朝の王都は、夜とは別の意味で騒がしかった。
夜の喧騒が酒と噂と不安に濁ったざわめきだとすれば、朝の喧騒はもっと露骨に生き急ぐ音だった。
荷車の軋み。
店を開ける戸板の音。
兵士の短い怒声。
遠くで鳴る鐘。
そして、人が人の間を縫って歩く足音の多さ。
メルロマルクという国の心臓は、波を前にしてなお止まることを知らず、ただひたすらに何かを回し続けているようだった。
宿屋の一階にある食堂で、誠司たちは簡素な朝食を前にしていた。
硬いパン。
薄いスープ。
干し肉が少し。
贅沢とは程遠いが、旅の途中で食べてきたものを思えば十分だ。
それでも、この場の空気は食事を楽しむものではなかった。
昨夜、三勇教について知ってしまった以上、今日の目的は明確すぎるほど明確だったからだ。
「まずは、盾の勇者が今どこにいるのかを探る」
誠司がそう言うと、ベルベットは椅子へ深く腰掛けたまま、いかにも面倒そうに片眉を上げた。
「当てもなく歩くなよ。王都で迷えば時間を無駄にする」
「分かってる」
誠司は素直に頷く。
正論だった。
王都は広い。
しかも、人も噂も多すぎる。
適当に聞き込みを始めれば、それだけで半日が消えるだろう。
シノンは木椀を両手で包むように持ちながら、少し考えるように言う。
「表で聞いても、変な噂しか返ってこなさそう」
それもまた事実だった。
三勇教の影響が強いこの国で、盾の勇者について真正面から訊けば、返ってくるのは教義に汚れた言葉ばかりかもしれない。
誠司もそれは感じていた。
知りたいのは悪評ではない。
尚文という人物が、いま何処でどう動いているのか、その現実だ。
ヒッポリュテが静かに言う。
「ならば、噂が偏る場所と、現実が残る場所を分けて探るべきだ」
誠司が顔を上げる。
「噂が偏る場所?」
「教会、酒場、兵の詰所」
ヒッポリュテは指を折るでもなく、ただ当然のように並べた。
「現実が残るのは、商人、宿屋、奴隷商、そして助けられた者たちだ」
ベルベットが嫌そうに顔をしかめる。
「嫌な分類だな」
「だが正しい」
ヒッポリュテの声は揺るがない。
王として人の動きを見る時、綺麗事で情報は集められないのだろう。
誠司は短く息を吐いた。
「……分かった。尚文が“どう言われてるか”じゃなくて、“どう動いてるか”を拾おう」
その言葉に、三人はそれぞれ違う形で頷いた。
こうして方針が定まると、一行の動きは早かった。
最初に向かったのは、王都でも比較的人の出入りが荒い酒場街だった。
昼前の酒場は、夜ほど酔いに沈んではいないが、そのぶん冒険者や日雇いの荒事屋、兵崩れのような連中が雑多に集まっている。
情報は多い。
だが、質は低い。
だからこそ、混じり物の中から本物を拾わねばならない。
扉を開けた瞬間、酒と汗と古い木の匂いが押し寄せてきた。
数人の男たちが卓を囲み、すでに杯を傾けている。
その中の一人が、誠司たちの姿、とくにヒッポリュテとベルベットを見て、あからさまに面倒そうな客が来たという顔をした。
「何だよ」
男が言う。
誠司は余計な前置きを入れなかった。
「盾の勇者について知りたい」
その瞬間、卓の上の空気が少しだけ変わった。
男たちは顔を見合わせ、鼻で笑う者、露骨に顔をしかめる者、逆に面白そうに目を細める者と反応が分かれる。
「ああ、あの悪魔か」
最初に口を開いた男は、まるで当然の呼び方みたいにそう言った。
誠司の胸の奥に、昨夜の不快感がまた蘇る。
ベルベットの眉がぴくりと動いた。
だが彼女はまだ口を挟まない。
別の男が肩を竦める。
「でも最近は波で働いてるって話もあるぞ」
「働いてたら悪魔じゃないってのか?」
最初の男が鼻で笑う。
その笑い方は、理屈で何かを考えている者のそれではない。
教会がそう言っているからそうなのだ、という思考停止の匂いがした。
誠司は男を真っ直ぐ見た。
「実際に見たのか?」
問われた男は一瞬だけ言葉に詰まり、それから不機嫌そうに吐き捨てる。
「見てねえよ。だが教会がそう言ってる」
