夜が明けるより先に、朝霧誠司は痛みで目を覚ました。
眠ったというより、気絶に近い浅い休息だったのだろうが、それでも意識が戻った瞬間に脇腹の傷が自己主張を始めるあたり、生きていることだけは嫌でも実感させられる。
壊れた民家の天井には、波によって裂かれた亀裂が黒く走り、その隙間から差し込む薄明かりが、昨夜の戦いの痕跡を容赦なく浮かび上がらせていた。
床に残った血の染み。
裂けた衣服。
包帯で封じられたベルベットの左腕。
そして、自分の手元にある黒い銃身。
誠司はそれを見下ろしながら、昨夜からずっと胸の奥へ引っかかっていた違和感を、ようやく言葉へ変える。
ここは、自分の知っている世界ではない。
それはもう疑いようがない。
けれど、異世界だとか勇者だとかいう大きすぎる単語を受け入れるより前に、彼の中ではもっと切実で、もっと生活に近い疑問が積み上がり始めていた。
食べ物はどうするのか。
金は何に使うのか。
追手はどこまで追ってくるのか。
波とは何なのか。
そして、自分はいったい何者として、この世界で立っているのか。
「起きたか」
部屋の隅から、低い声がした。
ベルベットは窓際に寄りかかるように座り、外の様子を見張っていたらしい。
薄い朝の光が彼女の横顔を照らしているが、その輪郭に柔らかさはない。
眠っていたのかどうかも分からないほど、彼女は昨夜と変わらぬ緊張を纏っていた。
「……おはよう、でいいのかな」
誠司が苦笑混じりに言うと、ベルベットは小さく鼻を鳴らす。
その反応は相変わらず愛想に欠けていたが、少なくとも敵意をむき出しにしてくる類のものではなかった。
「こんな朝に挨拶の風情を求める余裕があるなら、まだ死なないな」
言葉は刺々しい。
しかし、その刺に毒が混じっていないことを、誠司はもう少しだけ理解し始めていた。
彼女は優しくない。
ただ、必要以上に残酷でもないのだ。
誠司はゆっくりと身を起こし、傷口を庇いながら壁へ背を預ける。
それから、昨夜から見て見ぬふりをしていた現実と向き合うように、一つ息を吐いた。
「ベルベット」
「何だ」
「教えてほしいことが、たぶん山ほどある」
その言葉に、彼女はあからさまに呆れた顔をした。
まるで、いまさらそんな確認をするのかとでも言いたげな表情だったが、やがて視線を窓の外からこちらへ戻し、諦めたように肩を竦める。
「山ほどあるのは見れば分かる」
彼女の声音は冷静だった。
「むしろ、お前は何を知ってるんだ」
誠司は数秒だけ考えた末、正直に答える。
「自分が別の世界から来たらしいことと、この銃が普通の武器じゃないことと、あと……この世界がかなり最悪だってことくらい」
そこまで言ってから、自分でもあまりに情報が少なすぎると気づく。
異世界へ放り込まれ、奴隷商へ売られかけ、命を賭けて逃げてきたというのに、世界の基礎知識が空白のままでは話にならない。
ベルベットは溜息をついた。
深く、長く、露骨に面倒そうな溜息だった。
だが、そのまま説明を切り捨てることはしない。
それが彼女なりの律儀さなのだろうと、誠司は思う。
「まず、この世界では波っていう災厄が来る」
ベルベットは淡々と語り始めた。
「空間が裂けて、そこから魔物や化け物みたいな連中が溢れ出してくる。村も町も関係ない。来た場所から順番に壊されていく」
その口調は平板だった。
だが、平板であるほど、その言葉の裏側にある喪失の重さだけが、むしろはっきりと浮かび上がる。
彼女にとって波とは、昔話でも伝聞でもない。
弟を奪い、自分の腕と人生を変質させた、あまりにも個人的な破滅なのだ。
「周期的に来るのか」
誠司が問うと、ベルベットは頷いた。
「そう聞いてる。国や土地によって差はあっても、逃げれば終わるようなものじゃない。だから、この世界じゃ波に対抗するために勇者が呼ばれる」
そこで彼女は一拍置き、誠司の手元にある銃へ視線を落とした。
「少なくとも、そういう建前になってる」
誠司はその言葉を反芻する。
勇者。
昨夜から何度か聞いている単語だが、まだ自分の中では肩書として定着していない。
あまりにも現実味がなく、しかもその役割に見合う強さも覚悟も、自分にはまだ無いように思えてならなかったからだ。
「勇者っていうのは、みんなそんな感じなのか」
