「俺たちが欲しいのは――」
そこまで言ったところで、喉の奥がわずかに詰まった。
謁見の間には午後の光が満ちていた。磨かれた床に落ちた俺たちの影は、戦場で見た時よりもずっと穏やかに伸びている。けれど、その先に置こうとしている言葉は、光とは逆の場所から来るものだった。
波。
それはこの世界へ来てから何度も聞いた言葉だ。
けれど、俺にとっては災害の名前であると同時に、ベルベットの弟を奪ったものでもあり、ヒッポリュテの部族を消したものでもある。
シノンの人生にも、波の影は深く入り込んでいる。
それを知っているからこそ、口にするだけで空気の温度が変わる。
俺は女王をまっすぐ見た。
「次の波に、参加したいです」
謁見の間から音が消えた。
重臣たちの誰かが息を呑み、衣擦れの音が小さく重なる。
女王の指が、椅子の前に置かれた杖の上で止まった。
「褒賞として求めるものが、さらなる戦場なのですか」
「戦いたいわけじゃありません」
答えながら、頭の中にはいくつもの風景が浮かんでいた。
薬草店の割れた窓。
石を投げようとした町人の手。
荷車の下に散らばった薬草。
谷間で尚文さんの盾が受け止めた魔物の牙。
波が来れば、また誰かの家が壊れる。
また誰かが、見慣れた場所を二度と見られなくなる。
「でも、放っておけば、また誰かの居場所が消えます」
女王はすぐには答えなかった。
俺の言葉を、言葉のまま置いて重さを測るような沈黙だった。
「それに、俺たちには知りたいこともあります。この銃がなぜ俺にあるのか。俺たちがなぜ、この世界へ来たのか。波と無関係だとは思えません」
腰の銃へ触れそうになり、途中で手を止めた。
今は武器を見せる場面ではない。
選択を見せる場面だ。
シノンが一歩前へ出た。
「波の出現記録と、過去の被害地点の情報も必要です」
彼女の声は静かだった。
けれど、王宮の広い空間でも埋もれなかった。
「発生地点、出現した魔物、地形の変化、避難経路。知らないままでは、次も間に合いません」
女王の横にいた重臣が、眉を寄せる。
「波に関する記録は国家機密を含む。外部の者へ、すべてを開示するわけには――」
「すべてでなくても構わぬ」
ヒッポリュテが重臣の言葉へ割って入った。
彼女は王宮の床に立っていても、玉座の前に跪く臣下には見えなかった。
滅びた部族の女王としてではなく、いま同じ戦場へ立つ者として、まっすぐ前を見ている。
「ただし、我らを王国の兵とするな。共に波へ立つ、独立した一隊として遇せよ」
「独立した一隊……」
女王が小さく繰り返す。
「命令に従わぬという意味ではない。だが、王国の都合のみで動く駒になるつもりもない」
「随分とはっきり言うわね」
ベルベットが口元だけで笑った。
「曖昧な言葉は、あとで鎖になる」
ヒッポリュテの返事に、ベルベットの笑みが消える。
代わりに、彼女は小さく頷いた。
俺はその横顔を見た。
ベルベットは、何も言わない。
けれど、服の脇に下ろした手が強く握られていた。
爪が掌へ食い込んでいる。
それは三勇教の教皇を前にした時よりも、静かで深い力だった。
女王はゆっくりと立ち上がった。
王座の前から一段下り、俺たちと同じ床へ立つ。
「皆様の功績と能力を考えれば、次の波へ参加する資格を否定する理由はありません」
重臣たちの間に、また小さなざわめきが走る。
女王はそちらを見ずに続けた。
「独立協力部隊としての身分を正式に保証します。王国軍への編入は行わず、波に関する必要な記録、装備、移動手段を提供いたします」
「陛下」
先ほどの重臣が、今度は一歩だけ前へ出る。
「未知の武器を持つ者たちへ、そこまでの自由を認めるのは危険では」
女王は彼へ視線を向けた。
「三勇教との戦いで、王国が認識すらしていなかった彼らは、自らの判断で多くの民を守りました」
重臣の口が閉じる。
「未知であることと、敵であることは同じではありません」
その言葉に、俺の足元の影が少しだけ形を変えた気がした。
未知だから、怖がられる。
枠に入らないから、異端と呼ばれる。
そんな扱いに慣れかけていた自分がいる。
慣れるべきじゃないことにまで、慣れてしまいそうになる。
