夜明け前の王都は、昼の喧騒が嘘のように冷えていた。
けれど、その静けさは安らぎではない。
石畳の隙間へ沈んだ昨日の騒ぎと、三勇教の教会裏で聞いた言葉の残響が、まだ薄暗い空気の中へ滲んでいるようだった。
宿屋の一室で、朝霧誠司はほとんど眠れないまま夜を越えていた。
窓の外はまだ青黒く、遠くで動き出す荷車の音だけがかすかに聞こえている。
同じ部屋には、ベルベット、シノン、ヒッポリュテがいた。
誰も深く眠ってはいない。
それぞれの形で休んではいたが、意識のどこかはずっと張りつめたままだった。
理由は明白だった。
昨夜、彼らは三勇教の裏側を聞いた。
盾の勇者を次の移動で孤立させる。
波の混乱で仕留め損なった。
盾の悪魔に与する者も監視対象へ加える。
その言葉は、ただの悪口でも狂信でもなく、すでに行動へ移りかけた敵意だった。
「教会の連中は、尚文さんを次の移動で孤立させるつもりだった」
誠司は低く言った。
声に出した瞬間、改めて腹の底が冷える。
知ってしまった以上、それを無かったことにはできない。
窓辺に立っていたシノンが、外から視線を戻す。
「それに、私たちも監視対象になった」
彼女の声音は静かだったが、そこには確かな緊張がある。
追われる側の気配には敏感なのだろう。
昨日の会話を聞いた時から、彼女は何度も窓の外や廊下へ視線を向けていた。
ベルベットは椅子へ腰掛けたまま、片肘を膝へ乗せている。
「悪魔に与する者、だったか。随分な言い草だな」
その口調は冷たい。
だが、その冷たさの底では怒りが燻っている。
三勇教の言葉は、彼女にとってただの宗教的な狂気ではない。
波で奪われた者の痛みを利用し、都合のいい敵を作る行為そのものが、彼女の神経を逆撫でしているのだ。
ヒッポリュテは壁際へ背を預け、腕を組んでいた。
夜明け前の薄暗さの中でも、その姿勢には王の威厳がある。
「敵は信仰を盾にしている。だから、自分たちの悪意を正義と思い込める」
低い声だった。
「正義の名を得た悪意は、ただの憎悪より始末が悪い」
その言葉は重かった。
女王として民を率いた彼女だからこそ、群れが一つの思想に染まる危うさを知っているのだろう。
誠司は拳を握った。
「放っておけない」
それは、ほとんど反射のように出た言葉だった。
だが、言ってからすぐに、自分の中でその言葉が揺らがないことを確かめる。
知ってしまった。
尚文が狙われていることも、自分たちまで巻き込まれ始めていることも。
ならば、黙っている理由などなかった。
ベルベットが横目で見る。
「放っておく気なら、そもそも夜中に教会の裏なんて探ってない」
「それはそうだけど」
「問題は、あいつが信じるかどうかだろ」
その指摘に、誠司はすぐには答えられなかった。
尚文の警戒心を思い出す。
あの目。
敵意へ慣れすぎた、そして人を簡単に信じなくなった目。
こちらが何を伝えようと、罠だと疑われてもおかしくない。
シノンが静かに言う。
「尚文は、簡単には信じないと思う」
「うん」
誠司は頷く。
「それは分かってる」
「でも、伝えないよりはいい」
彼女の言葉は短い。
けれど、その奥にあるものははっきりしていた。
自分たちが黙っていたせいで、誰かが傷つく可能性がある。
それを彼女は選びたくないのだ。
ヒッポリュテが続ける。
「信じさせる必要はない。無視できぬ情報として渡せばよい」
誠司は顔を上げる。
「無視できない情報」
「そうだ」
ヒッポリュテは頷いた。
「判断するのは盾の勇者だ。こちらがすべきは、判断材料を渡すこと。善意を受け取れと迫ることではない」
その言葉は、昨日の助言の続きだった。
