鐘の音は、地面の下から鳴っていた。
耳で聞くというより、骨の内側を叩かれているような低い振動だった。複製聖武器が砕けた礼拝跡で、白い光の砂が風に流れていく。その奥から、途切れたはずの祈りが、また一本ずつ重なり始めた。
膝をついていた教皇が、杖を地面へ突き立てる。
「神意は……人の手で砕けるものではない」
割れた石床の隙間から、白い光が噴き出した。
それは朝日とは違う。温度のない炎だった。礼拝堂の地下を走る魔法陣が一斉に目を覚まし、教皇の足元へ光を送り込んでいる。
白い法衣が膨らんだ。
風ではない。内側から光に押し広げられ、布が人の形を忘れていく。教皇の背後には、剣、槍、弓、盾の輪郭がもう一度浮かび上がった。
さっき壊した複製品よりも大きい。
けれど、形は不安定だった。人の祈りを無理やり武器へ押し込めたせいか、剣の刃は波打ち、槍の穂先は途中で枝分かれし、弓の弦は何本も重なっている。盾だけが異様に厚く、教皇の胸元を包んでいた。
「まだ立つのかよ」
俺の声は、乾いた喉に引っかかった。
尚文さんは返事をせず、盾を構え直した。
その視線は教皇ではなく、地面へ向いている。
「本体を見るな」
「え?」
「あいつを立たせているものを見ろ」
地面の銀線が、四方向から教皇へ集まっている。
太い光の管。左は槍の意匠、右は剣、奥は弓、手前には盾を象った巨大な接続点がある。
シノンも同じものを見つけたらしい。地面へ片膝をつき、光の脈動を追う。
「四本。全部、地下から魔力を送ってる」
ヒッポリュテが槍の石突きを地面へ落とした。
「一本でも残せば、あの偽王は再び立つ」
教皇の背後で、白い武器が一斉に動いた。
剣が振り下ろされ、槍が空気を貫き、光矢が雨のように降る。
「来るぞ!」
尚文さんが前へ出る。
盾に白い斬撃がぶつかり、空気が破裂した。足元の石が砕け、俺たちの身体が後ろへ押される。
ラフタリアが尚文さんの横へ入り、斬撃の残りを剣で受け流す。フィーロは降り注ぐ光矢の間を跳ね、地面へ刺さる直前の一本を蹴り逸らした。
「ご主人さま、四つ壊せばいいんだね!」
「ああ。余計なところまで壊すなよ」
「分かった!」
フィーロが笑って駆け出す。
元康が槍を肩へ担ぎ、左の供給線を見る。
「俺たちを器扱いした礼だ。その偽物ごと貫いてやる!」
「本体に行くな。管を狙え」
尚文さんの声が飛ぶ。
「分かってる!」
「お前は分かってない時も同じ返事をするだろ」
「今は分かってる!」
元康が地面を蹴った。
白い槍の影が迎え撃つ。穂先同士がぶつかり、火花の代わりに光の破片が散る。それでも元康は押し込まず、穂先を横へ滑らせた。狙いは教皇ではない。左を走る光の管だった。
「行けぇっ!」
槍が供給線を貫いた。
光の管が弾ける。
教皇の背後に浮かんでいた槍の輪郭が、根元から歪んだ。
「一本!」
シノンが数える。
錬は右へ走っていた。
複製剣が白い軌跡を引き、彼の進路を塞ぐ。錬は真正面から受けず、刃を滑らせるように斬撃を逸らした。
「本物を名乗るなら、模倣に隠れるな」
踏み込みは一度だけ。
剣先が右側の銀線へ沈み、光の管を斜めに断つ。
「二本!」
教皇の背後で、剣の輪郭が砕けた。
樹は礼拝跡の外周へ回っていた。
弓型の供給線は、他の三本より遠い。信徒たちの詠唱陣が、その周囲を守っている。
「通しません!」
樹が光矢を放つ。
一射目は信徒の杖を弾き、二射目は地面の補助陣を砕く。三射目が奥の接続点へ吸い込まれた。
「あなたの正義は、人の声を消すための言葉です」