「ただし」
女王の声が、柔らかさを残したまま少し低くなる。
「波は復讐のために存在する敵ではありません。そこへ現れるものを討つことはできても、失われた命が戻るわけではない」
ベルベットの拳が、さらに固くなる。
爪の先が掌へ沈む。
彼女の呼吸が一度だけ浅くなった。
誰もその動きを指摘しなかった。
シノンはベルベットへ向けかけた視線を、静かに床へ落とした。
ヒッポリュテは正面を向いたまま、槍を持つ指だけをわずかに動かす。
俺も声をかけなかった。
ここで何かを言えば、王宮の視線の中へベルベットの傷を引きずり出すことになる。
彼女はそれを望まない。
「承知しています」
俺が答える。
「それでも行きます」
女王は俺の顔を見たあと、仲間たちへ順番に視線を移した。
「全員の総意ですか」
「私は行く」
シノンが即答する。
「波の出現には法則があるかもしれない。次は観測して、少しでも被害を減らしたい」
「我も異論はない」
ヒッポリュテが続ける。
「民を守れず滅びた女王が、次に守れる場所を前にして退く理由はない」
女王は最後にベルベットを見る。
「あなたは」
ベルベットは顔を上げた。
握っていた手が、ゆっくり開く。
掌には、爪の跡が赤く残っている。
「ようやく、あれに手が届く」
それだけだった。
王宮の窓の外を雲が横切った。
謁見の間へ差していた光が一瞬だけ薄くなり、ベルベットの足元の影が濃くなる。
けれど雲が流れると、すぐに明るさは戻った。
彼女の表情は、何事もなかったみたいに整っている。
だからこそ、その一言だけが床へ残った。
「では、正式な手続きを進めましょう」
女王は静かに告げた。
「次の波の予測情報については、準備が整い次第お渡しします。皆様の装備についても、必要な支援を確認させます」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、女王は短く頷いた。
尚文さんは少し離れた場所で、腕を組んだまま立っていた。
最初から俺たちがそう答えると分かっていたような顔だった。
謁見が終わり、王宮の廊下へ出る。
フィーロが長く息を吐いた。
「お話、長かったー」
「フィーロ、途中で床を見て遊んでいましたよね」
ラフタリアが言う。
「もう一人のフィーロがいたから!」
「いません」
「次の波にも来るかな?」
「床のフィーロは来ません」
そんな会話をしながら、尚文さんたちは先を歩いていく。
俺は少し速度を落とした。
ベルベットも、他の皆より半歩だけ遅れている。
「手、大丈夫か」
小声で聞くと、彼女は掌を閉じた。
「何の話?」
「爪の跡」
「見てたの」
「見えた」
「そう」
それきり、彼女は黙った。
王宮の窓から午後の光が差し込み、彼女の横顔を白く照らす。
俺は何かを言いかけて、やめた。
今はまだ、人の多い場所だ。
それに、言葉は急いで投げれば届くものじゃない。
時には、夜まで持って歩かなければならない。
その日の夜、俺たちは王宮から用意された宿舎で休むことになった。
寝台は広く、毛布は柔らかかった。
三勇教との戦いで野宿や粗末な宿に慣れていた身体には、逆に落ち着かないほど整っている。
天井には染み一つなく、窓から入る月明かりが床へ四角く落ちていた。
目を閉じると、鐘の音が戻ってくる。
実際には鳴っていない。
それでも骨の奥に残った振動は、静かな夜ほどよく響いた。
寝返りを打つ。
シノンの寝息は聞こえない。おそらく起きている。けれど、俺が身体を起こしても声はかからなかった。
部屋を出る直前、薄暗い寝台の方を見る。
シノンの背中は、こちらを向いていなかった。
けれど、枕元に置かれた弓へ伸びていた手が、ほんの少しだけ離れる。
行ってこい、と言われた気がした。
俺は音を立てないように扉を閉めた。
宿舎の中庭は、月明かりに濡れていた。
石造りの回廊には柱の影が並び、その間から夜露を含んだ草の匂いが流れてくる。
遠くの町には、小さな明かりがいくつも点っている。
戦いの終わりを知らないような、穏やかな光だった。
ベルベットは回廊の端に立っていた。
欄干へ寄りかからず、両足で地面を踏んでいる。
