宿場の朝は、昨日よりもいっそう息苦しかった。市場へ出れば、露店の布が風に揺れ、荷車の車輪が石畳を鳴らし、焼いた穀物の匂いが通りへ流れている。それなのに、人々の声はどこか薄く、誰もが自分の隣にいる相手の耳を気にしながら話しているようだった。三勇教が撒いた「銃の異端」という名は、目に見えない灰のように宿場の空気へ混ざり、昨日までただの旅人だった誠司たちの輪郭を、恐怖の形へ塗り替えようとしていた。
誠司たちは、いつものように補給を済ませるため薬草店へ向かった。昨日、噂を聞いても自分の目で見たものを信じると言ってくれた店だ。尚文からの伝言も、その店の子供を通して届いている。だからこそ、誠司は歩きながら胸の奥に小さな重みを抱えていた。自分たちと関わったことで、あの店に余計な危険が向いていないかという不安が、足を進めるたびに濃くなっていく。
店の前へ着いた瞬間、その不安は形になっていた。昨日まで店先に並んでいた薬草の籠は半分ほど奥へ下げられ、通りを歩く人々も、店の前を通る時だけ歩幅を速めている。壁には乾いた泥が叩きつけられた跡が残り、扉の横には下手な文字で「異端に薬を売るな」と書き殴られていた。
「……店の前、人が少ないな。昨日までは、もっと客がいたはずだ」
誠司が呟くと、シノンは店の壁と地面を順に見た。
「壁を見て。泥を投げられた跡がある。扉の近くの土も荒れてるから、誰かが夜の間に来たんだと思う」
ベルベットの目が冷たく細まる。
「扉にも何か書かれてるな。異端に薬を売るな、だとさ」
その文字は、子供が悪戯で書いたような雑さではなく、誰かを怯えさせるためだけに刻まれた悪意の跡だった。誠司は拳を握り、喉の奥で苦いものを飲み込む。
「俺たちのせいか」
ヒッポリュテはすぐに否定も肯定もしなかった。女王であった彼女は、罪悪感を慰めるだけの言葉が時に判断を鈍らせることを知っているのだろう。
「敵は貴様を直接斬らず、貴様へ手を差し伸べた者を罰している。これは孤立を作る戦だ。だが、悪意を向けた者の罪まで貴様が背負えば、敵はさらに容易く貴様を操れる」
その時、店の扉が内側から開いた。薬草店の主人は誠司たちを見ると、顔をしかめるでもなく、歓迎するでもなく、いつもの無愛想な表情で顎をしゃくった。店の奥では、伝言を届けてくれた子供がこちらを見ていたが、その手は薬草の束を握ったまま強張っている。
「入るなら早く入れ。外で突っ立ってる方が目立つ」
誠司は店内へ入る前に、扉横の落書きへ視線を落とした。
「すみません。俺たちと関わったせいで」
主人は薬草の束を棚へ置きながら、呆れたように鼻を鳴らした。
「まだ謝るには早い。薬草を買うなら客だし、謝りに来ただけなら邪魔だ」
店内は薬草の青い匂いに満ちていたが、昨日よりも棚の影が深く見えた。窓の板は半分閉じられ、外から石が投げ込まれても直接商品に当たらないようにしてある。子供は誠司たちへ近づこうとしたが、店主が軽く手で制した。怖がっているのを隠しているわけではない。怖がりながら、それでも店を開けているのだ。
「噂は聞いた。昨日よりひどくなってる。だが、俺は客を客として扱っただけだ」
主人はそう言い、誠司を正面から見た。
「でも、そのせいで店が狙われてる」
「そのせい、じゃない。狙ってる奴らが悪い。そこを間違えるな」
その言葉は、慰めというより叱責に近かった。誠司が勝手に罪を背負い、勝手に距離を置こうとすることを許さない声だった。
シノンは窓の隙間から外を見ながら、静かに口を開く。
「それでも、危険は増えています。今夜あたり、また何かされるかもしれません」
子供が小さな声で言った。
「昨日、店の裏に石が落ちてた。誰かが投げたんだと思う」
ベルベットの気配が、刃のように鋭くなった。
「子供を脅して正義のつもりか。気に入らないな」
ヒッポリュテはベルベットを横目で見た。
「怒りは分かるが、刃の向け方を誤るな。敵はそれを待っている。ここで我らが暴れれば、異端が薬草店を拠点に暴力を振るったという話へ変えられる」
誠司はしばらく黙っていた。助けたいから店に残る。だが、残れば標的としての印を濃くするかもしれない。離れれば安全になるとは限らないが、関わり続けることで危険が増えるのも事実だった。どちらにも、綺麗な答えはない。
「今夜、少し離れた場所で見張らせてください。店の中には入らないし、目立つ場所にも立たない。迷惑ならすぐ離れます」
主人は誠司を見て、次にベルベットたちを見た。やがて、棚に置いた薬草の位置を直しながら言う。
「勝手にしろ。ただし、店の前で派手に暴れるな。俺の商売が終わる」
ベルベットが片眉を上げる。
「ずいぶん注文が多いな」
