三勇教との戦いが終わってから三日後、俺たちはメルロマルク王宮の門前に立っていた。
空はよく晴れていた。
丘を覆っていた白い光も、地面の下から響いていた鐘の音も、今はどこにもない。高い城壁の上では王国旗が風を受け、青空を切り分けるように揺れている。
それでも俺の鼻には、焦げた薬草と崩れた魔法陣の匂いが残っていた。
洗っても落ちきらなかった煤が袖口に薄く染みつき、靴の溝には礼拝跡の乾いた土が挟まっている。
「入らないの?」
シノンの声に振り向くと、彼女は門ではなく、俺の右手を見ていた。
いつの間にか、俺は左の手首を右手で掴んでいた。
そこにもう鎖はない。鉄の輪も、誰かに引かれる縄もない。それでも王宮の門を見上げた瞬間、皮膚の内側に冷たい輪郭が戻ってきた。
「ごめん。少し、昔を思い出してただけ」
「奴隷だった時のこと?」
「うん。あの頃は、豪華な建物を見ると、持ち主がどんな人間かより先に、地下牢があるかを考えてた」
自分で言ってから、笑っていいのか迷った。
シノンは笑わなかった。代わりに、俺の手首へ触れない程度の距離で指を止める。
「今日は鎖を付けられに来たんじゃない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃなかったから」
「顔に出てた?」
「かなり」
反対側からベルベットが覗き込んできた。
「情けない顔だったわよ。今から処刑台に上がるみたいな」
「そこまでひどかった?」
「半分くらいね」
「半分は何だったんだよ」
「迷子」
「そっちも大概だろ」
ベルベットは鼻を鳴らし、先に門へ歩き出した。
俺の腕を引くことはしない。けれど、振り返らない歩幅が、ついて来いと言っている。
ヒッポリュテは門の向こうを見上げ、静かに告げた。
「王宮も戦場も、人の視線が集まる点では変わらぬ。異なるのは、刃が見えるか否かだ」
「それ、余計に緊張する言い方じゃない?」
「緊張は悪ではない。足元を確かめる機会になる」
「女王陛下の前で転ばないようにします」
「そういう意味ではない」
分かっている。
けれど、少しふざけた方が呼吸は楽になった。
門衛に名を告げると、俺たちはすぐに中へ通された。
案内役の従者は、尚文さんを見るとわずかに姿勢を正し、その後ろにいる俺たちへ視線を流した。
尚文さんはいつも通りだった。
王宮へ入ることに慣れているようには見えないが、怯んでもいない。盾を背負ったまま、磨かれた廊下を無言で進んでいく。
俺たちはその少し後ろを歩いた。
王宮の床は、顔が映りそうなほど磨かれていた。
高い窓から差し込む陽光が柱の装飾へ反射し、床の上へ淡い金色を広げている。
そこへ、俺の靴から乾いた土が一粒落ちた。
小さな音だった。
けれど、近くにいた従者の目が一瞬だけ床へ向いた。
「すみません」
思わず口にすると、尚文さんが振り返らずに言った。
「戦場帰りの人間に、泥を落とすなと言う方が間違ってる」
「でも、かなり高そうな床ですよ」
「床は踏むためにある」
「尚文さん、王宮でそれ言うの、結構強いですね」
「黙って歩け」
その会話を聞いていたラフタリアが、小さく息を漏らした。
フィーロは床へ映る自分の顔を見ながら歩き、何度か横へ逸れそうになっている。
「フィーロ、前を見てください」
「床にフィーロがいるよ!」
「それは鏡みたいに映っているだけです」
「もう一人のフィーロじゃないの?」
「違います」
王宮の緊張が、フィーロの足元だけ少し柔らかくなった。
謁見の間へ近づくにつれ、貴族や重臣らしい者たちの視線が増えた。
尚文さんへ向く視線には、以前ほど露骨な侮蔑はない。その代わり、俺の腰にある銃へ、針のような視線が集まってきた。
珍しい獣を見る目。
危険な道具を測る目。
価値を計算する目。
視線だけで身体へ値札を貼られていくようだった。
「見すぎ」
ベルベットが低く呟いた。
彼女が横目で睨むと、何人かの貴族が慌てて顔を逸らした。
「喧嘩しないでくれよ」
「してないわよ。見返しただけ」
「ベルベットが見返すと、相手には宣戦布告に見えるんだよ」
「それは相手の想像力が豊かなのよ」
「絶対に違う」
シノンはそんなやり取りを横目に、天井近くの回廊や扉の位置を確認していた。
「護衛は見える範囲で十二人。隠れている人もいると思う」
