夕暮れの王都は、昼間よりもいっそう息苦しかった。
人の数が減ったわけではない。
むしろ、仕事を終えた者、宿へ戻る者、夜の備えへ動く兵や商人が入り混じり、通りそのものは昼以上に密になっている。
それなのに、空気だけが妙に薄かった。
誰もが口にしない不安を胸へ押し込み、それでも明日へ向かうために足を止めない。
そんな無数の呼吸が重なって、王都メルロマルクという巨大な街の上へ、見えない圧を作っていた。
その人波の向こうに、盾を背負った男の後ろ姿が見えた。
誠司は息を呑み、反射的に足を止める。
隣には剣を下げた少女。
その前では、ひときわ目立つ大きな鳥が、跳ねるような足取りで進んでいる。
これまで酒場や市場で拾ってきた断片的な情報が、その三つの姿へ一気に繋がった。
盾の勇者。
その仲間。
噂と悪意の中心にいたはずの一行が、いまこうして、人混みの中を実際に歩いている。
「いたな」
ベルベットが低く言う。
その声音には苛立ちよりも、獲物を見失わぬように距離を測る獣の緊張があった。
シノンも壁際へ自然に寄りながら、小さく頷く。
「鳥もいる。たぶん本物」
ヒッポリュテは何も言わなかったが、視線だけで十分だった。
見定める。
まずはそれだと、その沈黙が語っている。
誠司は目を細める。
すぐに声を掛けるべきか、一瞬だけ迷った。
だが、次の瞬間にはその迷いを押し込めていた。
まだ早い。
ここで名を呼び、足を止めさせ、長々と事情を語れる空気ではない。
何より、自分たちはまだ尚文という男を知らない。
噂ではなく、現実の立ち方を見なければ、何も始まらない気がした。
「追おう」
誠司が言うと、ベルベットが半眼のまま返す。
「尾行か」
「結果的には、そうなる」
苦笑混じりに答えると、シノンが小さく息を吐いた。
「気づかれないようにね」
「当然だ」
ヒッポリュテの声は静かだった。
「まず、どのように歩く男かを見る」
四人は人の流れへ自然に紛れた。
距離を詰めすぎず、離しすぎず、盾の男の背を見失わぬ程度の間合いを保つ。
誠司はその後ろ姿を見ながら、不思議な感覚に囚われていた。
もっと恐ろしく、もっと禍々しい像を、どこかで想像していたのかもしれない。
三勇教の教義は盾の勇者を悪魔と呼ぶ。
波の黒幕だと断じ、殺せば世界が救われるとまで言う。
そこまで歪んだ言葉を重ねられた存在なら、もっと何か、人を拒む刺のようなものを想像していてもおかしくない。
けれど現実の尚文の背は、少なくとも今のところ、そういうものには見えなかった。
むしろ逆だ。
周囲に気を配り、仲間を視界へ入れたまま歩くその姿は、誰かを庇うことへ慣れた人間のそれに近かった。
その事実を裏づけるように、通りの人々の反応が続く。
尚文たちが前を通るたび、周囲の視線が揺れる。
露骨に顔を背ける者。
遠慮がちに距離を取る者。
あからさまに嫌悪を向ける者もいる。
だがそれだけではない。
何か言いたげにしながら、結局口を噤む者もいた。
誠司はそれを見逃さなかった。
「……盾の勇者だ」
通りの端で、若い男が小さく言う。
その隣にいた女は反射的に子供の肩を抱き寄せた。
「関わらない方がいい」
そう囁く声は怯えに近い。
けれど、子供の方は不思議そうに尚文たちを見ている。
教会の教えをまだ十分に飲み込んでいないのだろう。
その視線だけが、妙にまっすぐで、誠司の胸へ残った。
「噂と違う」
シノンがぽつりと言う。
その声は驚くほど小さかったが、誠司にははっきり届いた。
「うん」
彼も小さく返す。
ベルベットは鼻を鳴らした。
「少なくとも、守る側の歩き方はしてる」
言い方はぶっきらぼうだが、そこには観察者としての冷静さがあった。
ヒッポリュテもまた低く言う。
「民衆の目と、本人の背が噛み合っていない」
その表現は、王として物を見る彼女らしい。
人々が向ける“悪魔”の視線と、実際にそこにある“盾を負う男の背”が明らかにずれている。
その違和感は、ここまで追ってきた四人の中で、もはや確信に近づきつつあった。
尚文たちは王都の中央通りを外れ、少し港寄りの道へ入っていく。
日が傾ききる前の、曖昧な明るさだった。
通りにはまだ人が多いが、波の余波か、あるいは本戦から戻った兵の動きか、どこかざわつきが残っている。
遠くから、遅れて届くような低い振動音があった。
主戦場は別にある。
けれど戦いの匂いだけは、まだこの王都全体へ残っていた。
その時だった。
不意に、空気の奥で何かが軋んだ。
誠司は首筋が総毛立つのを感じる。
波そのものではない。
だが、それに近い種類の異様な震えだ。
シノンが先に気づいたらしい。
