ従ってしまう。
兵の一人が反射的に動き、列の組み替えが始まる。
ベルベットが舌打ちしながらも手近な荷車を押して道を開け、シノンは高所を取り直して視界を広げた。
誠司もまた、列の詰まりを解くために子供を抱き上げる男の肩を支え、逃げ道を整理する。
その時だった。
空が鳴った。
雷ではない。
もっと生理的な嫌悪感を伴う音だ。
布を無理やり裂く音にも似ている。
あるいは、世界そのものの継ぎ目を引き剥がす音にも。
王都外縁の上空に、紫と黒の光が亀裂のように走る。
空間が歪み、その奥から異様な光が脈打った。
「来る!」
シノンが叫ぶ。
誠司の背筋へ、冷たいものが走る。
何度経験しても、この瞬間だけは慣れない。
波は自然現象ではない。
世界そのものへねじ込まれる悪意のようなものだ。
だからこそ、その始まりには、理屈を超えて本能が怯える。
裂け目から最初に現れたのは、小型の魔物だった。
猿に似ているが、関節の向きが明らかにおかしい。
次いで、犬とも狼ともつかぬ獣型。
さらにその後ろから、甲殻を持つ虫じみた個体が次々と落ちてくる。
数が多い。
主戦場から漏れた残滓などという生易しい量ではない。
避難路ひとつを壊滅させるには十分な群れだった。
「誠司!」
ベルベットの声で、彼は即座に銃を構える。
もう迷いはない。
目の前にいるのは波から来た怪物だ。
その背後にあるのは、怯え、逃げ遅れ、踏み潰される人々の列だ。
ここでためらう余地は最初から存在しない。
「前は私が抑える!」
ベルベットが地を蹴る。
包帯の巻かれた左腕が、怒りと共に赤黒く脈打った。
彼女の戦いは、やはり獣じみて苛烈だ。
だが以前のような破綻一歩手前の暴発ではない。
その怒りは確かに荒れ狂っている。
それでも、後ろに誰がいて、どこまで踏み込めば支えが届くのかを、身体のどこかで理解している動きだった。
「右上を取る!」
シノンが石垣を蹴って高所へ走る。
弓を引く姿勢に無駄がない。
彼女の矢は、もはや“自分が死なないため”だけに放たれるものではなかった。
下で逃げる子供の頭上を越え、飛びかかろうとした獣型の首筋へ正確に突き立つ。
魔物は地面を転がり、悲鳴のような声を残して痙攣した。
「避難民を止めるな! 前だけ見て走れ!」
ヒッポリュテの声が飛ぶ。
カリオンが地を蹴り、その巨躯をもって進路の中央へ躍り出た。
騎乗の勢いを乗せた槍が、虫型の魔物を一突きで貫く。
さらにその死骸を盾のように払って、後続の群れを押し返す。
王の戦い方だった。
ただ敵を殺すのではなく、民の逃げ道を開くために、最適な位置で最適な圧をかける。
その在り方が、誠司には異様なほど鮮烈に映る。
「左二体、抜ける!」
シノンの声が降る。
誠司は反射的に銃口を左へ振る。
犬型二体。
速度は速い。
だが、以前の自分なら怖さで視界が狭まったところを、今はまだ追えている。
一発目で前脚。
二発目で肩口。
止まりきらずに体勢を崩したところへ、ベルベットが横から殴りつけた。
骨が砕ける音がする。
それでも彼女は立ち止まらず、そのまま前線を押し上げていく。
誠司は呼吸を整えながら、周囲を見た。
数が多い。
真正面から押し切るには厳しい。
ならば、必要なのは流れを作ることだ。
前を止め、横を絞り、避難路へ抜ける個体を一匹ずつ潰す。
誰が何を最も得意とするかは、もう理解している。
ベルベットは突破。
シノンは制圧。
ヒッポリュテは抑えと守り。
ならば自分は、その間を繋ぐ。
「ベルベット、右へ寄れ!」
誠司が叫ぶ。
「虫型は銃で抜く、獣型だけ見ろ!」
ベルベットが舌打ちする。
