尚文たちと別れたあと、誠司たちはすぐ宿へ戻った。
王都の夜は相変わらず騒がしく、通りにはまだ兵士や冒険者たちの足音が入り乱れていたが、彼らの胸の中には、その喧騒とは別の重さが沈んでいた。
盾の勇者と会った。
ほんの短い時間で、ほとんど何も分かっていない。
それでも、三勇教が垂れ流す悪意だけでは決して見えないものを、確かに見たという実感だけは残っていた。
宿屋の一室へ入ると、ベルベットは乱暴に椅子へ腰を下ろした。
シノンは窓辺に立ち、外の通りを警戒するように見下ろしている。
ヒッポリュテは壁際へ背を預け、腕を組んだまま黙っていた。
誠司は部屋の中央で立ち止まり、さきほどの尚文の目を思い返していた。
あれは、疑いの目だった。
当然だと思う。
けれど、その疑いの奥にある疲労と諦観を思い出すたび、胸の奥が妙にざらついた。
「……あれが盾の勇者か」
誠司が呟くと、ベルベットが鼻を鳴らした。
「少なくとも、教会が言ってる悪魔には見えなかったな」
彼女にしては、かなり率直な評価だった。
信用したわけではない。
好意を抱いたわけでもない。
だが、歪んだ噂よりは現実の尚文を見た。
その事実を、ベルベットは彼女なりに認めているのだろう。
「守ってた」
シノンが静かに言う。
「自分が前に出て、あの二人を守るように動いてた」
その声には、弓手としての観察と、彼女自身の感情が混じっていた。
ラフタリアとフィーロが尚文を信じ、尚文が彼女たちを背負うように立っていたこと。
それは、言葉よりもずっと強く、彼がただの危険人物ではないことを示していた。
ヒッポリュテも低く続ける。
「民衆から切り離され、なお仲間を背に立つ者は、悪魔ではない」
その言い方は静かだったが、断言に近かった。
「ただし、傷は深い。あの男は人を信じぬことで、どうにか立っている」
誠司は小さく頷いた。
尚文の警戒心は、臆病さではない。
傷ついた人間が、それ以上壊されないために身につけた鎧のようなものだった。
だからこそ、軽々しく踏み込むべきではないのだろう。
「でも、放っておくのも違う」
誠司は自分へ言い聞かせるように言った。
ベルベットが視線を向ける。
「また面倒事へ首を突っ込む気か」
「たぶん」
「即答するな」
彼女は呆れたように言ったが、その声に本気の制止はなかった。
むしろ、こうなると分かっていたような響きすらある。
「偶然助けただけなら、ここで終わりでもいい」
誠司は続ける。
「でも、三勇教の教義を知ったうえで、実際の尚文さんを見た。ここで知らないふりをするのは、何か違うと思う」
シノンが静かに頷く。
「次は、偶然じゃなくて、こっちから関わるってことだね」
その言葉が、部屋の空気を少しだけ重くした。
偶然の共闘と、意図して関わることは違う。
後者には責任が伴う。
尚文へ接触を続けるということは、三勇教の敵意や王都の歪みへ、自分たちも踏み込むということだ。
ヒッポリュテが腕を組んだまま、静かに言った。
「ならば、ただ会いに行くな。理由を持て」
「理由?」
「盾の勇者は警戒している。好意だけを持って近づけば、かえって疑われる」
彼女は王として、そして戦士として言葉を選んでいた。
「情報、危険、利害。そうしたものを持って行け。善意だけでは、傷ついた者の門は開かぬ」
誠司はその言葉に、少しだけ胸を突かれた。
善意だけでは届かない。
それは、ベルベットやシノン、ヒッポリュテ自身との旅でも何度も思い知ったことだった。
尚文へ関わるなら、ただ「信じてほしい」と言うのでは足りない。
彼にとって意味のあるものを持っていかなければならない。
「じゃあ、情報を集めよう」
誠司が言うと、ベルベットが立ち上がった。
「三勇教の動きか」
「うん。尚文さんにとって危険になるものがないか確認したい」
「本当に面倒なことを選ぶな」
「否定はしない」
誠司がそう答えると、ベルベットは短く息を吐いた。
それから、いつものように文句を言いながらも扉へ向かった。
宿を出た頃には、王都の夜はさらに深くなっていた。
昼間の市場とは違い、夜の通りには露骨な影が増える。
酒場の明かり、教会の塔から落ちる黒い影、路地の奥で交わされる小声の取引。
波の余波が残るこの夜に、王都は眠っていない。
むしろ、表で語れない思惑ほど、夜の中で動き始めているようだった。
四人はあえて大通りを避け、教会周辺の裏路地へ回った。
三勇教の大きな教会は、夜でも灯りを消していなかった。
剣、弓、槍を象った紋章が、白い石壁の上で灯火を受けて不気味に浮かび上がっている。
盾の欠落は、昼よりもむしろ目立った。
あるべきものが無いという事実は、暗闇の中でこそ強く見えるものなのだと、誠司は思った。
「……声がする」
シノンが小さく言った。
彼女の耳は、通りのざわめきの中から人の声を拾い分けている。
四人は足音を殺し、教会裏の細い路地へ身を寄せた。
石壁の向こう、あるいは裏口に近い場所で、複数の男たちが話している。
聖職者らしき硬い口調と、兵士に近い荒い声が混じっていた。
「盾の悪魔は、まだ城下にいるのか」
その一言で、誠司の神経が一気に張り詰めた。
ベルベットの目が細くなる。
シノンは息を潜め、ヒッポリュテはわずかに顎を引いた。