彼女は通りの向こう、建物の影へ視線を飛ばし、短く息を呑む。
「何か来る」
その声とほぼ同時に、港側の倉庫屋根の一つが、内側から弾け飛んだ。
悲鳴。
木片の飛散。
次いで現れたのは、波から漏れ落ちた魔物の残党らしき異形だった。
細長い四肢を持つ獣型が二体、さらにその後ろから甲殻を持つ中型が一体。
主戦場から流れ着いたか、あるいは余波で取り残されていたものが今さら暴れ出したのか。
いずれにせよ、場所が悪い。
ここは通りだ。
民間人が多い。
そして尚文たちの進路と、魔物の飛び出した位置が最悪の形で噛み合ってしまっていた。
「まずい!」
誠司が叫ぶ。
尚文たちもすでに異変へ気づいていた。
ラフタリアが一瞬で剣を抜き、フィーロが尚文の前へ出る。
尚文自身も盾を構える。
その動きは速い。
迷いもない。
だが、正面で受けるには人の流れが邪魔だ。
ここで足を止めて大立ち回りを演じれば、通りそのものが巻き込まれる。
「撤退の邪魔になる!」
誠司の判断は一瞬だった。
ここで問うべきは、会話をするかどうかではない。
助けるかどうかだ。
そして、その答えはもう出ていた。
「手を貸す!」
誠司が駆け出す。
ベルベットは「最初からそのつもりだ」と吐き捨て、ヒッポリュテはすでにカリオンの首を軽く叩いて前へ出している。
シノンだけはすぐには突っ込まず、斜め上の見張り台跡へ飛び乗った。
いつもの役割分担だった。
誰も確認しない。
だが、群れとしての動きは既に身体へ染み込んでいる。
最初の獣型が尚文たちへ飛びかかる。
ラフタリアが斬り払う。
鋭い。
速い。
だが二体目が横合いから回り込み、さらに甲殻の中型が通りの真ん中へ割り込む。
そこへ人々の悲鳴が重なる。
尚文は盾を構えたまま、一歩だけ後ろへ下がった。
押し返すより、引きながら守る方を選んだのだろう。
その判断は正しい。
だが、そのためには撤退路を確保しなければならない。
「シノン、右上!」
誠司が叫ぶ。
「取った!」
矢が走る。
甲殻の中型の首の継ぎ目。
硬い外殻の隙間へ正確に食い込み、その動きをわずかに止める。
同時に誠司の銃声が響いた。
甲高い炸裂音が通りへ反響し、魔物の片脚を撃ち抜く。
崩れる。
そこへベルベットが踏み込み、異形の左腕で横殴りに吹き飛ばした。
「邪魔だ!」
怒声と共に魔物が石壁へ叩きつけられる。
だが、それで終わりではない。
なおも奥の影から別の小型が二体、尚文たちの後ろへ回り込もうとしていた。
尚文が振り向く。
ラフタリアも動く。
だが、いま彼らが足を止めれば中央の圧が一気に戻る。
「道を空ける!」
ヒッポリュテの声が飛んだ。
カリオンが前脚を上げ、そのまま石畳を蹴る。
騎乗の勢いを乗せた槍が、横から小型の一体を貫き、その死骸ごと後続を押しのけた。
女王らしい戦い方だった。
敵を倒すだけではなく、退路そのものを作る。
その叫びに、尚文が一瞬だけこちらを見た。
「……何だ、お前ら」
警戒そのものの声だった。
当然だと誠司は思う。
いきなり現れて援護を始めた見知らぬ連中を、すぐに信用できるはずがない。
「話は後だ!」
誠司は叫び返す。
「今は引いてくれ!」
ラフタリアが尚文へ鋭く視線を向ける。
「尚文様!」
短い呼びかけだったが、その中には“いまは従うべきです”という判断が込められていた。
フィーロも大きな身体を翻し、退路側へ尚文を促す。
「ご主人さま、こっち!」
その声は無邪気に聞こえるが、動きは驚くほど的確だった。
尚文はわずかに顔をしかめ、それでも退く。
盾を構えたまま、後ろへ。
ラフタリアがその横を固め、フィーロが機動力で足場を作る。
そこへ誠司たちの援護が重なった。
シノンの矢が上から追撃を止め、ベルベットが正面を薙ぎ払い、ヒッポリュテが中央の圧を押し返す。
誠司はその隙間を撃ち抜きながら、一行全体の流れを切らさぬよう必死で目を配る。
数は多くない。
だが、狭い通りでの撤退戦はそれだけで厄介だ。
背後に民間人が混じっていればなおさらだった。
それでも四人が動けば、撤退路はきちんと形になる。
それが誠司には、どこか不思議な確信として分かっていた。
「左からもう一体!」
シノンの声。
誠司は反射的に銃を向ける。
だが、その一瞬早く、尚文の盾が割って入った。
鈍い音。
爪を受け止め、衝撃ごと殺して押し返す。
間近で見る尚文の戦いは、誠司の想像以上に泥臭かった。
華やかさはない。
ただ耐え、支え、相手の勢いを削ぐ。
けれど、その泥臭さが異様に強い。
背中を預ける者がいるからこそ成立する戦い方だと、一目で分かった。
「退け!」
尚文が低く言う。
