市場の朝は、晴れているくせに窓を閉め切った部屋みたいだった。
魚を焼く匂いも、荷車の車輪が石を噛む音も、昨日までと大して変わらないはずなのに、人の声だけが妙に乾いている。誰かが笑うたびに、その笑いの端が少しだけ欠けて、地面に落ちて割れるような気がした。
俺は露店の影から、襲われた商人が取引相手と話しているのを見ていた。
商人の前には、昨日壊された荷の残りが積まれている。乾燥薬草の束、布袋、割れた木箱から移し替えた小瓶。どれも売り物としてはまだ使えるのに、取引相手の男はそれを見るより先に、周りの目を気にしていた。
「悪いが、今回は荷を見送らせてもらう。教会に妙な目で見られるのは困るんだ」
その声は大きくない。けれど、朝の市場ではよく通った。
襲われた商人の肩が、ほんの少しだけ落ちる。すぐに背筋を戻したけれど、俺にはその一瞬が見えてしまった。
「妙な目とは何だ。俺は襲われた側だぞ」
「分かってる。だが、銃の異端を庇ったって話がある。うちまで巻き込まれたくない」
庇った。
たったそれだけの言葉で、昨日の小部屋の空気が別の形に塗り替えられていく。商人は俺を信じたわけじゃない。ただ、見ていないものを見たとは言わないと決めただけだ。それなのに、町はその沈黙の隙間へ勝手に意味を詰め込んでいく。
少し離れた場所では、腕を吊った護衛が別の雇い主に頭を下げていた。だが、相手は困ったように手を振るだけだった。
「俺も仕事を断られた。顔を見ていないと言っただけで、異端を庇った扱いだ」
護衛が吐き捨てる声が、風に乗って届いた。
俺は思わず一歩出そうになった。靴底が石畳を擦り、横からシノンの指が袖を掴む。強くはないのに、その指先だけで体が止まった。
「行くなら、見られるよ」
「でも、あの人たちは」
「今あなたが近づいたら、銃の異端が証言者を脅しているって話にされる」
シノンの声は静かだった。静かすぎて、余計に刺さる。
ベルベットが隣で舌打ちした。
「助けにも行けないのか。面倒にも程がある」
彼女の手は腰のあたりで一度開き、何かを掴む前に握り直された。昨夜なら、彼女は路地の奥へ飛び込んで、糸を引いている奴を壁に叩きつけていただろう。けれど今は、通りの真ん中に立つ商人や護衛の背中が、その刃の行き場を塞いでいる。
ヒッポリュテは、帽子を目深にかぶった行商人たちの列を見ていた。誰が何を見て、誰が何を見ないふりをしているのか、彼女の目は市場全体を地図みたいに読んでいる。
「これは包囲だ。敵は商人を縛り、貴様が近づく道にも毒を塗っている」
「じゃあ、見てるだけか」
自分の声が少し荒くなって、俺は唇を噛んだ。
ヒッポリュテはこちらを責めるでも慰めるでもなく、ただ薬草店の方へ目を向けた。
「守るとは、常に隣へ立つことではない。相手が立つ足場を残すことも守るという」
その言葉を受け止めきる前に、薬草店の主人が店先からこちらへ顎をしゃくった。いつから見ていたのか分からない。いつもの無愛想な顔で、何も言わずに店の奥を指している。
俺たちは遠回りをして薬草店へ入った。
店の中には、薬草の青い匂いが満ちていた。外の市場がざらついた砂なら、ここはまだ湿った土に近い。完全に安全ではない。けれど、踏めば足跡が残る場所だった。
「表で話せば、また噂になる。奥を使え。ただし、今度は短く済ませろ」
主人はそう言うと、商人と護衛を奥の部屋へ通した。
商人は俺を見るなり、渋い顔になった。
「またあんたらか。今度は俺に何をしろと言う」
「何かをしろとは言いません。今、何が起きているのか教えてほしい」
俺はなるべく正面に立ちすぎないよう、机の端へ寄った。相手の逃げ道を塞いでいるように見せたくなかった。
護衛は包帯の巻かれた腕を庇いながら椅子に腰を下ろす。
「仕事を断られた。異端を庇う護衛は雇えないそうだ」
「俺も荷の買い手が減った。証言一つで商売が傾くとはな」
商人は笑おうとして、失敗したみたいに口元を歪めた。
ベルベットが腕を組む。
「証言じゃなくて、証言を潰そうとしてる奴らのせいだろ」
「正論で腹は膨れん。そこが厄介なんだ」
