王都メルロマルクという場所は、ただ人が多いだけではなく、人の信じるものまで密集しているのだと、朝霧誠司はこの日ほど強く思い知らされたことはなかった。
市場の喧騒、兵の怒号、波へ備える緊張、そして四聖勇者に関する噂の数々。
それらは王都の空気そのものへ溶け込み、歩いているだけで自然と耳へ入ってくる。
けれど、表向きは同じ“勇者の話”であっても、その中に混じる温度差はあまりにも露骨だった。
「剣の勇者様は次も前へ出るらしいぞ」
「槍の勇者は王城の連中にも気に入られてるって話だ」
「弓の勇者は派手だが、まあ勇者様って感じだな」
そうした声は、酒場の前でも、露店の影でも、荷運びの列の端でも聞こえてくる。
三人の勇者について語る声には、軽薄さも混じるが、それでもどこか信仰に近い響きがある。
強い。
頼れる。
華やかだ。
人によって言い方は違っても、少なくとも“この国に必要なもの”として認識されていることだけは明白だった。
だが、その並びへ盾の勇者の名が混じると、途端に空気が歪む。
声が小さくなる。
顔が曇る。
あるいは逆に、露骨な嫌悪が滲む。
その変化があまりにも不自然で、誠司は四聖勇者に関する話を聞き集めるうち、次第に勇者そのものよりも、その歪みの正体へ意識を引かれていった。
「……何か、変じゃないか」
王都の大通りから少し外れた露店街で、誠司は小さくそう呟いた。
すぐ横では、シノンが人の流れを避けるように壁際へ立ち、ベルベットは露骨に不機嫌そうな顔で教会の尖塔を見上げている。
ヒッポリュテだけは静かに周囲を観察していたが、その視線もまた誠司と同じ違和感を追っているように見えた。
「何がだ」
ベルベットがぶっきらぼうに訊く。
誠司は言葉を探りながら、視線を通りの向こうへ向けた。
そこには王都でもひときわ大きな石造りの教会があり、その正面にはひどく目立つ紋章が掲げられている。
剣。
弓。
槍。
三つの武器が重なり合うように意匠化された紋章だった。
だが、そこに盾はない。
誠司は立ち止まり、しばらくそれを見上げていた。
四聖勇者を祀るのなら、本来そこには四つあるべきではないのか。
けれど現実には、まるで最初から存在しないもののように、盾だけが綺麗に消されている。
「……あの教会」
誠司が呟くと、近くで果物を並べていた露店の店主が、面倒そうに顔を上げた。
「何だ、旅人さん。三勇教の教会が珍しいのか?」
その単語に、誠司たちはほぼ同時に反応した。
ベルベットが眉を寄せ、シノンがわずかに目を細め、ヒッポリュテは何も言わずに店主を見た。
誠司が一歩だけ前へ出る。
「三勇教っていうのは?」
店主は、そんなことも知らないのかという顔をした。
だが、すぐにこちらの服装や武装を見て、地方から来た流れ者だと納得したらしい。
「剣、槍、弓の三勇者様を信仰する教えさ。王都じゃ昔から強い」
「……四聖じゃなくて、三勇?」
誠司が訊き返すと、店主は肩を竦める。
「そういうもんだ。三勇教は三勇者様を崇める。あそこに盾がないのも当たり前だろ」
その“当たり前”が、誠司にはまるで当たり前に思えなかった。
四聖勇者の一人であるはずの盾だけが、教会の紋章からすら消されている。
それは単なる省略ではなく、意図的な排除にしか見えない。
シノンが小さく言う。
「盾だけ、最初からいなかったみたい」
その言葉は、誠司の抱いた違和感をそのまま形にしたようだった。
ベルベットは嫌悪を隠そうともせず、低く吐き捨てる。
「気に食わない連中だな」
すると店主は、少しだけ周囲を気にするように視線を巡らせた。
それから声を潜める。
「気をつけた方がいいぞ。そういう話を教会の近くですると、面倒なのに絡まれる」
「面倒?」
誠司が問い返すと、店主はさらに嫌そうな顔をした。
「三勇教は、ただ盾を嫌ってるだけじゃない」
そこで会話が切れた。
店主は口を噤み、もう十分だと言いたげに果物の並びを直し始める。
だが、ここで引き下がれるほど誠司たちの違和感は軽くなかった。
むしろ逆に、いまの一言で確信へ近づいてしまった。
嫌うだけではない。
もっと深い何かが、この国の信仰には混じっている。
場所を変えることにした。
教会の鐘が見える通りから外れ、路地を二つほど曲がり、ようやく人目の薄い裏通りへ入る。
そこには酒臭い空気と古い石壁の湿気が溜まっており、表通りの喧騒が嘘のように遠かった。