その声は荒れているが、通る。
ラフタリアがすぐに呼応し、敵の懐へ滑り込んで斬り上げる。
そこへベルベットが横から打撃を加え、ヒッポリュテの槍が最後を奪う。
奇妙な連携だった。
初めて合わせるはずなのに、戦う理由が似ている者同士は、土壇場で驚くほど噛み合うことがある。
どうにか戦闘圏から離れ、人気の薄い倉庫裏の路地へ転がり込んだ時、ようやく全員が一息つく余裕を得た。
遠くではまだ混乱の声が聞こえる。
だが、少なくともこの場は一時的に切り離されている。
尚文は盾を構えたまま、誠司たちを正面から見た。
その目にあるのは警戒だ。
当然だろう。
三勇教の蔓延る国で、突然助けに入ってきた見知らぬ一団。
信用しろという方が無理な話だ。
「……助けた理由は」
尚文の第一声はそれだった。
直截で、無駄がない。
そして、その問い方から既に、彼が簡単に恩義へ流される男ではないと分かる。
誠司は少しだけ呼吸を整えてから答えた。
「三勇教の噂を聞いた」
尚文の眉がわずかに動く。
「それだけで判断するのは違うと思った」
その言葉に、尚文はすぐには返さなかった。
代わりにラフタリアが一歩前へ出る。
剣はまだ下ろしていない。
守る者の立ち位置だった。
フィーロも尚文の背後で、こちらをじっと見ている。
子供っぽい顔立ちのまま、目だけはまったく油断していなかった。
ベルベットが横から低く言う。
「疑うのは勝手だ。けど、少なくともこっちは教会側じゃない」
その言い方は相変わらず刺が強い。
だが、その分だけ嘘もない。
ヒッポリュテも静かに続けた。
「いま決める必要はない。だが、我らは貴様を“悪魔”とは見ていない」
その言葉に、尚文の目がほんの少しだけ細められた。
驚いたのか、警戒を強めたのか、それだけでは分からない。
けれど少なくとも、その一言は彼へ届いたのだと誠司には思えた。
シノンが小さく口を開く。
「……また、会える?」
その問いは、交渉というより確認に近かった。
尚文は数秒だけ黙り、それから短く答える。
「それは状況次第だ」
曖昧だ。
だが、拒絶でもない。
その曖昧さが、今の距離としてはいちばん誠実だったのかもしれない。
遠くでまた音がした。
まだ完全に安全とは言えない。
尚文たちも、誠司たちも、ここで長く足を止めるわけにはいかなかった。
ラフタリアが尚文へ視線を送り、フィーロがそわそわと落ち着きなく足踏みする。
撤退の継続が必要だと、向こうも判断しているのだろう。
尚文は最後にもう一度だけ誠司たちを見た。
その視線には、なお疑いが残っている。
けれど、それだけではなかった。
少なくとも戦場の一瞬を共にした者へ向ける程度の認識は、そこに生まれている。
「……次に会う時は、もう少しまともな説明をしろ」
そう言い残し、彼は踵を返した。
ラフタリアがその後ろへつき、フィーロが一歩先へ躍る。
三人の背は夕闇へ溶けていくように遠ざかっていった。
しばらく、誠司たちはその背中を見送っていた。
誰もすぐには喋らない。
戦いの余熱と、初めて現実として向き合った盾の勇者の重さが、まだ胸の中で収まりきっていなかったからだ。
やがて、誠司がぽつりと言う。
「……思ってたのと違った」
ベルベットが鼻を鳴らす。
「噂よりは、ずっと筋が通ってたな」
シノンも静かに頷く。
「ちゃんと守ってた」
その一言に、誠司は深く同意した。
教義の中の悪魔ではない。
戦場の中で、仲間を背に立つ一人の勇者だった。
ヒッポリュテは、尚文たちの消えた路地を見つめたまま低く言う。
「少なくとも、波へ立つ者の背だった」
王の評価として、それは非常に重い言葉に思えた。
悪魔ではない。
同じ災厄へ立つ者。
それだけで十分だったのかもしれない。
誠司は息を吐く。
「次は、ちゃんと話す」
今日の接触は短すぎた。
事情も、立場も、目的も、ほとんど伝えられていない。
それでもいいと思えた。
最初から全部を語る必要はない。
大事なのは、噂ではなく現実を見たことだ。
三勇教の教義が作った虚像ではなく、尚文という男の実際の背中を見たことだ。
夜の帳が、王都へゆっくりと降りてくる。
通りにはまだざわめきが残っている。
けれど誠司の中では、昨日までの曖昧な違和感が、今度こそ確かな形へ変わっていた。
盾の勇者は、会う価値のある相手だ。
そして、自分たちがこれから本編の中心へ踏み込んでいくうえで、避けては通れない存在でもある。
彼らの背中はもう見えなかった。
だが、次に会う時はきっと、今日より深く言葉を交わせる。
そう信じられるだけの接点が、この夕暮れの撤退戦の中で確かに生まれていた。