「数えなくていいよ」
「数えた方が落ち着く」
「それは少し分かる」
誰がどこにいるか分からない場所より、危険の数が見える方がまだ楽だ。
俺は腰の銃から手を離した。触れたまま入れば、警戒しているようにも、いつでも抜けると示しているようにも見える。
今日は武器ではなく、言葉で立たなければならない。
謁見の間の扉が開いた。
広い部屋の奥に、女王が立っていた。
豪奢な玉座へ深く腰かけるのではなく、その前へ降り、俺たちを迎える姿勢を取っている。
その左右には重臣や魔術師たちが並んでいた。
王宮の光は礼拝跡の白い魔力と違い、窓から入る自然な陽光だった。温かいはずなのに、多くの視線が集まると、やはり皮膚の上が少し冷える。
「岩谷尚文様。そして、三勇教討伐へ力を尽くした皆様。まずは、ご無事で戻られたことを喜ばしく思います」
女王の声は静かだった。
言葉を飾りすぎず、それでも部屋の隅まで届いている。
尚文さんは軽く頭を下げた。
俺たちもそれに倣う。
「三勇教の教皇は倒れ、主要な礼拝施設と軍事拠点は王国側で制圧いたしました。捕縛された信徒については、関与の程度を調べたうえで処遇を決定します」
そこで女王の視線が、ゆっくり俺へ移った。
「そして、朝霧誠司様」
「はい」
名前を呼ばれただけなのに、背筋が勝手に伸びた。
「報告によれば、あなたは四聖勇者とは異なる武器を所持し、その武器は所有者から離れず、戦闘と素材によって成長する性質を持つとのことです」
謁見の間に、小さな囁きが広がった。
水面へ落ちた雨粒みたいに、ひとつの声が周囲へ波紋を作っていく。
「さらに、複数の弾種を使い分け、三勇教が用いた伝説の武器の複製品に対して、唯一即応防御を許さなかった」
女王の指が、椅子の前に置かれた細い杖へ触れた。
けれど握りはしない。銃の成長性について口にした瞬間、その指先だけが止まっていた。
「これを偶然と呼ぶには、あまりにも特異です」
重臣の一人が、待ちきれない様子で一歩前へ出た。
「陛下、その武器を一度、王宮の魔術師団にて調査すべきではありませんか。四聖武器に類するものであれば、国家の管理下へ――」
「嫌よ」
ベルベットの声が、刃みたいに割り込んだ。
重臣の眉が跳ねる。
「何だと」
「珍しい武器だからって、檻へ入れて調べるつもりなら、先に言っておくけど断るわよ」
「女王陛下の御前で、その口の利き方は――」
「ベルベット」
俺が名前を呼ぶと、彼女は口を閉じた。
けれど腕は組んだままで、重臣から目も逸らさない。
女王は彼女を咎めなかった。
むしろ重臣へ視線を向け、静かに首を振る。
「本人の同意なく武器や身体を拘束することは許しません」
その言葉が落ちた瞬間、左手首の奥に残っていた冷たい輪郭が少しだけ薄れた。
「朝霧様。可能な範囲で構いません。あなた自身が把握していることを、お聞かせいただけますか」
俺は一度、息を吸った。
全員が銃を見ている。
だから、腰の銃には触れなかった。
「この武器が何なのか、俺自身にも完全には分かっていません」
声が少しだけ硬い。
それでも、止めずに続ける。
「俺がこの世界へ来た時には、もう手元にありました。捨てても戻ってくるし、俺以外の人が使おうとしても、普通の武器みたいには扱えません」
王宮の魔術師らしい老人が、身を乗り出す。
「素材を吸収して形態や能力を増やす、という報告もありますが」
「はい。魔物の素材や戦闘経験で変化します。今のところ、普通の弾以外に、足止めや牽制へ使う弾と、魔道具の核みたいな小さい箇所を狙う弾があります」
「名称は」
「牽制弾と、精密破壊弾です」
魔術師たちが顔を見合わせた。
何人かは驚きを隠しきれず、俺の腰へもう一度視線を落とした。
「つまり、伝説の武器と同様に、所有者の認識や成長へ応じて能力を変える可能性があると」
「可能性はあると思います。でも、俺が正式な勇者なのかは分かりません」
「銃の勇者と呼ばれているそうですが」
「そう呼ばれ始めただけです」
自分でも驚くほど、言葉はすぐに出た。
「最初にそう呼んだのは、たぶん俺たちを敵にしたかった人たちです。三勇教は俺を銃の異端と呼びました。勇者って言葉は、その反対側から後で付いてきた感じです」
部屋が少し静かになった。
銃身へ当たっていた光が、窓の外の雲で一瞬だけ薄れる。