弓型供給線が白く膨らみ、内側から破裂した。
「三本!」
残る一本は、教皇の正面にある盾型の供給線だった。
最も太く、最も多くの魔力を送っている。フィーロがそこへ走る。
「フィーロ、右から回れ!」
尚文さんの指示で、彼女は白い盾の影をかわした。
地面へ手をつき、身体を回転させる。脚が盾型接続点の側面へ叩き込まれた。
「えいっ!」
軽い掛け声に似合わない衝撃が、丘を揺らした。
接続点へ亀裂が走る。けれど、完全には壊れない。
「硬い!」
「もう一発だ!」
「はーい!」
フィーロが跳び直す。
その間に、白い光矢が彼女の背中へ迫った。
ラフタリアが走る。
剣が光矢を斬り払い、彼女は着地したフィーロの前へ立った。
「今です!」
「ありがと、ラフタリア!」
二人目の蹴りが入る。
盾型供給線が、今度こそ砕けた。
「四本!」
シノンの声と同時に、教皇の身体が大きく揺れた。
背後の四つの武器が明滅し、輪郭を保てなくなる。
だが、教皇は倒れなかった。
「まだだ……」
彼は杖を両手で握り、残った光を胸元へ集め始めた。
四本の管を失いながら、それでも地下へ残っていた魔力を根こそぎ吸い上げている。
「神に逆らう者は、すべて光の中へ還るのだ!」
胸元に白い核が浮かんだ。
その周囲を偏向障壁が何重にも取り巻く。光は急速に膨張し、丘の石柱がひとつずつ浮かび上がった。
尚文さんの声が落ちる。
「全員、後ろへ来い」
誰も逆らわなかった。
尚文さんを中心に、俺たちは一つの影へ集まる。
ラフタリアが右、フィーロが左。ベルベットは俺の前へ出かけ、ヒッポリュテに肩を押されて位置を戻した。三勇者も、少し離れながら盾の後ろへ入る。
白い光が世界を覆った。
音が消える。
空と地面の境目も、仲間の顔も、何も見えなくなる。ただ、尚文さんの背中と盾の輪郭だけが黒く残っていた。
光の奔流が盾へぶつかる。
地面が扇状に裂け、尚文さんの足が土へ沈む。盾を支える腕が震えた。
「尚文様!」
ラフタリアの声が聞こえる。
「まだ持つ!」
尚文さんは叫んだ。
その背中が、ほんの少しずつ前へ押されていく。
俺は銃を構えた。
偏向障壁が胸部核を包み、射線を曲げている。今撃っても届かない。分かっている。それでも、引き金へ指がかかった。
飛び出したい。
もっと近づけば当たるかもしれない。尚文さんへ圧力が集まっている間に、一発でも撃てば――。
「動かないで」
シノンの声が耳元で止めた。
「でも」
「まだ障壁が生きてる。今撃ったら曲げられる」
尚文さんの盾が軋む。
俺の指も震える。
守られている。
その事実が、胸の内側を焼く。何もしていないように見えるこの一拍で、尚文さんは削られている。
ベルベットが俺の腕を掴んだ。
「待ちなさい」
「でも、尚文さんが」
「分かってる」
彼女の爪が俺の袖へ食い込む。
それでも離さない。
「だから外すな」
その声に、俺は銃口を下げなかった。
ラフタリアとベルベットが同時に動いた。
尚文さんの盾が受け止めている光の側面を走り、教皇へ迫る。
複製剣がラフタリアへ振り下ろされる。
彼女は剣で受け、刃を滑らせた。
複製槍がベルベットの胸を狙う。
黒い腕が穂先を掴み、白い光へ爪を食い込ませる。
「人を踏み台にして立つ神様なら」
ベルベットの腕が軋む。
「地面まで引きずり下ろしてやる!」
黒い爪が複製槍を砕いた。
同時にラフタリアの剣が、教皇の胸元を覆う外殻へ入る。
「これ以上、尚文様を傷つけさせません!」
二つの攻撃が外殻を左右から裂いた。
偏向障壁が揺れる。
