谷間で三勇教の工作員たちを退けたあと、誠司たちは王都から少し離れた宿場へ身を潜めていた。宿場といっても、旅人が数日ごとに足を止めるだけの小さな集落であり、古びた厩舎と安酒を出す食堂、薬草を扱う小さな店が並んでいる程度だったが、人の流れに紛れるには都合がよかった。
部屋の窓は細く開けられ、外からは荷車の軋む音と、厩舎で馬が鼻を鳴らす音が届いてくる。誠司は机の上に置いた三勇教の符を見つめていた。そこには、前回捕らえた工作員が持っていた報告文が残っている。銃の異端、盾の悪魔と接触継続。監視を強め、両者の合流を阻め。何度読み返しても、その短い言葉は、敵の視線が既に自分たちへ絡みついていることを示していた。
「石碑の布はもう使えない。あんなもの、一度汚されたら次も疑うしかない」
ベルベットは壁へ背を預け、窓の外を睨むようにして言った。彼女の言葉には怒りよりも冷えた嫌悪が滲んでいる。三勇教が白い布へ罠を重ね、ラフタリアやフィーロの声を模した幻聴で誘い込もうとしたことが、まだ彼女の中で燻っているのだろう。
シノンは弓の弦を確かめながら、静かに続けた。
「三勇教は、合図そのものを見ていた。次は別の方法を使うはず」
「尚文さんが本当に呼ぶなら、どうやって知らせてくると思う?」
誠司が問いかけると、ヒッポリュテは卓上の符から視線を上げ、宿場の通りへ耳を澄ませるように目を細めた。
「盾の勇者は商いの道を持っている。人目のある道ではなく、人の流れへ紛れる道を使うだろう。石碑のような固定された目印は狙われやすいが、商人の荷や薬草の包みなら、敵もすべてを検めることは難しい」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、部屋の扉が控えめに叩かれた。ベルベットがすぐに姿勢を変え、シノンは弓へ手をかける。誠司が扉の側へ寄ると、外から聞こえてきたのは幼い声だった。
「薬草屋からお届けものです」
誠司はベルベットと視線を交わし、扉を少しだけ開けた。そこには、宿場の薬草店で見かけた子供が立っていた。手には小さな布包みがあり、子供はそれを差し出しながら、少し怯えたようにこちらを見る。
「盾を背負った怖い兄ちゃんから、これを渡せって言われた」
ベルベットが鼻で笑う。
「怖い兄ちゃん、ね。分かりやすい特徴だな」
誠司は子供へ礼を言い、少し多めの銅貨を渡した。子供が慌てて頭を下げて去るのを見届けてから、包みを机の上へ置く。中には乾燥させた薬草と、折りたたまれた紙片が入っていた。紙は安物で、匂いを隠すように薬草の香りが染みついている。
「夕刻、川沿いの廃水車小屋へ来い。人数は最低限にしろ」
誠司が読み上げると、部屋の空気が引き締まった。白い布ではなく、薬草商を介した伝言。尚文が自分から呼ぶと言った言葉を、慎重な形で実行したのだ。
「罠の可能性はある。でも、石碑よりは慎重なやり方」
シノンの言葉に、ヒッポリュテは頷いた。
「ならば行く価値はある。だが、信じて行くのではなく、疑いながら応じるのだ」
夕刻が近づくころ、誠司たちは宿場を出た。表向きは薬草採取へ向かう旅人のように装い、装備を隠しすぎず、かといって目立たせすぎない距離感で歩く。川へ向かう道は湿った土の匂いが強く、遠くから水の流れる音が聞こえ始めていた。
シノンは少し先行して、草の倒れ方と足跡を見ている。夕方の光は林の影を長く伸ばし、どこに目が潜んでいても不思議ではない景色になっていた。
「足跡は少ない。少なくとも、大人数が待ち伏せしている感じはない」
「待ち伏せが少人数なら、面倒さは変わらない」
ベルベットの言い方は棘があるが、間違ってはいなかった。三勇教は大勢で押し潰すよりも、少人数で心と道を歪める罠を好む。人の善意や警戒心を餌にする敵だからこそ、数の少なさは安全の証明にはならない。
「今回は尚文さんの方から呼んだ。あの人なら、罠にするにしても自分が損するやり方はしないと思う」
誠司がそう言うと、ヒッポリュテは馬上から低く返した。
「盾の勇者を信じるのではない。盾の勇者が損得を見誤らぬ男だと判断するだけだ。その違いを間違えねば、貴様はまだ足を取られぬ」
やがて、川沿いの廃水車小屋が見えてきた。かつては村の外れで穀物を挽いていたのだろうが、今は水車の羽根が欠け、流れに押されて鈍く軋むだけの残骸になっている。水音が会話を覆い隠し、朽ちた木壁が外からの視線を遮る。密会には都合がよく、同時に罠にも都合がいい場所だった。
小屋の中へ入る前に、シノンが周囲を確認する。ベルベットは扉の横へ立ち、ヒッポリュテはカリオンを水辺の陰へ退かせた。誠司が半ば壊れた扉を押すと、湿った木の匂いと古い粉塵が漂ってくる。