善意だけでは、傷ついた者の門は開かない。
だが、危険の情報ならば違う。
信用ではなく必要として受け取ることができる。
誠司は深く息を吸った。
「そうだな。まずは伝える。判断するのは尚文さんだ」
言葉にすると、少しだけ視界が定まった。
信じてほしい。
その気持ちはある。
けれど、それを目的にしてはいけない。
今すべきことは、知った危険を届けることだ。
四人は夜明けとともに宿を出た。
朝の王都は、夜とはまた違う冷たさを持っていた。
市場の準備をする商人、警備交代の兵士、急ぎ足の旅人たち。
すでに街は動き始めているが、その空気にはまだ眠気と不安が混じっている。
波の後処理が完全には終わっていないせいか、通りのあちこちに疲れた顔があった。
最初に向かったのは、昨日も情報を得た素材屋だった。
尚文が薬草や安い素材を買うという話を聞いていたからだ。
店は開いたばかりで、主人はまだ棚を整えている最中だった。
「盾の勇者を見なかったか」
ベルベットがいきなり訊く。
主人はぎょっとした顔で彼女を見たが、すぐに誠司たちの顔を覚えていたのか、少し警戒を緩めた。
「盾の勇者? ああ、朝早く来たぞ」
誠司の胸が跳ねる。
「何を買っていった?」
「薬草と安い素材をいくつか。あと、旅支度みたいだったな」
シノンが反応する。
「旅支度……」
ベルベットが舌打ちした。
「移動するつもりか」
三勇教の会話が、誠司の頭の中で繋がる。
次の移動で孤立させる。
つまり、その機会はもう目前に来ている。
ヒッポリュテの声が低くなる。
「三勇教が狙うなら、王都を出る瞬間だろう」
誠司は主人へ身を乗り出す。
「どっちへ向かったか分かるか?」
主人は少し考え、指で方角を示した。
「南門の方へ行ったはずだ。あの鳥が目立つからな」
大きな鳥。
フィーロのことだ。
間違いない。
店を離れた瞬間、四人の足は自然と速くなった。
だが、南門へ向かう途中で、シノンがふいに歩調を落とした。
彼女の目が、通りのガラス窓に映った背後を捉えている。
「……後ろ。同じ人が三回角を曲がってる」
誠司は反射的に振り返りそうになったが、シノンの指先が小さくそれを制した。
ベルベットは前を向いたまま、低く呟く。
「気づかれてるな」
誠司は喉の奥が強張るのを感じた。
「尚文さんだけじゃなく、俺たちもか」
ヒッポリュテが淡々と言う。
「昨夜の会話どおりだ。悪魔に与する者として見られている」
背後の気配は、露骨ではない。
しかし、こちらを見ていないふりをしながら距離を一定に保っている。
王都の人混みに紛れているため断定しづらいが、だからこそ訓練された監視の匂いがあった。
ベルベットが笑みとも怒りともつかない表情を浮かべる。
「潰すか?」
「今は駄目だ」
誠司はすぐに答えた。
「騒ぎを起こせば、尚文さんへ警告する前に足止めされる」
シノンが小さく頷く。
「なら、撒く?」
ヒッポリュテは首を振った。
「いや、気づいていることだけ悟らせず進め。連中の動きも情報だ」
ベルベットが嫌そうに鼻を鳴らす。
「面倒な王様思考だな」
「生き残るには必要だ」
ヒッポリュテの返答に迷いはなかった。
南門へ近づくにつれ、人の流れはさらに増えた。
旅人、荷運び、商人、兵士。
王都から出る者と入る者が交錯し、その間を縫うように門番の声が響いている。
波の後だというのに、いや、波の後だからこそ、人は移動を止められないのだろう。
危険から離れる者、商機を探す者、傷ついた場所へ向かう者。
そのすべてが門前へ集まっていた。
「いた」
シノンが短く言った。
誠司は彼女の視線を追う。
