石碑に結ばれた白い布は、街道を渡る朝風の中で頼りなく揺れていた。昨日までなら、それはただの旅人の忘れ物に見えたかもしれない。だが今の誠司たちにとって、その小さな布切れは、盾の勇者との間に生まれたばかりの連絡路であり、同時に三勇教が仕掛けた罠である可能性を孕む危険な印だった。
誠司は銃を握ったまま、石碑へ向かってまっすぐ歩き出すことを避けた。尚文と決めた合図である以上、無視はできない。けれど、それを見つけた瞬間に走り寄るほど、三勇教という敵は甘くない。前回の香炉、荷車、魔物の誘導を思い出せば、彼らは人の善意や焦りを利用することを躊躇わない連中だと分かっていた。
「布は白。でも、結び目が少し違う」
シノンは弓を手にしたまま、木の陰から石碑を観察していた。彼女の声は抑えられているが、そこには明確な違和感が滲んでいる。
「尚文たちが結んだなら、もっと急いだ跡が残ると思う。あれは結び方が綺麗すぎるし、布そのものも新しすぎる」
ベルベットは低く笑ったが、その目は笑っていなかった。
「白い布を見せれば寄ってくると思ったなら、随分と雑な餌だな」
「雑でも、無視はできない。尚文さんたちが本当に呼んでいる可能性もある」
誠司が答えると、ヒッポリュテは街道の左右へ視線を走らせた。林の深さ、石碑の位置、逃げ道になりそうな獣道、伏兵を置くならどこが最も効果的か。彼女はそれらを一つの戦場として見ている。
「餌か合図かは、近づく前に見極めよ。獲物が餌へ走る時、狩人は既に弓を引いている」
その言葉に誠司は頷き、シノンへ視線を送った。シノンは音もなく位置を変え、石碑を斜めから見られる場所へ移動する。ベルベットはすぐに飛び込める距離を保ちながら前へ出て、ヒッポリュテはカリオンを林の外へ出しすぎず、全体を見渡せる場所に留まった。
石碑の周囲には、朝露を踏んだ跡がいくつか残っていた。だが、その足跡は一種類ではない。深く踏み込まれた重い靴跡と、軽く土を撫でるような足跡が混じっている。誠司はその違いまでは読み取れなかったが、シノンはしゃがみ込んで土を見つめ、指先で草の倒れ方を確かめていた。
「布が新しすぎる。街道の埃も、朝露の染みも少ない。誰かが今朝、わざと目立つように結んだんだと思う」
「三勇教の連中は、罠を綺麗に作りすぎる。人間の汚れを知らない奴らのやり方だ」
ベルベットの吐き捨てるような言葉に、誠司は石碑の裏側へ回り込まず、少し離れた位置から銃口の先で視線をなぞった。苔むした石の端に、小さな傷がある。二本の浅い線が交差するように刻まれており、偶然にできた割れ目とは違っていた。
「でも、石碑の裏に傷がある。これは俺たちが決めた場所を知っている誰かが残した印かもしれない」
シノンが頷く。
「尚文たちが一度ここへ来た可能性はある。でも、そのあとで別の誰かが布を結び直したかもしれない」
ヒッポリュテは石碑の周囲を見て、低く告げた。
「本物の合図へ、偽物の手を重ねた可能性がある。敵は我らの橋を断つだけでなく、橋そのものを罠へ変えたのだ」
その言葉が落ちた直後、林の奥からかすかな声が聞こえた。最初は風が枝を鳴らした音に似ていたが、次第に輪郭を持ち、誰かの悲鳴のように変わっていく。
「尚文様、こちらです。早く、助けてください」
ラフタリアの声に似ていた。あまりにも似ていたからこそ、誠司の足が一瞬だけ前へ出かけた。だが、シノンの手がその腕を掴む。彼女の目は声のした方向ではなく、風の流れと木々の揺れを追っていた。
「待って。声が風と逆に流れてる。これは本物の声じゃない」
ベルベットの顔から表情が消えた。
「人の不安を餌にするとは、ますます気に入らない」
次に聞こえたのは、フィーロの声に似た呼び声だった。さらに奥へ誘うように、助けを求める響きが林の中を転がっていく。誠司の胸の奥に焦りが生まれるが、その焦りをそのまま足へ移せば、敵の思惑通りになる。
ヒッポリュテは槍を構え、声の発生源を探るように耳を澄ませた。
「狩りの笛だ。追う者の心を鳴らし、足を望む場所へ向けさせる。声そのものを追うな。声を出している器を見よ」
誠司は銃を構えた。前回、銃の奥に浮かんだ候補を思い出す。殺すためではなく、罠の核だけを撃ち抜く弾。魔道具の中心を壊し、幻聴を止めるための精密な一撃。完全に扱える保証はないが、今ここで使わなければ、あの白い布に込められた意味ごと三勇教に踏みにじられる。
「なら、笛を壊す。殺すんじゃなくて、罠の核だけを撃ち抜く」
