宿場の朝は、いつもなら荷車の軋む音と、商人たちの値切り声から始まるはずだった。だが、その日の空気はどこか湿って重く、朝露に濡れた土の匂いの中に、人々が声を潜める気配が混じっていた。廃水車小屋で尚文から呼び出しを受け、銃の性質と三勇教の動きを話し合った翌朝、誠司たちは宿場の市場へ出ていた。
目的は単純だった。食料と薬草の補充、そして次の移動に備えた情報集めである。けれど、誠司は市場へ入った瞬間から、何かが変わっていることに気づいた。昨日までは、見慣れない旅人へ向けられる程度だった視線が、今日はもっと湿ったものになっている。まるで、自分の背に貼り付いた何かを、人々が恐る恐る読もうとしているようだった。
「聞いたか、盾の悪魔に妙な仲間がついたらしいぞ」
乾物を並べる商人の声が、露店の陰から漏れてきた。誠司は足を止めかけたが、すぐ横にいたシノンが小さく袖を引いた。
「剣でも槍でも弓でもない、音を立てて火を吐く武器を持つ男だろう」
別の旅人が、荷袋を抱えながら声を潜める。聞こえないように話しているつもりなのだろうが、噂というものは隠そうとするほど輪郭を持つ。誠司の耳には、いやに鮮明に届いた。
「三勇教の巡礼者が言っていた。銃の異端とかいうらしい」
その言葉が落ちた瞬間、誠司の胸の奥で何かが冷えた。符に書かれていた文字として見た時よりも、民衆の口から出た言葉として聞いた方が、ずっと生々しかった。銃の異端。敵の報告書の中にあった呼称が、もう市場の埃と魚の匂いの中へ紛れ、誰かの恐怖として流れ始めている。
「……銃の異端」
誠司が思わず呟くと、シノンはすぐに声を抑えた。
「誠司、反応しないで。向こうはまだ、あなたの顔までは確信していない」
その判断は正しい。商人たちは銃を持つ男という特徴を語っているだけで、誠司の顔を知っているわけではない。だが、腰の銃は隠しようがない異物であり、この宿場の中では剣や槍よりもずっと目立つ。見られるというだけで、体の表面を薄く削られていくようだった。
ベルベットは市場の人混みを見回し、怒りを押し殺した低い声で言った。
「随分と仕事が早いな。あの符が出たと思ったら、もう噂か」
ヒッポリュテは、商人たちの視線が自分たちへ届く前に逸れていく様子を観察していた。女王であった彼女は、人の群れがどのように不安を共有し、どのように敵の名を欲しがるかを知っている。
「名を先に流したのだ。顔を知らぬ民にも、恐怖だけは植えられる。そうすれば、誰かがその名に似た者を見つけた時、事実を確かめる前に距離を取る」
誠司は市場の中央へ向かう足を動かした。立ち止まってしまえば、自分が噂の当人だと認めるようなものだ。歩きながら、尚文が廃水車小屋で言った言葉を思い出す。王都に知られれば、勇者として利用されるか、異端として潰される。どちらに転んでも、意思だけでは済まなくなる。あの警告は、今朝にはもう現実の輪郭を持ち始めていた。
食堂へ入ると、空気の変化はさらに明確になった。いつもなら女将が席を指して、適当に座れと言うだけだったが、今日は店に入った瞬間、客の会話が一度だけ細く途切れた。すぐに何事もなかったように声は戻る。しかし、戻った声の中には、明らかにこちらを避けるための不自然な明るさが混じっていた。
食堂の女将は、困ったような顔で近づいてきた。悪人ではない。むしろ昨日までは、旅人相手にも気安く声をかける、気のいい女将だった。
「すまないね、今日は奥の席を使ってくれるかい。表の席は、ほかの客が落ち着かなくてね」
誠司は、反射的に問い返していた。
「俺たち、何かしましたか」
女将は目を逸らした。答えは、その沈黙だけで十分だった。
「そういうわけじゃないんだよ。ただ、最近は物騒な話が多いからね」
ベルベットの視線が鋭くなる。
「物騒な話を広めてる奴らの名前は出さないんだな」
女将の肩がびくりと震えた。彼女自身が噂を作ったわけではない。ただ、噂に怯え、客の目を気にし、店を守るために面倒を避けようとしている。そのことは分かる。分かるからこそ、怒りの矛先を向けるには苦かった。
シノンがベルベットへ視線を向ける。
「ベルベット、今は抑えて。ここで言い返せば、周りは余計に怖がる」
ベルベットは歯を噛みしめたが、それ以上は言わなかった。誠司もまた、自分の中で込み上げるものを押し込める。ここで声を荒げれば、銃の異端はやはり危険だという話にされる。腰の銃へ手を伸ばす必要などない。怒った顔を見せるだけで、噂は勝手に肉を得る。