門の近く、少し人混みから外れた場所に、盾を背負った男がいた。
尚文だ。
傍らにはラフタリアが立ち、周囲を警戒している。
フィーロは落ち着きなく足を動かしながら、外へ出る道を見ていた。
やはり出立するつもりだったのだ。
「本当に出るつもりだったのか」
誠司が呟く。
ベルベットは目を細める。
「間に合っただけマシだな」
ヒッポリュテは周囲を見渡した。
「周囲を見ろ。見張りがいる」
言われて、誠司も視線を巡らせる。
旅人のふりをした男。
荷車の陰にいる神官風の男。
門番とは違う位置で尚文たちを見ている者が数人。
偶然ではない。
すでに始まっている。
「もう動いてる……」
誠司は息を呑む。
ベルベットが問う。
「どうする。ここで声を掛ければ、連中にも見られる」
「でも、ここで伝えなきゃ遅い」
誠司は尚文たちを見た。
迷う時間はない。
隠れて接触しようとすれば、かえって罠に見える。
なら、正面から行くしかない。
ヒッポリュテが静かに言った。
「ならば堂々と行け。隠れて接触すれば、かえって疑われる」
誠司は頷いた。
「分かった」
四人は門前の人混みを抜け、尚文たちへ近づいた。
最初に気づいたのはラフタリアだった。
彼女の手が剣へ伸びる。
フィーロもこちらを見て、首を傾げたあと、すぐに尚文の前へ出られる位置へ動いた。
尚文はゆっくりと振り返り、誠司たちを見た。
「……またお前らか」
声は低い。
警戒は解けていない。
むしろ、こんな場所で再び現れたことで、疑いは強くなったように見えた。
誠司は両手を見える位置へ出した。
「話がある。長くは取らせない」
ラフタリアが周囲を見る。
「尚文様、周囲に人が多すぎます」
その言葉には、ここで立ち話をする危険が含まれている。
フィーロが目をぱちぱちさせる。
「また戦うのー?」
ベルベットが即座に言う。
「こっちはそのつもりじゃない」
尚文の目が細くなる。
「なら何だ」
誠司は、もう回りくどい説明を捨てた。
「三勇教が、あなたを次の移動で孤立させるつもりだ」
その一言で、ラフタリアの顔色が変わった。
フィーロの羽毛がわずかに逆立つ。
尚文は、驚いたというより、嫌な予想が当たった時のように目を細めた。
「……誰から聞いた」
「教会裏で、直接聞いた」
尚文の口元がわずかに歪む。
「盗み聞きか」
ベルベットが冷たく返す。
「綺麗な手段を選べる相手じゃなかった」
シノンが続ける。
「あなたたちを、波の混乱で仕留め損なったと言ってた」
ラフタリアが息を呑む。
「……!」
フィーロが一歩前へ出る。
「ご主人さまを?」
声は幼い。
だが、その奥にある怒りは純粋だった。
ヒッポリュテが静かに補う。
「さらに、我らも監視対象になった。悪魔に与する者としてな」
尚文はしばらく黙っていた。
視線だけが、誠司、ベルベット、シノン、ヒッポリュテを順に測る。
そして最後に、門の周囲にいる見張りらしき者たちへ視線を流した。
彼も気づいていたのだろう。
あるいは、いまの情報で確信したのかもしれない。
「……なるほど。いかにもあいつらが考えそうなことだ」
その声には、怒りよりも諦めに近いものがあった。
慣れている。
その事実が、誠司にはやはり痛かった。
尚文は改めて誠司を見た。
「それを伝えて、お前らに何の得がある」
鋭い問いだった。
誠司は答えようとして、一瞬だけ言葉に詰まる。
得。
確かに、得で考えるなら危険しかない。
三勇教に目をつけられ、王都での立場も悪くなり、尚文本人に信じてもらえる保証もない。
「得じゃない」
そう答えた瞬間、尚文の目がさらに冷える。
「そういう答えが一番信用できない」
痛いほど当然の反応だった。