その一言で十分だった。
尚文という人間を知らず、見てもいない。
ただ、教会の言葉だけを盾にしている。
そういう連中は、きっと王都にいくらでもいるのだろう。
ベルベットが低く言う。
「結局それか」
短い一言だったが、侮蔑は十分に滲んでいた。
すると、今度は酒場の隅で黙っていた男が口を開いた。
「あいつ、奴隷のガキ連れてるんだろ」
誠司がそちらを見る。
男は杯を揺らしながら続けた。
「あと、鳥だ。でかいの。変な化け物みたいな鳥」
シノンがわずかに目を細める。
ラフタリアとフィーロだ。
詳しく知らずとも、その特徴だけで他と区別できる情報だった。
「今どこにいるか知ってるか?」
誠司が訊くと、男は少し考えてから言う。
「最近は城下を出たり入ったりしてるって話だな。行商みたいな真似もしてるとか何とか」
「行商?」
誠司が聞き返す。
勇者が。
それも国家公認の英雄の一人が、商人まがいの真似をしている。
妙な話だ。
だが、昨日までに集めた情報を繋げれば、むしろその妙さにこそ現実味があった。
酒場を出ると、昼の光が妙に白く感じられた。
王都の喧騒は相変わらずだ。
だが誠司の中では、尚文という人物の輪郭がほんの少しだけ曖昧な悪評から離れ始めていた。
悪魔。
そう呼ばれる一方で、奴隷の少女とでかい鳥を連れ、波では戦い、時には行商までしている。
あまりにも統一感のない像だった。
だが、そのちぐはぐさこそ、作られた悪役像ではなく、実際に生きて動いている人間の手触りを思わせた。
次に向かったのは市場だった。
王都の市場は広い。
武器、布、食料、薬、素材、雑貨。
何でもある。
そして何でもあるということは、人の流れもまた多様だということでもある。
英雄譚より、現実の売買の方が正直だ。
ヒッポリュテがそう言った意味を、誠司は歩きながら噛み締めていた。
薬草や安価な素材を扱う露店の前で、誠司は一人の商人へ声をかけた。
年の頃は四十前後。
小太りで、いかにも計算の早そうな目をした男だった。
「盾の勇者を見たことは?」
そう訊くと、商人は最初に警戒した。
だが、金の匂いにならぬ話だと分かると、少し気楽に肩を落とす。
「変な薬草をまとめて買ってく奴なら見たことある」
「薬草?」
誠司が繰り返すと、商人は頷く。
「あと安物の素材もな。派手なもんじゃなくて、使い回しの利くやつだ」
シノンがぽつりと言う。
「戦うだけじゃないんだ」
商人は苦笑した。
「そりゃそうだろ。食わなきゃ死ぬ。勇者だろうが何だろうがな」
その一言が、妙に現実味を持って誠司へ刺さる。
四聖勇者。
国家の象徴。
そういう看板とは別の場所で、尚文は“生きるために動く人間”としてこの王都に存在しているのだ。
「目利きは悪くなかった」
商人は続ける。
「貴族の勇者様って感じじゃない。だが、損得で動く頭はある」
「助けられたって人もいるのか?」
誠司がさらに訊くと、商人は少し首を傾げる。
「少しはな。波、疫病騒ぎ、あと行商だ。気づけば妙に人の縁がある」
その言葉に、ヒッポリュテが小さく「なるほど」と漏らした。
その声音には、王として情報を整理する響きがあった。
市場を離れてから、四人は人通りの少ない橋の上で足を止めた。
王都の中央を流れる小川は、今日はどこかくすんで見える。
水の音だけが、周囲の騒がしさと少し違う時間を刻んでいた。
「教義じゃ悪魔」
誠司が低く言う。
「でも、現場の話だと普通に人を助けてる」
ベルベットが腕を組み、橋の欄干へ背を預ける。
「ますます臭いな」
「嫌われてるのに、助けられた人がいるって変だよね」
シノンの言葉はもっともだった。
本当に救いようのない悪人なら、そんな話は自然と残らない。
少なくとも、生き延びた人間の口には出てこない。
ヒッポリュテが静かに言う。
「王都が定める像と、現実の行動が食い違っている」
その結論は、誠司が感じていた違和感を綺麗に言葉へしたものだった。
三勇教と王都の噂は、盾の勇者を“盾の悪魔”として塗り固めている。