「……分かってる。今は騒ぎを起こさない」
誠司は女将へ頷き、奥の席へ向かった。ヒッポリュテはその背に続きながら、店内を一瞥する。
「この場では、怒りより沈黙の方が刃になることもある。だが、その沈黙を弱さと見せぬ立ち方も必要だ」
奥の席へ座っても、食事の味はよく分からなかった。硬いパン、薄いスープ、焼いた干し肉。どれも腹を満たすためには十分なはずなのに、喉を通るたびに小石を飲み込んでいるような感覚があった。誠司は、尚文が王都でどんな視線を浴びてきたのかを考えた。盾の悪魔。波を呼ぶ悪魔。奴隷を連れた卑しい勇者。事実を見ず、名前だけが先に歩く世界で、彼はずっとラフタリアとフィーロを連れて歩いていた。
食堂を出たあと、誠司たちは薬草店へ向かった。前回、尚文からの伝言を運んできた子供のいる店だ。噂が広がっているなら、この店も距離を置くかもしれない。誠司はそう考え、扉へ伸ばす手をわずかに止めた。
しかし、店主は誠司たちを見ると、少しだけ顔をしかめたあと、普段通りに薬草の束を整え始めた。
「噂は聞いたが、俺はこの目で見たことしか信じない。あんたらが前に魔物を追い払ったことも覚えている」
その言葉に、誠司は一瞬だけ返答を失った。噂の中で全員が同じ色に染まるわけではない。そう分かっていても、実際に目の前で言われると、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「それでも、俺たちと関わるのは危ないかもしれません」
店主は鼻を鳴らした。
「危ない相手なら、とっくに薬草を踏み荒らして奪っているさ。買ってくれる客なら、俺には客だ」
シノンが小さく頭を下げる。
「……ありがとう」
ベルベットは腕を組み、少しだけ表情を和らげた。
「まともな人間も残ってるらしいな」
ヒッポリュテは店の奥で薬草を束ねている子供を見てから、静かに言った。
「だからこそ、敵は噂を撒く。まともな判断をする者を、恐怖で黙らせるためにな。民が愚かなのではない。恐怖を与えられ続けた民は、考える前に身を守ろうとする」
薬草店を出ると、市場の広場で人だかりができていた。低い台の上に、白い法衣を着た若い男が立っている。正式な司祭というより、神官見習いといった年頃だろう。だが、その声には訓練された響きがあり、人々の不安を煽るには十分だった。
「盾の悪魔は、さらなる異端を引き寄せております。火を吐く異国の武器を携えた男を見かけたなら、決して近づいてはなりません。その者は三勇者の加護に背き、波の混乱へ乗じて民を惑わす者であります」
群衆の中で、誰かが息を呑んだ。
「銃の異端ってやつか。波を呼ぶ悪魔の仲間だって聞いたぞ」
「そんな奴がこの宿場にいるなら、早く追い出した方がいいんじゃないか」
言葉が増える。増えた言葉は、すぐに人々の視線を動かす。誰かが誠司たちの方へ目を向け、すぐに逸らした。別の誰かが、誠司の腰にある銃を見た。視線の糸が一本、また一本と絡みついてくる。
ベルベットが低く呟く。
「……黙らせるか」
その声音には、冗談の色がない。誠司は首を振った。
「駄目だ。ここで手を出したら、あいつらの言葉が本当になる」
「言わせておくのか」
ベルベットの問いは鋭い。誠司自身も、黙って聞いていることが正しいとは思えなかった。だが、神官見習いは誠司を名指ししていない。特徴を挙げ、恐怖を煽り、群衆の反応を待っている。もし誠司が怒って前へ出れば、民衆はその姿を噂の答えとして受け取るだろう。
「今は。けど、忘れない」
シノンは広場の屋根、路地、神官見習いの周囲へ目を向けていた。
「射線が通っている場所にいるのは、私たちじゃなくて向こう。挑発して、反応を見ようとしてる。たぶん、どこかで見張りが記録してる」
ヒッポリュテの声は冷静だった。
「これは戦場だ。ただし、剣を抜いた者から敗者になる戦場だ。あの若者は刃ではなく、民の目をこちらへ向けている」
誠司は神官見習いを見た。彼は正義を語る顔をしている。自分が誰かを追い詰めているという自覚があるのか、それとも教えられた言葉をそのまま唱えているのかは分からない。だが、その声が人々の不安へ形を与えていることだけは確かだった。
広場を離れ、宿場の外れまで歩いたところで、誠司はようやく息を吐いた。握りしめていた拳が痛む。銃を抜かなかったというだけで、何かに勝ったわけではない。むしろ、言い返せなかった悔しさだけが残っている。
「尚文さんは、ずっとこれを浴びてきたのか」
誠司の呟きに、シノンが静かに答える。