「俺自身にも、これが何なのかは分かりません。ただ、守るために撃つと決めたことだけは変わりません」
言い終えると、喉の奥が乾いていた。
誰かに勇者だと認めてほしいわけではない。逆に、違うと言われても、今さら銃を手放せるわけじゃない。
尚文さんが腕を組んだまま口を開いた。
「こいつを勇者と呼ぶかは知らん」
相変わらず、前置きが冷たい。
「だが、三勇教の嘘を撃ち抜いたのは事実だ。銃声を偽装した魔道具の核を壊し、複製聖武器の防御を破り、教皇の術式を止めた」
謁見の間の視線が、また俺へ集まる。
「戦場では使えた」
「最後の一言で急に道具扱いですね」
「使えないとは言ってない」
「それが尚文さんなりの高評価なのは、最近分かってきました」
ラフタリアが尚文さんの隣で、小さく笑った。
女王もほんのわずかに口元を緩めたように見える。
「岩谷様が、他者の働きをそこまで具体的に認めるのは珍しいことですね」
「事実を言っただけだ」
「同じことを前にも言われました」
「黙ってろ」
重かった空気が、少しだけほどけた。
シノンが一歩前へ出た。
「三勇教が使った銃声と、誠司の銃撃は別物です」
彼女は感情を飾らず、まっすぐ女王を見る。
「音の位置、反響、焦げ跡、射線が一致しませんでした。襲われた商人と護衛も、撃った人物の顔は見ていないと証言しています。現場から見つかった魔道具の破片も、誠司の銃弾とは構造が違います」
「証拠品は確認しております」
女王が頷く。
「三勇教側の保管庫から、同型の音響魔道具と製造記録が発見されました。銃の異端による襲撃とされた事件についても、再調査を命じています」
その言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。
薬草店の奥で、商人が帳簿の角を叩いていた姿が浮かぶ。
腕を吊った護衛の、顔を見ていないという言葉は変えない、という声も。
あの人たちは俺を完全には信じなかった。
それでも、見ていないものを見たとは言わなかった。
その小さな言葉が、ここまで届いた。
「商人と護衛は」
「王国側で保護し、失われた取引と雇用についても調査を進めます。薬草店への被害も同様です」
女王の返事に、肩から何かが落ちた。
目には見えないほど小さな石だったのかもしれない。それでも、長く背負っていたものだった。
「ありがとうございます」
頭を下げると、女王はすぐには答えなかった。
代わりに、俺が顔を上げるまで待っていた。
「礼を受けるには早いでしょう。王国の中で起きたことを、王国が正すのは当然です」
その言葉を、尚文さんは少し離れた場所で聞いていた。
表情は変わらない。けれど、組んでいた腕の指が一度だけ止まった。
王国が正すのは当然。
その当然を、尚文さんは何度も奪われてきたのだろう。
女王の視線が、俺たち全員へ向けられる。
「三勇教討伐における皆様の功績は、朝霧様お一人のものではありません。ですが、王宮はこれまで皆様の存在を把握せず、保護も援助も行えませんでした」
「把握しなかった、の間違いじゃない?」
ベルベットが低く言った。
俺は止めようとしたが、女王は先に頷いた。
「その通りです。結果として、皆様は王国領内で捕らえられ、奴隷として扱われながらも、王宮の助けを得られなかった」
謁見の間の空気が止まった。
俺の手が、また左手首へ向かいかける。
けれど、今度は途中で止めた。
「事実関係については、既に調査を命じました。関与した者が王国の権威を利用していた場合も、例外なく裁きます」
ベルベットは女王を見つめていた。
いつものように噛みつく言葉は出ない。ただ、組んでいた腕の指がゆっくりほどけていく。
ヒッポリュテが一歩前へ出た。
女王へ礼節を示す角度で頭を下げ、それから正面を見る。
「褒賞とは、功績を飾る首輪ではあるまい」
重臣たちの間に緊張が走る。
それでもヒッポリュテの声は変わらない。
「彼らを王国へ縛るために地位や金を与えるのであれば、それは鎖の材質を変えただけだ。彼らが立つための足場であるべきだ」
女王は静かに頷いた。
「同意します。王国への仕官を強制する意図はありません」
「口約束では足りぬ」
「正式な文書として保証しましょう」
ヒッポリュテはすぐには礼を言わなかった。
