※この作品はR-18です。

銃の勇者の探索記   作:ボルメテウスさん

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王宮に立つ銃の勇者

 三勇教との戦いが終わってから三日後、俺たちはメルロマルク王宮の門前に立っていた。

 

 空はよく晴れていた。

 丘を覆っていた白い光も、地面の下から響いていた鐘の音も、今はどこにもない。高い城壁の上では王国旗が風を受け、青空を切り分けるように揺れている。

 

 それでも俺の鼻には、焦げた薬草と崩れた魔法陣の匂いが残っていた。

 洗っても落ちきらなかった煤が袖口に薄く染みつき、靴の溝には礼拝跡の乾いた土が挟まっている。

 

「入らないの?」

 

 シノンの声に振り向くと、彼女は門ではなく、俺の右手を見ていた。

 

 いつの間にか、俺は左の手首を右手で掴んでいた。

 そこにもう鎖はない。鉄の輪も、誰かに引かれる縄もない。それでも王宮の門を見上げた瞬間、皮膚の内側に冷たい輪郭が戻ってきた。

 

「ごめん。少し、昔を思い出してただけ」

 

「奴隷だった時のこと?」

 

「うん。あの頃は、豪華な建物を見ると、持ち主がどんな人間かより先に、地下牢があるかを考えてた」

 

 自分で言ってから、笑っていいのか迷った。

 シノンは笑わなかった。代わりに、俺の手首へ触れない程度の距離で指を止める。

 

「今日は鎖を付けられに来たんじゃない」

 

「分かってる」

 

「分かってる顔じゃなかったから」

 

「顔に出てた?」

 

「かなり」

 

 反対側からベルベットが覗き込んできた。

 

「情けない顔だったわよ。今から処刑台に上がるみたいな」

 

「そこまでひどかった?」

 

「半分くらいね」

 

「半分は何だったんだよ」

 

「迷子」

 

「そっちも大概だろ」

 

 ベルベットは鼻を鳴らし、先に門へ歩き出した。

 俺の腕を引くことはしない。けれど、振り返らない歩幅が、ついて来いと言っている。

 

 ヒッポリュテは門の向こうを見上げ、静かに告げた。

 

「王宮も戦場も、人の視線が集まる点では変わらぬ。異なるのは、刃が見えるか否かだ」

 

「それ、余計に緊張する言い方じゃない?」

 

「緊張は悪ではない。足元を確かめる機会になる」

 

「女王陛下の前で転ばないようにします」

 

「そういう意味ではない」

 

 分かっている。

 けれど、少しふざけた方が呼吸は楽になった。

 

 門衛に名を告げると、俺たちはすぐに中へ通された。

 案内役の従者は、尚文さんを見るとわずかに姿勢を正し、その後ろにいる俺たちへ視線を流した。

 

 尚文さんはいつも通りだった。

 王宮へ入ることに慣れているようには見えないが、怯んでもいない。盾を背負ったまま、磨かれた廊下を無言で進んでいく。

 

 俺たちはその少し後ろを歩いた。

 

 王宮の床は、顔が映りそうなほど磨かれていた。

 高い窓から差し込む陽光が柱の装飾へ反射し、床の上へ淡い金色を広げている。

 

 そこへ、俺の靴から乾いた土が一粒落ちた。

 

 小さな音だった。

 けれど、近くにいた従者の目が一瞬だけ床へ向いた。

 

「すみません」

 

 思わず口にすると、尚文さんが振り返らずに言った。

 

「戦場帰りの人間に、泥を落とすなと言う方が間違ってる」

 

「でも、かなり高そうな床ですよ」

 

「床は踏むためにある」

 

「尚文さん、王宮でそれ言うの、結構強いですね」

 

「黙って歩け」

 

 その会話を聞いていたラフタリアが、小さく息を漏らした。

 フィーロは床へ映る自分の顔を見ながら歩き、何度か横へ逸れそうになっている。

 

「フィーロ、前を見てください」

 

「床にフィーロがいるよ!」

 

「それは鏡みたいに映っているだけです」

 

