日が完全に落ちきる前に、朝霧誠司とベルベットは村外れを離れていた。
波に壊された家々へ長居することは、隠れているつもりで追手へ居場所を教えるようなものだと、ベルベットが判断したからである。
彼女の言葉はいつも通り簡潔で、そこに感傷の入り込む余地はなかった。
安全な場所を探す。
夜を越える。
傷を悪化させない。
その優先順位は、いまの二人にとって何よりも明確だった。
村の外れから少し進んだ先には、森と呼ぶにはまばらで、平原と呼ぶには視界の悪い、半端な木立が広がっていた。
低木と岩場が入り混じり、身を隠すには都合がいいが、火を焚けば逆に目立つ。
だから二人は、崩れた石垣の名残と倒木の陰を利用し、夜露を多少でも避けられる窪地へ身を潜めることにした。
夕暮れが完全に群青へ沈むと、途端に空気が冷えた。
昼間の荒れた土の匂いは薄れ、代わりに夜の湿気と草の青臭さが肌へまとわりつく。
風は強くない。
それでも、火を使えず、まともな毛布も持たない今の二人にとって、その冷たさは十分に厄介だった。
誠司は背中を石へ預け、浅く息を吐く。
脇腹の傷は民家での応急処置のおかげで出血こそ落ち着いていたが、体力そのものはまだ戻らない。
歩き続けた反動もあって、四肢の芯には鈍い倦怠が沈んでいた。
そのうえ、夜の冷気は傷を抱えた体にやけに厳しく沁みる。
歯を食いしばるほどではない。
だが、このままではろくに眠れず、明日の行動へ響く程度には不快だった。
ベルベットは少し離れた場所に座り込み、包帯を巻いた左腕を膝の上へ置いたまま、周囲へ耳を澄ませていた。
彼女の横顔は、月明かりの下でやけに静かだった。
昨夜の暴走寸前の姿を見ているせいか、その静けさは安堵よりも、刃物を布で包んだ時のような危うさを感じさせる。
切れ味は失われていない。
ただ、いまは鞘へ収まっているだけだ。
そんな印象だった。
しばらく沈黙が続いた後、ベルベットが低く言った。
「震えてるぞ」
誠司は一瞬だけ誤魔化そうとしたが、実際に指先がかすかに冷えている以上、否定に意味はないと悟る。
「少しだけな」
そう答えると、ベルベットは呆れたように鼻を鳴らした。
「少しだけで済む震え方には見えない」
言葉は容赦ない。
だが、その指摘が間違っていないことも確かだった。
誠司は肩を竦め、草を払うように掌を擦る。
体温を逃がすまいと身を丸めていても、夜気は服の隙間から遠慮なく忍び込んでくる。
「火は無理だしな」
「追手が近くにいるかもしれない状況で焚き火をするほど、私は呑気じゃない」
ベルベットは即答した。
そこへ迷いがないのは、彼女がこの世界でどれほど現実的に生きてきたかの証でもある。
快適さより生存。
心地よさより発見されないこと。
その割り切りは徹底していた。
誠司は頷きながら、夜空を見上げる。
雲の切れ間から覗く月は白く、妙に遠い。
日本で見た夜空とどこか似ていて、どこまでも別物だった。
帰りたい、という感情がないわけではない。
だが、帰る方法が分からない以上、その感傷は現実の役には立たなかった。
役に立たない感情を抱える余裕があるだけ、自分はまだ追い詰められきっていないのかもしれないと、そんなことまで思う。
不意に、隣の草が鳴った。
ベルベットが立ち上がり、迷いなくこちらへ歩いてくる。
誠司は反射的に身構えかけたが、彼女はそのまま彼の隣へ腰を下ろした。
しかも、距離は妙に近い。
近いというより、ほとんど肩が触れそうな位置だった。
「え」
間の抜けた声が出る。
ベルベットはそんな反応を一顧だにせず、平然と言った。
「体温を逃がしたくないなら、寄った方が早い」
「……そ、そうだけど」
「何だ。その顔は」
何だと言われても困る。
困るに決まっていた。