中には、尚文がいた。盾を背に、壁際へ立ち、こちらへ向ける視線には相変わらず信用の色がない。傍らにはラフタリアが剣へ手を添えて立ち、フィーロは水車の方を気にしながらも尚文の近くを離れずにいた。
「来たか。石碑の布をまだ信じていたら、ここには来られなかっただろうな」
尚文の第一声は挨拶ではなく試しだった。誠司は扉から少し入った位置で足を止め、距離を詰めすぎないようにする。
「白い布はもう信用できない。だから、こっちも疑いながら来た」
「それでいい。疑わずに来る奴なら、話す価値はない」
ラフタリアは周囲の気配を確認しながら、低く報告する。
「尚文様、目立った気配はありません。ただ、長居は危険です」
フィーロは水車の軋む音へ耳を傾け、少しだけ首を傾げた。
「ここ、水の音が大きいね。内緒話にはいいかも」
ベルベットが薄く笑う。
「内緒話にしては、空気が悪すぎる」
「空気をよくするために呼んだわけじゃない。符を見せろ」
尚文は無駄な前置きを嫌うように言った。誠司は頷き、前回手に入れた符を布に包んだまま差し出す。尚文はそれを受け取ると、紙面へ視線を落とし、口元をわずかに歪めた。
「前回の工作員が持っていた符だ。銃の異端、盾の悪魔と接触継続。そう書かれていた」
「予想通りだな。連中はお前たちを利用するか、潰すかのどちらかで見る」
ベルベットの眉が動く。
「随分と慣れた言い方だな」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
尚文の返答は低く、そこで一瞬だけ空気が重くなった。ラフタリアが心配そうに尚文を見るが、尚文はその視線を受け流し、符をヒッポリュテへも見える角度で持つ。
ヒッポリュテは刻まれた文面を眺め、静かに言った。
「敵は武器ではなく名を狙っている。盾の悪魔、銃の異端。名を汚せば、刃を振るう前に人心を削れる」
シノンは水音の向こうへ意識を向けたまま、淡々と続ける。
「噂で撃たれる前に、こちらも情報を持たないと危ない」
尚文は符を折り直し、誠司へ視線を向けた。
「その通りだ。だから次は、お前の銃の話を聞く」
来ると分かっていた問いだった。だが、正面から向けられると、誠司は銃を握る手に力が入るのを感じる。自分でも分かっていないことが多い武器を、盾の勇者へ説明しなければならない。
尚文は誠司の沈黙を待たずに続けた。
「お前の銃は、普通の武器じゃない。弾の種類が変わる、成長する、しかも本人以外が扱えない可能性がある。違うか」
「多分、合ってる。まだ全部は分からないけど、弾種は意識で変えられるみたいだ」
曖昧な答えになることを承知で、誠司は正直に言った。尚文の目が細くなるが、嘘よりはまだましだと判断したのか、話を遮らない。シノンが一歩だけ横へ出て、射手として補う。
「今確認できているのは、普通の弾、魔道具を壊す精密破壊弾に近いもの、敵の足や視界を止める牽制弾です。どちらも完全に安定しているわけではありませんが、誠司の意識と目的に反応しているように見えます」
ベルベットは腕を組み、誠司の甘さごと説明するように言った。
「便利そうに聞こえるが、安定してない。こいつが迷えば弾も迷う」
尚文はその言葉を聞き、背負った盾へ手を添えた。
「聖武器に近いな。俺の盾も、条件を満たせば形が増える」
「やっぱり、そういうものなのか」
誠司が問うと、尚文は即座に甘さを削るような声で返した。
「ただし、お前は四聖勇者として呼ばれていない。王都に知られれば、勇者として利用されるか、異端として潰される。どちらに転んでも、お前の意思だけでは済まなくなる」
ヒッポリュテが重く頷く。
「既に敵は後者を選びつつある。銃の異端という名は、ただの悪口ではなく処刑の口実へ変わり得る」
その言葉は、水車の軋みよりも深く胸へ沈んだ。誠司は、自分が勇者かもしれないということを、どこかで名を得る可能性として見ていた。だが敵に名をつけられるということは、自分で選ぶ前に役割を奪われることでもある。盾の悪魔と呼ばれてきた尚文が、その危険を誰より知っているのだろう。
尚文はさらに一歩踏み込み、誠司の銃を見た。
「盾は攻撃できない。だから守るしかない。だが、お前の銃は違う。撃てば殺せる」
誠司は銃の重みを意識しながら答えた。
「だからこそ、俺は守るために撃つって決めた。殺すためだけの銃にはしたくない」
「綺麗事だな」
尚文の言葉は容赦がなかった。誠司は反射的に言い返しそうになったが、飲み込む。尚文がそれを綺麗事だと言うのは、誠司を侮っているからだけではない。殺す力を持ちながら守ると言うなら、その言葉には相応の責任が必要だと分かっているからだ。
