戦いの余熱は、刃を収めたあとにも長く肌へ残る。
それは血の匂いや、火薬の刺激や、敵意の名残だけではない。
ほんの数瞬であれ、互いの命を預ける形になった者同士の間には、言葉にするより先に、奇妙な緊張が沈殿するのだと、朝霧誠司は人気のない裏路地の薄暗がりで改めて思い知っていた。
倉庫裏へ吹き込む風は冷たかった。
表通りではまだ王都のざわめきが続いているはずなのに、ここだけが妙に切り離された場所のように静まり返っている。
その静けさの中心に、盾を構えたままの尚文が立っていた。
ラフタリアは彼の半歩前、わずかに斜めへ位置を取り、剣を下ろしきらぬまま誠司たちを見ている。
フィーロは尚文の背後で足踏みしながら、警戒と好奇心を同時に滲ませる目を向けていた。
誠司たちの側も、完全には構えを解いていない。
ベルベットはいつでも踏み込める角度を保ち、シノンは弓へ手が届く位置を崩さず、ヒッポリュテはカリオンの手綱を静かに握ったまま、王のように沈黙している。
味方とも敵とも決まっていない距離は、得てしてこういう形になるのだろう。
「……さっきの続きを聞こうか」
最初に口を開いたのは尚文だった。
低く、抑えた声だった。
怒鳴っているわけでも、露骨に威圧しているわけでもない。
それでも、その一言には“迂闊な嘘は通さない”という硬さがあった。
何度も騙され、裏切られ、踏みにじられてきた人間だけが持つ種類の温度だと、誠司には何となく分かった。
誠司は短く息を整えた。
ここで下手に飾れば、たぶんすぐに見抜かれる。
だから、できるだけそのまま言うしかない。
「俺たちは、盾の勇者を探してた」
言い切った瞬間、ラフタリアの視線がわずかに鋭くなる。
フィーロも首を傾げた。
尚文自身は表情をほとんど動かさなかったが、その目だけが少し細くなる。
当然だ。
追われる理由なら、この国にはいくらでもある。
探していたという言葉が、好意から来るとは限らない。
「なぜですか」
ラフタリアが問いかける。
声は丁寧だったが、剣先のようにまっすぐだった。
彼女にとって最優先なのは、尚文の安全だ。
相手が誰であれ、その理由が曖昧なうちは一歩も緩めるつもりがないのだろう。
ベルベットが、誠司より先に答えた。
「三勇教の教義を聞いたからだ」
その一言で、場の空気がわずかに変わる。
ラフタリアが息を止め、尚文の目に一瞬だけ冷えた色が差す。
フィーロだけが「さんゆうきょう?」と小さく繰り返し、事情を完全には呑み込めていない顔をした。
シノンがそれを補うように低く言う。
「盾の勇者を、悪魔って呼んでる」
その言葉は裏路地の冷えた空気へ重く落ちた。
尚文の顔からは、驚きも怒りも読み取りにくい。
けれど、誠司には分かった。
あまりにも慣れすぎているのだ。
慣れているからこそ、いちいち顔へ出ない。
そのこと自体が、かえって胸へ痛かった。
「……それで?」
尚文の声は淡々としていた。
感情を押し殺しているというより、最初から表へ出す価値もないと切り分けているような響きだった。
誠司はその静けさに少しだけ言葉を詰まらせ、それでも続ける。
「それだけで、あなたを判断するのは違うと思った」
そう言い切ると、尚文はすぐには返さなかった。
代わりに、じっと誠司を見る。
値踏みするような目だった。
その視線を受けながら、誠司は変に言い繕うのをやめた。
偽善に聞こえるかもしれない。
甘いと思われるかもしれない。
それでも、いま口にできる本音はそれしかなかった。
「だから、自分の目で見たかった」
誠司は続ける。
「噂じゃなくて、実際のあなたを」
その言葉を聞いたラフタリアの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
疑いが消えたわけではない。
けれど、最初の刃立った緊張が、わずかにだけ緩んだ気がする。
尚文はなおも誠司を見ていたが、やがて低く言う。
「お前は何者だ」
核心だった。
そこを避けては通れない。
誠司は一瞬だけベルベットたちを見た。
三人とも口を挟まない。
自分で言え、という沈黙だった。
「銃の勇者……かもしれない」
言いながら、自分でも曖昧な名乗りだと思う。
案の定、尚文の眉がわずかに動いた。
「かもしれない?」
「四聖勇者召喚の時に巻き込まれた」
誠司は一つずつ説明する。
「でも、王都じゃ誰にも認識されてない。
俺自身も、まだ全部は分かってない」
言葉へしながら、その歪さを改めて自覚する。
勇者かもしれない。
けれど制度の外にいて、誰にも呼ばれず、自分でも完全には正体を掴めていない。
