朝靄の残る宿場は、夜の出来事を知らない顔で目を覚ましていた。井戸端では桶の水が揺れ、厩舎では馬が鼻を鳴らし、通りの端では焼きたての硬いパンが籠に並べられていく。けれど俺の指先には、まだ夜の煤が残っていた。魔道具の破片を包んだ布を何度も触ったせいで、爪の隙間が黒くなっている。
証拠は、もう一つの場所に置いておけない。昨夜、三勇教の密偵が宿へ入り込んだことで、それははっきりした。破片と木片、現場図と証言メモ。それらは武器ではないのに、狙われる。なら、守り方も武器とは違う形で考えなければならない。
薬草店の奥には、木箱がいくつも積まれていた。薬草の青い匂いと、湿った木の匂いが混ざっている。俺は小さく折った証言メモを、乾燥薬草の束へ結びつける荷札の裏へ差し込んだ。インクがまだ完全には乾いていなくて、親指の腹に黒く滲む。
「それ、力を入れすぎると紙が破れる」
シノンが横から覗き込んだ。声は静かだけれど、目は笑っているように見えた。
「ごめん。こういう作業、銃より緊張する」
「銃より?」
「少なくとも銃は、握り方を間違えても紙みたいには破れない」
「握り方を間違えた銃は、紙より危ないと思う」
「正論が速い」
シノンは小さく肩を揺らし、現場図の写しを別の荷札へ挟んだ。彼女の指は迷わない。弓を扱う時と同じで、必要な力だけを置いて、余計なものを残さない。
ベルベットは薬草袋の山を眺めながら、面倒くさそうに腕を組んでいた。
「面倒な戦いね。殴って終わるなら楽なのに」
「撃たない戦場ほど神経を使う」
シノンが返すと、ベルベットは鼻で笑った。
「射手が言うと重いわね」
「前衛が言うと怖い」
「褒めてる?」
「少しだけ」
「最近それ流行ってるの?」
ヒッポリュテは二人のやり取りに口を挟まず、行商人が持ち込んだ荷を一つずつ見ていた。彼女は戦場を見るように荷車を見る。どの箱が目立ち、どの袋が開けられやすく、どの荷札なら見逃されるか。そんなことを、視線だけで測っている。
今回、証拠の一部を運ぶのは、宿場を出入りしている小柄な行商人だった。年齢は俺より上だろうが、口元に浮かぶ笑みのせいで若く見える。腰には剣ではなく帳簿を提げ、背負い籠には針、糸、乾物、薬草、安い香料が詰まっている。
「いやあ、銃の異端さまの荷を運ぶとは、俺も出世したもんだ」
行商人が冗談めかして言うと、ベルベットの目が細くなった。
「その呼び方、もう一回言ったら荷ごと川に沈めるわよ」
「冗談ですって。怖いお嬢さんだなあ」
「お嬢さん?」
「女王陛下よりは庶民向けでしょう」
行商人はヒッポリュテへちらりと視線を向け、すぐに軽く頭を下げた。ヒッポリュテは表情を変えずに言う。
「口は軽いが、目は動いている。商人としては悪くない」
「褒められたのか、値踏みされたのか分かりませんな」
「両方だ」
「なら光栄ってことにしておきましょう」
俺は行商人へ包みの一つを差し出した。中身は本命ではない。けれど、完全な偽物でもない。証言メモの写しと、現場図の一部。奪われても致命傷にはならず、届けば意味があるものだ。
「直接守れなくて、すみません」
行商人は包みを受け取り、軽く振った。
「守られる顔をして運ぶ方が危ないんですよ。商人ってのは、誰の味方か分からない顔をしているくらいが丁度いい」
その言い方があまりにも自然で、俺は返事に少し詰まった。俺が守ろうとしている道は、俺一人の手で作るものじゃない。この人は、この人のやり方でその道の上に立っている。
宿場の出口へ向かう頃には、朝靄が少しずつ薄れていた。門前の土は乾いていて、荷車の車輪跡が幾筋も残っている。門番の槍先には朝日が反射し、その光がやけに冷たく見えた。
普段なら荷を軽く確認するだけの門番が、その日はやけに丁寧に荷物を見ていた。そばには三勇教の巡礼者らしき男が立っている。直接命令しているわけではない。ただ、そこに立って見ているだけだ。それだけで門番の手つきが硬くなっている。
「盗賊対策の荷改めだ。袋を開けろ」
門番が行商人へ言った。
俺たちは少し離れた屋台の陰にいた。俺が一歩出ようとした瞬間、ヒッポリュテの手が肩に置かれる。強くはない。ただ、動けばこの手を振りほどくことになる、という重さがあった。
「まだだ」
短い声だった。
腰の銃へ触れかけた指を、俺はゆっくり下ろす。行商人は大きく汗を拭うふりをしながら、荷車の上の袋を開けた。
「いやあ、朝から大変ですな。盗賊も働き者だが、門番さんも働き者だ」
「余計な口を利くな」
「口まで検められるとは、こいつは参った」
門番が布袋を一つ開ける。中身は安い香料だった。次に乾物、次に針と糸の箱。巡礼者の目は荷札を見ている。何かを探している目だ。
シノンが小さく囁く。
「右から三番目の袋。本命じゃない。あれを見つけさせる気だと思う」
行商人は、まるでうっかりしたように、少し煤のついた荷札の袋を門番の手前へ寄せた。門番がそれを開ける。中には、古い帳簿の切れ端と、何の関係もない薬草の束。巡礼者の眉がほんの少し動いた。
「これは何だ」
「古い帳簿ですな。支払いをごまかしたいなら燃やしますが、あいにく俺は正直者でして」