だが従う。
その瞬間、誠司は硬質な外殻を持つ魔物へ三連続で撃ち込んだ。
普通の刃なら弾かれる部位でも、銃弾は衝撃ごと叩き込める。
甲殻が割れ、内部から黒い体液が噴き出す。
そこへヒッポリュテが槍を滑り込ませ、確実に仕留めた。
「よく見ている!」
彼女の声が飛ぶ。
王からの称賛とも、戦友への短い合図ともつかぬ一声だった。
誠司はそれへ返事をする暇もなく、さらに次の射線を探す。
だが、波はそう簡単に終わらない。
第一陣の勢いが落ちかけたその時、空間の裂け目の奥で、さらに大きな影が蠢いた。
誠司の喉が詰まる。
嫌な予感が、形を持って現れる。
それは狼型とも違い、虫型とも違っていた。
四足だが、背中には骨のような突起がいくつも伸び、前脚だけが異様に発達している。
顔はほとんど獣だが、口元は不自然なほど裂けており、その奥で赤黒い光が明滅している。
しかも、その一体だけではない。
周囲の小型魔物たちが、そいつを中心に明らかに動きの質を変えた。
中核個体だ。
主戦力の抜けたこちらを潰すために出てきた、本命の一つ。
「大きいのが来る!」
ヒッポリュテが叫ぶ。
彼女は即座にカリオンを進めようとする。
正面から受けるつもりだ。
だが、それだけでは足りない。
あれを単独で止めれば、後ろの小型に避難路を裂かれる。
「待て!」
誠司がほとんど反射で叫んだ。
ヒッポリュテがわずかに目を見開く。
王へ向かって待てと言える場面では、本来ない。
けれど今は王国でも部族でもない。
この四人は、一つの群れとして戦っている。
「ベルベットは左脚を止めろ!」
誠司は叫び続けた。
「シノン、目じゃなく関節! ポルテは正面で引きつけてくれ!」
一瞬、場が張る。
命令するのか、とヒッポリュテの目が問うた。
だが誠司も引かなかった。
「今は群れで戦ってる!」
その一言に、ヒッポリュテはほんのわずかだけ口元を歪めた。
怒りではない。
むしろ、試されていることへ応じる戦士の笑みだった。
「よかろう!」
次の瞬間、彼女はカリオンを蹴った。
真正面からではなく、半身で大型の進路へ入り、その視線を奪う。
ベルベットが横から飛び込み、異形の腕で左前脚へ全力の打撃を叩き込む。
鈍い悲鳴。
巨体が傾ぐ。
そこへシノンの矢が関節へ吸い込まれ、さらに誠司の銃弾が外殻の割れた隙間を抉る。
連続する衝撃で、大型は初めてその足を完全に崩した。
「ポルテ!」
誠司の声が飛ぶ。
ヒッポリュテの槍が、落ちるように振り下ろされた。
一突き。
喉元を貫き、そのまま捻る。
赤黒い光が、裂けた口元から濁って噴き出す。
巨体はなお暴れようとするが、その背へカリオンの蹄が叩き込まれ、ベルベットの異形の腕が横合いから頭部を押し潰す。
最後にシノンの矢が、まだ動いていた片眼を正確に射抜いた。
完全に動きが止まる。
その瞬間、中核を失った群れが一斉に乱れた。
誠司は間を置かずに叫ぶ。
「押し返す! 避難路へ入れさせるな!」
自分でも驚くほど、声が迷っていなかった。
ベルベットが前へ。
シノンが上から射る。
ヒッポリュテが中央を支え、誠司が抜けかける個体を確実に落とす。
四人の役割が噛み合い、ようやく避難路は息を吹き返した。
やがて最後の一匹が地へ沈んだ時、誠司は遅れて膝が笑いそうになるのを感じた。
だが、まだ座れない。
まず見るべきは後ろだ。
避難民の列は――残っている。
誰も踏み潰されていない。
泣いている子供も、肩を貸されている老人も、皆、生きている。
その事実が、胸の奥へ静かに落ちた。
「た、助かった……」
避難民の女が泣きそうな声で呟く。