相手は間違いなく美人だったし、しかもあのベルベットが、ためらいもなく隣へ来て身を寄せるなど、誠司の心構えの外から殴りつけてくるようなものだった。
彼の人生は平凡で、少なくともこういう極限状況で年頃の女性と密着して夜を越す訓練など受けていない。
あるはずがない。
「いや、その……」
誠司は急に喉が渇くのを感じながら、必死に視線の置き場を探した。
月を見るのも不自然だ。
地面を見るのもあからさまだ。
横を見ればベルベットがいる。
逃げ場がない。
ベルベットはそんな彼の狼狽を見て、ほんの僅かに眉を寄せる。
だが、その表情にはからかいも羞恥も見当たらない。
本当にただ、生き延びるための合理的な手段として隣へ来ただけなのだと、その無感情さが逆に雄弁に物語っていた。
「寒いんだろ」
彼女は淡々と言う。
「だったら無駄に距離を取る方が馬鹿だ」
その理屈は正しい。
正しすぎて、誠司には余計に返す言葉がない。
彼は顔へ熱が集まるのを自覚しながら、どうにか咳払いで誤魔化した。
「そ、そうだな。うん、合理的だ」
「何をそんなに慌ててる」
「慌ててない」
「慌ててる顔だ」
「それは……仕方ないだろ」
最後の一言だけは、ほとんど観念に近かった。
ベルベットはしばらく彼の顔を見ていたが、やがて興味を失ったように前へ視線を戻す。
そして、そのまま彼の肩へ自分の肩を預けるように、自然な動作で体重を寄せてきた。
誠司の心臓が大きく跳ねた。
こんな状況で何を意識しているのかと、自分で自分へ呆れたくなる。
だが、意識しない方が無理だった。
ベルベットの体温は夜気に冷えた服越しでも分かったし、細い身体のどこにあれだけの戦闘力が宿っているのか理解に苦しむほど、その接触は思いのほか軽かった。
それでも、彼女がここにいるという事実だけで、誠司の神経はひどく忙しなくなる。
(落ち着け)
(これはそういうのじゃない)
(寒さを凌ぐためで、ただの合理的判断で)
(いや、分かってるけど、それでも無理だろ)
自分の顔が熱い。
夜の冷気に晒されているはずなのに、頬だけがやけに熱を持っている。
たぶん赤くなっている。
絶対なっている。
そう思えば思うほど余計に意識してしまい、誠司はほとんど自滅的な気分になった。
一方で、ベルベットは本当に気にしていないらしかった。
肩を預けた姿勢のまま、呼吸をゆっくり整え、まぶたを閉じていく。
警戒心まで完全に消しているわけではないのだろうが、それでも少なくとも誠司を相手に、今さら距離の意味を測り直すような様子はない。
彼女にとっては、寒さを凌ぐことと、必要な時に眠ることの方がずっと切実なのだ。
「お前も寝ろ」
目を閉じたまま、ベルベットが言った。
「明日も動く。頭が回らなくなったら足手まといだ」
「……分かってる」
「なら、余計なことを考えるな」
まるで誠司の内心を見透かしたような一言だった。
彼は思わず苦笑する。
余計なこと。
その通りだ。
だが、人間は命懸けの逃走を続けていても、こういう場面でちゃんと余計なことを考えてしまうらしい。
自分でも笑えるほど、不器用な話だった。
やがてベルベットの呼吸が一定のリズムを刻み始める。
完全に眠りへ落ちたのか、それとも半分だけ意識を残しているのかは分からない。
ただ、彼女の肩から伝わる重みは少しずつ柔らかくなっていき、少なくとも先ほどまでのような戦闘直前の張り詰めた空気は消えていた。
誠司はその横顔を盗み見て、そっと視線を逸らす。
眠っている時のベルベットは、起きている時よりずっと若く見えた。
復讐だ、波だ、魔物化した腕だといった重すぎる要素が一時的に剥がれ落ちれば、彼女もまた年相応の女なのだと気づかされる。
それは妙に痛ましかった。