そんな存在を、普通なら信用する方が難しい。
ラフタリアが小さく息を呑む。
「そんなことが……」
その反応には、疑いだけではなく純粋な驚きも混じっていた。
彼女は尚文と共に、この国の理不尽を身近で見てきたのだろう。
だからこそ、“制度から零れ落ちた勇者”という在り方が、尚文と無縁ではないと感じたのかもしれない。
ベルベットが横から言う。
「こいつ自身も、まだ全部は分かってない」
ぶっきらぼうな言い方だ。
だが、変に取り繕うよりずっと誠実だった。
ヒッポリュテも静かに続ける。
「だが、波へ立つ者であることだけは確かだ」
その声は王の保証のようだった。
尚文がちらりとヒッポリュテを見る。
彼女の圧を感じたのか、あるいは誠司の背後にいる面子の只者ではなさを改めて測り直したのか、その表情からはまだ読みきれない。
「……妙な話だな」
尚文が言った。
それは否定ではなく、純粋な感想に近かった。
妙だ。
たしかに妙だ。
だからこそ、ここでようやく、誠司は少しだけ苦笑できた。
「俺もそう思う」
そう返すと、フィーロが不思議そうに尚文の袖を引っ張る。
「ご主人さま、この人たち、へんなのー?」
あまりにも率直な問いかけだった。
場違いなほど素直な声音に、張り詰めていた空気が一瞬だけ揺らぐ。
尚文は小さく息を吐いた。
「……変なのはそうだな」
その答えに、ラフタリアが困ったように目を伏せ、ベルベットは鼻を鳴らし、シノンは少しだけ肩の力を抜いた。
「尚文様」
ラフタリアが静かに言う。
「少なくとも……助けてくれたのは事実です」
その一言は重かった。
彼女がそこまで言うということは、少なくとも敵と断じてはいないということだ。
フィーロもこくこくと頷く。
「ご主人さま、わるいひとなら、さっき助けないと思うー」
子供らしい真っ直ぐさだった。
けれど、こういう時に一番核心へ触れるのは、案外こういう言葉なのかもしれない。
尚文は答えず、しばらく黙っていた。
その沈黙の間に、ベルベットが低く言う。
「信用しろとは言わない」
実に彼女らしい切り出しだった。
「でも、こっちは教会の敵意とは別で動いてる」
シノンも続く。
「悪魔だとか、そういうのを信じて追ってきたわけじゃない」
ヒッポリュテは最後に静かに言葉を置いた。
「我らは、悪魔と決めつけるほど愚かではない」
その言い方は少し高圧的だったが、逆に飾りがなかった。
尚文へ媚びる気も、無理に好意を示す気もない。
ただ、見たままを言っているだけだ。
尚文はようやく口を開いた。
「……お前ら、三勇教は嫌いか」
唐突な問いだった。
だが、誠司にはその意味が分かった気がした。
味方かどうかより先に、どちら側の人間なのかを見極めたいのだ。
この国で尚文を追い詰めたものの中心には、三勇教がある。
ならば、その歪みをどう見るかは、そのまま人間性の判定になる。
「大嫌いだ」
ベルベットが即答した。
一片の迷いもなかった。
その言い方があまりにも真っ直ぐで、誠司は思わず少しだけ笑いそうになる。
シノンも小さく頷く。
「怖い」
彼女の答えはベルベットより静かだが、重みがあった。
「みんなが同じ嘘を信じると、本当にそれが正しいことみたいになるから」
それは彼女自身の過去から来た言葉なのだろう。
追われ、狩られ、誰かの都合で“そういうもの”にされる恐ろしさを、彼女は知っている。
ヒッポリュテは短く言い切った。
「王を腐らせ、民を濁らせる類の信仰だ」
王としての断罪だった。
誠司は少し遅れて、ようやく言う。
「嫌いっていうより……おかしいと思う」
尚文の目がこちらへ向く。
「盾だけを悪魔にして、三人だけを神にするなんて、都合が良すぎる」
自分で言いながら、昨日から積み上げてきた違和感が、いまようやく一つの形として固まっていくのを感じる。
「だから、あなたに会って確かめたかった」
噂ではなく。
教義ではなく。
いまこうして向かい合っている、現実の尚文を。
尚文はその言葉に対して、しばらく何も返さなかった。
だが、完全な拒絶はもうそこにはなかった。
警戒は残っている。
当然だ。
けれど、その警戒の質が少し変わったことを、誠司はなんとなく感じ取る。
“敵かもしれない”から、“まだ分からない”へ。
その程度の変化かもしれない。
それでも今の彼らには十分だった。
「やっぱり、王都じゃかなり敵視されてるのか」
誠司が問うと、尚文はごく僅かに目を伏せた。
「今さらだ」
短い返答だった。
そこには怒りも嘆きもほとんどない。
ただ、もう何度も反芻し尽くして、とうに磨り減ってしまった疲労だけが残っているように聞こえる。