「波の後始末に紛れて動いております。例の亜人の娘と鳥も同行していると」
「忌々しい。波の混乱で仕留め損なったか」
仕留め損なった。
その言葉の生々しさに、誠司の腹の奥が冷えた。
単なる悪口ではない。
敵意でもない。
実際に、害する意図がある。
三勇教の教義がただの信仰ではなく、行動へ移り始めているのだと、その一言で理解できた。
別の声が続く。
「今は王都の目も多い。露骨に動けば騒ぎになります」
「ならば、次の移動で孤立させればいい。あの悪魔は民に嫌われている。多少の混乱があっても、誰も庇わぬ」
「ですが、今日、見慣れぬ一団が接触したとの報告が」
誠司の背筋が強張る。
見慣れぬ一団。
それは間違いなく自分たちのことだ。
もう見られている。
あるいは、少なくとも存在を認識されている。
「剣でも槍でも弓でもない武器を持つ男がいたと」
「異端か」
「分かりません。ただ、盾の悪魔を助けたようです」
「ならば、監視対象へ加えろ。悪魔に与する者ならば、同じく裁く理由になる」
その瞬間、ベルベットの左腕が包帯の下で小さく脈打った。
彼女の怒りが、言葉になる前に身体へ出たのだろう。
誠司は彼女へ視線だけで制止を送った。
ここで飛び出せば、尚文へ伝えるべき情報が途切れる。
ベルベットもそれを理解しているのか、歯を噛み締めながら踏みとどまった。
男たちの会話はなお続いたが、核心は十分だった。
三勇教は尚文を監視している。
波の混乱に乗じて危害を加えようとしていた。
そして、誠司たちの存在も警戒対象になった。
これはもう、ただの情報収集では済まない。
誠司たちは、尚文へ接触する理由を得てしまったのだ。
やがて足音が遠ざかり、裏口の扉が閉まる音がした。
しばらく待ってから、四人はようやく路地の奥から動いた。
夜風が吹く。
教会の石壁に掲げられた三つの武器の紋章が、灯火の揺れで歪んで見えた。
「聞いたな」
ベルベットの声は低く、怒りを押し殺していた。
「盾の勇者を孤立させる気だ」
シノンも顔を強張らせる。
「それに、私たちも見られてる」
ヒッポリュテは静かに頷いた。
「善意だけではなく、警告を持って行けるようになった」
その言い方は冷静だったが、誠司にはその奥に怒りがあると分かった。
王として、民を扇動して敵を作るやり方を、彼女は明確に嫌悪しているのだろう。
誠司は拳を握った。
尚文は慣れたと言っていた。
敵視されるのには慣れた、と。
だが、慣れていいはずがない。
教義で悪魔と呼ばれ、波の黒幕とされ、殺せば救われるとまで言われ、その上で実際に狙われている。
そんなものを、ただ日常として受け入れていいはずがない。
「尚文さんに伝えよう」
誠司は言った。
「このまま放っておけない」
ベルベットが横目で見る。
「向こうが信じるとは限らないぞ」
「分かってる」
「罠だと思われる可能性もある」
「それも分かってる」
誠司は、それでも声を弱めなかった。
「でも、伝えなきゃ駄目だ。俺たちが知ってて黙ってたら、それこそ次に顔を合わせる資格がなくなる」
シノンが小さく頷く。
「私も行く。あの子たちも巻き込まれるかもしれないなら、尚文だけの話じゃない」
彼女が言う“あの子たち”とは、ラフタリアとフィーロのことだろう。
守る者として戦う彼女たちを見たからこそ、シノンには他人事ではなくなっていた。
ヒッポリュテも短く言う。
「盾の勇者を見定めるには、次の言葉が必要だ」
ベルベットは深く息を吐いた。
「本当に面倒だな」
だが、彼女は踵を返して宿とは反対の方角を向いた。
その行動が答えだった。
「どこへ行く?」
誠司が問うと、ベルベットは当然のように言った。
「盾の勇者が移動しそうな場所だ。市場、宿場、素材屋、あとは城下の外へ出る門」
シノンが少し驚いたように瞬きする。
ベルベットはそれを見て、不機嫌そうに言った。
「何だ。私が何も考えてないとでも思ったのか」
「いや、ちょっとだけ」
「撃つぞ」
「撃たないで」
こんな状況でも、短いやり取りが少しだけ空気を緩める。
だが、その奥にある緊張は消えなかった。
誠司は教会の方を一度だけ振り返った。
剣、弓、槍。
三つの武器を掲げるその建物は、夜の中で白く光っている。
美しい石造りの外観とは裏腹に、その内側で語られていた言葉は、ひどく醜かった。
盾の悪魔を孤立させろ。
悪魔に与する者も裁け。
その言葉が、耳の奥へこびりついて離れない。
「偶然じゃなくなったな」
誠司が呟く。
ベルベットが歩きながら答える。
「最初から、そうなる流れだったんだろ」
シノンが静かに続ける。
「次は、こっちから会いに行く」
ヒッポリュテが締めるように言った。
「そして、盾の勇者へ選ばせる。疑うか、聞くかを」
その言葉に、誠司は頷いた。
次に会う時、尚文が信じてくれる保証はない。
むしろ疑われるだろう。
だが、それでもいい。
前回は偶然の撤退支援だった。
今回は違う。
知ったうえで、選んで向かう。
それは誠司たちが、本編の渦へさらに一歩踏み込むということだった。
王都の夜道を、四人は進んだ。
目指すのは盾の勇者の足跡。
届けるべきは、善意ではなく警告。
そして確かめるべきは、噂でも教義でもなく、岩谷尚文という男がその警告をどう受け取るかだった。