「客なら代金を払う。護衛のつもりなら、店に損をさせるな。それだけだ」
その強さに、誠司は少しだけ救われた。守られるだけの相手ではない。恐怖を知りながらも、自分の店を自分の足で守ろうとしている人だった。
夜が来ると、宿場は昼間よりも静かになった。だが、静けさの質が違う。眠っている町の静けさではなく、息を潜めて何かを待っている静けさだった。誠司たちは薬草店の周囲へ散り、店との関係が外から明確になりすぎないよう距離を取った。
シノンは向かいの屋根の影へ上り、通りと裏道を見渡せる場所を確保した。ベルベットは店の横へ続く細い路地に身を潜め、逃げる者がいれば捕まえられる位置へ入る。ヒッポリュテは裏手を押さえ、カリオンを離れた木陰へ待たせていた。
「正面から見張ると、店と私たちの関係がはっきりしすぎる。私は屋根の影から見る」
シノンの声が、暗がりから小さく届いた。
「私は路地だな。逃げる奴がいれば捕まえる」
ベルベットがそう言うと、ヒッポリュテも低い声で続ける。
「私は裏手を押さえる。民を装った者と、民を使う者は足運びが違う」
誠司は店の見える通りの端へ立った。銃は腰にあるが、手は触れない。触れただけで、誰かが見ていれば都合のいい物語へ変えられる。銃の異端が武器に手をかけた。店を脅した。町人を威嚇した。そうした言葉は、真実よりも速く走る。
「俺は店の見える場所に立つ。でも銃は抜かない」
ベルベットの声が路地から返る。
「抜かずに止められるのか」
「抜いた瞬間、向こうの話になる。銃の異端が薬草店を盾に暴れたって」
シノンが静かに補った。
「それでも危険なら撃つ。けど、最初の一手は撃たない方がいい」
夜が深まる頃、数人の男たちが通りの向こうから現れた。酒に酔っているふりをしているが、足取りは妙に揃っている。手には布に包まれた石と、油の入った小瓶があった。彼らは笑い声を上げながら歩いているが、目だけは薬草店の窓と扉を確認している。
「異端に薬を売る店なんて、少し痛い目を見た方がいいんだ」
男の一人がそう言うと、別の男が小瓶を持ち上げる。
「三勇教の人も言ってた。悪魔に関わる奴は災いを呼ぶってな」
誠司は通りの影から出た。走らず、怒鳴らず、ただ店と男たちの間へ入る。銃には触れない。けれど、逃げるようにも見せない。
「その石を置いて、ここから離れてください」
男たちが振り向いた。彼らの視線は誠司の顔ではなく、真っ先に腰の銃へ落ちる。
「出たな、銃の異端」
誠司はその名を飲み込んだ。怒りを見せれば、男たちは自分たちが正しい相手を見つけたと思うだろう。
「そう呼びたいなら勝手に呼べ。でも、店に石を投げる理由にはならない」
小瓶を持った男が後ずさるふりをしながら声を上げた。
「近づくな。火を吐く武器で脅す気だろ」
「銃は抜いていない。脅しているのは、石を持っているあなたたちだ」
男たちは一瞬だけ言葉に詰まった。彼らは誠司が怒ることを期待していたのだろう。銃へ手をかけ、怒鳴り、威嚇する姿を見せれば、それだけで十分だったはずだ。だが、誠司が何も抜かず、ただ店の前に立つだけなら、彼らは自分の手にある石と油の意味から逃げられない。
屋根の影から、シノンの声がかすかに届いた。
「誠司、左奥の路地。見ている男がいる。町人たちの動きに合わせて合図してる」
ヒッポリュテも裏手から低く言う。
「民を動かし、己は影に立つ。三勇教の小犬だな」
ベルベットの気配が路地の奥で動いた。
「なら、そいつを捕まえればいい」
誠司は目の前の男たちから視線を逸らさずに答える。
「店の前は俺が止める。ベルベット、逃げ道を塞いでくれ」
「言われなくても」
路地の奥で短い悲鳴が上がった。指示役らしき男が逃げようとしたのだろう。だが、ベルベットが横から回り込み、ヒッポリュテが裏手の道を塞いだ。シノンの矢が男の足元へ突き刺さり、逃げ足を止める。
「な、何だ、お前たちは!」
指示役の声が裏返った。ベルベットが低く笑う。
「人を煽るなら、逃げる道くらい用意しておけ」
店の前では、石を持った男たちが動揺していた。自分たちが誰かに使われていたことに気づいた者もいるのだろう。それでも、引き下がるには面子が邪魔をしているらしい。
「そいつを離せ。俺たちは教会の言う通りに」
誠司は一歩も動かず、声を荒げないまま問い返した。
「教会が言ったら、子供のいる店に石を投げてもいいんですか」
男の一人が言葉を詰まらせる。
「それは……でも、異端と関わる店なんだろ」
「この店は薬を売っているだけだ。あなたたちが怪我をした時にも、きっと薬を売る」
「綺麗事を言うな」
「綺麗事でいい。けど、今この場で石を投げたら、あなたたちはただの加害者になる」