一枚、二枚。光の膜が剥がれ落ちる。だが最後の一枚が残っていた。
シノンが目を細めた。
風に乗る光の流れを読むように、弓をわずかに動かす。
「次の切り替え。障壁が落ちる」
「何拍?」
「一拍だけ」
教皇が腕を広げる。
残った光がさらに膨らみ、尚文さんの盾を押し潰そうとする。
「神に選ばれぬ銃ごときが、聖なる光を穿てるものか!」
俺は銃口を教皇の胸へ向けた。
あそこにいるのは、一人の人間だ。
法衣が光を失えば、杖を落とし、地面へ倒れる人間だ。
撃つことの重さは、標的が悪人なら消えるわけじゃない。
それでも、この核を残せば、また誰かの声が祈りの燃料にされる。商人の言葉も、護衛の仕事も、薬草店の窓も、尚文さんの名前も、全部また白い嘘へ塗り潰される。
「俺が撃つのは、教皇じゃない」
銃身の奥に光が集まる。
「人を縛っている、嘘の心臓だ」
シノンが息を吸った。
「今」
尚文さんの声が重なる。
「誠司、外すな!」
「これで終わらせる――精密破壊弾!」
引き金を引いた。
弾は黒い線となって、白い世界を走った。
偏向障壁が閉じようとする。けれど、ラフタリアとベルベットが割った外殻の切れ目から、ほんの一拍だけ防御が遅れる。
弾はその隙間を抜けた。
教皇の胸部核へ届く。
光は爆発しなかった。
内側から、静かに消えた。
教皇の周囲を包んでいた白い炎が、中心から色を失っていく。剣が消え、槍がほどけ、弓の弦が切れ、盾の輪郭が砂へ変わる。
地面の下を流れていた魔力が逆流した。
銀線が一斉に暗くなり、礼拝跡に刻まれていた大規模魔法陣が砕ける。
教皇の杖が、手から落ちた。
硬い石へ当たる、小さな音だった。
それだけで、戦いが終わったと分かった。
法衣はもう光っていない。
ただの白い布になり、土と煤で汚れている。
教皇は胸元を押さえながら、一歩、二歩と後ろへ下がった。
唇が動く。けれど祈りの言葉は続かなかった。
「なぜ……神の式が……」
その膝が折れた。
地面へ倒れる音は、複製聖武器の崩壊よりずっと軽かった。
祈りを続けていた信徒たちが、動きを止める。
誰かの杖が落ちる。続いて、別の誰かが膝をついた。白い法衣の列から、戦うための形が抜けていく。
鐘の音が途切れた。
残ったのは風だけだった。
丘を覆っていた雲の切れ間から、朝の光が差し込む。
白い魔力に塗り潰されていた草へ、緑色が戻ってくる。折れた石柱の影が地面へ伸び、俺たちの影も、それぞれの足元へ戻った。
俺はすぐには銃を下ろせなかった。
教皇は動かない。
胸部核は消え、呼吸も見えなかった。
指が引き金へ残っている。
力を抜こうとしても、関節が固まっていた。
「誠司」
シノンの声が近くで聞こえた。
彼女は俺の銃へ触れず、手首の少し上へ指を置いた。
「もういい」
その一言で、指がようやく動いた。
銃口を下ろす。
尚文さんも盾を下げた。
腕がわずかに震えている。ラフタリアが支えようと手を伸ばすと、彼は一度だけ首を振った。それでもラフタリアは離れず、半歩横に立った。
「終わった」
尚文さんが言う。
誰もすぐには返事をしなかった。
元康は槍を地面へ突き、荒い息を吐いている。錬は剣を見下ろし、刃に残った白い光が消えるのを待っていた。樹は弓を下げ、倒れた信徒たちへ視線を移している。
フィーロが、少しだけ首を傾げた。
「勝ったの?」
「ああ」
尚文さんが答える。
「もう、鐘は鳴らない?」
「鳴らない」
「そっか」
フィーロは笑わなかった。
代わりに荷包みを拾い、胸の前で抱え直した。