薬草店の主人が棚の薬瓶を並べ替えながら言った。瓶同士が触れ合い、かすかな音を立てる。その音が部屋の沈黙を細く切った。
「俺には家族も商売もある。真実だけで腹は膨れない」
商人は机の上に視線を落とした。指先が帳簿の角を叩いている。一定の間隔ではない。迷いが拍子を乱していた。
「俺も、次の仕事がなくなれば食えない。顔を見ていないと言っただけでこれだ」
護衛の声には、昨日の傷より鈍い痛みがあった。腕の包帯よりも、仕事を断られたという言葉の方が彼の背中を丸めているように見えた。
「だから撤回するのか」
ベルベットの声が落ちる。
商人の目が鋭くなり、部屋の温度が一段下がった。
「ベルベット」
俺が呼ぶと、彼女は俺を見た。何か言い返したそうに口を開きかけ、すぐ閉じる。椅子の脚が床を擦った音だけが残った。
「撤回したいわけじゃない。だが、言葉を濁したくなるくらいには追い込まれている」
商人の言葉は、言い訳というより白旗に近かった。白い布はこの世界で何度も罠になったけれど、今のそれはただ、握りしめた手の中で汚れている布みたいだった。
俺は少しだけ息を吸った。
窓の外では、風が看板を揺らしている。金具が軋む音は、廃水車小屋で聞いた水車の音に似ていた。あの時、尚文さんは俺に言った。俺の銃が盾の敵になるか、盾の背を守るものになるかは自分次第だと。
今、俺の手は銃に触れていない。それでも、選び間違えれば誰かの背を撃つ。
「……俺たちと距離を取ってもいいです。でも、見ていないことを見たとは言わないでほしい」
商人も護衛も、すぐには返事をしなかった。
ベルベットが横で小さく息を吐く。呆れたような、けれど止めはしない吐息だった。
「それだけでいいのか」
護衛が聞いた。
「それだけが、今一番大事なんです」
俺の答えに、護衛は包帯の端を見つめた。そこに何か答えが書いてあるみたいに、じっと見ていた。
ヒッポリュテが机に指を置いた。軽い音が一つ鳴る。
「証言を一人に背負わせるから折れる。ならば分けよ」
シノンがすぐに頷く。
「薬草店、素材屋、行商人。見たことだけを共有する人を増やす」
薬草店の主人は棚から帳簿を取り出し、乱暴に開いた。
「商人の荷は、俺が一部買う。残りは素材屋に話を通す。教会の顔色ばかり見る奴だけが客じゃない」
商人は目を見開いた。
「本気か。あんたの店までまた狙われるぞ」
「もう狙われてる。今さらだ」
主人は帳簿へさらさらと数字を書き込んだ。迷いのない筆先だった。その音を聞いていると、さっきまで部屋に沈んでいた空気が少しだけ動いた気がした。
ベルベットが唇の端を上げる。
「肝が据わってるな」
「ただの商売だ。売れる物を買い、必要な物を売る。それだけだ」
「それを肝が据わってるって言うのよ」
「褒めても薬草はまけんぞ」
「誰が褒めたのよ」
短いやり取りに、シノンがほんの少し目を細めた。笑った、というには小さすぎる。けれど、張り詰めた糸が切れずに少しだけ緩んだのが分かった。
俺は商人へ向き直った。
「俺が表に立つと、あなたたちに余計な噂がつく。だから、俺たちは裏で動きます」
「裏で何をする」
「証拠の写しを分けます。あなたの証言も、顔を見ていないという部分だけを、信頼できる相手に伝えます」
シノンが現場図の複製用に紙を取り出す。
「あなたが一人で背負わなくていいようにする」
「異端に守られている、と言われるぞ」
護衛の声は試すようだった。
俺は少しだけ考えてから答えた。
「守っていると見せないように守る。それが今できることです」
ヒッポリュテの目が、わずかに細くなる。
「よい判断だ。守る手の影を薄くし、守られる者の足を太くする」
言い回しは難しいのに、なぜかすっと胸に入ってきた。俺が前へ出れば守れると思っていたものが、前へ出ないことで守れる場合もある。銃を抜かない夜を越え、今度は姿すら薄くする守り方を選ぶ。ヒーローなら名乗って立つものだと、子供の頃の俺なら思ったかもしれない。けれど、今は違う。変身の名乗りより先に、守りたい人の明日がある。
商人はしばらく黙っていた。
やがて、帳簿の角を叩いていた指を止める。