「尚文様は、ずっと……」
ラフタリアが口を開きかける。
だが、尚文が低く名を呼ぶ。
「ラフタリア」
それだけで、彼女は唇を閉じた。
庇いたい。
代わりに言いたい。
そういう感情が見える。
けれど尚文は、それを前へ出させない。
誰かに傷を説明されることを、もう好まないのかもしれなかった。
「敵視されるのには慣れた」
尚文が静かに言う。
「問題は、慣れても面倒が減らないことだ」
その言葉に、誠司は胸の奥が重くなる。
慣れた。
その一言に、どれだけの時間と理不尽が詰まっているのか、考えたくなくても想像してしまう。
敵意に慣れるということは、本来ならあってはならないことだ。
勇者であるはずの男が、それを当然のように口にしなければならない世界は、やはりどこか壊れている。
少しの沈黙。
遠くでまた人の騒ぐ声がした。
まだ完全に安全ではない。
この路地だって、長く留まれる場所ではないのだろう。
シノンが周囲へ意識を向けながら低く言う。
「まだ人が動いてる。ここも安全じゃない」
ヒッポリュテが短く頷く。
「長居は無意味だ」
尚文たちもそれは承知しているらしい。
ラフタリアの視線はすでに次の退路を測っており、フィーロは落ち着かぬ様子で足踏みしていた。
「……また話せるか」
誠司は思い切ってそう言った。
唐突だったかもしれない。
けれど、いま聞かねば、このまま完全に人波へ紛れてしまう気がした。
尚文は少しだけ眉をひそめる。
「保証はしない」
ベルベットがすぐに口を挟む。
「それでいい。こっちも馴れ合う気はない」
ひどく棘のある言い方だったが、不思議と場を壊さなかった。
むしろ、その距離感がちょうどよかったのだろう。
フィーロが首を傾げる。
「でも、また会う気はあるんだー?」
ラフタリアが困ったように「フィーロ」とたしなめるが、尚文は小さく息を吐くだけだった。
「……状況次第だ」
その答えは曖昧だった。
だが誠司には十分だった。
完全拒絶ではない。
少なくとも次の余地は残っている。
それだけで、今日ここまで追ってきた意味はあった。
「十分だ」
誠司が言うと、尚文はそれ以上何も言わなかった。
ただ一度だけ、誠司たち全員を見渡す。
ベルベット。
シノン。
ヒッポリュテ。
そして誠司。
その視線にはまだ硬さがある。
けれど、さきほどまでのような“敵かもしれない集団”を見る目ではなくなっていた。
同じ波の中を立ってきた者を見る目だ。
それだけで、誠司の胸の奥に小さな安堵が落ちる。
尚文たちは先に動いた。
ラフタリアが周囲を警戒し、フィーロが軽やかに先を取る。
尚文は盾を背へ戻しながらも、完全には気を緩めていない足取りだった。
その背を見送りながら、誠司はふいに思う。
悪魔ではない。
英雄とも少し違う。
ただ、傷だらけのまま、それでも誰かを守るために立ち続けている男なのだと。
やがて、その姿が路地の向こうへ消えたあとで、ようやくベルベットが息を吐いた。
「……やっぱり、教義よりはずっとまともだったな」
その評価は、彼女なりにかなり高い部類なのだろう。
シノンも小さく頷く。
「でも、相当傷んでる」
その言葉に、誠司も無言で同意する。
尚文は折れていない。
だが、無事でもない。
警戒の深さ、言葉の切り方、あの諦めに似た静けさ。
どれを取っても、ひどく長く敵意へ晒されてきた人間のものだった。
ヒッポリュテは尚文たちの消えた先を見つめたまま、低く言う。
「それでも立っている」
王の声だった。
「だからこそ、次は言葉で見定めるべきだ」
その言葉に、誠司は深く頷く。
今日は接触しただけだ。
戦場の余波の中で、最低限の確認を交わしたに過ぎない。
けれど、それで十分だった。
次に繋がる細い道はできた。
あとは、その道をどう歩くかだ。
「次は、もっとちゃんと話す」
誠司がそう言うと、ベルベットは肩を竦め、シノンは静かに笑い、ヒッポリュテは短く「ああ」とだけ返した。
王都の夜は、まだざわめいている。
波の余熱も、宗教の歪みも、人々の不安も、この都からすぐには消えない。
それでも今、誠司たちの中には一つだけはっきりしたものがあった。
盾の勇者・岩谷尚文は、会う価値のある相手だ。
噂でも教義でもなく、自分たちの目で見て、自分たちの言葉で確かめるべき人物だ。
そしてたぶん次に会う時は、もう少しだけ深い場所へ踏み込める。
その確信を胸の奥へ静かに抱えながら、誠司は王都の夜気を吸い込んだ。
重い空気だった。
けれど、昨日までよりはほんの少しだけ、前へ進ける重さに変わっている気がした。