今すぐ歩き出せる姿勢だった。
「眠れないのか」
少し離れた場所から声をかける。
「眠る気がないの」
振り向かずに返される。
「明日もあるぞ」
「知ってる」
「寝ないと動けない」
「説教しに来たなら戻りなさい」
「説教は苦手だから、しない」
俺はゆっくり近づき、ベルベットの隣ではなく、少し離れた欄干の前で止まった。
二人の間には、人ひとり分くらいの距離がある。
月は雲へ隠れ、彼女の顔が影に沈む。
けれど、握られた右手だけは見えた。
昼と同じ手だった。
「波に参加できる」
俺が言うと、ベルベットの指がわずかに動いた。
「聞いてたでしょ」
「聞いてた」
「なら、何」
「どんな気分なのかと思って」
ベルベットは鼻で笑った。
「随分と曖昧な聞き方ね」
「直球で聞くと、殴られそうだから」
「正解」
「やっぱり殴る気だったのか」
「今からでも遅くないわよ」
「遠慮します」
月が雲の切れ間から現れる。
ベルベットの横顔が白く浮かび上がった。
笑っていない。
怒鳴ってもいない。
それなのに、瞳の奥には消えない熱があった。
「あれが来た日に、弟は死んだ」
声は平らだった。
「村も、人も、私が守るはずだったものも、全部なくなった」
夜風が回廊を抜ける。
草の匂いと一緒に、遠くで水の流れる音が届いた。
俺は何も言わなかった。
慰めの言葉は、時に相手の傷を自分が理解したような顔をする。
俺はベルベットが失った弟の顔を知らない。彼女が最後に何を見て、どんな声を聞いたのかも知らない。
知らないのに、分かるとは言えない。
「波を止めたいんじゃない」
ベルベットの拳が、またゆっくり握られる。
「あれを壊したい。私から奪ったものに、報いを受けさせたい」
「うん」
「否定しないの」
「復讐は何も生まない、とか?」
「そう」
「それを俺が言っても、たぶん薄いだろ」
ベルベットがこちらを見た。
月明かりの下で、目が細くなる。
「甘いくせに、珍しく分かってるじゃない」
「俺も少しは学ぶよ」
「少しだけ?」
「その言い方、まだ続くのか」
「便利だから」
彼女は視線を夜の町へ戻す。
「次の波が来たら、私は前に出る」
「いつも前に出てるけど」
「今までとは違う」
言葉の温度が下がった。
「止められても行く。誰かが追いつけなくても、私は行く」
その横顔は、すでに一人で歩き始めているように見えた。
俺は欄干の上へ手を置いた。
彼女の拳へ触れはしない。
触れれば、止めようとしているように伝わる気がした。
俺が止めたいのは、復讐そのものじゃない。
復讐の先で、彼女が戻る道まで燃やしてしまうことだ。
「復讐をやめろとは言わない」
「なら、何を言いに来たの」
夜の雲が、また月へ近づく。
「一人で行くな」
ベルベットの睫毛が、わずかに動いた。
「それだけだ」
すぐには返事がなかった。
月が雲へ隠れ、俺たちの姿が影へ沈む。
暗闇の中では、彼女の表情は見えない。
代わりに、握られていた指が一本ずつ緩む気配だけがあった。
「私が一人で行ったら、どうするの」
「追いかける」
「足手まといでも?」
「なるべくならないように頑張る」
「銃が壊れても?」
「たぶん、その時は別の方法を考える」
「死ぬかもしれなくても?」
問いが一つずつ、石床へ落ちていく。
俺は遠くの町明かりを見た。
あそこには、今夜も誰かの家がある。
「それでも」
答える。
ベルベットは短く息を吐いた。
「相変わらず、甘い男ね」
「知ってる」
「普通、そこは否定しなさいよ」
「最近、否定しても誰も信じてくれないから」
「賢くなったじゃない」
「少しだけ?」
「そう。少しだけ」
月がもう一度現れる。
回廊の石床へ、二人の影が伸びた。
触れてはいない。けれど、同じ方向へ向かっている。
ベルベットはその場を離れなかった。
俺も動かなかった。
夜の端が、ほんのわずかに青くなっていた。
朝はまだ遠い。それでも、どこかで次の光が準備を始めている。
ベルベットの開いた手が、欄干の上へ置かれる。
俺の手との間には、まだ少し距離がある。
けれど、その距離はもう、一人で歩いて消えてしまえるほど遠くはなかった。