宿場の朝は、夜の嫌がらせが嘘だったかのように動き始めていた。薬草店の扉は開き、主人はいつもの無愛想な顔で薬草を束ね、子供は時折外の様子を気にしながらも棚の整理をしている。昨夜、石と油の小瓶を持った男たちは引き下がり、誠司は銃を抜かずに店を守った。だが、それで三勇教の悪意が折れたわけではない。
むしろ、宿場の空気は前日よりも粘りを帯びていた。噂は人から人へ渡るうちに形を変え、誰が最初に言ったのか分からないほど薄く広く広がっていく。銃の異端という言葉は、もう一つの珍しい悪口ではなく、何かが起きた時に当てはめるための器になりつつあった。
その器へ、次の悪意が注ぎ込まれたのは、朝市が半ばを過ぎた頃だった。
「街道の外れで荷車が襲われたらしい。商人が怪我をしたって話だ」
乾いた声が、人混みの中から流れてきた。誠司たちは宿場の端で食料を買っていたが、その声に自然と視線が向いた。旅人らしき男が、荷袋を肩に掛けた商人へ早口で話している。
「盗賊か?」
「いや、銃声がしたらしい。火を吐く異国の武器の痕もあったって」
その瞬間、市場のざわめきが不自然に細くなった。人々は会話をやめたのではなく、同じ話題へ耳を寄せるように声の向きを変えた。誰かが息を呑み、別の誰かが小さく呟く。
「銃の異端じゃないのか。昨日も薬草店の前にいたらしいぞ」
誠司は指先が冷えるのを感じた。昨夜、銃は抜いていない。薬草店の前に立ち、石を置けと告げただけだった。けれど、噂はその事実を踏み台にして、別の事件へ飛び移っている。銃を抜かなかったという事実を、街道の外れで鳴ったという銃声が上書きしようとしていた。
「……俺は昨夜、薬草店の前にいた。誰も撃ってない」
声は思ったより低く出た。自分で言ってから、それが市場の誰かへ向けた否定ではなく、自分自身を保つための確認だったと気づく。シノンはすぐに周囲の視線を見て、誠司の袖を軽く引いた。
「だからこそ、向こうはそこを利用してる。銃を抜かなかった事実を、外の事件で上書きするつもりなんだと思う」
ベルベットの目が鋭くなる。昨夜の怒りとは違う、もっと深く冷えた殺気が滲んでいた。
「やってもいないことまで押しつけるか。腐り切ってるな」
ヒッポリュテは、騒ぎの中心ではなく、それを聞いた民衆の顔を見ていた。女王だった彼女にとって、真に危ういのは事件そのものだけではない。事件を聞いた群れが、どんな方向へ心を傾けるかだった。
「噂は既に走り始めた。追うなら言葉ではなく、痕跡を追え。ここで叫べば、焦りを罪の匂いとして扱われる」
誠司は深く息を吸い、拳を開いた。否定したい。違うと叫びたい。だが、その衝動そのものが、三勇教の望む姿なのだろう。怒りに駆られた銃の異端。火を吐く武器を持ち、民の前で声を荒らげる男。彼らはきっと、その絵を待っている。
誠司たちは市場を離れ、薬草店へ向かった。店主なら、襲われた商人のことを何か知っているかもしれない。薬草店の扉を開けると、主人は既に騒ぎを耳にしていたのか、棚の奥から古い帳簿を取り出していた。
「襲われた商人は知ってる。うちにも乾燥薬草を運んでくる男だ」
「怪我の具合は?」
「死んじゃいないらしい。ただ、荷を壊されて、護衛が一人怪我をしたと聞いた」
誠司は胸の奥で少しだけ安堵したが、すぐに表情を引き締めた。死者が出ていないからといって、罪を着せられる危険が軽くなるわけではない。むしろ、殺人ではない分だけ噂は扱いやすく、民衆の不安を煽るには十分だった。
ベルベットが問いを投げる。
「銃の異端に襲われた、という話はどこから出た」
主人は帳簿をめくりながら、苛立たしげに眉を寄せた。
「現場を見たって奴が言い出したらしい。だが、そいつが本当に見たのかは分からない。話を聞いた連中は、銃声がしたという部分だけを喜んで拾っている」
シノンは窓の外を確認し、静かに言った。
「現場を見る必要がある。噂が固まる前に、痕跡を確かめたい」
主人は誠司たちを見回すと、店の奥から地味な外套を四枚出してきた。
「あんたらが行くなら、顔を隠して行け。今の宿場で正面から歩けば、見られただけで話を作られる」
「ありがとうございます」
誠司が受け取ると、主人は厳しい声で付け加えた。
「礼はいらん。証拠を拾うなら、拾った相手を間違えるな。群衆へ見せても、見たいものしか見ない奴はいる」
その言葉は、尚文からの伝言とよく似ていた。否定するな。証拠を残せ。怒れば負ける。まだ届いていないはずの言葉を、誠司は先に聞いたような気がした。
