石橋を越えると、足音の響きが変わった。
湿った石を踏む鈍い音から、乾いた土を削る軽い音へ。川霧は背中の方へ薄く流れ、街道の先には低い丘が見えている。空はもう朝の色を取り戻しているはずなのに、その丘の上だけ雲が厚く垂れていた。まるで、そこだけ誰かが夜を畳み忘れたみたいだった。
尚文さんは、証拠の紙を懐へしまったまま歩き出した。
礼はない。振り返りもしない。ただ、盾を背負う位置を少しだけ直し、俺たちが後ろにつける分の空白を残している。
「行くぞ」
それだけだった。
俺はその背中から、二歩分だけ距離を取った。近すぎれば警戒される。遠すぎれば背中は見えない。ラフタリアの視線が一度だけこちらへ流れ、剣の柄に置いた指がかすかに動いた。けれど、その剣先は俺ではなく、街道の先へ向いている。
「背中を見るって言った。なら、前に立つ人の邪魔はしない」
俺が小さく言うと、尚文さんは顔を向けずに答えた。
「信用じゃない。配置だ。だが、今はそれで十分だ」
「配置、ですか」
「文句があるなら前に出ろ。盾より前に立って生き残れるならな」
「すみません、後ろで頑張ります」
即答すると、フィーロが荷包みを抱えたまま振り返った。
「銃のお兄ちゃん、後ろ係?」
「たぶんそう」
「じゃあフィーロは荷物係!」
「それ、結構大事な役だよ」
「えへへ、じゃあ大事に持つ!」
フィーロは胸の前で荷包みを抱き直した。
重い空気に小さな穴が開く。そこから朝の風が少しだけ入ってきたようで、ラフタリアの肩がほんのわずかに下がった。
その時、遠くで鐘が鳴った。
一つ。低く、長く。
教会の鐘なら、本来は朝を告げるもののはずだ。けれど、その音は胸の奥を直接叩くみたいで、耳ではなく肋骨の内側が震えた。
シノンが立ち止まり、風の流れを読むように顎を上げる。
「丘の方。でも、音が散ってる」
ヒッポリュテは街道の轍を見て、次に丘へ続く脇道を見た。
「誘導だ」
「罠ってこと?」
俺が聞くと、彼女はゆっくり頷いた。
「誘われている。だが、誘いと知って進む道もある」
尚文さんが鼻を鳴らす。
「分かりやすい罠なら、まだ親切な方だ」
「親切の基準、低すぎませんか」
「この国で盾をやってると、だいたいこうなる」
何も返せなかった。
言葉の隙間に、二度目の鐘が割り込んでくる。今度は少し近い。街道の土埃が、音に撫でられたみたいに細かく震えた。
丘へ続く道に入ると、混乱はすぐ見えた。
荷馬が前脚を乱し、倒れた木箱から布袋と薬草が道へ散らばっている。民間人が数人、耳を押さえながら立ち尽くし、その間を三勇教の信徒たちが白い法衣を翻して進路へ入り込んでいた。彼らは刃を振り上げているわけではない。けれど、杖や棍で道を塞ぎ、人と荷馬をわざと押し流している。
鐘がまた鳴る。
胸の奥を叩く音に合わせて、荷馬が大きく嘶いた。
「敵じゃない人が混じってる」
俺は銃へ伸ばしかけた手を止めた。
撃てば、信徒の足を止められる。けれど、銃口の先には荷馬がいて、荷を守ろうとする老人がいて、何が起きているのか分からないまま立ち尽くす子供がいる。
尚文さんが前へ出た。
盾を道の真ん中へ立てる。押し寄せた人波が盾にぶつかり、鈍い音が広がった。尚文さんの足が土へ少し沈む。ラフタリアがその横を抜け、信徒の杖だけを剣で弾いた。刃は身体ではなく武器へ落ちる。
「尚文様、右から来ます!」
「分かってる。フィーロ、荷馬を押し戻せ。蹴るなよ」
「蹴らないよ! ちょっと押すだけ!」
フィーロが荷馬の横へ回り込み、両手でぐいっと押した。馬が驚いて首を振るが、道の端へ下がる。蹴れば一瞬で済むのだろうに、彼女はちゃんと力を加減していた。
ベルベットは白い法衣の信徒へ詰め寄り、棍を踏み砕いた。乾いた音が鳴る。
「神様の鐘にしては、人を縛る音がするわね」
「貴様、異端に与する者が!」
「その台詞、聞き飽きた」
彼女は信徒の襟を掴み、道の端へ投げる。地面へ叩きつけるのではなく、転がすだけに留めたあたりで、俺は一瞬だけ目を瞬いた。
ベルベットはこちらを見ずに言う。
「何よ」
「いや、骨」
「折ってないわよ」
「言う前に返された」
「言われる前に分かるくらいには、あんたがうるさいのよ」
こんな状況で、少しだけ息が漏れた。
笑うには短すぎる息だったけれど、銃を握る指の硬さがわずかに緩む。
シノンは道の端に膝をつき、鐘の反響を追っていた。
彼女の周りだけ、音の波が線になって見えているみたいだった。鐘は三つ鳴っているように聞こえる。右の林、左奥の石柱、丘の上。けれど彼女は目を閉じ、風の向きと音の戻り方を数えるように唇を動かした。
「鐘は三つ。でも、本物の音は一つだけ」
「どこ?」
「左奥。石柱の影。右と丘の上は浅い音。反響で膨らませてる」