「もう一人のフィーロじゃないの?」

 

「違います」

 

 王宮の緊張が、フィーロの足元だけ少し柔らかくなった。

 

 謁見の間へ近づくにつれ、貴族や重臣らしい者たちの視線が増えた。

 尚文さんへ向く視線には、以前ほど露骨な侮蔑はない。その代わり、俺の腰にある銃へ、針のような視線が集まってきた。

 

 珍しい獣を見る目。

 危険な道具を測る目。

 価値を計算する目。

 

 視線だけで身体へ値札を貼られていくようだった。

 

「見すぎ」

 

 ベルベットが低く呟いた。

 彼女が横目で睨むと、何人かの貴族が慌てて顔を逸らした。

 

「喧嘩しないでくれよ」

 

「してないわよ。見返しただけ」

 

「ベルベットが見返すと、相手には宣戦布告に見えるんだよ」

 

「それは相手の想像力が豊かなのよ」

 

「絶対に違う」

 

 シノンはそんなやり取りを横目に、天井近くの回廊や扉の位置を確認していた。

 

「護衛は見える範囲で十二人。隠れている人もいると思う」

 

「数えなくていいよ」

 

「数えた方が落ち着く」

 

「それは少し分かる」

 

 誰がどこにいるか分からない場所より、危険の数が見える方がまだ楽だ。

 俺は腰の銃から手を離した。触れたまま入れば、警戒しているようにも、いつでも抜けると示しているようにも見える。

 

 今日は武器ではなく、言葉で立たなければならない。

 

 謁見の間の扉が開いた。

 

 広い部屋の奥に、女王が立っていた。

 豪奢な玉座へ深く腰かけるのではなく、その前へ降り、俺たちを迎える姿勢を取っている。

 

 その左右には重臣や魔術師たちが並んでいた。

 王宮の光は礼拝跡の白い魔力と違い、窓から入る自然な陽光だった。温かいはずなのに、多くの視線が集まると、やはり皮膚の上が少し冷える。

 

「岩谷尚文様。そして、三勇教討伐へ力を尽くした皆様。まずは、ご無事で戻られたことを喜ばしく思います」

 

 女王の声は静かだった。

 言葉を飾りすぎず、それでも部屋の隅まで届いている。

 

 尚文さんは軽く頭を下げた。

 俺たちもそれに倣う。

 

「三勇教の教皇は倒れ、主要な礼拝施設と軍事拠点は王国側で制圧いたしました。捕縛された信徒については、関与の程度を調べたうえで処遇を決定します」

 

 そこで女王の視線が、ゆっくり俺へ移った。

 

「そして、朝霧誠司様」

 

「はい」

 

 名前を呼ばれただけなのに、背筋が勝手に伸びた。

 

「報告によれば、あなたは四聖勇者とは異なる武器を所持し、その武器は所有者から離れず、戦闘と素材によって成長する性質を持つとのことです」

 

 謁見の間に、小さな囁きが広がった。

 水面へ落ちた雨粒みたいに、ひとつの声が周囲へ波紋を作っていく。

 

「さらに、複数の弾種を使い分け、三勇教が用いた伝説の武器の複製品に対して、唯一即応防御を許さなかった」

 

 女王の指が、椅子の前に置かれた細い杖へ触れた。

 けれど握りはしない。銃の成長性について口にした瞬間、その指先だけが止まっていた。

 

「これを偶然と呼ぶには、あまりにも特異です」

 

 重臣の一人が、待ちきれない様子で一歩前へ出た。

 

「陛下、その武器を一度、王宮の魔術師団にて調査すべきではありませんか。四聖武器に類するものであれば、国家の管理下へ――」

 

「嫌よ」

 

 ベルベットの声が、刃みたいに割り込んだ。

 

 重臣の眉が跳ねる。

 

「何だと」

 

「珍しい武器だからって、檻へ入れて調べるつもりなら、先に言っておくけど断るわよ」

 

「女王陛下の御前で、その口の利き方は――」

 

「ベルベット」

 