別の男が何度も頭を下げる。
「ありがとう……本当に……」
誠司は言葉を失った。
自分は何か立派なことをしたのか。
英雄のように振る舞ったのか。
そんな実感はない。
ただ、やるしかなかったからやっただけだ。
それでも、目の前の誰かにとっては、それで十分なのだろう。
ベルベットが汗を拭いながら吐き捨てる。
「礼は受け取っとけ」
「でも」
「でもじゃない」
その返しは鋭い。
だが、責める色はない。
「守れたんだから、それでいい」
シノンもまた、小さく頷いた。
彼女の表情は疲れていたが、その眼には以前のような暗い翳りが薄い。
守るために撃った。
その実感が、彼女をほんの少しだけ前へ進ませているのだろう。
ヒッポリュテが槍を地へ突き立て、誠司の方を見る。
その視線には、戦場での値踏みとは違う、もっと静かな確信があった。
「今日の貴様は、十分に群れを導いていた」
その一言が、誠司の胸へ深く落ちる。
四聖勇者でもない。
国に認識された救世主でもない。
それでも、波へ立ち、人を守り、仲間を動かし、ここを支えた。
ならば、自分はもう“何者でもない”ではいられない。
「……勇者って呼ばれなくても、関係ないのかもな」
ぽつりと漏れた本音へ、ベルベットが鼻を鳴らす。
「今さらか」
「うん、今さらだ」
誠司は苦笑する。
でも、その今さらに辿り着けたことが大きかった。
名前がなくてもいい。
誰に証明されなくてもいい。
目の前の波へ立てたのなら、それが自分の答えなのだ。
その時だった。
遠く、港の方角で、空そのものが揺れた。
凄まじい魔力の奔流が夜空へ走り、次いで鈍い衝撃音が遅れて届く。
港の向こう、海上の主戦場で何か大きなものがぶつかったのだと、一目で分かった。
「……何だ、あれ」
シノンが呟く。
ヒッポリュテはそちらを見据えたまま答える。
「本戦だ」
ベルベットが小さく舌打ちする。
「四聖勇者の方か」
誠司もまた、赤黒く揺れる空を見上げる。
海上では、本編の主戦場が動いている。
盾、剣、槍、弓。
国に認識された勇者たちが、災厄の中心へ立っている。
だが、それだけではない。
ここにも波はあった。
ここにも守るべき人がいて、ここにも戦場があった。
そして、自分たちは確かにそこへ立ったのだ。
「……こっちだって、波だ」
誠司がそう言うと、ヒッポリュテがわずかに目を細めた。
「そうだ」
短い肯定だった。
だが、それで十分だった。
主役ではない。
けれど傍観者でもない。
本編の英雄譚の外側で、それでも同じ災厄へ抗う者として、自分たちはここにいた。
波の第一段が去り、王都外縁には疲弊と安堵が入り混じった沈黙が残る。
兵たちが遅れて駆けつけ、避難民の再編が始まり、傷の浅い者が立ち上がり、深い者が担がれていく。
その中で、誠司は銃を見下ろした。
黒い金属の表面には、まだ火薬の匂いが残っている。
この武器が何者なのか、すべてはまだ分からない。
だが今日ひとつだけはっきりした。
自分はもう、名前を与えられるのを待つ側ではない。
波へ立った。
守るために撃った。
その事実だけは、誰にも奪えない。
夜風が、遅れて頬を撫でていく。
その冷たさの中で、誠司は静かに思う。
次に四聖勇者たちと交わる時、自分たちはもう“噂の向こうを眺めていた外の者”ではいられない。
同じ波へ立った者として、いずれ彼らと向き合うことになる。
その時、自分は何を名乗るのか。
まだ答えは出ていない。
けれど、もう焦りは前ほど強くない。
守る相手を決め、そのために立つ。
その先にしか名はないのだと、今日の戦場が教えてくれたからだった。