「勘違いするな。俺はまだ、あんたを完全に信じたわけじゃない」
「はい」
「だが、借りはできた。荷の買い手を繋いでくれるならな」
ベルベットが肩をすくめる。
「随分と素直じゃない礼だな」
「商人の礼は取引で返すものだ」
護衛は自分の包帯を軽く叩き、立ち上がった。
「俺も、顔を見ていないという言葉は変えない。それで仕事を失うなら、まあ、別の雇い主を探す」
シノンが静かに言った。
「強いですね」
「強くはない。撤回したら、俺が見たものまで嘘になる。それが気持ち悪いだけだ」
その言葉を聞いた時、俺は少しだけ息を忘れた。
強さは、剣を振れることだけじゃない。銃を撃てることだけでもない。自分の見たものを、誰かの都合で塗り替えさせないこと。それもきっと、膝が震えるくらい難しい強さだ。
薬草店の奥で、俺たちは証拠と証言を分ける準備を始めた。
木片と魔道具の破片は一つしかない。けれど、それを見た者は増やせる。シノンは現場図を複製し、焦げ跡の特徴と、音が林側から聞こえたという護衛の証言を書き添えた。ヒッポリュテは、素材屋へ渡す分、行商人に託す分、尚文さんへ送る分を別々の包みに分ける。
「証拠を一箇所に置かない。証言を一人に背負わせない」
俺がそう呟くと、ベルベットがにやりとした。
「ようやく、こっちも少しは嫌がらせの仕方を覚えてきたな」
「嫌がらせではない。戦術だ」
「似たようなものよ」
「違う。嫌がらせは怒りの小銭を投げる行為だ。戦術は未来を買うために払う金だ」
「……あんた、たまに妙な例えするわね」
ベルベットが渋い顔をして、シノンが今度こそ少しだけ笑った。薬草店の主人は「例えはともかく、金は払え」とだけ言い、商人が初めて小さく吹き出した。ほんの一瞬だったけれど、その音は確かに部屋の中に落ちた。
笑い声が消えたあとも、空気はさっきより柔らかかった。
疑いが消えたわけじゃない。三勇教の圧力も消えていない。それでも、誰かが少しだけ息を吸える隙間ができた。俺たちはそこへ、薄い紙みたいな証言を一枚ずつ重ねていく。
薬草店から少し離れた路地では、別の足音が動いていた。
それを俺たちが知るのは、まだ少し後のことだ。
路地の影で、密告者が神官見習いへ頭を下げる。市場の喧騒に紛れるような低い声で、男は報告した。
「商人は折れていません。ただ、証言を広げるつもりのようです」
神官見習いは唇を噛んだ。彼の後ろに立つ教会関係者の影は、昼の光の中でも黒く見えた。
「なら、証言より先に物を消すしかない」
上位の男の声は、刃物を布で拭う時みたいに静かだった。
「破片と木片を奪え。なければ、あれは異端の言い逃れに戻る」
その頃、俺は薬草店の奥で、小さな魔道具の破片を布に包んでいた。
欠けた金属片は、掌に乗せると驚くほど軽い。こんなもの一つで、誰かの言葉が曲げられ、誰かの商売が揺らぎ、誰かの仕事が奪われかけている。
「この小さな破片を、あいつらは恐れているんだな」
俺が呟くと、シノンが紙を折りながら答えた。
「恐れているから、消しに来る」
「なら、来た奴から叩けばいい」
ベルベットは当然のように言った。ヒッポリュテが首を振る。
「叩くだけでは足りぬ。奪わせぬ仕組みを作るのだ」
俺は布包みを見つめた。
撃つための銃を持った俺が、今は撃っていない証を守っている。なんだか皮肉で、少しだけ笑いそうになった。でも笑わなかった。掌の上の破片が、まだ温度を持っている気がしたからだ。
「分かった。証拠を守る。人も、言葉も、物も」
外では、夕方の風が市場の埃を巻き上げていた。薄い砂が光の中を舞い、まるで壊れた星屑みたいに見える。綺麗だと思った次の瞬間、それが喉に入れば咳き込むのだと分かる。
噂も、きっと同じだ。
遠目にはただのきらめきに見える誰かの言葉が、人の胸に入った瞬間、呼吸を奪う。
だから俺たちは、息ができる場所を作らなければならない。
銃を抜くより先に。名前を叫ぶより先に。
誰かが、自分の見たものを見たまま言える場所を。
薬草の匂いが、夕暮れの店の中に静かに満ちていた。
その匂いは、傷を塞ぐ薬の匂いであり、まだ戦いが終わっていないことを知らせる匂いでもあった。