 俺が名前を呼ぶと、彼女は口を閉じた。

 けれど腕は組んだままで、重臣から目も逸らさない。

 

 女王は彼女を咎めなかった。

 むしろ重臣へ視線を向け、静かに首を振る。

 

「本人の同意なく武器や身体を拘束することは許しません」

 

 その言葉が落ちた瞬間、左手首の奥に残っていた冷たい輪郭が少しだけ薄れた。

 

「朝霧様。可能な範囲で構いません。あなた自身が把握していることを、お聞かせいただけますか」

 

 俺は一度、息を吸った。

 全員が銃を見ている。

 

 だから、腰の銃には触れなかった。

 

「この武器が何なのか、俺自身にも完全には分かっていません」

 

 声が少しだけ硬い。

 それでも、止めずに続ける。

 

「俺がこの世界へ来た時には、もう手元にありました。捨てても戻ってくるし、俺以外の人が使おうとしても、普通の武器みたいには扱えません」

 

 王宮の魔術師らしい老人が、身を乗り出す。

 

「素材を吸収して形態や能力を増やす、という報告もありますが」

 

「はい。魔物の素材や戦闘経験で変化します。今のところ、普通の弾以外に、足止めや牽制へ使う弾と、魔道具の核みたいな小さい箇所を狙う弾があります」

 

「名称は」

 

「牽制弾と、精密破壊弾です」

 

 魔術師たちが顔を見合わせた。

 何人かは驚きを隠しきれず、俺の腰へもう一度視線を落とした。

 

「つまり、伝説の武器と同様に、所有者の認識や成長へ応じて能力を変える可能性があると」

 

「可能性はあると思います。でも、俺が正式な勇者なのかは分かりません」

 

「銃の勇者と呼ばれているそうですが」

 

「そう呼ばれ始めただけです」

 

 自分でも驚くほど、言葉はすぐに出た。

 

「最初にそう呼んだのは、たぶん俺たちを敵にしたかった人たちです。三勇教は俺を銃の異端と呼びました。勇者って言葉は、その反対側から後で付いてきた感じです」

 

 部屋が少し静かになった。

 銃身へ当たっていた光が、窓の外の雲で一瞬だけ薄れる。

 

「俺自身にも、これが何なのかは分かりません。ただ、守るために撃つと決めたことだけは変わりません」

 

 言い終えると、喉の奥が乾いていた。

 誰かに勇者だと認めてほしいわけではない。逆に、違うと言われても、今さら銃を手放せるわけじゃない。

 

 尚文さんが腕を組んだまま口を開いた。

 

「こいつを勇者と呼ぶかは知らん」

 

 相変わらず、前置きが冷たい。

 

「だが、三勇教の嘘を撃ち抜いたのは事実だ。銃声を偽装した魔道具の核を壊し、複製聖武器の防御を破り、教皇の術式を止めた」

 

 謁見の間の視線が、また俺へ集まる。

 

「戦場では使えた」

 

「最後の一言で急に道具扱いですね」

 

「使えないとは言ってない」

 

「それが尚文さんなりの高評価なのは、最近分かってきました」

 

 ラフタリアが尚文さんの隣で、小さく笑った。

 女王もほんのわずかに口元を緩めたように見える。

 

「岩谷様が、他者の働きをそこまで具体的に認めるのは珍しいことですね」

 

「事実を言っただけだ」

 

「同じことを前にも言われました」

 

「黙ってろ」

 

 重かった空気が、少しだけほどけた。

 

 シノンが一歩前へ出た。

 

「三勇教が使った銃声と、誠司の銃撃は別物です」

 

 彼女は感情を飾らず、まっすぐ女王を見る。

 

「音の位置、反響、焦げ跡、射線が一致しませんでした。襲われた商人と護衛も、撃った人物の顔は見ていないと証言しています。現場から見つかった魔道具の破片も、誠司の銃弾とは構造が違います」

 

「証拠品は確認しております」

 

 女王が頷く。

 

「三勇教側の保管庫から、同型の音響魔道具と製造記録が発見されました。銃の異端による襲撃とされた事件についても、再調査を命じています」

 