「正直者は自分で正直者と言わない」
「では、不正直者です」
「ふざけるな」
門番の声が強くなる。周囲の視線が集まり始めた。俺の足がまた前へ出かける。
今度はシノンが袖を引いた。彼女は俺を見ず、行商人だけを見ている。
「大丈夫。あの人、わざと目を集めてる」
その言葉通り、門番と巡礼者の注意が煤のついた偽荷札へ向いている間に、行商人の助手らしき少年が荷車の後ろで水桶を倒した。派手な音はしない。けれど、水は門前の土へ広がり、何人かが足元を見る。その一瞬で、別の商人の荷車が横を抜けていった。
俺は息を止めた。
本命の写しは、もうその荷へ移されている。
門番は結局、行商人の荷から何も見つけられなかった。巡礼者は不満そうに唇を結んだが、通行を止める理由までは作れなかったらしい。行商人は深々と頭を下げ、荷車を門の外へ進める。
宿場を出てしばらくしてから、俺たちは別ルートで街道沿いの薄い林へ入った。朝露に濡れた草が靴に触れ、冷たさが足首へ染みる。遠くでは荷車の布が風に揺れていた。証拠はもう行商人の荷からさらに別の荷へ移っているはずだ。それでも、見届けるまでは胸の中に細い針が残る。
「尾けてる奴がいる」
シノンが言った。
彼女の視線の先、街道の脇を歩く男がいた。旅人を装っているが、荷を持つ手が軽すぎる。目線は行商人の背中から離れない。
「密告者か」
ベルベットが唇の端を上げる。
「捕まえる?」
「本命へ辿り着く前に、偽の荷へ誘導する」
俺が言うと、ベルベットがこちらを見た。
「本当に性格が悪くなったわね」
「そろそろ普通に褒めてくれない?」
「まだ早い」
行商人は尾行に気づいているらしかった。わざとらしく荷を気にし、背負い籠の紐を何度も直している。その大げさな仕草に、密告者の目が吸い寄せられていく。
街道脇の小さな石壁の近くで、行商人は荷札を一枚落とした。風に飛ばされたふりをして、煤のついた偽荷札が草の上へ滑る。
密告者がそれへ手を伸ばした瞬間、ベルベットが背後へ回った。
声を上げる暇もなく、男の口が塞がれ、石壁へ押しつけられる。シノンの矢が男の足元へ静かに刺さり、ヒッポリュテが退路へ立った。俺は銃を抜かず、男の前に立つ。
「銃を抜かないのか、異端」
男が布越しに呻くように言った。
「抜いてほしいのか?」
俺が返すと、男は目を逸らした。
ベルベットが軽く男の腕を捻る。
「質問に答えなさい。誰に頼まれたの」
「知らない。教会の使いから、荷札を追えと言われただけだ」
「また使い捨てか」
ベルベットの手に力が入る前に、俺は首を振った。彼女は面白くなさそうにしながらも、腕を折るところまではいかなかった。
ヒッポリュテが男の荷を調べ、薄い符を取り出す。
「本命の荷を知らぬ。印のついた荷札だけを追わされている」
「じゃあ、偽荷札を追ってたわけか」
俺が言うと、シノンは行商人の去った方角を見た。
「本命はもう別の荷車。たぶん、尚文の商売ルートへ入る」
遠くで、行商人が一度だけ振り返った。
彼は白ではない、薄い青の布切れを荷車の端へ結んでいた。風に揺れるそれは、決めていた合図だった。問題なく渡った、という意味。白い布が罠にされた俺たちにとって、白ではない布は妙に頼もしく見えた。
俺はようやく息を吐いた。
朝靄はほとんど消え、昼へ向かう空が少しずつ高くなっている。胸の中の針は全部抜けたわけじゃない。それでも、痛みの向こうに道が一本伸びたのは分かった。
「届いた、のか」
「少なくとも、この場ではね」
シノンがそう言って、矢を回収する。ベルベットは捕まえた密告者を路地側へ押しやりながら、つまらなそうに言った。
「大きな戦いもなしに勝った感じがするの、変な気分ね」
「勝ったというより、通しただけだよ」
「通すのも勝ちでしょ。たぶん」
珍しくベルベットが少し曖昧に言う。
ヒッポリュテは街道の先を見たまま、静かに告げた。
「道を守るとは、敵をすべて倒すことではない。必要なものを、必要な場所へ届かせることだ」
その言葉を聞いて、俺は腰の銃へ触れなかった。
今日は、銃の重さを確かめなくても立てていた。俺の手は空いている。その空いた手で、荷札を折り、紙片を隠し、誰かが運ぶ道を少しだけ支えた。
行商人の荷車は、もう小さくなっていた。薄い青の布切れが、遠くで一度だけ光を受けて揺れる。
その先には、尚文さんの商売ルートがある。盾の勇者へ証拠が届くまで、まだいくつもの目と手と罠をくぐらなければならないだろう。
「これで終わりじゃないよな」
「次は、尚文へ届く前が狙われる」
シノンが言った。
ベルベットは肩を回し、少しだけ笑う。
「なら、その道ごと守るしかないわね」
「守る道を作るのだ。敵に見えぬ道をな」
ヒッポリュテの声が、昼へ向かう風に混ざった。
俺は遠ざかる荷車を見つめた。白い布ではなく、青い布が揺れている。罠にされた合図ではなく、誰かが自分の判断で結んだ合図だ。
守るものは、人だけじゃない。
言葉も、証拠も、そしてそれらが渡っていく細い道も。
銃を撃たずに守ったその道の先で、いつか誰かが「見ていないものは見ていない」と言えるなら、俺たちが朝露に濡れた草を踏んだ意味は、きっと消えない。