古い石橋は、朝の川霧に半分だけ沈んでいた。
浅い川の水は、石の間を縫うように流れている。昨日の雨が残っているのか、橋の表面は薄く湿っていて、靴底が触れるたびに細かな砂が擦れた。空は明るくなりかけているのに、橋の下だけは夜の切れ端を隠しているみたいだった。
青い布の端が、荷包みの紐に結ばれている。
白じゃない。あの石碑で罠にされた白い布じゃなくて、行商人が残していった青い合図だ。その色を見た瞬間、胸の奥で固まっていた息がほんの少し緩んだ。
尚文さんは、橋の欄干にもたれるようにして立っていた。
盾を背負い、いつものように眉間へ皺を寄せている。ラフタリアは少し後ろで剣へ手を添え、フィーロは川面を覗き込んでいたが、俺たちが近づくとぴょんと顔を上げた。
「来たか」
それだけだった。
礼も、労いも、確認の言葉もない。けれど尚文さんは青い布をほどき、包みの中から現場図と証言メモを取り出した。紙を広げる手つきは雑じゃない。汚れた布を払う指先が、一度だけ止まる。そこに、俺たちが何日もかけて運んできたものの重さが乗った気がした。
「これが、銃声を作った魔道具の話か」
「写しだけです。本物の破片は別に分散してあります」
俺が答えると、尚文さんは紙から目を上げずに鼻を鳴らした。
「少しは学んだらしいな」
「褒めてます?」
「調子に乗るな」
即答だった。
ベルベットが横で小さく笑う。
「あんたも同じこと言ってたわよね」
「最近、みんな俺を褒める時に保険をかけるんだけど」
「保険をかけないと、あんた本当に走り出しそうだから」
シノンが淡々と言って、俺は何も言い返せなかった。
尚文さんは現場図をラフタリアへ渡す。ラフタリアはそれを受け取り、紙面を見てから周囲へ視線を配った。剣の柄に置いた手が、ほんの少し深くなる。
「尚文様、橋の上に足音が増えています」
その言葉と同時に、フィーロが青い布を覗き込みながら首を傾げた。
「この布、前の白いのと違うね」
「白はもう死んだ合図だ」
尚文さんの声は低かった。
フィーロは「ふーん」と言いながら青い布を指でつまんだ。彼女の無邪気な仕草に、ラフタリアが少しだけ目を細める。けれど、その柔らかさはすぐに消えた。
橋の上で、小石が跳ねた。
ひとつ、ふたつ、続けて足音。
シノンが弓へ手を伸ばすより先に、ヒッポリュテが橋の両端を見比べた。
「遅い。既に尾が付いている」
川霧の向こうから、白い法衣が現れた。三勇教の信徒たちだ。密偵だけじゃない。簡易の棍や短杖を持った者も混じっている。彼らは橋の両側へ広がり、こちらの退路を薄く塞ぐように立った。
「盾の悪魔と銃の異端が密会しているぞ!」
誰かが叫んだ。
その声は橋の石へ当たり、川面へ落ち、霧の中で何倍にも膨らんで戻ってくる。すぐ後に、乾いた破裂音が鳴った。銃声に似せた音。俺の背中を、冷たい針が一本走った。
違う。
俺は撃っていない。
そう言いたくなる喉を、奥歯で噛み止めた。叫べば、その声まで利用される。
尚文さんが一歩前へ出た。盾が朝の薄い光を鈍く返す。
「分かりやすいな。証拠が届いた途端、これか」
「信用したわけじゃない、って言う場面ですか」
「信用したわけじゃない。だが、三勇教を潰す材料としては十分だ」
「そこまで予定通りに言わなくても」
「うるさい。前を見るぞ」
尚文さんは俺を見ない。
見ないまま、盾を構えた。
その背中の後ろに、少しだけ空白が生まれる。ラフタリアが横へ流れ、フィーロが荷包みの近くへ跳んだ。ベルベットは低く構え、ヒッポリュテは橋の欄干側へ立つ。
俺は銃を抜いた。
抜いた瞬間、また破裂音が鳴る。今度は右側。けれど、音が軽い。空気を叩くだけで、何かを貫く重さがない。俺の指は引き金の前で止まった。
「誠司」
シノンの声が霧を切った。
「音は右。でも核は左。反響で隠してる」
俺は左を見た。
橋の欄干の下、川霧の濃いところに、黒い小さな箱が括りつけられている。音は右から聞こえるように作られていたが、魔道具の核は左にある。昨日までの俺なら、音の方を撃っていたかもしれない。三勇教が用意した物語の上で踊っていたかもしれない。
でも、今は違う。
シノンの矢が、欄干の影を示すように石へ刺さる。
ベルベットが信徒の棍を踏み砕き、ヒッポリュテが橋の側面へ回ろうとした者の進路を塞いだ。尚文さんは振り返らず、突っ込んできた信徒を盾で受け止める。鈍い衝撃音が橋を震わせた。