 その言葉に、俺はすぐ返事ができなかった。

 

 薬草店の奥で、商人が帳簿の角を叩いていた姿が浮かぶ。

 腕を吊った護衛の、顔を見ていないという言葉は変えない、という声も。

 

 あの人たちは俺を完全には信じなかった。

 それでも、見ていないものを見たとは言わなかった。

 

 その小さな言葉が、ここまで届いた。

 

「商人と護衛は」

 

「王国側で保護し、失われた取引と雇用についても調査を進めます。薬草店への被害も同様です」

 

 女王の返事に、肩から何かが落ちた。

 目には見えないほど小さな石だったのかもしれない。それでも、長く背負っていたものだった。

 

「ありがとうございます」

 

 頭を下げると、女王はすぐには答えなかった。

 代わりに、俺が顔を上げるまで待っていた。

 

「礼を受けるには早いでしょう。王国の中で起きたことを、王国が正すのは当然です」

 

 その言葉を、尚文さんは少し離れた場所で聞いていた。

 表情は変わらない。けれど、組んでいた腕の指が一度だけ止まった。

 

 王国が正すのは当然。

 その当然を、尚文さんは何度も奪われてきたのだろう。

 

 女王の視線が、俺たち全員へ向けられる。

 

「三勇教討伐における皆様の功績は、朝霧様お一人のものではありません。ですが、王宮はこれまで皆様の存在を把握せず、保護も援助も行えませんでした」

 

「把握しなかった、の間違いじゃない?」

 

 ベルベットが低く言った。

 

 俺は止めようとしたが、女王は先に頷いた。

 

「その通りです。結果として、皆様は王国領内で捕らえられ、奴隷として扱われながらも、王宮の助けを得られなかった」

 

 謁見の間の空気が止まった。

 

 俺の手が、また左手首へ向かいかける。

 けれど、今度は途中で止めた。

 

「事実関係については、既に調査を命じました。関与した者が王国の権威を利用していた場合も、例外なく裁きます」

 

 ベルベットは女王を見つめていた。

 いつものように噛みつく言葉は出ない。ただ、組んでいた腕の指がゆっくりほどけていく。

 

 ヒッポリュテが一歩前へ出た。

 女王へ礼節を示す角度で頭を下げ、それから正面を見る。

 

「褒賞とは、功績を飾る首輪ではあるまい」

 

 重臣たちの間に緊張が走る。

 それでもヒッポリュテの声は変わらない。

 

「彼らを王国へ縛るために地位や金を与えるのであれば、それは鎖の材質を変えただけだ。彼らが立つための足場であるべきだ」

 

 女王は静かに頷いた。

 

「同意します。王国への仕官を強制する意図はありません」

 

「口約束では足りぬ」

 

「正式な文書として保証しましょう」

 

 ヒッポリュテはすぐには礼を言わなかった。

 女王の目を見て、嘘がないか測るように短い沈黙を置く。

 

「ならば、言葉を受け取ろう」

 

 対等な戦士同士の会話みたいだった。

 王宮の重臣たちは戸惑っていたが、女王自身はむしろ、その態度を歓迎しているように見えた。

 

「三勇教討伐において、最終的な一撃を放ったのは朝霧様でした」

 

 女王の言葉に、視線が俺へ戻る。

 

「しかし、報告書には、その射線を作るために岩谷様が攻撃を受け、剣・槍・弓の勇者が供給線を断ち、皆様が詠唱陣を崩したとあります」

 

「はい。俺一人じゃ撃てませんでした」

 

 今度は迷わず言えた。

 

「撃ったのは俺です。でも、弾が通る道を作ったのは全員です」

 

 ベルベットを見る。

 彼女は腕を組み直したが、さっきより肩の位置が低い。

 

 シノンを見る。

 彼女は俺の視線を受けて、小さく頷いた。

 

 ヒッポリュテを見る。

 彼女は微動だにしないが、槍を握る手から力が抜けている。

 