シノンはすぐに声の反響を読み、指で林の奥にある倒木を示した。
「あの倒木の根元。音がそこから跳ねてる。直接見えないけど、魔道具があるなら影になってる部分」
誠司は銃口を向けた。普通の弾なら、木の根元ごと砕くだけかもしれない。けれど今必要なのは破壊の大きさではなく、核へ届く正確さだった。呼吸を整え、銃の中へ自分の意志を通す。敵を殺すのではなく、仲間へ伸びる罠の指だけを撃ち抜く。そう定めた瞬間、銃の感触がわずかに変わった。
引き金を引くと、銃声はいつもより鋭く、乾いた響きを残した。弾丸は倒木の根元へ飛び込み、木皮を大きく弾けさせることなく、奥に隠された小さな魔道具の中心だけを撃ち抜いた。直後、ラフタリアに似た声も、フィーロに似た声も、糸を切られたように途絶える。
沈黙が戻った。
シノンが目を細める。
「今の弾、普通の弾じゃなかった。魔道具の中心だけを抜いた」
「まだ安定してない。でも、できる。守るために撃つ銃なら、こういう使い方もできるはずだ」
誠司は銃口を下げずに答えた。胸の内には成功への安堵があったが、それに浸る余裕はない。幻聴が止んだ瞬間、林の奥で枝を踏む音がした。ベルベットが影のように走り、逃げようとした神官服の男を背後から地面へ叩き伏せる。
「こいつを捕まえた。神官服の下に、三勇教の印がある」
男は呻きながら逃れようとしたが、ベルベットの膝が背中を押さえると動けなくなった。誠司が近づくと、男は泥に顔を擦りながらも、歪んだ笑みを浮かべる。
「盾の悪魔だけではない……銃の異端も、いずれ裁かれる。三勇者の御名に逆らう者は、すべて浄化される」
ベルベットの眼が剣呑に細まったが、ヒッポリュテが片手で制した。
「吐かせる必要は薄い。足跡と罠が語っている」
シノンは石碑の向こう側を調べ、細い獣道へ続く足跡を見つけた。そこには三勇教の男たちの重い靴跡とは別に、尚文たちのものと思われる痕跡が残っている。ラフタリアの軽い足取りに似た跡、フィーロが踏み荒らしたような大きめの跡、そして盾を背負う男が残した重い足跡。どれも新しいが、ここに留まった時間は短い。
「尚文さんたちは一度ここへ来てる。なのに、今はいない」
誠司は石碑の傷と白い布、そして幻聴の魔道具を順に見た。答えは一つだった。尚文たちは本当に合図を残そうとした。そこへ三勇教が介入し、布を結び直し、罠を重ねた。連絡路は壊されたのではなく、敵の手で毒を塗られたのだ。
シノンが獣道の奥を見つめる。
「急いだ方がいい。白い布が本物だったなら、尚文たちは別の場所へ誘導された可能性がある」
ヒッポリュテはカリオンへ跨り、林の奥から街道の先までを見渡した。
「敵は橋を罠へ変えた。ならば次は、橋を渡った者を狩るつもりだろう」
ベルベットは捕らえた男を縛り上げ、木の根元へ転がした。
「こいつはどうする」
「置いていく。逃げられないようにしておけば、後で誰かが見つける。今は尚文さんたちを追う方が先だ」
誠司の声に迷いは少なかった。銃の新しい力を使えたことよりも、尚文たちが三勇教の手で別の場所へ動かされた可能性の方が重い。もし三勇教が合図を盗み見ていたなら、今後どんな連絡も罠になる。だからこそ、ここで尚文へ伝えなければならなかった。
誠司は壊れた魔道具の欠片を拾い上げた。その内部には、薄く青黒い魔力の残滓が残っている。尚文の盾に反応するようなものなのか、あるいは勇者の武器全般を追うための仕掛けなのかは分からない。だが、三勇教がただの信徒や魔物だけでなく、こうした魔道具を使って勇者を追い込む手段を持っていることだけは確かだった。
「行こう。白い布を罠に変えられたなら、次は尚文さんたちの居場所そのものが危ない」
ベルベット、シノン、ヒッポリュテがそれぞれ頷く。林の奥へ続く獣道は暗く、朝の光が差し込んでも奥までは届かない。その先に尚文がいるのか、三勇教の新たな罠が待っているのかは分からない。
それでも、誠司は足を止めなかった。守るために撃つと決めた銃は、罠の声を断ち切ることができたのだから、次はその銃で本物の声へ辿り着かなければならない。
白い布は、石碑の裏でまだ揺れている。その白さはもう信頼の色ではなく、三勇教の指に汚された警告の色だった。誠司たちは、その汚された合図の向こうへ向かって走り出した。
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