彼女がそういう当たり前の時間を、どれほど踏みにじられてきたのかを想像してしまうからだ。
(戦う理由、か)
不意に、その言葉が胸の中へ浮かんだ。
これまでの自分は、生き残るために動いてきた。
撃つのも、逃げるのも、学ぶのも、すべてはまず死なないためだった。
それは間違っていない。
むしろ当然だ。
この世界で生き残ることは、それだけで一つの戦いなのだから。
けれど、それだけでいいのだろうかと、誠司は考える。
自分がもし本当に勇者と呼ばれる側の存在で、この銃が波と戦うための武器なのだとしたら。
ただ生き延びるだけを目的にしていて、本当に最後まで立っていられるのだろうか。
ベルベットは波へ復讐するという明確な理由を持っている。
その理由が彼女を傷つけ、暴走へ近づける一方で、少なくとも前へ進む推進力にはなっている。
では自分はどうだ。
生きたい。
死にたくない。
それは確かだ。
だが、生き残るという言葉は時として受け身だ。
何かを守るでもなく、何かを変えるでもなく、ただ流されるだけでは、いずれ限界が来るかもしれない。
(俺は何のために戦うんだろう)
問いはまだ形にならない。
元の世界へ帰るためか。
ベルベットと一緒に波を止めるためか。
巻き込まれる誰かを見過ごしたくないからか。
そのどれもが少しずつ本当で、少しずつ決定打に欠けていた。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
目の前で誰かが壊れていくのを、もう見たくない。
奴隷舎で見た怯えた目も、波で壊された村も、暴走しかけたベルベットの姿も。
ああいうものを前にして、何も出来ずにいる自分でいたくない。
その感情だけは、かなりはっきりしていた。
(生きるだけじゃなくて)
(せめて、誰かが勝手に奪われるのを止められるくらいにはなりたい)
(そう思うのは、甘いのかもしれないけど)
(それでも、今の俺にはそれが一番近い気がする)
隣ではベルベットが微かに身じろぎし、より深く肩へ重みを預けてくる。
その無防備さは一時的なものに過ぎない。
朝が来れば彼女はまた、棘だらけの口調と冷たい現実感覚を纏い直すのだろう。
それでも、今この瞬間だけは、彼女が安心して眠れる程度には、自分は敵ではないと思われている。
その事実が、誠司の胸へ静かな熱を残した。
寒さは相変わらず厳しい。
だが、彼女の体温があるぶん、先ほどまでより幾分ましだった。
そして何より、不思議なことに、心のどこかが少しだけ落ち着いていた。
理由の分からない世界に投げ込まれ、何も知らぬまま走り続けてきた中で、こうして誰かと同じ夜を越えるという行為そのものが、思った以上に人間を支えるのかもしれない。
誠司はゆっくりと目を閉じる。
まだ答えは出ない。
戦う理由も、勇者という言葉の重さも、この銃で何処まで行けるのかも、何ひとつ定まってはいない。
ただ、それでも模索することだけはやめたくなかった。
生きるために戦う。
そこから始めるのは悪くない。
けれど、そこに何を積み足すかで、人は自分がどんな存在になるのかを決めるのだろう。
夜風が草を揺らし、遠くで名も知らぬ獣の鳴き声が一度だけ響いた。
それでも二人は、その小さな物音だけで飛び起きることなく、どうにか夜の底へ身を沈めていく。
傷だらけの青年と、復讐に灼かれた女。
契約で繋がったはずの二人は、まだ互いのことをほとんど知らない。
それでも、この寒い夜を寄り添って越えたという事実だけは、きっと後になって残るのだろう。
そして朝霧誠司は、その微かな体温の中で思う。
自分がこの世界で戦う理由は、いつかきっと一つへ定まるのではない。
むしろ、こうして誰かのぬくもりや、誰かの痛みを知るたびに、少しずつ増えていくものなのかもしれない、と。