その路地の角で煙草を吸っていた男へ、ベルベットが単刀直入に切り出す。
「三勇教について知ってることを話せ」
いかにもベルベットらしい物言いだった。
男は怪訝そうな顔をしたが、こちらの面子を見て、それなりに厄介な相手だと察したらしい。
特にヒッポリュテの視線が、無言のままで妙な威圧感を放っている。
「別に大したことじゃねえよ」
男はそう言いながら、煙を吐く。
「剣と槍と弓の勇者を神みたいに扱う連中だ」
「それだけなら、ただの偏った宗教で済む」
ヒッポリュテが静かに言う。
男はその声に肩を揺らし、少しだけ顔をしかめた。
「……盾の勇者は、あいつらにとっちゃ勇者じゃねえ」
「じゃあ何だ」
ベルベットが問う。
男は一瞬だけ口を閉じたが、やがて吐き捨てるように答えた。
「盾の悪魔だよ」
空気が一段だけ冷えた気がした。
誠司は思わず目を見開く。
悪魔。
嫌われているとか、信用されていないとか、そういう水準ではない。
勇者の一人が、教義の中で“悪魔”へ置き換えられている。
それはもはや、信仰というより敵認定だった。
「悪魔、って……」
シノンの声が掠れる。
男は肩を竦めた。
「そういうことになってる。波を呼ぶ元凶だとか、災厄の種だとか、まあ色々だ」
「ふざけてるな」
ベルベットが低く唸る。
だが男は苦く笑うだけだった。
「ふざけてねえよ。教会の連中は本気だ」
誠司は喉の奥がひどく乾くのを感じた。
ここまで歪んだ話だとは思っていなかった。
たしかに王都では盾の勇者の評判が妙に悪い気配があった。
だが、それが“嫌われている”程度ではなく、宗教的に悪魔認定されているとなると、話が違ってくる。
人が嫌うのと、教義として憎めと教え込まれるのでは、重さがまるで違う。
「それだけじゃない」
男は吸い殻を踏み消しながら続けた。
「教会じゃ、盾の悪魔を殺せば世界は救われるって、本気で言ってる奴もいる」
「は?」
誠司の口から、思わず間の抜けた声が出た。
だが、それは彼だけではなかった。
シノンは完全に言葉を失い、ベルベットの目はあからさまに殺気を帯びる。
ヒッポリュテだけが表情を崩さなかったが、その沈黙が逆に怒りの深さを思わせた。
「波の黒幕は盾だ。あれを滅せば災厄は終わる。そういう理屈さ」
男は淡々と口にする。
「冗談みたいだろ。だが、信じてる連中は本気だ」
「狂ってる」
ベルベットが吐き捨てる。
短い一言だった。
けれど、それ以上に正確な表現はなかった。
盾の勇者が嫌われるだけならまだ分かる。
誰かが気に入らない、誰かが責任を押しつけたい。
そういう人間の醜さなら、この世界でも珍しくない。
だが、波の黒幕だの、殺せば世界が救われるだのという話は、もはや嫌悪を通り越して狂信だった。
ヒッポリュテが低く言う。
「宗教ではないな。呪いに近い」
その声音は、王として状況を見切った者の冷たさを帯びていた。
「三勇を神格化し、一勇だけを悪魔に落とす。都合よく憎悪を一箇所へ集める構図だ」
男は苦笑した。
「王都の連中はそういうのに慣れてる。だが、外から来た奴ほど妙だと思うんだろうな」
「当たり前だ」
ベルベットは即答する。
「波の黒幕? 殺せば世界が救われる? そんな都合のいい話を信じる方がどうかしてる」
男はそれへは答えず、ただ肩を竦めるだけだった。
信じる者へ理屈は通じない。
そういう諦めが、その仕草には混じっていた。
話はそれで終わった。
男はこれ以上深入りする気はなく、こちらもまた路地を離れるしかない。
表通りへ戻る道すがら、四人の間にはしばらく沈黙だけがあった。
誰も軽々しく言葉を挟めなかったからだ。
いま知ったのは、ただ嫌われているという事実ではない。
この国の中核にある信仰のひとつが、盾の勇者という存在を“殺すべき悪魔”として制度化しているという現実だった。
それはあまりにも異常で、あまりにも危険だった。
宿へ戻る途中、ようやく誠司が口を開く。
「おかしいだろ……」
その声は低く、自分でも抑えきれない苛立ちを含んでいた。
「勇者の一人が、教義で殺すべき悪魔になってるなんて」
ベルベットが即座に返す。
「国ごと歪んでる証拠だ」
シノンは少し考えるように俯いていたが、やがて小さく言った。
「でも……みんなが本気で信じてるなら、それだけで危ない」
それは実感のこもった言葉だった。
シノンは追われる側だった。