ベルベットが教皇の近くへ立つ。
黒い腕を見下ろし、それからゆっくり爪を引っ込めた。
「人を縛ってた奴が、最後は自分の祈りに潰されたのね」
ヒッポリュテが答える。
「他者の声を燃料とする王座は、燃料が途絶えればただの椅子だ」
「椅子にしては随分と迷惑だったけど」
「それには同意しよう」
ラフタリアが尚文さんを見る。
「尚文様、お怪我は」
「大したことはない」
「その言葉は信用できません」
「お前まで信用の話をするな」
「尚文様が言うからです」
尚文さんは何か返そうとして、やめた。
代わりに小さく息を吐く。
そのやり取りを見て、俺の肩から少しだけ力が抜けた。
三勇者は尚文さんの近くへ来なかった。
尚文さんも呼ばなかった。
同じ作戦で戦った。
同じ敵を倒した。
けれど、それだけですべてが元通りになるわけじゃない。
錬が剣を鞘へ戻す。
「作戦は正しかった」
誰に向けた言葉か分からなかった。
尚文さんは返事をしない。
元康は不満そうに槍を担いだ。
「次は、盾に指図されなくても勝つ」
「次がある前提で話すな」
尚文さんが即座に返す。
「お前も前に言ってただろうが!」
「俺はお前ほど無計画じゃない」
「何だと!」
「元気そうで何よりです」
樹が疲れた声で割って入った。
その言葉に、元康は口を閉じる。錬がわずかに目を逸らした。
完全な和解ではない。
でも、少なくとも今すぐ武器を向け合う空気ではなかった。
俺は銃を腰へ戻した。
金属が収まる小さな音が、風の中へ溶ける。
尚文さんがこちらへ視線を向けた。
「外さなかったな」
一瞬、言葉が出なかった。
「……それ、褒めてます?」
「事実を言っただけだ」
「もう少し素直でもいいと思います」
「調子に乗るな」
ベルベットが横で肩を揺らす。
「予約、ちゃんと受け取れたじゃない」
「何の話だ」
「こっちの話」
尚文さんは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
シノンは俺の隣へ立ち、教皇が倒れた場所を見た。
彼女の弓は下がっている。けれど、手はまだ弦の近くにある。
「手、震えてる」
「見ないでくれる?」
「無理。隣にいるから」
淡々とした声だった。
俺は自分の手を見る。確かに、少しだけ震えていた。
ベルベットが反対側から覗き込む。
「情けない顔」
「さっきまで囮だったんだから、少しは労ってくれても」
「立ってるなら十分でしょ」
彼女はそう言いながら、俺の肩についた白い光の砂を払った。
指先の動きは乱暴だったけれど、同じ場所を二度払った。
ヒッポリュテが、丘の下を見渡す。
逃げる信徒はいない。戦う者もいない。ただ、膝をついた者と、杖を置いた者が風の中に残されている。
「勝者の声を上げる必要はあるまい」
彼女は静かに言った。
「既に、戦場が答えている」
丘の上には歓声がなかった。
誰も武器を掲げなかった。
それでよかった。
倒れた者がいて、傷ついた者がいて、二度と鳴らない鐘がある。
そんな場所で大声を上げれば、勝利まで嘘っぽくなりそうだった。
朝の光が、少しずつ礼拝跡を満たしていく。
白い法衣も、黒い銃も、尚文さんの盾も、同じ光の中に置かれていた。
俺たちの影は重なっていない。
それぞれ別の形で、別の方向へ伸びている。
それでも、戦いが終わった今だけは、誰の影も誰かを飲み込んではいなかった。
風が草を揺らす。
もう祈りの声は乗っていない。鐘の音もない。
ただ、俺たちがまだ立っているという、静かな音だけが残っていた。