だが、市場の商人や現場の冒険者が見ているのは、もっと泥臭く、生きるために動く現実の人間だ。
その落差が、あまりにも大きい。
「……やっぱり会わないと何も分からない」
誠司が言うと、ベルベットはすぐに鼻を鳴らした。
「最初からそう言ってる」
「でも、少なくとも会う価値がある相手だとは思えてきた」
シノンの声は静かだった。
警戒がないわけではない。
けれど、少なくとも“教義の悪魔”として切り捨てる気はもう彼女の中にないらしい。
ヒッポリュテもまた頷く。
「悪魔と呼ばれる者にしては、妙に民の臭いが残っている」
その表現は王らしく、そして不思議に正確だった。
民の臭い。
それはつまり、守る側の匂いだ。
夕方が近づき、王都の通りには少しずつ影が伸び始める。
宿へ戻るか、それともさらに足を使うか。
その判断をしかけた時だった。
市場の端を駆けていった子供が、不意にこちらを振り返った。
十にも満たぬくらいの少年だった。
誠司たちの会話が耳へ入っていたのか、好奇心に負けた顔で近づいてくる。
「ねえ」
少年は誠司を見上げる。
「あんたたち、盾のお兄ちゃん探してるの?」
四人の間の空気が一瞬で変わった。
ベルベットの目が細くなる。
シノンがわずかに身を乗り出し、ヒッポリュテの視線が真っ直ぐ子供へ向く。
誠司はしゃがんで目線を合わせた。
「知ってるのか?」
少年は得意げに頷く。
「大きい鳥と、剣持ったお姉ちゃんと一緒にいたよ」
「……!」
シノンの息を呑む音が聞こえた。
ラフタリアとフィーロで間違いない。
ここまで特徴が揃えば、もはや偶然では済まない。
「どこへ行った?」
誠司が問う。
少年は南の通りを指差した。
「さっき、あっちの方」
「まだ近いかもしれない」
誠司が立ち上がると、ベルベットがすでに動き出していた。
「急ぐぞ」
ヒッポリュテもまた短く言う。
「逃がすな」
その一言が、妙に戦場めいて聞こえたのは、たぶんこの女王にとって“見定めるべき相手へ辿り着くこと”もまた一種の戦なのだろう。
四人は夕暮れの通りを駆けた。
王都の人波を縫い、荷車を避け、兵の列をかいくぐる。
誠司の胸は高鳴っていた。
緊張か。
期待か。
それとも、ようやく辿り着けるという焦り混じりの確信か。
自分でもはっきりしない。
ただひとつ分かるのは、次の角を曲がった先で、いままで噂と教義と断片的な情報の中にしかいなかった盾の勇者が、ついに“生きた誰か”として現れるかもしれないということだけだった。
南の通りは、表通りより少し狭く、宿屋や雑貨屋、小さな食堂が肩を寄せ合うように並んでいる。
そこへ差し込む夕日の色は濃く、道の向こうは影に沈み始めていた。
誠司は息を整えながら、人の流れの先を見た。
そして、次の瞬間、足が止まる。
人混みの向こう。
少し距離はある。
それでも分かった。
背に盾を負った男の後ろ姿があった。
その隣には剣を携えた少女。
さらにその前を、ひときわ目立つ大きな鳥が跳ねるように歩いている。
「あれか……」
誠司の声は、自分でも驚くほど低かった。
シノンが小さく頷く。
「たぶん」
ベルベットは半眼のまま、いかにも面倒そうに言う。
「嫌な感じの背中だな」
ヒッポリュテはその後ろ姿を真っ直ぐ見据えた。
「だが、逃がすな」
その言葉に、誠司はゆっくりと息を吸う。
噂の盾の勇者。
盾の悪魔。
波の黒幕とまで呼ばれる男。
そして、現実では人を助け、奴隷の少女とでかい鳥を連れ、生きるために動いているらしい人物。
そのすべての像が、いま目の前の一つの背中へ集約されている。
誠司は視線を逸らさなかった。
「次は、直接聞く」
呟くようにそう言った時、夕陽はちょうど王都の屋根の向こうへ沈みかけていた。
盾を背負った男はまだ、こちらへ気づいていない。
だが、その距離はもう噂の向こう側ではない。
手を伸ばせば届くところまで来ていた。
次の一歩で、きっと何かが変わる。
そう確信できるだけの緊張を胸へ抱えたまま、誠司はその背中を見つめ続けていた。