誰かが“正しい敵”として指を差した瞬間、人はどれほど簡単に獣へ変わるのかを知っている。
だからこそ、教義として植えつけられた憎悪がどれだけ恐ろしいか、よく分かるのだろう。
誠司は歩きながら、頭の中で言葉を整理しようとした。
盾の勇者が本当に何かをしたのか。
実際に悪評の原因があるのか。
そこはまだ分からない。
だが、それにしても話が整いすぎている。
三勇は神。
盾は悪魔。
波の黒幕。
殺せば世界が救われる。
あまりにも都合がよすぎる。
誰かにとって、そう信じ込ませる必要があったようにしか見えない。
「何かがおかしい」
誠司が言うと、ヒッポリュテが静かに頷いた。
「同感だ」
その一言に、誠司は少しだけ驚いた。
ベルベットがそう言うならまだ分かる。
だが、ヒッポリュテは感情だけで動く女ではない。
王として構造を見る。
だからこそ、その同意は重かった。
「三勇を神とし、一勇だけを悪魔とする」
ヒッポリュテは歩みを緩めずに続ける。
「それは信仰というより、都合のいい敵を一つ作るやり方だ。群れをまとめるために外敵を欲する者は、いつの時代にもいる」
王の言葉だった。
戦場と民衆の両方を知る者だけが出せる結論だった。
誠司はその言葉を聞きながら、胸の中の違和感が、少しずつ形を持つのを感じる。
これは単なる勇者の不人気ではない。
国と宗教が絡んだ、もっと大きな歪みだ。
ベルベットが吐き捨てる。
「面倒だな。盾の勇者本人がどうであれ、ここまで来ると周りが狂ってる」
「でも、本人が何も知らないままじゃ済まない話でもある」
誠司が言うと、ベルベットは横目で睨む。
「だから何だ」
誠司はそこで立ち止まった。
夕闇の色が、王都の石壁へゆっくりと沈んでいく。
人通りはまだ多い。
けれど、この瞬間だけは不思議と、周囲の雑音が少し遠く感じられた。
「盾の勇者に会う」
言葉にした途端、自分の中で何かが決まる感覚があった。
ベルベットが眉をひそめる。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってる」
誠司は正直に頷く。
「でも、噂と教義だけで判断するのは違う」
シノンがそっと訊く。
「自分の目で見るってこと?」
「うん」
誠司は彼女を見る。
「四聖勇者のことを知りたいなら、いちばん歪められてる相手を放っておけない」
それはたぶん、彼自身の立場とも無関係ではなかった。
勇者でありながら、枠の外へ置かれるかもしれない存在。
そういう意味で、誠司は盾の勇者へ他人事ではいられない何かを感じていた。
ヒッポリュテが短く言う。
「よい」
誠司が少し驚いて振り向く。
「いいのか?」
「敵か、あるいは同じく波へ立つ者か」
ヒッポリュテの声は低く、静かだった。
「どちらにせよ、見定める価値はある」
その言葉には、王としての判断があった。
感情ではなく、必要としての接触。
けれど今の誠司には、それがかえって頼もしかった。
ベルベットは深く息を吐いた。
「面倒事の匂いしかしない」
だが、その口調は完全な否定ではない。
本気で嫌なら最初から切り捨てる女だ。
なのにこうして文句を言いながら付き合っている時点で、彼女もまた放っておく気はないのだろう。
シノンも、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「でも、行くんでしょ?」
誠司は迷わなかった。
「ああ。次は、盾の勇者を探す」
王都の夜が、ゆっくりと降り始める。
灯りがともり、人々のざわめきは昼とは違うざらつきを帯びていく。
その中で誠司は、自分がいま新しい一歩を踏み出したのだと感じていた。
四聖勇者を知るための調査は、いつの間にか、いびつな宗教と政治の影へ触れることになっていた。
そして、その先にいる盾の勇者という存在は、もはやただの勇者の一人ではない。
この国の歪みそのものを背負わされた男かもしれないのだ。
だからこそ会わなければならない。
噂ではなく、自分の目で。
教義ではなく、自分の言葉で。
そう決めた時、誠司の中にあった曖昧な違和感は、ひとつの明確な目的へ変わっていた。
次に探すべき相手は、盾の勇者。
そしてその出会いは、きっと自分たちの立ち位置まで変えてしまう。
そんな予感が、夜の王都のざわめきの中で、ひどく静かに、しかし確かに胸の奥へ沈んでいった。