「銃声を作られたなら」
俺は息を吸った。
川霧が銃口の先で薄く揺れる。
「今度は俺の弾で、その嘘を壊す」
引き金を引いた。
本物の銃声が橋の下へ沈む。偽物の破裂音よりも重く、短く、空気の芯だけを叩いて抜けていく。弾は欄干の影へ吸い込まれ、魔道具の核を一点だけ撃ち抜いた。
派手な爆発はなかった。
ただ、小さな光が弾け、黒い箱が割れた。破片が川へ落ち、水面に丸い輪を作る。偽の銃声が、糸を切られた操り人形みたいに途絶えた。
一瞬、橋の上が静かになった。
その静けさを、フィーロの声が割る。
「今のは本物?」
「本物だけど、嘘を壊したやつ」
「じゃあ、いい本物だね!」
「その分類、初めて聞いた」
思わず返すと、ラフタリアが剣で信徒の短杖を弾きながら、少しだけこちらを見た。
警戒が消えたわけじゃない。けれど、剣先の向きは俺ではなく、三勇教の信徒へ向いている。
「尚文様、背後は……今回は、空いています」
尚文さんは答えなかった。
ただ、盾を前へ押し込んだ。信徒たちの列が崩れる。そこへベルベットが滑り込み、相手の腕を捻り上げて武器を落とさせた。
「神の名で人を黙らせるなら、その口ごと閉じさせてやる」
「殺すなよ!」
俺が叫ぶと、ベルベットはこちらを見ずに返す。
「注文が多い!」
「骨も折るな!」
「それは状況次第!」
「次第にしないで!」
シノンの矢が、逃げようとした密偵の足元へ刺さった。
ヒッポリュテは逃走路へ立ち、槍の石突きを橋へ鳴らす。音は一度だけ。だが、それだけで信徒たちの足が止まる。
「これは決戦ではない。だが、決戦へ続く門だ」
その言葉に、橋の向こうの霧が揺れた。
信徒たちは互いに顔を見合わせる。音響魔道具は壊れ、包囲は崩れ、尚文さんの盾はまだ前にある。俺の銃口は、もう彼らの足元へ向いていた。殺すためじゃない。これ以上、嘘のために動かないようにするためだ。
「動くな」
俺は短く言った。
牽制弾を一発、石橋の端へ撃つ。欠けた石が跳ね、信徒たちの足が揃って止まった。銃声は響いたが、今度は誰も偽物と混ぜられない。シノンが核を壊し、霧が薄れ、音の出どころは俺の手の中だけになっていた。
やがて、信徒たちは橋の両端から引いていった。完全に退いたわけではない。次の指示を待つみたいに、距離を取っただけだ。けれど、今この場の証拠は守られた。尚文さんの手に残った。
割れた魔道具の破片が川に流れていく。青い布の端が、荷包みからほどけて水面へ落ちた。白い布ではないそれが、ゆっくり流されていくのを、俺はしばらく見ていた。
尚文さんは証拠の紙を折り直し、懐へしまった。
礼は言わない。けれど、紙は返さない。
それだけで十分だった。
「これで連中は証拠だけじゃなく、俺たち全員を消しに来る」
尚文さんの声が、橋の上に低く落ちた。
「それでも、背中は見る」
俺が言うと、尚文さんは少しだけこちらを見た。
本当に一瞬だけだった。けれど、その目は前よりも長く俺を測っていた。ラフタリアが剣を収めきらないまま、俺たちと尚文さんの間に視線を走らせる。
フィーロがぱっと手を上げた。
「じゃあ、前はご主人さまで、後ろは銃のお兄ちゃんたちだね!」
「勝手に配置を決めるな」
尚文さんが言う。
フィーロはにこにこしている。
「でも、さっきそうだったよ?」
「……余計なことを言うな」
ラフタリアが小さく息を漏らした。笑ったのかもしれない。
ベルベットが肩をすくめる。
「言われてるわよ、盾の勇者」
「お前も黙れ」
「嫌よ」
短い会話の向こうで、遠くの鐘が鳴った。
一つ、二つ。
朝の鐘にしては低すぎる音だった。霧が晴れかけた空気が、その音でまた冷える。ヒッポリュテが橋の向こうを見た。
「門は開いた。次に来るのは、門番ではあるまい」
尚文さんは盾を背負い直した。
俺も銃を腰へ戻す。銃口はもう煙を吐いていない。けれど、指先にはまだ引き金の感触が残っていた。撃った。今度は、撃たないためではなく、嘘を壊すために撃った。
橋の上に、俺たちの影が並んでいる。
重なってはいない。距離はまだある。けれど、向いている先は同じだった。
三勇教の鐘が、遠くでもう一度鳴る。
決戦は、まだ始まっていない。
けれど、そこへ続く道はもう、俺たちの足元にあった。