その言葉が通りに落ちると、店の扉が内側から開いた。薬草店の主人が、ランプを手に出てくる。子供は店の奥にいるのか、姿は見えない。
「薬が必要なら売る。石を投げるなら帰れ。うちは教会じゃなく、薬草店だ」
その声は大きくない。けれど、店主として自分の店の前に立つ者の重みがあった。男たちは顔を見合わせ、やがて一人が石を落とした。その音が通りへ響くと、他の者も気まずそうに石や小瓶を手放し、悪態を吐きながら去っていく。
一方で、ベルベットは指示役を壁へ押しつけていた。男の懐からは、小さな紙片が落ちている。ヒッポリュテがそれを拾い、月明かりにかざした。
「薬草店の位置と、異端協力者という文字がある」
ベルベットの表情が険しくなる。
「随分と便利な札だな。貼れば誰でも悪者にできる」
ヒッポリュテは紙片を折りたたみ、誠司へ見えるように差し出す。
「名を貼り、民に石を持たせる。やはりこれは戦だ」
指示役の男は顔を青くしていた。
「俺は頼まれただけだ。あの神官見習いが、少し脅せばいいって」
誠司が近づく。
「誰に頼まれた」
男が答えかけた瞬間、遠くから小石が飛んできて、足元の空き瓶を割った。男はその音に驚き、ベルベットの腕をすり抜けようともがく。ベルベットが捕まえ直すより早く、通りの影から別の人影が走り、男は混乱に乗じて路地へ転がるように逃げ出した。
シノンが弓を構える。
「追えば捕まえられる」
誠司は店の扉と、ランプを持った主人を見た。ここで全員が追えば、店はまた無防備になる。
「今は店を守る方が先だ。追うなら、次に痕跡を拾えばいい」
シノンは一瞬だけ迷ったが、弓を下ろした。ベルベットは悔しげに舌打ちする。
「逃がしたな」
「でも、紙片は残った。店に石も投げさせなかった」
誠司がそう答えると、ベルベットは何か言いかけて、結局黙った。彼女も分かっている。今夜の勝ち方は、敵を倒すことではなかった。噂に望まれた姿を演じず、店を壊させず、民衆を加害者の線の手前で止めることだった。
薬草店の主人は扉の前でランプを下ろし、誠司へ視線を向けた。
「また謝る顔をしているな」
誠司は言葉に詰まったが、結局言わずにはいられなかった。
「すみません。やっぱり、俺たちと関わったせいで」
「またそれか。さっきも言っただろう。悪いのは石を投げようとした奴と、石を持たせた奴だ」
店の奥から子供が顔を出した。目元には涙が滲んでいるが、泣き出すのをこらえている。
「でも、怖かった」
誠司は胸を締めつけられるような痛みを覚えた。
「ごめん」
主人は子供の頭へ手を置き、誠司へ向き直る。
「謝るなら、次も薬草を買いに来い。客が減った分、売上が必要だ」
ベルベットが呆れたように言う。
「商魂たくましいな」
「怖がって店を閉めたら、それこそ連中の勝ちだ」
ヒッポリュテは、主人を見て静かに頷いた。
「よい店主だ。民とは守られるだけの存在ではない。自ら立つ者もいる」
シノンも小さく同意する。
「なら、私たちはその邪魔をしないように守るしかない」
誠司は店主と子供を見た。守るとは、相手を自分の都合で囲い込むことではない。危険だから離れろと勝手に決めることでもない。相手が立つ場所を選ぶなら、その選択を踏みにじらせないようにすることだ。
「分かりました。俺たちは、あなたの店を盾にはしません。でも、狙われたなら見捨てません」
主人は短く笑った。
「それでいい。あんたらも、変な名前に飲まれるなよ」
その頃、宿場の外れでは、逃げた指示役が息を切らしながら神官見習いの前へ膝をついていた。昼間に市場で銃の異端を語っていた若い神官見習いは、報告を聞くうちに顔をしかめる。
「銃の男は武器を抜きませんでした。町人を殴りもせず、店主も引きませんでした」
神官見習いは唇を噛み、背後の暗がりへ振り返る。そこには、より上位の教会関係者らしき男が立っていた。顔は月明かりの届かない位置にあり、声だけが冷たく響く。
「なら、次は民の不安だけでは足りませんね」
神官見習いが低く頭を下げると、その男はさらに告げた。
「異端に手を貸す者が増える前に、証を作れ。噂ではなく、罪をな」
宿場の夜は、何事もなかったように深まっていく。薬草店の前に石は投げ込まれず、油の小瓶も割れなかった。だが、三勇教の手が引いたわけではない。噂で動かせないなら、次は罪を作る。その冷たい意図が、まだ闇の向こうで息を潜めていた。
誠司は薬草店の前で、消えかけたランプの火を見つめていた。今夜、銃は抜かなかった。それでも守れたものがある。守るために撃つ銃を持つ者として、撃たずに守る夜があることを、彼はようやく自分の痛みとして理解し始めていた。