女王の目を見て、嘘がないか測るように短い沈黙を置く。
「ならば、言葉を受け取ろう」
対等な戦士同士の会話みたいだった。
王宮の重臣たちは戸惑っていたが、女王自身はむしろ、その態度を歓迎しているように見えた。
「三勇教討伐において、最終的な一撃を放ったのは朝霧様でした」
女王の言葉に、視線が俺へ戻る。
「しかし、報告書には、その射線を作るために岩谷様が攻撃を受け、剣・槍・弓の勇者が供給線を断ち、皆様が詠唱陣を崩したとあります」
「はい。俺一人じゃ撃てませんでした」
今度は迷わず言えた。
「撃ったのは俺です。でも、弾が通る道を作ったのは全員です」
ベルベットを見る。
彼女は腕を組み直したが、さっきより肩の位置が低い。
シノンを見る。
彼女は俺の視線を受けて、小さく頷いた。
ヒッポリュテを見る。
彼女は微動だにしないが、槍を握る手から力が抜けている。
尚文さんの横にはラフタリアとフィーロがいる。
三勇者はこの場にはいない。それでも、彼らの武器が供給線を断った音はまだ耳に残っていた。
「それに、戦場へ届く前にも、たくさんの人が道を作ってくれました」
薬草店の薄暗い奥部屋。
乾燥薬草の青い匂い。
襲われた商人の帳簿。
護衛の包帯。
行商人の荷車へ結ばれた青い布。
豪華な謁見の間へ、あの小さな生活音が重なる。
「薬草店の主人が、噂を聞いても俺たちを客として扱ってくれました。商人と護衛が、見ていないものを見たと言わなかった。行商人が証拠を運んでくれた。あの人たちがいなければ、三勇教の嘘は王宮まで届いていません」
功績という言葉は、大きすぎる。
大きな言葉は、小さな人の手を隠してしまう。
「だから、俺だけを英雄みたいに扱うのは違うと思います」
言い切った後、部屋はしばらく静かだった。
尚文さんは口を挟まなかった。
ただ、壁際に立ったまま、こちらを見ている。
女王は目を伏せ、少しだけ考える時間を置いた。
「承知しました。関係した商人、護衛、店主、行商人についても、調査と確認のうえで正式な功績を認めます」
王宮の重臣の一人が、慌てたように口を挟む。
「しかし陛下、民間人へまで個別に褒賞を行えば、前例が――」
「前例がないことは、行わない理由にはなりません」
女王の声は大きくなかった。
それでも重臣の言葉は、そこで止まった。
午後の光が窓から差し込み、謁見の間の床へ長い影を伸ばしていた。
王座の前に、俺たちの影が並ぶ。
戦場では重ならなかった影が、この場所では少し近い。
形は違う。向きも完全には同じじゃない。それでも、誰か一人だけが前へ引きずり出される並び方ではなかった。
「朝霧誠司様。ベルベット様。シノン様。ヒッポリュテ様」
女王が一人ずつ名を呼ぶ。
「皆様は三勇教の討伐に大きく貢献されました。金銭、身分の保証、土地、王国からの援助、あるいは別の希望でも構いません。可能な範囲で、その功績へ報いたいと考えています」
望むもの。
その言葉が、謁見の間の中央へ落ちた。
誰もすぐには口を開かなかった。
ベルベットの腕が、ゆっくり下がる。
シノンは俺を見た。答えを求める目ではなく、自分だけで決めるなと伝える目だった。
ヒッポリュテは目を閉じ、短く息を吸う。
尚文さんは少し離れた場所に立っている。
口も手も出さない。ただ、俺たちが何を選ぶのかを見ている。
かつての俺は、鎖を外してほしいと願った。
食べ物が欲しい。眠れる場所が欲しい。明日まで生きたい。そんな願いだけで精一杯だった。
今は違う。
守りたい顔が増えた。
帰ってきてほしいと言える場所を持たない人が、俺の周りにはいる。
ベルベットの失った故郷。
シノンが一人で眠らなくていい部屋。
ヒッポリュテが女王ではなく、一人の仲間として馬を休ませられる土地。
薬草店の主人が、石を恐れず窓を開けられる町。
商人と護衛が、自分の見たものを曲げずに働ける道。
女王が、もう一度静かに告げた。
「望むものを、お聞かせください」
俺は左手首を見た。
そこに鎖はない。
それでも、願いを言うためには少しだけ力が必要だった。
ベルベットへ視線を向ける。
彼女は顎を少し上げた。
シノンは、小さく頷いた。
ヒッポリュテは目を開き、俺と同じ高さから女王を見ている。
俺は一歩前へ出た。
磨かれた床へ、靴の土がまた一粒落ちた。
今度は謝らなかった。
「俺たちが欲しいのは――」