「そうかもしれない。でも、そう決めないと、この武器に引っ張られる気がする」
シノンが静かに目を伏せた。
「撃つ武器は、撃つ理由を失うと危ない。私も、それは分かる」
彼女の声には、自分自身の過去に触れるような痛みがあった。ベルベットはその痛みを深く掘り返すことはせず、誠司を横目で見ながら言う。
「甘いが、こいつの核はそこだ。折れば使い物にならない」
ヒッポリュテは水車の暗い影を見つめ、王としての声で場をまとめた。
「盾は背を守り、銃は道を開く。形は違えど、何を守るかを見失えば同じく堕ちる」
尚文はしばらく黙っていた。水車の羽根が一度大きく軋み、川の水が砕ける音だけが小屋の中を満たす。やがて尚文は、誠司ではなく、誠司の銃と自分の盾の間にある見えない線を見るように言った。
「……お前の銃が盾の敵になるか、盾の背を守るものになるかは、お前次第だ」
その言葉は、忠告であり警告でもあった。誠司はそれを軽く受け取ることができず、銃を腰へ戻しながら頷く。
「分かってる。決めたからには、そう使い続ける」
「一度決めただけで済むなら苦労はない。戦場に出るたびに選び直せ」
尚文の言葉には、これまで何度も選ばされてきた者の重みがあった。誠司はそれを否定せず、頷いた。
話題が一段落すると、尚文は符を誠司へ返さず、自分の懐へしまった。
「石碑の布は捨てる。あれはもう死んだ合図だ」
「次はどうする?」
「薬草商、素材屋、行商人。俺が使っている商売の道を使う。伝言は物に混ぜる」
シノンは少し考え、警戒を込めて言った。
「直接的な合図よりは盗まれにくい。でも、伝達役が巻き込まれる危険はある」
ラフタリアがその言葉に頷く。
「だから使う相手は限ります。無関係な人を巻き込みすぎるわけにはいきません」
ベルベットは意外そうに尚文を見た。
「そこはまともなんだな」
「無駄な敵を増やす趣味はない」
尚文の返答は素っ気ないが、その中には現実的な倫理がある。自分を悪魔と呼ぶ国の中でも、彼は無関係な者を無駄に巻き込まない方法を選んでいる。それは立派な英雄らしさではなく、生き延びるための損得勘定かもしれないが、少なくとも三勇教のやり方よりはずっと筋が通っていた。
ヒッポリュテは小さく頷いた。
「利害の橋を、石ではなく流通へ移すか。悪くない判断だ。水は石を避けるが、人の流れは刃を隠す」
「褒められるためにやってるわけじゃない」
尚文がそう返すと、フィーロが少しだけ笑った。
「でも、ご主人さま、ちゃんと考えてるよ」
「余計なことを言うな」
フィーロの無邪気な言葉に、空気がわずかに和らいだ。ラフタリアも少しだけ表情を和らげたが、すぐに外の気配へ意識を戻す。長居は危険だという判断は変わっていない。
尚文は最後に、誠司たちを見渡した。
「俺はお前らを信用しない。だが、使える情報なら聞くし、必要なら呼ぶ」
「それでいい。俺たちも、あなたに全部を預けるつもりはない」
誠司が答えると、フィーロが悪気のない声で割り込んだ。
「でも、この前は背中見なくてよかったんでしょ?」
尚文の眉がわずかに動く。
「余計なことを言うな」
ラフタリアは少し困ったように微笑みながらも、静かに言葉を添えた。
「尚文様、でも事実です」
ベルベットがここぞとばかりに口元を上げる。
「言われてるぞ、盾の勇者」
尚文は不機嫌そうに目を細めたが、反論はしなかった。反論しないこと自体が、前回の共闘をなかったことにはしないという意思表示に見えた。
「……話は終わりだ。次の合図を見落とすな」
「分かった」
尚文はそれ以上言わず、ラフタリアとフィーロを連れて水車小屋を出ていく。扉の隙間から夕暮れの光が差し込み、三人の影は川沿いの道へ溶けるように消えていった。誠司たちはしばらくその場に残り、水車の軋む音だけを聞いていた。
三勇教は二人の接触を監視している。石碑の布は汚され、谷間では罠へ変えられた。だが、それで橋が折れたわけではない。橋は形を変え、薬草の包みや商人の荷、素材屋の帳簿の中へ潜ることになった。
誠司は腰の銃へ手を置いた。尚文は言った。銃が盾の敵になるか、盾の背を守るものになるかは自分次第だと。その言葉は、銃の重みと同じくらい確かなものとして残っている。
夕暮れの川音が、古い水車を軋ませ続けていた。
信頼ではない。友情でもない。
けれど、盾の勇者が自分から呼び、銃の勇者かもしれない男がそれに応じた。
その事実だけは、三勇教の汚した名でも、白い布に塗られた毒でも消すことはできなかった。