街道外れへ向かう道中、四人は人目を避けて林沿いを歩いた。風は乾いており、足元の草が擦れる音が妙に大きく聞こえる。誠司は外套の下で銃の重みを感じながら、何度も自分の中で昨夜の出来事を確かめていた。抜いていない。撃っていない。だが、撃っていない事実は、撃ったという噂よりも弱いのかもしれない。
「本当に俺がやってないって叫んでも、誰も聞いてくれないんだろうな」
思わず漏れた言葉に、ヒッポリュテが答える。
「叫ぶ者は焦っているように見える。焦りは罪の匂いとして扱われる。敵が求めるのは、貴様の怒りそのものだ」
ベルベットは不機嫌そうに枝を払いながら言う。
「じゃあ黙って殴られろってことか」
シノンは首を振った。
「違う。証拠を集める。撃ってないなら、撃ってない痕跡がある」
「撃ってない痕跡……」
「銃は嘘をつかない。偽装した痕は、本物とどこか違う」
その言葉に、誠司は少しだけ足元を見る目を変えた。銃は恐怖の象徴にされようとしている。だが同時に、本物の銃を知る自分たちだからこそ見抜ける嘘もある。敵が銃声を作ったのなら、その作り物には必ず綻びが残る。
襲撃現場は、街道から少し外れた緩い坂の下にあった。荷車は斜めに倒れ、片方の車輪が外れている。木箱がいくつか割れ、乾燥薬草や布袋が地面へ散らばっていた。近くには血の跡があるが、量は多くない。護衛が怪我をしたという話と合っている。
問題は、荷車の側面に残された焦げ跡だった。
それは一見すると、何か熱い弾が木を抉った痕に見える。だが、誠司は近づいた瞬間に違和感を覚えた。焦げた部分が浅く、木の裂け方が足りない。自分の銃で撃てば、木は焼けるより先に割れる。着弾の衝撃が中心から広がり、繊維が弾けるはずだ。
シノンも同じことに気づいたらしい。彼女はしゃがみ込み、焦げ跡の周囲を指でなぞった。
「焦げ跡が浅い。銃弾が通ったなら、木の割れ方がもっと違う」
誠司は木箱の破片を手に取り、断面を確認した。
「俺の銃で撃てば、焦げるより先に木が割れる。これは焼いた跡を弾痕っぽく見せてる」
ベルベットは鼻を鳴らした。
「雑だな」
ヒッポリュテは首を横に振る。
「民に見せる偽装なら、精密である必要はない。恐怖へ似ていれば十分なのだ。銃を知らぬ者には、焦げた穴だけで物語が完成する」
シノンは荷車の下へ手を伸ばし、小さな金属片を拾った。煤で黒ずんでいるが、魔道具の破片に見える。薄い刻印が残っており、前に見た三勇教の道具ほど明確ではないが、似た系統の加工が施されていた。
「これ、魔道具の破片だと思う。音を出すだけのものかもしれない」
「銃声を作ったのか」
誠司の声が低くなった。撃っていないのに、銃声だけを作る。焦げ跡を残し、人々に銃の異端の噂を思い出させる。商人を襲うことより、誠司の名へ罪を貼りつけることが目的なのだ。
少し離れた場所で、負傷した護衛が商人に肩を貸されながら座っていた。傷は腕にあり、布で強く縛られている。誠司が近づくと、護衛は外套の下の銃に気づいたのか、警戒した目を向けた。
「音は聞いた。火花も見た。だが、撃った男の顔は見ていない」
誠司はその警戒を受け止める。
「俺ではありません」
護衛は苦しげに息を吐いた。
「そう言われても、俺には分からない。あの音を聞いた時、銃の異端の話を思い出した。火を吐く武器だと聞いていたからな」
シノンが静かに言う。
「音を聞かせて、噂と結びつけた。そういう仕掛けです」
商人は壊れた荷箱を見つめていた。怒りと恐怖と困惑が混ざった顔だった。
「俺は荷を壊され、護衛も怪我をした。真犯人が誰でも、早く捕まえてほしい」
ヒッポリュテは商人へ向けて、無駄な慰めを言わなかった。
「被害者は敵ではない。だが、敵に利用されている。貴様らの恐怖を、別の者の罪へ変えようとしているのだ」
ベルベットが低く続ける。
「だから余計に腹が立つ」
その時、シノンの視線が林の奥へ動いた。
「待って。林の奥に人影。こっちを見てる」
ベルベットは反射のように走り出した。
「今度こそ逃がさない」
林の奥で、灰色の外套を着た男が身を翻す。前回の指示役とは違うが、動きは似ていた。現場がどう扱われるかを見に来た使い走りだろう。ヒッポリュテも横へ回り込もうとしたが、男は最初から逃走路を用意していたらしく、倒木の陰から細い獣道へ滑り込む。
誠司は銃へ手をかけかけた。牽制弾で足元を撃てば、止められるかもしれない。だが、周囲には商人と護衛がいる。ここで銃声を鳴らせば、偽装された銃声と本物の銃声が重なる。三勇教の欲しい絵が完成してしまう。
「ここで撃てば、また銃声が証拠にされる」
ベルベットが苛立たしげに叫ぶ。
「面倒な戦いだな、本当に」