「同じだとは言えない。でも、少しだけ見えたんだと思う」
ベルベットは吐き捨てるように言った。
「胸糞悪いな。敵を作ってから、正義の顔で石を投げる。しかも、自分の手を汚してないつもりでいる」
ヒッポリュテは市場の方角を振り返らずに、静かに言葉を置いた。
「群れは、恐怖を与えられると敵を欲しがる。三勇教はその敵の名を用意しているのだ。盾の悪魔、銃の異端。名を与えれば、民は恐怖の置き場所を得る」
「銃の異端って名を押し付けられても、俺はそれで自分を決めない」
誠司は腰の銃へ手を置いた。尚文に言われた言葉が、再び胸の中で響く。銃が盾の敵になるか、盾の背を守るものになるかは自分次第だ。今なら、その意味が少し分かる。銃を抜いて撃つことだけが選択ではない。撃たないことで守らなければならないものもある。
シノンは誠司を見て、穏やかではあるが強い声で言った。
「それでいい。撃つ理由を他人に決めさせたら、その銃は本当に危なくなる」
夕方近くになって、薬草店の子供が宿へやってきた。今度は薬草の包みではなく、小さく折った紙だけを持っている。子供は少し息を切らしながら、それを誠司へ差し出した。
「また怖い兄ちゃんからだよ。今度は紙だけ渡せって」
誠司は膝を折って子供と目線を合わせた。
「ありがとう。巻き込んでごめん」
子供は困ったように笑った。
「父ちゃんが、客から預かっただけなら仕事だって言ってた」
その言葉に、誠司は薬草店の主人の顔を思い出した。噂に呑まれない人間がいる。その事実は、小さくても支えになる。誠司は礼を言い、子供が去ったあとで紙を開いた。
そこには、短い文だけが書かれていた。
「言っただろう。名を汚される前に、動き方を選べ」
誠司が読み上げると、ベルベットは肩を竦めた。
「本当に可愛げのない伝言だな」
シノンは紙片を見つめ、静かに言う。
「でも、忠告としては正しい」
ヒッポリュテも頷いた。
「盾の勇者は、既にその道を歩かされている。だからこそ、この言葉は軽くない。名を汚された者が、名に従って暴れれば、敵はそれを証拠に変える」
誠司は紙を丁寧に折りたたんだ。
「分かってる。銃の異端なんて名で、俺の撃つ理由を決めさせない」
夜が近づくにつれて、宿場のざわめきは少しずつ静まっていった。だが、噂そのものが消えたわけではない。食堂の奥の席、露店の陰、井戸端の囁き。銃の異端という名は、宿場の空気の中へ薄く溶け込み、目に見えない霧のように残っている。
ベルベットは窓辺から外を見ながら言った。
「で、どうする。噂を消して回るか」
ヒッポリュテは首を振る。
「噂は刃より掴みにくい。消すより、別の事実を積む方がよい。助けた者、取引した者、見ていた者の記憶は、教会の言葉ほど大きくなくとも、完全には消えぬ」
シノンも静かに同意した。
「助けた人、取引した人、見ていた人。全部が敵になるわけじゃない。今日の薬草店みたいに、自分の目で見ようとする人もいる」
誠司は窓の外に見える市場の灯を見た。あの広場では、まだ誰かが銃の異端という名を語っているかもしれない。明日には、別の宿場へ流れているかもしれない。それでも、ここで怒りに任せて動けば、三勇教が望む姿を自分から演じることになる。
「なら、俺たちは今まで通り動く。守れる人を守って、三勇教の嘘を少しずつ崩す」
ベルベットは呆れたように息を吐いた。
「時間のかかるやり方だな」
「でも、今ここで怒りに任せたら、それこそ向こうの思い通りだ」
ヒッポリュテは誠司を見つめ、女王としての厳しさと、仲間としての認める色を同時に宿した声で言った。
「よい。名を奪われたなら、行動で奪い返せ。群れは言葉で動くが、言葉だけで生きるわけではない。積み重ねた行いは、いずれ別の名を呼ぶ」
誠司は腰の銃へ手を置いた。銃の異端。そう呼ばれたとしても、その名に従って撃つつもりはない。盾の悪魔と呼ばれてなお、守るために立つ尚文の背を思い出す。ならば自分も、銃の異端と呼ばれてなお、守るために撃つ意味を手放してはならない。
市場の灯が一つ、また一つと落ちていく。宿場は眠りへ向かっていたが、三勇教が撒いた噂は眠らない。明日の朝には別の口から語られ、別の耳へ入り、別の恐怖へ形を変えるだろう。
それでも、誠司はその名に膝を折らないと決めた。
撃つ理由を他人に渡さない。
銃の異端という名を押し付けられても、守るために撃つと決めた銃だけは、自分の手で握り続ける。
その決意だけが、夜へ沈む宿場の中で、静かに火のような熱を残していた。