 尚文さんの横にはラフタリアとフィーロがいる。

 三勇者はこの場にはいない。それでも、彼らの武器が供給線を断った音はまだ耳に残っていた。

 

「それに、戦場へ届く前にも、たくさんの人が道を作ってくれました」

 

 薬草店の薄暗い奥部屋。

 乾燥薬草の青い匂い。

 襲われた商人の帳簿。

 護衛の包帯。

 行商人の荷車へ結ばれた青い布。

 

 豪華な謁見の間へ、あの小さな生活音が重なる。

 

「薬草店の主人が、噂を聞いても俺たちを客として扱ってくれました。商人と護衛が、見ていないものを見たと言わなかった。行商人が証拠を運んでくれた。あの人たちがいなければ、三勇教の嘘は王宮まで届いていません」

 

 功績という言葉は、大きすぎる。

 大きな言葉は、小さな人の手を隠してしまう。

 

「だから、俺だけを英雄みたいに扱うのは違うと思います」

 

 言い切った後、部屋はしばらく静かだった。

 

 尚文さんは口を挟まなかった。

 ただ、壁際に立ったまま、こちらを見ている。

 

 女王は目を伏せ、少しだけ考える時間を置いた。

 

「承知しました。関係した商人、護衛、店主、行商人についても、調査と確認のうえで正式な功績を認めます」

 

 王宮の重臣の一人が、慌てたように口を挟む。

 

「しかし陛下、民間人へまで個別に褒賞を行えば、前例が――」

 

「前例がないことは、行わない理由にはなりません」

 

 女王の声は大きくなかった。

 それでも重臣の言葉は、そこで止まった。

 

 午後の光が窓から差し込み、謁見の間の床へ長い影を伸ばしていた。

 王座の前に、俺たちの影が並ぶ。

 

 戦場では重ならなかった影が、この場所では少し近い。

 形は違う。向きも完全には同じじゃない。それでも、誰か一人だけが前へ引きずり出される並び方ではなかった。

 

「朝霧誠司様。ベルベット様。シノン様。ヒッポリュテ様」

 

 女王が一人ずつ名を呼ぶ。

 

「皆様は三勇教の討伐に大きく貢献されました。金銭、身分の保証、土地、王国からの援助、あるいは別の希望でも構いません。可能な範囲で、その功績へ報いたいと考えています」

 

 望むもの。

 その言葉が、謁見の間の中央へ落ちた。

 

 誰もすぐには口を開かなかった。

 

 ベルベットの腕が、ゆっくり下がる。

 シノンは俺を見た。答えを求める目ではなく、自分だけで決めるなと伝える目だった。

 ヒッポリュテは目を閉じ、短く息を吸う。

 

 尚文さんは少し離れた場所に立っている。

 口も手も出さない。ただ、俺たちが何を選ぶのかを見ている。

 

 かつての俺は、鎖を外してほしいと願った。

 食べ物が欲しい。眠れる場所が欲しい。明日まで生きたい。そんな願いだけで精一杯だった。

 

 今は違う。

 

 守りたい顔が増えた。

 帰ってきてほしいと言える場所を持たない人が、俺の周りにはいる。

 

 ベルベットの失った故郷。

 シノンが一人で眠らなくていい部屋。

 ヒッポリュテが女王ではなく、一人の仲間として馬を休ませられる土地。

 薬草店の主人が、石を恐れず窓を開けられる町。

 商人と護衛が、自分の見たものを曲げずに働ける道。

 

 女王が、もう一度静かに告げた。

 

「望むものを、お聞かせください」

 

 俺は左手首を見た。

 そこに鎖はない。

 

 それでも、願いを言うためには少しだけ力が必要だった。

 

 ベルベットへ視線を向ける。

 彼女は顎を少し上げた。

 

 シノンは、小さく頷いた。

 

 ヒッポリュテは目を開き、俺と同じ高さから女王を見ている。

 

 俺は一歩前へ出た。

 

 磨かれた床へ、靴の土がまた一粒落ちた。

 今度は謝らなかった。

 

「俺たちが欲しいのは――」

 

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