逃げる男は振り返り、口元を歪めた。
「民は証拠より恐怖を信じる。銃の異端がここに来た時点で、我らの勝ちだ」
シノンが弓を構えるが、ヒッポリュテが制した。
「追うな。罠の奥へ誘われている。ここで深追いすれば、第二の現場を作られる」
男は林の奥へ消えた。ベルベットは追いたい気配を全身から滲ませていたが、誠司を見て踏みとどまった。誠司は自分の手がまだ銃へ触れていることに気づき、ゆっくり離した。
完全には勝てない。今はそういう戦いなのだ。
誠司たちは、銃声魔道具の破片、焦げ跡のある木片、足跡の位置を示す土の型を集めた。シノンは焦げ跡と木の割れ方を簡単に図へ描き、ヒッポリュテは現場の配置を記録する。ベルベットは周囲を警戒し、再び使い走りが戻ってこないか見張っていた。
「魔道具の破片、焦げ跡の木片、足跡の型。これだけあれば、少なくとも全部が俺の銃じゃないことは示せる」
誠司が言うと、シノンは頷きながらも表情を緩めなかった。
「ただ、噂はもう広がってる。証拠を見ない人には届かない」
ベルベットは短く吐き捨てる。
「だったら、証拠を見せる相手を選ぶしかないな」
ヒッポリュテがその言葉を拾う。
「その通りだ。群衆へ叫ぶより、判断できる者へ渡せ。薬草店の主人、素材屋、そして盾の勇者だ。事実を見られる者を繋げば、噂に対する杭になる」
誠司は集めた証拠を包みに入れた。重さはわずかだが、今の彼には鉛のように感じられた。
「尚文さんなら、こういう時どうするんだろうな」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。尚文なら怒らないわけではない。だが、怒りに身を任せれば敵の筋書きが完成することを、誰より知っているはずだった。
宿場へ戻る途中、道の脇にいた行商人が、誠司たちへ小さな包みを差し出した。包みには安い薬草が入っており、その中に折りたたまれた紙片が隠されている。商売ルートを使った伝言だった。
「盾を背負った男から預かった。渡せば分かると言われた」
誠司は紙を開く前から、胸の奥が重くなるのを感じた。
「……また先に読まれてたのか」
紙には、短い文だけが書かれていた。
「否定するな。証拠を残せ。怒れば負ける」
誠司が読み上げると、ベルベットは苦々しく笑った。
「経験者の言葉ってやつか」
シノンは紙片を見つめ、静かに言う。
「短いけど、今一番必要な言葉だと思う」
ヒッポリュテは、尚文がいない方角へ視線を向けた。
「盾の勇者は、この道を既に血で知っている。軽く扱うな。怒りを呑み込み、証拠を積むことは、剣を振るうより苦しい時もある」
誠司は紙を畳み、証拠の包みと一緒に懐へ入れた。
「分かってる。俺は、怒りで向こうの物語を完成させない」
宿場へ戻ると、商人襲撃の噂は既に広がっていた。誰かが銃声を聞いたと言い、誰かが火を吐く武器の痕を見たと言い、誰かが銃の異端の仕業だろうと呟く。誠司はそのどれにも反応しなかった。叫びたい言葉はある。だが、今は叫ぶことより残すことが必要だった。
宿の部屋へ戻り、誠司たちは集めた証拠を机に並べた。魔道具の破片、焦げた木片、土の型、シノンの描いた簡単な現場図。それらは小さく、噂の大きさに比べればあまりにも頼りない。だが、何もないよりは確かだった。
「俺は撃ってない。でも、撃ってないって叫ぶだけじゃ届かない」
誠司の言葉に、シノンが頷く。
「だから、残す。痕跡も、証言も、誰が見ていたかも」
ベルベットは椅子へ腰を下ろし、机の上の証拠を睨んだ。
「面倒だが、今はそういう戦場なんだろうな」
ヒッポリュテは静かに告げる。
「名を汚す者は、事実を嫌う。ならば我らは事実を積む。たとえ小さな杭でも、数が増えれば流れを留める」
誠司は腰の銃へ手を置いた。銃の異端。火を吐く異国の武器を持つ男。商人を襲った者。そうした名や罪が、自分の外側で勝手に組み立てられている。だが、その物語へ従って撃つ必要はない。撃っていない罪まで背負う必要もない。
「銃の異端って呼ばれても、俺はその名で撃たない。撃ってない罪まで背負う気もない」
窓の外では、宿場の夕暮れがゆっくり沈んでいた。市場の方からはまだ噂の残り火が聞こえる。三勇教の使い走りは、きっと次の報告へ向かっているだろう。偽装は一度で終わらない。銃声を作れる魔道具があるなら、彼らはまた別の場所で罪を作るかもしれない。
それでも誠司たちは、初めてその偽装の一部を掴んだ。
怒りではなく、痕跡を。
否定ではなく、証拠を。
そして、盾の勇者が血で知った道の入り口に、銃の勇者かもしれない男もまた立ち始めていた。