誠司は何も言えなくなる。
その時、横からベルベットがあっさりと言った。
「分かる。私もそう思う」
「ベルベット!?」
誠司は思わず振り向く。
だがベルベットは気にもしない。
「でも、こいつはそういう馬鹿だ」
ひどい言い方だった。
けれど、その言葉には妙な真実味があった。
シノンも小さく続ける。
「知ってて黙るのが嫌だっただけだと思う」
ヒッポリュテは最後に、尚文へ向き直った。
「そして、我らは三勇教を敵と見た。利害はある」
その言葉に、尚文の視線がヒッポリュテへ向く。
彼女は一歩も引かない。
王として、正面から利害を提示していた。
尚文は短く息を吐いた。
「……そっちの方がまだ信用できる」
誠司は少しだけ苦笑する。
「じゃあ、それでいい」
善意だけでは届かない。
そう言われていた意味を、いま痛いほど理解した。
尚文に必要なのは、耳障りのいい言葉ではなく、疑ってもなお使える情報と、納得できる利害なのだ。
誠司は一歩だけ距離を詰めすぎない位置で言った。
「王都を出るなら、少し距離を置いてでもいい。俺たちが後方を見張る」
尚文の眉が上がる。
「護衛のつもりか?」
「警戒してくれていい」
誠司は正直に言った。
「でも、連中が本当に動くなら、背後を見ている目は多い方がいい」
ラフタリアが尚文を見る。
「尚文様……」
フィーロが胸を張る。
「フィーロ、後ろの敵も蹴れるよ?」
その言葉に、ほんの一瞬だけ空気が緩みかける。
けれど尚文はすぐに表情を戻した。
「……勝手にしろ」
短い言葉だった。
「ただし、変な動きをしたら敵と見る」
ベルベットが口の端を上げる。
「上等だ」
シノンは静かに頷いた。
「それで十分」
ヒッポリュテも低く言う。
「妥当な距離だ」
それは協力と呼ぶにはあまりに冷たい。
信頼と呼ぶには遠すぎる。
けれど、敵ではない。
少なくとも、同じ方向を見ながら距離を取って歩くことは許された。
今の尚文との関係としては、それが最大の前進なのだろう。
尚文はそれ以上何も言わず、ラフタリアとフィーロを促して門の方へ歩き出した。
門番は一瞬嫌そうな顔をしたが、手続き自体は止められない。
尚文一行が王都の外へ出る。
少し遅れて、誠司たちも距離を置いて同じ門を抜けた。
門の外には、朝の光が広がっていた。
王都の石壁の影を抜けると、空気が少しだけ変わる。
だが、自由になったわけではない。
背後にはまだ、三勇教の監視者の気配がある。
そして前方には、尚文たちの背中がある。
その間に、誠司たちは立っていた。
「信じてもらえたわけじゃない」
誠司は内心で呟く。
けれど、聞いてはもらえた。
それだけで、今は十分だった。
ベルベットが隣で小さく言う。
「これ、護衛じゃなくて尾行の延長だな」
シノンが静かに返す。
「でも、今はそれでいい」
ヒッポリュテは王都の門を一度振り返り、そして尚文の背へ視線を戻した。
「距離とは信頼の形でもある。近すぎれば壊れる関係もある」
誠司はその言葉を胸の中で噛み締めた。
前方で、尚文が一度だけ振り返る。
その目にはまだ警戒がある。
だが、完全な拒絶ではない。
誠司は短く頷き返した。
尚文は何も言わず、また前を向く。
「……行こう」
誠司が言うと、三人がそれぞれの形で頷いた。
南門の外へ続く道を、二つの一行が距離を置いて進み始める。
前には盾の勇者。
後ろには銃の勇者かもしれない男と、その仲間たち。
さらにその背後には、三勇教の影。
信頼ではない。
友情でもない。
だが、警告は届いた。
そして今、彼らは同じ道の上にいる。
その事実だけが、王都の朝の光の下で、静かに次の火種を孕んでいた。