「そんな感じ、というのがどんな感じだ」
「その……特別な武器を持ってて、波と戦う存在っていう意味で」
ベルベットは少しだけ考えるように黙り、それから言う。
「私が知ってるのは噂くらいだ。盾、槍、剣、弓。その四つが特別な勇者の武器だって話は、この辺の子どもでも知ってる」
そこで彼女の視線が再び銃へ向く。
「でも、お前のそれは違う。少なくとも私は見たことがないし、聞いたこともない」
誠司は右手の銃を持ち上げ、朝の光へかざしてみる。
黒鉄の質感は相変わらず現実離れした美しさを持っていて、工業製品としての整然さと、異物としての不気味さを同時に感じさせた。
昨夜の戦いでは迷う暇もなく使ったが、こうして落ち着いて眺めてみると、改めて奇妙な存在だった。
これは自分のものだと感覚では分かる。
だが、その仕組みも、本当の限界も、自分はほとんど知らない。
「お前の武器は、普通の武器と違う」
ベルベットは断言した。
「見た目が珍しいとか、そういう話じゃない。奴隷商の連中はお前を拘束できても、それだけは奪えなかった。お前が握れば火を吹き、離れてもまた手元へ戻る」
その観察は冷静で、的確だった。
「そんなものが、ただの道具であるはずがない」
誠司は小さく息を飲む。
言われてみれば、その通りだった。
自分は昨夜の混乱の中で、あまりにも多くのことを受け流しすぎていた。
この銃は単なる携行品ではなく、明らかに自分と何らかの形で結びついている。
そして、その結びつきは常識で説明できるものではない。
「勇者の武器って、みんなそうなのか」
「たぶんな」
ベルベットは肩を竦める。
「少なくとも、特別な武器っていうのは、持ち主を選ぶし、普通の鍛冶屋が作ったり壊したりできるようなものじゃないって聞く」
そして、ほんのわずかに目を細めた。
「だから私は、お前が勇者である可能性を本気で考えてる」
その言葉は昨夜にも聞いた。
けれど、こうして朝の静かな空気の中で改めて口にされると、重みが違った。
誠司はすぐに返事ができない。
勇者だと認めれば、そこには責任が発生する気がした。
波と戦うこと。
人を守ること。
この世界の理不尽に向き合うこと。
それらのどれもが、昨夜までの大学生だった自分には、あまりにも大きい。
(勇者なんて言われても、実感がない)
(でも、この武器が普通じゃないのは間違いない)
(だったら、俺が知らないだけで、何か出来ることがあるのかもしれない)
(撃つだけじゃない、もっと別の何かが)
その考えは、まだ輪郭を持たない。
しかし、胸の奥には確かに残った。
この銃には、自分が理解していない可能性がある。
波へ備えるのなら、いずれそこへ踏み込まなければならない。
いまはまだ、その予感だけで十分だった。
「あと、この世界じゃ人にもレベルがある」
ベルベットの声が、誠司の思考を現実へ引き戻す。
「魔物を倒したり、生き残って戦ったりして、強くなる。戦えない奴はそのまま死ぬし、戦える奴は少しずつ生き残る確率を上げる」
なんとも容赦のない説明だった。
だが、その説明の仕方こそ、この世界の本質をよく表しているようにも思える。
成長とは努力の証である前に、まず生存率を上げるための機構なのだ。
「レベルっていうのは、俺にもあるのか」
「たぶんある」
ベルベットは即答した。
「勇者ならなおさらだ。私にもあるし、そこらの兵士や冒険者にもある。違うのは、勇者の武器は普通の人間よりずっと特別だってことだ」
彼女はそこで少しだけ口元を歪める。
「だからこそ、何も知らないお前が余計に馬鹿みたいに見える」
「否定できない」
誠司が素直に返すと、ベルベットは短く鼻を鳴らした。
だが、そこに本気の侮蔑はなかった。
むしろ彼女は、知識がないこと自体より、それを取り繕わずに認める誠司の態度を見ているようだった。
「じゃあ、どうすれば強くなれるんだ」
「戦うしかない」
「身も蓋もないな」
「そういう世界だ」
会話はぶっきらぼうなのに、不思議と噛み合っていた。
契約関係だと互いに言い聞かせているくせに、こういうやり取りの端々で、相手の人柄を拾ってしまう。
誠司の真面目さと、ベルベットの面倒見の悪い面倒見の良さ。
その両方が、少しずつ表へ滲み出始めているのだろう。