俺は銃を抜いた。
引き金に指をかける。けれど、すぐには撃たない。銃声はまだ俺の敵でもある。三勇教は、音を物語に変える。俺が撃つたびに、その物語へ弾を渡しているような気分になる。
その迷いの向こうで、尚文さんの盾がまた鳴った。
鐘の音に乗った魔力波が、目には見えない圧になって前方から押し寄せる。尚文さんは盾を傾け、土を削りながら受け止めた。振り返らない。俺を見ない。
ただ、背中がそこにある。
「誠司」
シノンの声が短く落ちた。
「本物は左奥。支柱の根元じゃない。奥に核がある」
「見える?」
「見えない。でも音がそこから折れてる」
「十分」
俺は息を吸って、銃口を左奥へ向けた。
信徒が二人、鐘型魔道具を守るように立ちはだかる。ベルベットがその間へ飛び込み、片方の杖を蹴り上げた。ヒッポリュテがもう一人の退路へ立ち、槍の石突きで足元を払う。
「道を開ける。撃て」
ヒッポリュテの声に、俺は狙いを支柱の奥へ通した。
鐘全体を壊す必要はない。核だけを抜く。嘘を鳴らしている心臓を、一点で止める。
「精密破壊弾」
呟きと同時に、銃身の奥で光が収束した。
引き金を引く。銃声が鐘の音を裂いた。弾は石柱の影へ吸い込まれ、金属の表面ではなく、その奥に隠された核を撃ち抜く。
鐘が鳴り損ねた。
音が途中で千切れ、街道に落ちる。
揺れていた草が止まり、荷車に掛かっていた布がふっと静かになった。土埃がゆっくり下へ戻り、人々の影が地面に落ち着いていく。
尚文さんが盾を下げずに言った。
「遅い」
「今ので遅いんですか」
「俺の盾に何発受けさせる気だ」
「すみません、次はもう少し早くします」
「次がある前提で話すな」
ラフタリアが信徒の武器を弾き飛ばしながら、こちらへ一度だけ視線を向けた。
「尚文様、後方は崩れていません」
「知ってる」
尚文さんは短く答えた。
それだけの言葉なのに、俺の足元の土が少し固くなったように感じた。信頼なんて綺麗な名前を付けるには早い。けれど、配置はまだ崩れていない。俺たちは、そこに立つことを許されている。
鐘型魔道具が壊れると、信徒たちの足止めは一気に薄くなった。
混乱していた民間人は道端へ下がり、荷馬もフィーロに押されて脇へ避ける。ベルベットは折れた棍を拾い上げ、信徒の前へ放った。
「次は武器じゃなく、口を折るわよ」
「だから折るのを前提にしないで」
「あんた、本当に細かいわね」
「細かいからここまで来られたんだと思う」
シノンが矢を回収しながら言うと、ベルベットは言い返しかけて、やめた。代わりに鼻を鳴らす。その仕草が、少しだけ照れ隠しに見えたのは俺の気のせいかもしれない。
丘の礼拝跡へ着く頃には、雲がさらに低くなっていた。
古い石柱がいくつも折れ、地面には複雑な魔法陣が刻まれている。線の溝には銀色の粉が詰められ、朝日を受けるたびに冷たい光を返した。鐘が壊れた後の静けさの中で、今度は祈りの声が積み重なっている。低く、薄く、途切れずに。
丘の中央には、上位教会関係者が立っていた。
白い法衣は汚れ一つなく、手には細い杖がある。彼の後ろには、さらに多くの信徒が並び、魔法陣の外周を囲んでいる。
「盾の悪魔」
男の声が、丘の上でよく通った。
「そして銃の異端。貴様らはここで浄化される」
尚文さんが盾を構えた。
俺はその後ろへ立つ。右にシノン、左にベルベット。少し後ろでヒッポリュテが全体を見て、ラフタリアが尚文さんの横へ並び、フィーロが荷包みを抱え直した。
遠くの別道から、金属音が聞こえた。
誰かが叫ぶ声。剣が鞘に当たる音。槍の石突きが地面を叩く音。弓の弦が鳴るような、かすかな響き。
三勇者も、別方向からここへ誘導されているのかもしれない。
ヒッポリュテが低く言う。
「決戦場だ。こちらの意思で来たつもりでも、敵の陣の中にいる」
シノンは魔法陣の線を追い、目を細めた。
「核が多い。一つじゃない」
ベルベットが肩を回す。
「なら、全部壊せばいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃないから、あんたがいるんでしょ」
俺は銃を握った。
今度は抜くための重さじゃない。背中を守るための位置を確かめる重さだ。尚文さんの盾の向こうに、三勇教の白い列が見える。その白はもう、清らかな色には見えなかった。朝日を裂く魔法陣の線の上で、冷たく光っている。
罠と知って進む道がある。
誘われていると分かっていても、行かなければ届かない場所がある。
俺たちは丘の上で足を止めなかった。
尚文さんが一歩前へ出る。
俺たちは、その背中の後ろで陣形を整えた。
鐘は壊した。
けれど、決戦を告げる音は、もう丘全体に満ちていた。